「蟻の兵隊」 2006・8

「蟻の兵隊」は敗戦後も中国山西省に残留をさせられ戦闘を強いられた兵士の自己回復に向けてのたたかいの映画だ。

敗戦後、中国国民党の閻錫山と日本軍第1軍は「密約」を結び、日本軍の一部を残留させて共産軍と戦闘させる。しかし、敗北が近づくと日本軍の指導部は日本に逃げ、兵士たちは抑留された。残留日本軍は約2600人、そのうち550人が戦場で死を強いられた。かれらは軍命によって残留を強いられたが、帰国してみると「志願」しての残留とされ、軍籍はすでに19463月の段階で「現地除隊」とされて抹消されていた。

1991年になって生存者が残留被害者への補償と援護を求め、全国山西省在留者団体協議会の活動をはじめたが、国側は、残留の軍命はなかったとその責任を認めようとしなかった。そのため2001年になって、13人が裁判闘争をはじめたが、2004年に敗訴、2005年には高裁で控訴が棄却され、5人が最高裁に上告した。国家の責任を問う裁判の途中で生を終えた者も多い。

映像は残留を強いられた兵士の一人・奥村和一さんのたたかいの軌跡を追う。奥村さんは新潟出身1942年生まれ。早稲田専門学校在学中に徴兵されて中国北部に派兵された。第1軍独立混成第3旅団に配属され、寧武で敗戦を迎えた。初年兵の時には捕虜への刺突訓練をさせられ「殺人マシン」にされていった。さらにここでの残留を強いられ、共産軍との戦闘に動員され、1948年重迫撃砲弾によって重傷を負った。いまも彼の体内には破片が残る。

奥村さんは残留命令の真実を明らかにしようと山西省を訪問し、資料や証言を得る。その旅では、日本軍による虐殺・強姦・略奪や天皇の軍によって日本兵がいかに奴隷化されていたのかについても、日本兵の手記記録や中国人の証言によって明らかになっていく。

奥村さんは捕虜殺害現場に立って死者を追悼するが、幸存者の遺族に向かい謝罪するのではなく、中国人側の行為を尋問するかのように追及し始める。カメラはその姿を捉える。その事態を奥村さんは振り返り、自分自身の中に克服したはずの日本兵が依然として棲みついていたことを自覚する。それを通して、見るものもまた、天皇の軍隊の教育の影響力が人間のなかに内面化していくことを知る。

印象に残る映像のひとつが、反省して処刑現場に立ちながらもその行為を正当化していく、この場面だった。

宮崎作戦参謀は山西での残留の動きを知り、その中止を求め帰国輸送をすすめた将校である。戦後は陸自の幹部となったが、退職後にはその真相を証言した。映像では97歳で寝たきりの状態であったが、奥村さんがこの問題の真相究明について語りかけると、「ウヲヲヲ−」と甲高い叫びを発し、奥村さんに同調した。感知能力はすでにないとみられるかれが、その存在を震わして真相究明に共感したのだった。「死に切れないのね」と家族がかれの額をなでる。この場面も印象に残るものだった。

真実を奪われたままの兵士たちの、真実を奪還するたたかいはつづく。戦争で死んだものたちを「神」とし、「靖国」を賛美するものたちのでたらめと欺瞞を問いながら。奥村さんは、靖国でそれを賛美する小野田寛郎に向かって問い詰める。すると小野田は激昂して言い返す。それを映像が捕らえる。わたしたちは小野田のなかに中野学校二俣分校での天皇教育が今も行き続けていることを知る。

人を殺していくことが当然となり、自身の死をも賛美する。殺したことさえ忘却する。そのような戦争下での人間性の疎外を映像はとらえていく。一方で、性的奴隷とされた女性が加害者の日本人兵士に向かって妻へと戦争の告白をすすめるという、被害者からの民衆間での和解のメッセージも伝えられる。

映像は「ドックドック」「ドックドック」という心音で終わる。それは、この世代が真実を獲得し自己の尊厳を回復しようとする熱い想いと、つぎの世代への真実の継承と平和に向かってのよびかけであるだろう。

その音を、今の戦時における新たなときめきとして共有していきたいと思う。 (竹)