三池炭鉱での中国人強制労働 

ここでは三池炭鉱での中国人強制労働について、どのような史料・資料があるのかみてきたいと思います。       

1 朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の動員状況

はじめに明治日本の産業革命遺産とされた場所での強制労働の現場と動員数についてみます。中国人は八幡港運、日本製鉄の二瀬炭鉱、釜石鉱山、三菱鉱業高島炭鉱、三井鉱山三池炭鉱に計4200人ほどが連行されています。そのうち、三池炭鉱には約2500人が動員されています。連合軍捕虜も1900人ほどが動員されています。中国人、連合軍捕虜の動員数では、全国の動員現場をみても、三池炭鉱は最大の動員の現場となっています。なお、日鉄の八幡港湾と二瀬に連行された中国人は合わせて1000人です。

 明治日本の産業革命遺産・強制労働者数

強制労働企業 朝鮮人 中国人 連合軍捕虜
日本製鉄八幡製鉄所 約4000 1353
日鉄八幡港運 約4000 201
日鉄鉱業二瀬炭鉱 約4000 808 601
日鉄鉱業釜石鉱山 約1000 288 410
日本製鉄釜石製鉄所 1263 401
三菱重工業長崎造船所 約6000 約500
三菱鉱業高島炭鉱(高島・端島) 約4000 409
三井鉱山三池炭鉱 9264 2481 1875
 合計 約33400 4187 5140

参考 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942年、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」(長崎県分・福岡県分)1946年、石炭統制会「半島人労務者供出状況調」「労務状況速報」「雇入解雇及就業率調」「主要炭砿給源種別現在員表」「給源種別労務者月末現在数調」、日本製鉄総務部勤労課「朝鮮人労務者関係」1946年、高浜村「火葬認許証下附申請」、外務省「華人労務者就労事情調査報告書」1946年、POW研究会「研究報告」、福岡県「労務動員計画ニ依ル移入労務者事業場別調査表」1944年

                (竹内「明治日本の産業革命遺産・強制労働Q&A」所収)

 

2 中国人強制連行史料の所在

つぎに中国人強制連行の史料についてみてみます。

第1に、『外務省報告書』とよばれる史料があります。これは、外務省管理局「華人労務者就労事情調査報告書」1946年の略称です。田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料「外務省報告書」全5分冊ほか』現代書館1995年で、復刻されています。

この報告書の基礎史料として使われたものが、『事業場報告書』(「華人労務者就労顛末報告書」です。これは、外務省の指示により事業場ごとに作成されたものです。戦後、処分を逃れ、華僑総会に保存されてきました。その後、原本は中国に送られました。外交史料館にコピーがあり、閲覧できるようになっています。

第2に、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会の史料があります。「中国人殉難者名簿」「同、別冊」(「中国人強制連行事件に関する報告書」第1編)1960年、「第1次~第8次 中国人殉難者遺骨送還状況」(「同」第2編)1960年、「強制連行並びに殉難状況」(「同」第3編)1961年、「連行された中国人の名簿」(「同」第4編1964年)などがあり、第1編から3編までは、田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』明石書店1987年に、第4編は関連国会質疑とともに、田中宏・内海愛子・新美隆編『資料中国人強制連行の記録』明石書店1990年に復刻されています。

この実行委員会の活動史料を中心にまとめられたものが、中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』新日本出版社1964年です。

つぎに中国人強制連行に関する証言についてみます。

 中国内では、1990年代に証言の収集がすすみ、証言集として、何天義主編『日軍槍刺下的中国労工』全4巻新華出版社1995年がだされ、第4巻が中国労工在日本です。日本各地に連行された中国人の証言があります。第1巻石家庄集中営にも日本への連行者の証言が収録されています。

 また、何天義主編『二戦擄日中国労工口述史』全5巻齊魯書社2005年は、日本各地に連行された中国人の証言が多数、収録されています。第1巻は北海道、第2巻は九州、第3巻は鉱山、第4巻は土建、第5巻は港湾です。

 この2種の証言集には各地に連行された中国人の証言が収められています。

日本では1990年代に入り、福岡、長崎、広島、新潟、東京、花岡、北海道ほか各地で、中国人強制連行の訴訟がおこされています。その際、中国人の証言が集められています。

九州で、明治産業革命遺産関連のものをみれば、福岡訴訟での三井三池、長崎訴訟での三菱高島・端島関係者の証言があります。日本の市民団体によって集められた証言も重要です。

 

3 三池炭鉱・中国人強制連行資料

①   三井三池炭鉱への中国人強制連行

では、三井三池炭鉱での中国人の連行の状況についてみてみましょう。三池炭鉱は、日本で最も多くの中国人が連行された事業所であり、死者数も最大です。

外務省報告書では、連行された中国人は計2481人(約2500人)です。万田坑には1944年5月に412人、1945年2月に595人、3月に593人と307人の計1907人が連行されています。このうち四山坑へと1945年の2月から3月に694人が転送されました。宮浦坑には1944年5月に231人、10月に343人の計574人が連行されました。

死者数、これは連行途中の船での死者も入れたものですが、万田坑で294人、四山坑で158人、宮浦坑で41人の計493人(約500人)です。約2500人が連行され約500人が死亡したというわけです。

 

事業所 出港日 乗船
船中死亡 受入日 受入
事業所
死亡数
残留
事業所出
発日
帰国
備考
三井三池・宮浦坑1次 1944.5.17 231 0 44.5.26 231 37 525 45.11.22 525 北海道転送3
三井三池・宮浦坑2次 1944.10.18 343 4 44.10.30 339 同上 途中帰国3,行方不明2、事業所死亡数,残留数,帰国数は宮浦1・2の計
三井三池・万田坑1次 1944.5.10 412 0 44.5.16 412 85 327 同上 326 帰国乗船前死亡1
三井三池・万田坑2次 1945.1.31 595 44 45.2.10 551 65 214 同上 214 船中死亡は上陸後死亡13を含む,45.2.10四山坑へ272人転送
三井三池・万田坑3次 1945.2.4 593 55 45.3.5 538 38 227 同上 227 船中死亡は上陸後死亡1を含む,45.3.5四山坑へ273人転送
三井三池・万田坑4次 1945.2.26 307 6 45.3.13 301 0 152 同上 152 45.3.13四山坑へ149人転送
三井三池・四山坑 万田2次から 45.2.10 (272) 73 199 同上 199
三井三池・四山坑 万田3次から 45.3.5 (273) 62 211 同上 211
三井三池・四山坑 万田4次から 45.3.13 (149) 23 126 同上 126
合計 4187 116 4071 639 3387 3380 二瀬の北海道転送者1人死亡、帰国数の計は北海道転出者を除く

 

②   連行中国人の証言

 

 三池炭鉱に連行された中国人の証言についてみれば、『二戦擄日中国労工口述史』の第2巻「血洒九州島」に、三池に連行された50人の証言が収録されています。証言者は以下です。

三井三池万田坑 李仲宝 王英 王全直 楊茂先
王丑和 朱礼 田春生 楊書信 沈計紅
蓋双保 李英豪 何鳳来 周宝魁 謝義清
胡毛徳 趙孟合 張瑞和 三井三池四山坑 謝雷銘
李樹有 郝遅保 趙振全 楊才徳 馬国海
賈雪慶 梁彦方 楊国鳳 李志幇
張志興 熊俊恒 范永志 王躍清
関桂生 朱各英 王貴山 斉樹林
関仁生 朱金鎖 叶永才 曹文彬
劉俊書 劉福海 張振忠 三井三池宮浦坑
王為合 郭瑞臣 楊瑞林 楊同慶
李桃京 毛景俊 郭慶周 賈金昇

 

また、三池については『日軍槍刺下的中国労工』に王樹勛、吴経義、朱文治の証言があります。

ほかに、福岡中国人強制連行裁判での三井三池の原告、陳桂明、劉千、張五奎、高国棟、劉星祥、葉永才、楊大啓、占勤、盧占龍、馬徳水、杜宗仁の証言があります。

その証言から、劉千の証言をみてみます。

1944年春、河北省淶水県で労働を命令され、貨車で塘沽の収容所へ連行された。2か月後に船で三池炭鉱の宮浦坑に連行された。収容所は板塀に囲まれ、見張りがいて、監視。褌ひとつで採炭した。労務監督は中国人を蔑称で呼び、「バカヤロ」、「スラ、スラ」(殺すぞ)と脅し、棍棒で殴りつけた。監督に右足を斧で叩かれ、右大腿骨を骨折。骨は変形したまま結合し、帰国後も仕事ができず、つらい思いをしてきた。

劉千は、原告として2001年9月に来日し、当時の状況を証言しました。裁判では、変形して結合した骨のレントゲン写真が示されました。それは、三池炭鉱での暴力による強制労働の過酷な実態を示す写真です(『過ちを認め、償い、共に歩むアジアの歴史を』)。

 

③   武松輝男資料のなかの中国人名簿(大牟田市立図書館蔵)

 つぎに武松輝男の資料似ついて紹介します。武松は、朝鮮人・中国人・連合軍捕虜関係の資料を収集しました。その資料は大牟田市図書館に所蔵されています「武松輝男資料目録」大牟田市立図書館2012年があり、それをもとに閲覧請求できます。ただし事前の申請が必要です。 

そのなかから、中国人の名簿関係の資料についてみてみます。

「華人労務者調査報告書」は、武松が独自に入手したものであり、宮浦、万田、四山分の連行中国人名簿です。住所、氏名、年齢、異動状況が記されています。

もう一つ名簿があります。GHQ法務局への三池炭鉱による1948年提出資料です。このなかには、三井鉱山「華人労務者関係報告書」の「華人労務者名簿(乙)」などがあります。「華人労務者名簿(乙)」は万田坑1907人の名簿(四山転出、帰還者、死亡者を含む)です。

この2つの名簿で一致しない人名があります。武松は一人ひとりを照合しています。中国人殉難者名簿共同作成実行委員会作成の名簿では、三池については死亡者のみの掲載ですから、この2つの名簿は貴重な史料です。また、「中華民国労務者移入顛末書」があり、連行状況が表にまとめられています。なお、武松史料には、万田坑での抵抗事件の報告書も含まれています。

武松資料には、中国現地での調査資料もあります。1994年12月に、王徳英、柳俊銀、曹順太、沈継紅、劉殿卿らから聞き取ったものです。

武松資料には、このような名簿や証言の資料以外にも、強制連行関係地図、写真、新聞記事など、様々な資料があります。

 

④   GHQ・LS(法務局)文書「三井鉱山大牟田労働者名簿」(List of Employees at Mitsui Mining Company at Omuta)、国立国会図書館憲政資料室蔵

ほかに、中国人の名簿については、GHQ・LS(法務局)文書「三井鉱山大牟田労働者名簿」があります。この史料は戦後にGHQが収集した三井炭鉱の労働者の名簿であり、三池炭鉱の日本人、朝鮮人、中国人の労働者名簿です。

三井三池の名簿では、このほかに、三井三池炭鉱の企業史料(人事係関係)があります。高木尚雄『わが三池炭鉱』葦書房1997年に、「遺族名簿 四山人事」、「公死者名簿 宮浦坑人事係」の写真があります。このような、三井三池炭鉱関係の企業資料の公開が望まれます。

 

4 万田坑 中国人の抵抗

ここで、万田坑での抵抗の動きについてみておきましょう。1944年9月末に7人が検挙され、さらに45年4月までに8人が検挙されています。9月末の検挙者のうち4人が獄死しています。陸軍の用箋に記された報告書には次のように記されています(要約)。

1944年5月に万田坑に2回にわたり北支労工協会の「斡旋募集」により約400人を「移入」した。5月下旬に王春海・李豊年、8月上旬に趙永城・張抓子と逃亡が続き、8月下旬に薜徳元、陳立昌の二人が逃亡を協議しているところを荒尾署が発見した。逃走原因を取り調べたところ、中国共産党・八路軍関係者が「多数潜入」しているとの陳述をえた。動静を視察したところ9月上旬、坑内作業中に安栓套と李富唐の二人が爆破用雷管を窃取し、巻絆や弁当箱に隠して持ち去ろうとした事件が起きた。謀略的意図とみなし、逃亡事件との連携についても取り調べた。

その結果は、被疑者は中共八路軍の諜者・共産党員である、軍幹部から国内情報収集・重要施設破壊の密命を受けた、張抓子は日本潜入に際し、家族への生活費補助を確約された、薜徳元は情報収集・闘争帰国の際には賞金をえる確約があり逃走した、安栓套は重要施設破壊のために爆破用雷管を窃取したということだった。

警察は中共八路軍系の諜報・謀略団の存在容疑が明瞭とみなし、数次にわたり、検事局の指揮のもとに劉清田ら10数名を検挙した。取り調べにより、被疑者らはすべて党員である、抗日共産主義教育を受け、日本の徹底的打倒と共産主義実現が中国民衆を救う唯一の道と確信している、軍幹部により苦力に応募し、潜入するよう指示された、塘沽からの船中で同志を糾合し、2回の連絡会議を持ち、対日諜報謀略団の結成を企図した、宿舎破壊の目的で爆破用雷管を窃取した、炭車転覆・ベルト破壊などの謀略活動をしたとみなした。取り調べは45年7月に完了し、検事局に送局した。

 逮捕された中国人は国防保安法第8条違反とされました。取り調べ結果には不十分なものがあるにしても、中国人の中に抵抗組織が存在したことは事実でしょう。1944年9月16日の万田坑の火災事故では中国人37人が亡くなっています。生死をかけ、現場で抵抗の闘いが繰り広げられたとみていいでしょう。大量の連行はこのような抵抗闘争をもたらしたのです。

捕らえられた人々はみな、拷問されたでしょう。かれらは抵抗者として評価されるべきです。名前をあげておきます。

 1944年9月29日検挙 薜徳元、趙永城、安栓套、陳五昌(45.3獄死)、李富唐(44.10獄死)、孟堂(44.12獄死)、李洪奎(45.1獄死)、44年10月1日検挙 張抓子、44年12月8日検挙 王洛北、李貴池、44年12月9日検挙 黄振榜、45年4月12日検挙 劉清田、王貴臣、趙釣、蔡沛然。

 

5 三池での強制連行の明示

荒尾市の正法寺には中国人と朝鮮人を追悼する碑があります。朝鮮人の追悼碑は「不二之塔」といいます。碑には、中国人とともに朝鮮人が強制労働を強いられ、過酷な労働と差別待遇を受け、命を失ったことを記し、哀悼し、繰り返さない意を示し、供養するとしています。ここでの不二とは本来一つのものという意味です。南北朝鮮の分断に対し、平和的交渉による統一を願って「不二之塔」の名付けた旨が記されています。この碑は1972年に建てられています。

明治産業革命遺産では、2015年の登録時に日本政府は朝鮮人などを「働かせた」としましたが、その後、それは「強制労働」ではないなどと発言し、強制労働の存在を否定する発言をしています。不二之塔建設で示されたような認識を持つべきでしょう。

中国人の追悼碑は荒尾市の小岱山麓の日中不戦の森、大牟田市の宮浦石炭公園にも建てられています。また、朝鮮人の追悼碑(馬渡碑、甘木公園の徴用犠牲者慰霊碑)もあります。1997年の大牟田市による馬渡の碑文には朝鮮人の「強制連行」が明記されています。『荒尾市史』にも戦時の強制連行について記されています。このように強制連行は地域の歴史として継承されてきました。

産業遺産を観光資源とするにあたり、強制連行の歴史を否定するのではなく、その事実を認め、歴史全体を示し、次世代に語り継ぐべきでしょう。

 

 

参考文献

田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』明石書店1987年

田中宏・内海愛子・新美隆編『資料中国人強制連行の記録』明石書店1990年

田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料「外務省報告書」全5分冊ほか』現代書館1995年

何天義主編『日軍槍刺下的中国労工』新華出版社1995年 

何天義主編『二戦擄日中国労工口述史』齊魯書社2005年

中国人強制連行事件・福岡訴訟原告弁護団編『過ちを認め、償い、共に歩むアジアの歴史を』改訂増補版2002年

「武松輝男資料目録」大牟田市立図書館2012年

武松輝男『葬火不熄烟』1994年、復刻版 日中友好協会福岡県連合会2010年

広瀬貞三「戦前の三池炭鉱と朝鮮人労働者」『福岡大学人文論叢』2016年

竹内康人「三井三池炭鉱」『調査・朝鮮人強制労働①炭鉱編』社会評論社2013年

                                   (竹内)