香 月 泰 男 展 〜 赤 い 屍 体 と「朕」〜 
       2004・12 

静岡の県立美術館で12月まで香月泰男展がひらかれた。香月は1911年生まれ、1974年に62歳で生を終えた。今回の展示で、かれの描いた、シベリアシリーズを見ることができた。かれはシベリアへと連行された兵士の一人であった。このシリーズのなかにあった、「1945」と「朕」について感じたことを記しておきたい。

香月の「1945」は1959年、香月が48歳のときに描いたものだ。敗戦後、かれは北上する途中、中国の線路の脇に放り出されていた死体をみた。かれはその死体について、「満人たちの私刑で殺された日本人に違いない。衣服をはぎとられ、生皮をはがれたのか、異様な褐色の肌に人間の筋肉を示す赤い筋が全身に走って」いたという。「1945」はその赤い屍体のイメージから描かれたものである。

香月の「1945」に注目する理由は、香月が、「戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、(広島の)黒い屍体からでなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。私にとっての1945年はあの赤い屍体にあった」と立花隆に語っているところにある(「私のシベリア」1970年・75ページ)。この発言には、かれの内省の深さとして、自己の加害性への問いがある。それは、ソ連によるシベリアへの連行と強制労働という被害のみを語るのではない。「この戦争で無数の赤い屍体が出た」「あの赤い屍体の責任はだれがどうとればよいのか」「再びあの赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか」とかれは考え、赤い屍体を平和への問いの出立点としていったのである。

このインタビューがおこなわれていたときに描かれた作品が「朕」(1970年)である。

香月美術館の「朕」の解説には次のように記されている。

「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっちあげて。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちていく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所二ソアル・・・・朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ・・・・朕ヲ・・・朕・・・朕の名のため、数多くの人間が命を失った。」

 香月は「赤い屍体」のイメージを反芻するなかで、この天皇制を問う「朕」を描いていったといえる。このときまだヒロヒトは生きていた。天皇の戦争責任を問われたときに「文学上の問題」としたのは香月がこの朕を描いてから5年ほど後のことだった。

 「朕」の絵には20余の死者たちの黒い顔が並べられている。中央には勅語を示す紙が白く描かれ、そのかなたに死者の顔が透けてみえる。その紙に、香月は「朕」「朕」「大元帥」「鴻毛」「股肱」「頭首」といった言葉を荒々しく刻みつけている。朕・ヒロヒトよ、お前はこの言葉とその支配でどれだけ多くの民を死に追いやったのだ・・。そんな想いが刻まれた文字から感じられる。

 兵士生活を象徴する黒い太陽、逃げた鷹が示した自由、匍匐前進で見る青空、練兵場に描かれたガスマスク、シベリアで死亡していった兵士たちの顔顔、有刺鉄線。光を吸い取る黒い画面が、香月が徴兵され、シベリアへ送られ、帰還するまでの4年間を示す。家族と引き離され、進軍させられ、銃を持たされ、殺しあう関係へと追いやられ、戦争責任をとらされ、墓碑銘もなく大地に捨てられていく。人間の生を踏みつける多くの「朕」たちへの怒り。

シベリアシリーズのなかに赤く燃える炎が描かれた「業火」という作品がある。「必ず生きのびてやろう」「帝国軍人としては死にたくはない」と考えていた香月の生への思いを示すかのような勢いで炎は描かれている。その想いは見るものへと、帰還への希望を示す青色とともに、熱い生のメッセージを伝えている。                        (竹内)