4・18浜松戦争史跡フィールドワーク

2022年4月18日、浜松の戦争史跡のフィールドワークをおこなった。
1 浜松駅前のプラタナスの木
 空襲で焼け残ったプラタナスの木が「市民の木」の名で保存されている。空襲の事実は記されているが、戦争の原因やその責任については記されていない。被害が死を強いられたひとり一人の地平からどれほど認識されてきたといえるのか。浜松から飛び立った爆撃隊のアジアへの加害についてどれだけ認識されてきたのか。新たに調査すべき課題を考える場とすべきもの。
2 楊子橋の空襲の銃弾跡
 馬込川の楊子橋には空襲によって生じた銃弾の跡が残っている。浜松への空襲では、爆撃機だけでなく、艦載機も飛来して銃撃を行った。その際に生じた銃弾の跡である。
3 新町の被爆夢告地蔵
 45年4月30日の空爆によって粉々になった地蔵がコンクリートで補強され復元されている。復元は人びとの衆生救済への想いの産物である。
    

4 円通寺の被爆山門と陸軍航空兵の碑
 植松の円通寺の山門には空襲による炎の跡が残っている。円通寺には日中戦争での死者の碑が数基ある。その一つ、陸軍航空兵の碑は浜松から満洲に派兵された飛行第12大隊の配属され、その後、陸軍浜松飛行学校で教育を受け、再度、満洲に送られ、日中戦争により華北に派兵されて亡くなった兵士のものである。25歳の若さで日本帝国の尖兵となって死を強いられている。彼らの爆撃は中国の民衆を殺害した。被害と加害の歴史をこの碑から読み取ることが必要だ。
  

5 富吉の戦争死者慰霊塔
 この追悼碑にはこの地区での戦争死者の氏名、死亡場所、死亡年が刻まれている。日中戦争、太平洋戦争と数多くの死者が出たことがわかり、とくに1944年以降の死者が多い。ニューギニア、フィリピン、ビルマ、太平洋など各地に派兵され、亡くなっている。また、空襲によって一家が亡くなったこともわかる。軍需工場の被爆を知ることもできる。満洲に送られて亡くなった人もいる。侵略戦争で人びとがアジア各地に動員され、加害を強いられ、そこで死を強いられたのである。
6 浜松城公園の空襲死者追悼碑
 被爆によって苦しむ人間像を置いた1979年の碑であり、戦災死者を3549人としている。碑文には「戦争の絶滅」を期すとある。投下燃焼弾、爆弾数などは米軍史料との照合が必要だろう。死者数についても再調査が必要だ。
 なぜ、浜松が空襲を受けたのか、その戦争の原因、責任を理解すること、その戦争での加害の実態を知ること、空襲による被害をひとり一人の死者の地平から読み直すことが大切だ。
7 三方原の毒ガス戦部隊跡
 1944年、本土決戦にむけて、三方原教導飛行団という航空毒ガス攻撃専門部隊が編成された。浜松陸軍飛行学校内の毒ガス攻撃部隊が分離、強化されたものである。現在は自衛隊官舎となっている。周辺では、遺棄毒ガスも発見されている。戦後、浜名湖に投棄されたガス管が漂着し、被毒して死亡した事件もあった。満洲では攻撃訓練がなされ、中国軍に対して空からの毒ガス攻撃も実際になされた。戦争犯罪であるが、それを隠蔽できなかった。
8 航空自衛隊浜松基地
浜松には1920年代半ばに陸軍の爆撃隊飛行第7連隊が置かれ、そこからアジア各地に派兵され、爆撃をおこなった。陸軍浜松飛行学校も置かれた。飛行学校の跡地に自衛隊浜松基地がある。浜松基地は飛行教育を主としてきたが、冷戦以後のアメリカのグローバルな軍事戦略の下の軍拡によって、20世紀末に、空飛ぶ司令塔AWACS4機が配備された。空自の広報館も建設された。21世紀に入ると浜松基地からイラク戦争に派兵され、ミサイル防衛の名によるPAC3ミサイルも配備された。宇宙の軍事化、宇宙の支配による戦争態勢の強化が進み、浜松基地は日米共同作戦での警戒航空隊の拠点となった。昨年には美保基地からT400も移転配備された。近年、基地内の建設工事が進み、旧軍時代の将校用隊舎や弾薬庫などは次々に姿を消している。現在は基地正門の工事やシミュレータ施設の工事がすすんでいる。
市民による、戦争をさせないという活動が大切だ。


参加者の感想

空襲史跡も、基地周辺の案内も参考になりました。見せていただいた地図のおかげで、軍都浜松の全体が、俯瞰的に理解できました。実際に回っていただいて、町の隅々に浜松空襲の痕跡がいまだに残っていることも分かりました。浜松・磐田の空襲と死者名簿もざっと目を通しただけですが、とても重要だと思います。東京でも、いまだに東京大空襲で亡くなった方の名前も分からない状態で、今、私の友人たちが「名簿」を公開するプロジェクトをしています。地域地域で、戦争期の歴史をしっかり深堀して研究することが大切だと思いました。(K)