『麦の穂をゆらす風』によせて

この映画はケンローチの新作で、1920年代初頭のアイルランドの独立戦争と内戦を描いたものである。内戦が兄弟同士を敵対させる関係へと追い込んでいく。ケンローチは弾圧される共和派・社会主義派の姿を描きながら、その場で消されていった理念を現代に復権しようとする。それはスペイン内戦を描いたかれの『大地と自由』と同様の方向性である。

ケンローチはいう。「この映画が、イギリスが帝国主義の過去と対峙するための小さな一歩になればいい」、「過去について真実を話す勇気さえあれば、現在について真実を話す勇気を持てるのではないか」と。ここには歴史への知性と誠実さがある。

軍隊の性奴隷や強制連行、あるいは沖縄戦での集団強制死に対して、その事実を改竄するものたちがいる。そのような偏狭な国家主義者が政権を握っているが、国際的には批判と嘲笑を受けている。最近見た映画にコンゴの独立を描いた『ルムンバの叫び』(2000年)があるが、この映画は、かれが1961年に暗殺された状況を克明に描き、かれを政治的にも復権させるものだった。2002年にはベルギーはルムンバの暗殺への自国軍の関与を認知した。史実を認なければ信頼や友好はない。

ケンローチは、「よくある戦争映画には偽善的な部分がある」とし、反戦的なポーズはとりながら、映画の面白みは戦闘シーンであるようなものを批判している。スペクタクルな戦闘場面ではみえてこない、銃弾の一つひとつが人間を殺していること、その銃弾一つひとつへの問いが、人間存在の重さを示す文脈をつくりあげることになる。

映画『ブラックホークダウン』は米軍のソマリア介入を描いたものだが、そこでは米兵一人の生命は重く、ソマリア人は虫を踏み潰すように殺されていった。この映画を反戦映画と語る者に対して、そうではないと思ったのだが、それは、殺される側の人間性は描かれず、軍事と戦争死が正当化される文脈の映画だったからである。

史実をどんな風に描き、何を復権していくべきなのか、という問いをケンローチはこの映画で発しているように思う。現実のなかで死んでいった人物の理念は、かれの映画の表現によって蘇生され見るものに手渡されていく、かれの映画からの感動にはそのような精神的な質があると思う。

ところで、日本人による映画で朝鮮人の独立闘争を描き、かつその運動内部の対立で消されていった人々の尊厳の復権を提示できるものがあっただろうか。

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