貝島炭鉱跡と下関の渡船場でのチェサ

1「遺族とともに遺骨問題の解決へ」集会

二〇〇六年に「遺族とともに遺骨問題の解決へ」集会が開催された。その集会には、強制動員によって消息が不明のままの人々や遺骨が返還されていない人々の遺族が参加し、問題解決を訴えた。そこには崔洛さんや姜宗豪さんの姿があった。

崔洛さんはつぎのように語る。

わたしは一九四〇年にソウルで生まれた。父の崔天鎬は一九一六年生まれで、わたしが生まれたころは清涼里近くで働いていたが、四一年に全北の金堤に移住して農業をした。けれども生活は厳しく、父は四二年三月頃にソウルに行って仕事を探した。その一か月後に日本に行くという手紙がきた。弟は父が日本に行ってから生まれ、父の温もりを知らず、愛情も受けられなかった。

一九四五年の解放後、旧盆のころに帰国するという手紙を受け取ったが、その後消息が途絶えた。母は祖父の家で、ずっと父を思い待ち続け、田舎で行商をしながら三人の子を育てた。母はため息と涙の恨の日々を過ごした。母と一緒に幼いわたしも何度も泣いた。家の暮らし向きが悪く、学校は遠いために出席率は悪く、卒業証書を受け取ることができないまま学校生活を終えた。

一六歳のときに家出して、ソウルに行った。最初は物乞いをして駅で寝る生活だったが、篤志家に出会い、技術を身につけた。地位をえて、家族をソウルに呼び寄せて生活できるようになった。しかし、父のいない空白は埋められない。その空白を生涯感じ、耐えてきたが、亡くなった母を考えると、空虚感でいっぱいになる。どこかで生きているという気持ちの綱をもち続けていたため、母が生きている間には、戸籍を整理することができなかった。母は二〇〇七年に亡くなり、その死亡申告とともに父の戸籍を整理した。本当に悲しかった。

子として、父の記録を見つけ出し、遺骨を受け取り、母と一緒に祀りたい。日本政府は記録を明らかにし、公開してほしい。父が強制徴用された後に送られてきた手紙のなかに「協和訓練隊員昭和一七年九月一三日記念撮影」という写真がある。その写真を手掛かりに、東京や新潟などを歩いた。厚生省や社会保険業務センターで聞いてもわからないという。被害者遺族はいまも傷をいやすことができないままである。

日本が韓日間の友好と平和を考えるのなら、強制動員被害者のために過去事関連法を制定すべきである。問題解決のために努力すれば、被害者の痛みは少しずつ治癒される。その努力が新しい時代を開く。それが苦痛を被ってきた遺族の希望である。

姜宗豪さんはつぎのように話す。

父(姜太休)は一九二三年六月に済州島の南済州郡中文面下貌里で生まれた。祖父は農業をしていたが、暮らしは難しく、父は船員になった。父は一九四〇年に本家の養子となり、四一年五月にわたしが生まれた。父は徴用され、帰ってこなかった。母はわたしが五歳のときに済州市の実家で暮らすことになったが、宗家の子孫であるわたしは母と別けられ、祖父母の手で育てられた。しかしわたしが八歳の時に四・三事件が起きた。父が不在であるために左翼とみなされ、祖父母が連行され、銃殺された。わたしが連行されていく祖母にしがみつくと、周囲の大人たちがわたしを引き離した。

その後、わたしは一人で生きてきた。親戚はいたが、左翼の烙印を押された家の子どもの世話をすることは容易ではなかった。中学校に行きたくてもお金がなくて行けなかった。母を訪ねて学校に通えるように頼んだが、再婚した夫が朝鮮戦争で死亡し、暮らし向きが悪いため、母は支援できなかった。その時に母は、父が日本に徴用され、南洋群島で亡くなったという戦死通知を受けたと祖父から聞いたと話した。中学に通い始めたが、学費が払えないため、すぐに退学させられた。掲示板の退学通知書をみて、死にたい気持ちになった。

軍人を相手にじゃがいもを売り、靴を磨いて生活した。学校に行きたくて、済州市の海洋少年団を訪ねたところ、養母と出会った。養母の食堂の手伝いをしながら、夜間学校に通った。

父の生まれた六月に祭祀をしているが、祭祀の日には、故郷に行って親戚の人たちと会い、父のことを聞いている。あるとき、父と長崎で出会った人を尋ねた。その人は日本に留学していたが、偶然父と長崎で出会い、うどんを一皿ずつ食べながら話をした。その時、父が、「鉄船が爆撃で全部破壊されたので、物資を乗せて南洋群島に行く、どうやら帰ってこれなそうだ」と話したという。父は海で亡くなったのかもしれない。

わたしは父の顔を知らない。父がどこで亡くなったのかもわからない。このままでは目を閉じることができない。父の記録はかならずどこかにあると思う。一九六五年の韓日協定の際に、日本政府が被害者に対する調査をきちんとし、関係資料を韓国政府に渡していれば、父の資料も見つかったと思う。海軍軍属とされ連れていかれたことと最後にあったという人の証言があるだけである。日本政府は最小限の誠意をみせ、調査に積極的に協力してほしい。

このような二人の思いを受けて、遺骨問題集会を担った人々を中心に日本国内での現地調査がおこなわれた。

 

2日本での消息調査

崔洛さんの父・崔(菊村)天鎬さんの消息調査は、同僚と収容寮の前で写した「第一協和訓練隊員」「昭和一七年九月一三日」という一枚の写真を手掛かりに始まった。写真には建物の前に九人の姿があり、裏面には出身郡や名前が記されていた。韓国の強制動員調査・支援委員会には日本政府から供託金関係資料が提供されていたが、貝島大之浦炭鉱の未払い金記録に九人のうち、高山竜雨・金川錫俊の二人の名前があったが、崔天鎬さんの供託記録はなかった。この写真が貝島炭鉱の収容施設の可能性が高まった。貝島現地を調査し、年金事務所を訪問してみたが、崔天鎬さんの年金記録はないとのことだった。そのため、朝鮮人が連行された工事現場がある福岡、広島、山口、島根、新潟、秋田などの主な事業所名をあげて、六県の年金事務所に調査を依頼した。依頼にあたっては寮の写真や九人の名簿、戸籍、委任状、証言記録などを同封した。この調査でわからなければ、長崎や青森での調査も予定した。二〇一四年になって、秋田の年金事務所から、崔さんを含め写真の四人が貝島大之浦炭鉱の記録にあるという連絡がきた。年金記録は電算化がすすめられているが、調査要請を受け、古い記事から菊村天鎬の名を探しあてるという誠意と努力を秋田の年金事務所の職員が示したのである。写真が大之浦炭鉱のものであることが確実になった。

二〇一四年五月、菊村天鎬の厚生年金保険記録が中福岡年金事務所から出された。そこには貝島大之浦での資格取得年月日が一九四二年六月一日、喪失年月日が一九四三年四月一八日となっていた。おそらく天鎬さんは動員されて一年を経る前に、現場を離れ、八・一五を経て、家族へと帰国を連絡した後に消息を絶ったのだろう。

年金事務所での調査では、姜(和田)太休さんの船員保険の記録があることもわかったが、会社名などがわからないと詳細を示せないとのことだった。そのため戦没船や所有会社の調査をすすめ、長崎や山口など各地の徴用船名や済州島関連の徴用沈没船名などをあげて年金事務所に調査を依頼した。それにより、二〇一四年二月になって姜さんが下関市の西大洋漁業統制(株)の第二六北新丸に機関長として勤務していたことを確認できた。年金事務所は沈没船を所有している会社名から船員保険の記録をみつけたのだった。同年五月に下関の年金事務所が出した記録によれば、船員保険の資格取得年月日は一九四四年二月二日、資格喪失年月日は同年の三月一五日であり、約一か月間である。死亡したとすれば前日の一九四四年三月一四日である。南方での輸送中に亡くなったとみられる。

二〇一四年五月一七日から一八日にかけて、強制動員真相究明ネットワークによる筑豊フィールドワークがおこなわれ、一七日の夜には真相究明ネットの前事務局長であった福留範昭さんの五周忌が福岡市内でもたれた。福留さんは二〇〇六年の「遺族とともに遺骨問題の解決へ」集会を支援し、通訳もしたが、二〇一〇年五月に亡くなった。ここでみてきたように二〇一四年に崔さんの父が貝島大之浦炭鉱に動員され、姜さんの父が西大洋漁業統制の船に乗っていたことが判明した。二人は福留さんの五周忌を兼ね、父の記録を確かめるために来日した。二人は一七日に貝島炭鉱跡、一八日に下関港で、父を追悼する祭祀(チェサ)をおこなった。

 

三 下関

下関には関釜連絡船の埠頭があり、関門海峡は海運と軍事の拠点であった。国鉄下関駅、下関運送、日通下関支店、下関港運などが輸送の拠点となり、国鉄の関門トンネル工事もおこなわれた。下関の彦島には三菱重工業下関造船所、三井鉱山三池精錬所彦島工場、東洋高圧工業彦島工業所、林兼造船などの軍需工場があった。下関では地下壕工事や軍用工事もおこなわれた。これらの軍需工場、港湾輸送、地下工事に多くの朝鮮人が動員された。

関門トンネルの入口近くの駅の構内に工事の殉難碑がある。そこには李磧琴、゙龍東、孫為景、辛性允の朝鮮人名も刻まれている。彦島公民館の近くには、戦時に建設された鉄道の変電施設用の地下壕が残されている。内部はL字の二段式という。

下関は徴用船舶の拠点でもあった。一九四二年末の水産統制令により、日本水産など一八社で帝国水産統制(株)が設立され、日本水産は日本海洋漁業統制(株)、林兼商店系は西大洋漁業統制(株)、日魯漁業などは北太平洋漁業統制(株)に統合された。林兼商店は下関を拠点としていたが、戦時下には、多くの漁船が徴用船舶とされ、軍事輸送などに動員された。

関釜連絡船は一九〇五年に山陽鉄道が下関・釜山間に定期航路をひらいたことから始まる。航路の拡大は植民地支配の強化と一体のものだった。戦時期におこなわれた強制連行により、下関駅の東方の旧倉庫群には連行された人々が押し込められた。今ではそれらの倉庫群はない。関釜連絡船の発着場跡地は海峡ゆめ広場となり、その一角に下関鉄道桟橋跡の碑がある。下関鉄道の桟橋は一九一四年に関釜連絡船用につくられた岸壁であり、二個の繋船柱が保存されている。人々を監視していた水上警察署の建物は建て替えられた。

下関には朝鮮人の集住地ができた。それがいまの神田町であり、山口朝鮮初中級学校や韓国寺の光明寺、在日大韓キリスト教下関教会などがある。集住当初は下水処理がなされず、汚物がたまり、トングルトンネ(糞窟村)ともいわれた。細い道の先には神田公園があるが、ここはかつて火葬場だった。近くには刑務所もおかれていたが、今では市民センターとなっている。朝鮮学校は解放後に建設されたが、朝鮮人の民族教育への思いの結晶である。朝鮮学校の近くにはかつて昭和館があった。昭和館は「内鮮融和」のために職業紹介や保護救済などの社会事業をおこなうために一九二八年に建てられた。建物は一九八五年ころまで残っていた。跡地には石垣が残っている。

神田町一帯には一〇〇〇人余りの朝鮮人が居住している。戦後すぐにできたトタン屋根の建物も残っているが、夏は熱気に蒸され、雨の日は叩きつけられるような音の中で暮らしたという。この地域は在日朝鮮人がさまざまな歴史を刻んできた所である。「在留彦島朝鮮人帰国記念植樹」の碑が彦島公民館の横にある。この碑は一九六〇年一月に建てられたものであり、彦島から朝鮮へと帰国した人々の歴史と友好への思いを物語るものである。

下関駅の西口には大洋漁業の本社ビルがあったが、その跡地に大洋漁業の碑がある。その碑には一九三六年に林兼商店が本社のビルをここに建設したことなどが記されている。戦後、引揚の拠点となり、駅近くには朝鮮人も多数居住した。マルハ通りにはかつて朝鮮人連盟下関支部が置かれた。この通りを過ぎると漁港があり、竹崎の渡船場からは六連島へと連絡船が出ている。

この渡船場で姜宗豪さんが祭祀をおこなった。麻の白装束を着て、布を敷いて果物を置いた。「お父さん会いたいです」と記された追慕の幕を掲げられた。姜さんは父が船出した海に向かって祈り、「アボジー!」と声を震わせた。父を失い、四・三事件で祖父母を失い、学ぶ機会も奪われながら、生き抜いてきた。そのなかで持ち続けた父への思いが語られていく。この祭祀は残された者の魂を落ち着かせるための行為であった。祭祀での遺族による「アボジー」の大きな声は、強制動員から七〇年の消息不明の辛さを解き放つ叫びのようだった。                                   (二〇一四年七月)