「ノーマンズランド」

 アンプラグドという概念がロックにおいて一時、脚光を浴びた事があった。シンセサイザーによりさまざまな音の合成が可能になりほとんどのロックが電子製となった頃、エレキでなくアコースティックな音、つまり電気に頼らない基本的な楽器や声を見直そうというムーブメントだった。シンプルなギターに人間の声といったものの価値は、増殖し続ける電子的虚構に対するアンチテーゼでもあった。もっともロックというものが常に新しいものを求めてゆく欲望のおかげなのか、アンプラグドが不動の地位を築くことを、ロックが内包する反権力主義の力が許さなかった。電子音もアンプラグドも今となってはどちらが優位ということではなく、さまざまな表現方法の自由な選択肢として対等にあるにすぎない。

 それにしても大雑把には40年ほどのロック史において、現在のように沈滞、低迷している時期はなかったのではないだろうか?ほとんどがリメイクやカバーで新鮮さのかけれもない。これはロックに限ったことではない。去勢されて社会的に無害化され、まるで自らの尻尾を飲み込むヘビのごとく円環を描くだけという有り様は他のあらゆるジャンルにも言える事ですさまじいまでに管理が進んでいるように思える。どんなに力んでも釈迦の掌から脱出出来ない孫悟空のように。本来、限界や境界を壊す能力、超える能力は文化の免疫力と相関するはずだが、一方的に均質性、等価性を強要される現在にあっては、毒を失い、抵抗、反抗といった要素を抜かれたロックが単なる「癒し」として商品化されるのは象徴的だ。パンク、レゲエ。ヒップホップ、沖縄etc。

 思考を止め歴史を切断した日本人にとってどのような過激なアジテーションも抵抗なくBGM化できるのは、何の事は無い、意味不明だからだ。表現されたメッセージを無効化する構造がすでにある。

 さまざまな表現は人間のコミュニケーションのはずだった。限りなく連なる人間のネットワークにより活性化した社会が可能なはずだった。しかし気がつけば、あらゆる個別の要求や欲望を満たすかに思えたバーチャルな世界は、実は脱ネットワーク化されながらネガティブな形で高度に管理された社会だった。「マトリックス」は現実であり「マイノリティ・レポート」の予防拘束(犯罪を犯す前に逮捕)でさえ可能なのだ。

 異論を聞きたい。痛烈な批判を、と様々なアンテナを張るものの、それらしき手応えには滅多に御目にかからない。そんな折、「ノーマンズ・ランド」(ダニス・タノヴィッチ監督)を観た。「9.11」を軸に世界中がハリウッド化したことに辟易していたが、久しぶりに、まるで初めて「アンプラグド」が現れた時のように鮮烈な印象を受けた。監督自身が語るようにこれはまぎれもない反戦映画だ。ボスニア生まれのタノヴィッチ(32歳)はこの映画で監督、脚本、音楽を担当する。自らが90年代の紛争でボスニア軍に従軍している。その経験は「僕が言いたいのは、あるゆる戦争に対して、異議を唱えるということだ。あらゆる暴力に対する僕の意思表示なんだよ」という言葉を残し、「ノーマンズ・ランド」に結実した。

 ボスニアとセルビアの中間地帯(ノーマンズ・ランド)の塹壕に運命的に取り残されたボスニア兵チキとセルビア兵ニノ、そして分解不能(処理不能)の高性能地雷を身体の下にセットされ、身動き不可能にされたボスニア兵ツェラ。3人の一触即発の緊張が続く。ボスニア軍もセルビア軍もなすすべがない。国連防護軍が接近を試みるが「戦線不介入」の立場は崩せない。軍事無線の傍受でマスコミがスクープに群がる。おなじみの「現場から○○のレポートです」というものだ。

 考えてみると紛争中の「サラエボ観光案内」の出版、映画「アンダーグランド」そして「ノーマンズ・ランド」に至るものに一貫して強烈な皮肉、もしくはブラックユーモアが流れている。戦争当事者として生命の危機に置かれながら、これ程の自己相対化には、はっきり言って脱帽するしかない。

 まるで「おい、射たれちまったぜ。見てくれこの穴」と言いつつ腹にあいた弾痕を指で拡げるような感覚だ。ロックを呼吸する世代なのだろう。ボスニア兵チキが戦闘服としてローリングストーンズの舌ベロTシャツを着ている。ミック・ジャガーのシャウトでこのクソみたいな戦争に徹底的に抵抗するかのように。

 しかし圧巻は何といってもラストシーンだ。前編が銃声と小気味良い会話で進行してきて最後はほんのささいなきっかけでチキとニノが射ち合って死亡。奇妙な和解、おかしな友情さえ生まれかけていたのに・・・。文字通り処理不能の構成のジャンプ型地雷をセットされた身動き出来ないボスニア兵ツェラただひとりを残して国連防護軍とマスコミが立ち去ってゆく。まさに見殺しなのだ。それまで続いていた会話が突然消える。天空を見つめるツェラ。塹壕の上方から地面に横たわるツェラを捉えたまま、ゆっくりとフェードアウトしてゆく。

 エレキギターやサンプリングマシーンで続いていた曲が、まるで突然アンプラグドされたように衝撃的だ。スクリーンから最も重要な問いかけが投げ返される。観客ひとりひとりが自答する他ない。いかに高潔なスローガンを掲げても戦争が人殺しであることに変わりはない。それならば一体なぜ戦うのか?戦争なんかクソくらえ!

2002.10.4高木


見えないもの

 以前から「見えないもの」に一貫して注目してきた。視覚の時代であればこそ、そして資本主義の、グローバリズムの世界であればこそ「見えるもの」が過剰に氾濫しているわけで、だからこそ隠された部分にこの世界の鍵があるはずだ。大声で流されるスローガンはそのまま受けとるべきでない事は歴史が証明する。「皆と同じで安心」などと構えていたら命がいくつあっても足りない。

 放射能、食品添加物、合成洗剤、電磁波といった物理的なものから企業宣伝、プロパガンダに至るまで、私たちはいわば嘘の海を泳いでいるわけだ。国家が人間を守ってなどくれない事にそろそろ誰もが気づき始めた。こんな時代だからこそ内部告発や暴露記事には注目する価値がある。もっともそれ自体が情報操作という罠である可能性も忘れてはいけないのだが。

 たとえば家畜や魚(養殖魚)には人間の2倍の抗生物質が投与されているという。動物用医薬品として年間727トン、飼料添加物として175トン、養殖魚用医薬品として182トンが使用され、人間にも517トンが使われているという。家畜には8割以上養殖魚にはすべて抗生物質が使われている。(食べるな危険!;日本子孫基金2002 講談社) 安全な食べ物をどうしたら手に入れることが可能か?割高だけど有機表示を探す?では表示が嘘だったら?これではキリがない。根源は何だろう?

 「人間の安全」を真剣に考えてこなかった政治の結果として私たちの社会がある。見えなければ何をやっても、バレなければ何でもOKの日本が。そこで育まれたのは、証拠がなくても(ウソをついても)並べば現金がもらえると行列を作った偽証肉事件にまるでハゲタカのように喰らいついた偽証人間たちだ。バーミヤンの石仏以前に、日本人の人間としての誇りはくずれ落ちていたのだ。この最悪の社会で、あなたが主催者だったことを思い出してほしい。

 食べ物の恐さは本能にストレートに効き目がある。たとえが悪いけれどまるでレイプされるような感覚だろう。でも食べ物ばかりでなく精神的なコントロールも恐怖であることを忘れてはならない。連日のよにタレ流される「拉致報道」のおかげでおそらく大多数の日本人が拉致被害者に感情移入しているはずだ。拉致被害者や家族の涙が執拗にクローズアップされ、もらい泣きした人たちの、一体何%が日本の植民地時代の強制連行や従軍慰安婦たちの悲劇に同等に感情移入することが可能だったろうか?報道される内容を冷静に客観視することは受けての歴史認識にかかっている。貧弱であることを強制され、教育された多くの日本人の現代史観が、まるで添加物や放射能に汚染され遺伝子組み替えされたものでさえ、巧妙なコマーシャルに魅惑されて無防備に食べてしまうように。

 「だって知らなかったんだもん」でくくられる沖縄、朝鮮半島、中国、東南アジア、そして9.11以後のアフガン、パレスチナ、イラク・・・・。

 日本人を軸にして時間的、空間的に想い起こすとき、いったいどれ程の加害者として認識が可能か、という問いは、現在のナショナリズム、ファシズムをどれ程相対化できるかという問いでもある。

 大見出しの北朝鮮の核開発、バリ島テロ・・・、次々と(もう満腹なんて言わせないとばかり)タレ流される情報を正確に整理すべきだ。過去の加害を隠蔽し、現在の加害(派兵)、そしてこれからの加害を可能にするためのさまざまな情報操作をどこまで解読できるか私たちは試されている。

 もし私たちが正確な歴史認識を持っていたら日本の、驚く程たくさんの軍需産業など出現しなかったにちがいない。PL(製造物責任)法とは製造した者の責任を問う法律だが、兵器に適用しようとは誰も言い出さない。それ程、軍事が正当化されているということだ。しかし人間の安全保障を突き詰めて考えたらPL法は兵器にこそ適用すべきではないだろうか?米軍がアフガンで使用したデイジーカッター、クラスター爆弾、BLUなどの大量虐殺兵器、さらに核兵器はもちろん、小銃からピストルまで国際標準として決して例外をつくることなく。

 ブッシュは10月15日、銃犯罪防止を目的とした銃の指紋(ライフリング)登録制度導入に反対する考えを明らかにした。銃を発射する際、弾丸や薬莢に線条痕が残る。これは銃ごとに異なるため、あらかじめ司法当局のデータベースに登録、犯罪で残された銃弾や薬莢と比較して購入者を特定可能にするというもの。しかしブッシュはその信頼性に疑問があるとし、さらに「法に従う市民には銃を所持する権利があると信じている」と述べた。ブッシュの背後にある全米ライフル協会も「プライバシーの侵害」と導入に反対している。(02.10.16毎日)

 正義を力で創ってきた米国の必ず陥る原理がここにある。この原理こそが過去の米国による大量虐殺を正当化し、現在の最強の武装国家を保証し、イラクなどの次なるターゲットを創りだす。民主主義、平和そして正義のための人殺しだから許されるというわけだ。ピストルから核兵器に至るまで、引き金を引く事が罪の認識を迂回して公的に認知される社会がここにある。被害者の悲しみ、苦しみを感じる事無く幻想の正義に直結するしくみだ。加害者が加害者であることを決して認識できない社会、それが米国であり、日本は50年以上その価値観を模倣してきた。

 「銃」を正当化した米国が今、謎のスナイパーに翻弄されている。ワシントン周辺の無差別連続狙撃事件だ。まるでゴルゴ13のように正確に一発でしとめるという。正義の国米国で起こるべくして起こった事件、言い換えれば自業自得ということだ。この事件が終わっても次が必ず起こる。銃を否定する他ないのだ。見えない敵が一番こわい。

2002.10.18高木

ノーム・チョムスキー

 「人々をばらばらにすること、そして、人々を孤立させることは、彼らを管理する一つのテクニックである」「テレビは本来、人々を孤立させる装置であり、あなたがたはひとりでブラウン管を見ているのだ」(Norm Chomsky "Creation and Culture"1992)

 私たちは常に監視され盗聴されている、という言いまわしはパラノイアでも自意識過剰でもなく、9.11以後のごく普通の現実である。そしてテロリストと名指せば、公的、合法的(そんなはずはないのだが)に排除可能となってしまった時代を生きているという自覚は、特に日本において、きわめて希薄なものでしかない。それはおそらく主権者意識に比例する。言い換えれば自由について、どれ程認識しているかということでもある。奇しくも行政の謳う「人権とは奪われてはじめて気付くもの」は、まさにその通りであり、たとえば急増する監視カメラ群は、管理する側がこの社会の民度の低さを嘲笑っている証しでもある。

 その民度の低さは、特定の角度に偏向している。そちらを向いてさえいれば、監視や盗聴を意識しなくて済み、何の抑圧感も、抵抗感も、そして閉塞感も感じることなく、あたかも自由であるかのように生きてゆける方向だ。だが、この角度に私たちの自由のために抑圧される人々を見出す事は不可能だ。それらが死角となるような方向だからだ。無自覚な日常から見えない世界、”死角に何が隠されているか”をチョムスキーは語りついできた。チョムスキーにより語られるものが事実であるが故にその行為が、どんなにアメリカにとって目障りで、腹立たしいものであったかは、容易に察しがつく。言語学の世界的権威という存在を超えて、一貫してアメリカの野蛮性を告発し続けて、いまなお健在であるという希有な人物だ。いやアメリカばかりではない。たとえばインドネシアが東チモールに行った大量虐殺(2ヶ月で6万人が殺害された)についてチョムスキーが1978年国連で証言したが日本大使館により妨害を受けたという。こうした事実はほとんどの日本人がしらないままだ。インドネシアの虐殺に日本が加担したことを知らないことにする日本の平和だったわけだ。「日本はこれまでもアメリカ軍国主義に全面的に協力してきました。戦後期の日本の経済復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担したことによっています」(N・チョムスキー PLAYBOY02.6)

 雑魚の群れが水中で、一瞬にして方向転換するのは一体、どのようなコミュニケーションによるものなのか・・・おそらく個を超えて全体をつかさどる共通感覚があるに違いない。無数の大きな敵(捕食者)に対応する無力な存在故の生存法なのだろう。

 だがしかし、私たちは人間だ。ひとりひとり興味の対象も異なれば、怒りの対象も違う。ある者にとって狂おしい程の恋愛の相手であっても、別の者にとっては反吐の出そうな奴かもしれない。ひとりひとりの違いを認める事によってしか生きてゆけないのが人間ということだろう。だからこそ自由の大切さは共生のための絶対条件だ。しかし現実には、人間が自由であるための闘争が、無意味で重要でない情報の背後にいつも隠されてしまう。はきちがえた自由の実現のために抑圧(テロ)が行われるが、その多くは隠蔽され、公然と行われる際には「正義」にすり替えられている。たとえば大人の価値観を忠実に模倣する少年たちは「世直しのために」野宿者の顔に熱湯をかけてまわる。「働かないホームレスに腹が立った」彼らに、失業し野宿を強いられる弱者の、痛みや苦しみはとうてい理解不能であり、排除のための一方的な意味付けしか出来ない。

 世界が、勝者と敗者に分けられる事。敵か味方かという二項対立の強要。グローバリズムは、結局そんな結果しか生み出せない。

 曖昧な部分、中間領域、グレーゾーンなどが否定されてゆく。しかしこれらの重要性は、分離を拒否すること、可能性の分配であり、片方の否定でなく、片方の肯定でもない。つまり全ての存在の肯定だ。国境という恣意的、人為的分割は生物に不向きである。想い起こせば、国家こそがさまざまな災難の発生源でありつづけてきた。

 ラムサール条約が主張する干潟の重要性はまさに象徴的である。海でなく、陸でもない干潟こそ、多くの生物が依存している。大体、陸上の生物は3億7千万年前の、イクチアステガの必死の(しかし好奇心に満ちた)水中−中間領域(干潟)−陸上という冒険に依拠しているのだ。

 「わたしは、いつも敗者、たとえばスペインのアナキストの味方だった」と語るチョムスキーは、支配する側のエリートよりも、無視されている民衆に視点を置く。しかしチョムスキーを、たとえばアナルコサンジカリストやリバタリアンなどと分類することの意義がどこにあるのだろう?ジョージ・アーウェルやバートランド・ラッセルに影響を受けた少年期〜青年期がとりたてて重要というわけでもない。さまざまな現実に対してチョムスキーが行動する地平において、時折現れては消える逃げ水のようなものとして、それらの傾向を読むことが可能という程度で充分のはずだ。多くの党派的運動が、ピラミッド構造を指向する傾向にあって、シンボライズされ、カリスマ性を付与される事をするりとかわして(私のことなどどうでもよいそれよりも)「鏡を見るべきだ」と冷静に、私たちを現実に連れもどすチョムスキーは、メキシコ先住民のサパティスタ民族解放軍の覆面ゲリラ、マルコスが自らを副司令官と呼ぶのに煮ている。司令官は他ならないあなたたち自身のなのだと。チョムスキーが偉いことよりもそれぞれの現実に向き合う私たちひとりひとりが重要なのだ。そこにこそ自由へのリアリティがある。

 主権者(主体)が私たち自身である、という出発点は、再確認されるべきだ。なぜなら戦争可能な国家に向けて加速し、人間よりも国家に比重が移りはじめているからだ。出自を曖昧にし、歴史を切断して、同一のフィクションを身に纏うことによってのみ参戦可能ならば、個人の差こそ反戦のキーワードとなりうる。全体の統一の為のフィクションを見破り、個別のリアルを生きるということだろう。

2002.10.25高木