アホでマヌケでナサケない日本人をやめるために
 「静岡県の風邪は、なぜか焼津から拡がるんですよ」アレルギー患者が300人以上通院するけれど、あなたが最もひどいグループですと太鼓判を押してくれたかかりつけの医師の話である。ああ、苦しい!花粉症はまさにクライマックスを迎えている。
 焼津市議会は2月26日「イラク攻撃に反対し、平和的解決を求める意見書」を全会一致で可決した。(03.2.27中日)
 アホでマヌケでナサケない日本政府を糾弾するこのような民主的な声が「風邪」のように焼津から拡がることを願っている。
 連日のように報道される世界各地の「反戦抗議行動」は、戦争が始まる前にこれだけの規模になることを誰も予想しなかった。あのベトナム戦争における「反戦」を超える民衆のうねりをつくりつつある。しかし、「日本は鈍い。市民に力があるという感覚がこの何十年の間に失われた」(梅林宏道)(03.2.18中日)
 「日本が完全にアメリカの属国になってしまったようで、何を言ってもしょうがないというあきらめムードかな」「今は学生の学内紛争もないし、行動を起こす母体が何もない。実は70年代以後、大学側がねらってきたことなんです。寮を解体したり、学内の集会スペースをなくしたり、郊外に移転したり。活動をつみ取ってきたのです」「日本の社会全体に自立と自由が足りないんだと思う」(加藤登紀子)(03.3.2朝日)
 若い新聞記者のレポートがある。2月27日毎日新聞「日本にも広がるイラク攻撃反対平和パレード」という記事だ。市民運動や抗議行動、異議申し立てなんか、特殊な人たちもしくは変わった人たちがするもので、ほとんど「カンケーナイ」世代であろう彼女の銀座の反戦行動参加体験記事で目につくものを拾ってみる。
 「何ともいえない違和感を覚えて」「なんだかメーデーみたい」「実行委のおじさんたち」「(シュプレヒコール!よーしっ闘うぞ)の連呼で終わるお決まりのシュプレヒコールはない」「そうなのだ。そもそもこれはデモではない。チラシによるとパレードなのだ」「一番驚いたのは参加者の顔ぶれの方だった。多くが個人参加の若者や家族連れだったのだ。おまけに、デモは初めて、などと言う」「もしかして本当に日本で何かが変わり始めているのではないかとすら思った」「デモで戦争は止められますか。自己満足ではありませんか」「意思表示する方法がデモしかないなら、僕はデモでいい。テレビの前で起こっているだけでは何も変わらない。それこそ自己満足ではありませんか」
 自らを主権者などと考えた事もなく(選挙に行く他は)政治なんて考えた事もない人たちの、そして年間3万人以上が自殺する国でありながら何の抗議行動も起きない不思議な社会が、これまで以上に劇的に変わろうとしている。圧倒的多数の国民が反対の意思表示をしないのを良いことに「有事法制」が実現しようとしている。それが良い事なのか、悪い事なのかといういぜんに、それが何であるのかさえ知らない多くの国民をそのままにして。まるでAWACSがいつのまにか日常化したように。
 ブッシュは2月26日、フセイン政権崩壊後のイラク民主化構想として、イラクを民主化することで中東全体の平和と安定をつくり出すという「アラブ世界全体の民主化」を掲げた。これはネオコン(新保守主義)のチェイニー、ラムズフェルド。ウォルフォヴィッツなどの考えそのものであり、リチャード・パール米国坊政策委員会長は「中東で民主主義があるのはイスラエルだけだ」とさえ語る。
 ブレア英首相は「政権打倒のために一般市民が犠牲になるのはしかたがない」と言っている。そんなブレア感覚で思い出したのは、米国のオルブライトの言葉だ。最近のチョムスキー著「グローバリズムは世界を破壊する」によると「オルブライトがテレビの全国放送で、制裁のせいで50万人のイラクの子供たちが死んだという報告についてどう思うか質問された時、なんと答えたか覚えてますか?“難しい選択だがそれだけの価値はあると思う”と言ったのです」アホでマヌケなアメリカ白人の言いそうな事、などと言ってはいられない。そんな国に無条件で追随するナサケない日本なのだから。
 おそらく米国にしろ日本にしろ「民主主義」という言葉の使い方を誤ったまま、それが意味するのとは正反対の方向に強引に進んでいるのだろう。そんな原動力がいったい何を起源にしているのかを考えると、やはり正確な歴史認識しか思いつかない。そこにおけるボタンのかけちがいは想像を超えるエネルギーを生みだすのだろう。
 何年か前に、20代の知人と、演劇を志す2人の女性に日本の侵略戦争についてのビデオを見せて感想を聞いたことがある。2人の女性の反応はそれなりのショックを語っていたが、知人に関しては、全く反応がなかったため、こちらの方がショックだった。拒絶反応そのものだったからだ。おそらくこれは彼一人の問題ではないだろうと考えると暗澹たる気持ちになった。
 加藤周一がイラク戦争に対する日独政府の態度が違う理由を明確にしている。
 「ドイツは参戦を拒否し、日本は平和だろうと戦争だろうと米国の後に従う。それはおそらくヒトラーに臣従した過去を徹底的に批判したドイツが今や米国の権力にも権威にも臣従しようとせず、かつては「臣民」にすぎなかった過去からの真に決別しなかった日本が「国民が主権を保持する国」となった今でも昔を懐かしみ、和を貴しとする意外に批判精神を研ぎすますことの少ないのと見合うだろう。歴史の見方は、現在においてこそ重要な意味をもつのである」(03.2.20朝日)
 アホでマヌケでナサケない日本政府を批判し行動し意思表示できるのは今しかない。
 「有事」とはそのような表現をすべて圧殺するものであり、茶の間でミカンを食べながらテレビでイラクはどうなるか見守っているうちに有事法制が成立してしまうかもしれないわけだ。
 英、米、スペインなど戦争を可能とする国でさえ、政府と国民が乖離しはじめている。そして日本も遅ればせながら・・・おそらくここだけに希望が残されている。
2003.3.3高木

スポーツが嫌いだ
「教育システムの大部分は成績、他の生徒をテストで打ち負かすこと、教室の前に出て先生から褒められることに基づいた報酬システムのまわりに築き上げられています。」というD・バーサミアンの問いにチョムスキーは「そうです。それは特別な種類の訓練です。それは非常に反社会的な行動の訓練で、人間にとって非常に有害です。それは教育には必要ありません。その人間を、他人の業績を喜ぶのでなく、他人の敗北を喜ぶような人間にしてしまいます。」と答える。(グローバリズムは世界を破壊する N・チョムスキー 明石書店)
 子供の頃から現在に至るまで私はスポーツが大嫌いだった。いまだに野球のルールも知らない。体育の時間は、いつもどうやってサボるか知恵を絞ったものだ。かといって身体を動かすのが嫌いだったわけではない。山を歩き、沢を登り、人知れぬ林道をバイクで走るのは無上の喜びだった。でも、そうしたものをスポーツなどと思ってこなかった。ましてやアウトドアスポーツなどとカタカナでくくられるのは気分が悪い。好奇心と、子供の頃からひとりで野山に遊んだ経験で、一歩間違えれば命を落としかねない場面を何とか切り抜けてきただけのことだ。あらかじめルールを押し付けられるようなゲームなど何の魅力も感じなかった。直感や本能を駆使して自然と関わる喜びは、人工的空間で人為的ルールを守るゲームでは、到底及ぶものではない。もちろん物理的に流れた汗の量などで比べられないのはいうまでもない。それにしてもなぜスポーツが人々に好まれるのだろう?
 世界中が反戦デモに沸いてもなぜか競技場の熱狂の方が勝っているような気がする。特に日本では。この国で最も読まれるのはスポーツ新聞だろう。10cmもあると思える見出しの活字がセンセーショナルに伝えるに内容は、政治でも経済でもなく、ゲームの話しにすぎない。「勝った」か、それとも「負けた」かという。別にスポーツ好きを批判しているわけでは決してない。ただ世界で何が起ころうと、ゲームの勝敗にのみ熱狂する姿を異常と思うだけの話だ。決して思い過ごしではないはずだが、もしかしたら(特に日本においては)スポーツは抑圧された現実の代理戦争ではないだろうか?すさまじい競争原理で、勝ち組と負け組が固定されてしまった非人間社会の、である。表現の自由が保障され上下関係でなく対等平等な関係で主権者意識が生かされた社会、すなわち多様な生き方の可能な社会であるなら“代理戦争”の必要はなくなるはずだ。ひいきのチームやプレイヤーの勝敗に入れ込む情熱は、ままならぬ日常の、あきらめるには腹が立つ、かといって表現の方法も思いつかない焦燥感や抑圧感を手っ取り早く解消したり忘れ去るための重要な手段となっているようだ。言うまでもなく、それは本来、現実において表現されるべきものだ。金まみれ、汚職が当り前の政治家を、おおっぴらに批判することはためらわれても「イチロー」や「松井」の快挙を見知らぬ者どおしでさえ大声で喜び合うことなら可能な社会がここにある。
 競争原理は差別を助長する。私たちの身のまわりに浸透して皆が当然と思っているそれをマクロ化したものがグローバリゼーションだろう。ほんの数%の富める層と、どんなに働いても食ってゆけない圧倒的多数の人々。傲慢にも勝ち組のトップは「俺はいいけどお前はだめだ」と言う。
 たとえば、湾岸戦争後の停戦条件を規定した「国連決議687」ではイラクに限らず、中東全域からの大量破壊兵器撤去を目標に掲げているはずが、同じ中東でイスラエルの核保有はなぜ許されるのだろう?
 「五大国が核兵器保有を許され、その他はだめというのは明らかにダブルスタンダード。学生が冷めているのが気になる。学生は受験や社会生活を通じて力のある者が常に勝つと教えられてきたから米国の行うことは文句を言ってもしょうがないと思っているのではないか。」(独協大 古関教授03.3.8毎日)
 イラク情勢において米国内の勢力争いにひとつの節目があったようだ。穏健派(!)とさえ言われていたパウエル長官とネオコン(新保守派)の確執においてパウエルが負けたようだ。(それともはじめからポーズだったのかもしれないが)
 「中東民主化は、圧倒的軍事力を背景に、米国的価値観の拡大を目指すネオコン派(ラムズフェルド、ウォルフヴィッツ、チェイニーなど)と国際協調路線をうたうパウエル長官は、対イラク攻撃に向けた国際協調体制構築が仏、露、中国などの反戦姿勢で事実上頓挫。それを仕掛けたパウエル長官の敗色が濃厚となり、ネオコン派の巻き返しが実った形」(03.3.9中日)
 銀ブチの眼鏡の奥で冷たく笑うラムズフェルドにとっては殺されるイラクの子供たちがただの石ころとしか映らないのだろう。ネオコンばかりが米国でない事を踏まえたうえでも一般化された米国史の影に虐殺された膨大な人々が積み重なっていることはほとんど知られていない。正義、人道主義、民主主義などと口角沫を飛ばす米国の実態が、残忍きわまりないテロ国家であることが、世界最強のメディアコントロールによって“自由と民主主義の帝国”にすり変えられてきた。
 多くの人がスポーツ好きであることのひとつの理由に「フェア・プレー」の存在があると思う。それはゲーム上の純粋さかもしれない。悲しいかな現実の世界に存在せず、人々が熱烈に求めるものをスポーツがかなえてくれるわけだ。
 「誰だって汚れた部分がある」という半ばあきらめに近いものを、限り無く拡大したものとして現実の政治があり、その頂点に米国が君臨する構図を正視できない人々が、手に汗握ってスポーツ中継に我を忘れる。
 札束とマッチョな肉体が、これ程人間の精神を凌駕したことがあるだろうか?「最強」を望む人間の欲望が、目に見える世界に傾きすぎていることを本当はたくさんの人々が悲しんでいる。
2003.3.10高木