皺寄せの黄色いハンカチ

南信州が馴染みの薄い場所であることは、不況下における開発中心の三遠南信ネットワーク構想が事実上の頓挫であるばかりでなく、個人的、具体的接点を持たない多くの人々の現実だろう。しかし飲料水、工業用水、農業用水を天竜川に依存する地域である下流域の浜松にとって、以前中田島海岸の砂浜侵食の原因が中流域のダムに起因することを指摘したように、他県の事と無関係にできる地域ではあるまい。太平洋戦争時の中国人強制連行問題についても同様である。カーナビの普及や情報誌の氾濫により、日本中の詳細な把握が可能になったかと錯覚する昨今だが、言い方を変えれば自らの五感による認識を放棄したために自覚ないままコントロールされる姿にすぎない。因みに世界の半分以上のカーナビを日本人が使うという。自分の意志と思い込んだ事がそうでなかったら気持ち悪いでは済まない。ましてや全体が戦争に向かう流れであるとしたら。ともかく、どのような土地に住んでいるかは生活観、世界観、人生観の重要なファクターである。商工業の集中率というヒエラルキーから発想するのはもはや時代錯誤そのものだ。
あきらかに失政の結果である現在の日本で、ゆたかな自然に恵まれた山間地をもっとも弱い立場に追いやっている価値観こそが批判されるべきだろう。社会構造上もっとも弱い部分にシステム変換のキーワードがあるかもしれない。たとえば、山で過ごす一日はあきらかに都市のそれよりも長い時間である。それは経験者のみが実感できるのだが、残念ながら物理学では説明不能なのだ。話を戻そう。
情報化時代、そして管理社会にあって誰でもどこにいても「派兵という現実」を共有している。長野県下伊那郡阿南町、売木村、天龍村、浪合村の有志(草の根意見広告の会)によるイラク戦争開始一周年全世界一斉反戦行動として3月20日、新聞にイラク派兵反対の意見広告を出す計画という。
画期的なことだ。地方の、そして田舎であるほど保守的で周囲を気にして「表現の自由」どころではないというこの国の政治的現実をも越えるほど「イラク派兵」とは真面目でおとなしい民衆を異議申し立てに駆り立てるに充分な詭弁なのだ。マスコミ、議会制民主主義、選挙制度などが巧妙に操作され、数の力で押し切られる現実に義憤を募らせる人々がきっと潜在するはず。このような予測不能の民衆の連帯がブレークスルーとなる可能性は多いにある。死人を生む政治を許してはならない。なんであれ人命に関わる嘘がまかり通る社会など論外である。
国会議員の学歴詐称問題が尾を引いている。小泉首相や安倍幹事長の疑惑がはれない。米国ではブッシュ大統領が兵役逃れ疑惑の再燃にうろたえている。ベトナム戦争中、テキサス州軍に入隊、アラバマ州軍へ移籍。しかしこの期間中のブッシュを覚えている上司や同僚が一人もいない。一部の金持ちの特権階級の人生が嘘で塗り固められ、リスクから徹底的に守られるという構造は米国にかぎったことではない。そのような人生を歩んだ人間には人権や民主主義などの概念は初めから欠落しているのだ。過大評価をうむ過剰なコマーシャリズムの弊害が深刻ということでもある。言葉の説得力は、フェアな生き方にこそ裏打ちされるものだ。現実はそんなことも不明なほどアンフェアな社会ということだろう。
「イラク派兵の自衛官の安全を願って、山田洋次監督の映画にヒントを得て全国に広がる黄色いハンカチ運動について山田監督は、映画のハンカチは夫婦愛の証し。戦争に行く兵士の無事を願う事とは本質的にちがう。派兵する街で、黄色いハンカチが見送りに使われるのは、とても気になる。イラク派兵が憲法違反ではないかという重要な論点が消えてしまうのが不安だ、と訴えた」(2.21毎日)イラク派兵正当化という詭弁を弄するために、事もあろうに憲法前文を高らかに引用した小泉首相の稚拙で軽薄な自己中心的身勝手さは、まるで鳥インフルエンザウイルスのように強力な感染力を持つようだ。社会全体で詭弁症が蔓延しはじめている。専守防衛を旨とする自衛隊が、言語も文化も宗教も習慣も異なる遠い中東に出向くことなど現憲法下では有り得ない。しかもでっち上げの理由で先制攻撃により、占領下にあるという国際法違反の占領軍側軍隊として、である。利権や脅しに屈して仕方無しに参戦した国以外がそっぽを向いているなか、混乱がおさまらないイラクで困惑しきった米国が、一連のイラク攻撃に御墨付きをくれたとばかりに「自衛隊が来てくれたことに感謝する」と、したり顔をする意味がわからないほど日本人の思考力は崩壊したのか?ともかく一連の憲法違反の既成事実の積み重ねのプロセスは、事ほど左様に憲法第9条の存在が重く否定しがたいということだ。だからこそ世界的には、平和憲法を持つ日本がこともあろうに最悪の侵略を支持するというピエロをほとんど自覚ないまま演じて恥をさらけ出したということだ。
「NGOの活動で間に合うはずの安全地帯になぜ重装備の自衛隊が出かけなければならないのか。(中略)結局のところ、現地の復興よりも自衛隊員がそこにいること自体が自己目的化している観は否めない」(棟居成城大教授 憲法学04.2.23毎日) 
「陸自は犠牲者が出やすいから、つまりこの派遣は犠牲者が出る事を織り込んでいる、むしろ望んでいる向きによって進められているのではないでしょうか」(イラク派兵を問う 岩波ブックレットNo.616) 
自衛官の背の高さに合わせ、いく通りかのサイズで棺が作られつつあるという。他人の死を望み、利用して都合の良い社会(国)をつくろうとする、まさにアンフェアな考え方だ。派兵体制においてリスクを負わない者たち、利益を得る者たちのシナリオを変えるしかない。何度でも言おう。「嘘は泥棒の始まりでしょ」
                          2004.2.23 高木

牛丼

 「牛丼屋に牛丼が無いのか!」と大声で怒鳴り、テーブルを叩き、注意した2人の客を殴って逮捕された男がいた。BSE疑惑で米国産牛肉輸入禁止となり牛丼を中止した吉野屋での話。当日は全国で吉野屋に長蛇の列が出来たという。米国の屠畜場で立っていられず、フラついたり倒れたりする牛の映像が何回も報道されているにもかかわらずである。この国ではさまざまな危険を予知することがおそらくタブーになりつつあるのだろう。その場の雰囲気や情緒だけが判断基準になるから、全体が何処に向かうかは知る由もないことになる。
「本当に自衛隊を派遣するなら、日本は日の丸のかわりに星条旗を揚げ、米国の植民地であると認めるべきだ。自衛隊がイラクで担うべき役割はなにひとつない。そもそも自衛隊にどんな義務があるのか。誰のために働いているのか。イラクへの派遣は国際社会のための仕事ではない。あくまでもイラクで米国が主導するCPAに従っているにすぎない。爆弾テロや奇襲攻撃はやまない。内戦が始まるのではないか。人道支援などというものは、内戦状態の国では通用しない。非戦闘部隊はいけにえになるだけだ」(元国連大量破壊兵器査察官 スコット・リッター 04.2.20週刊朝日)
2002年末頃に日本で出版された著書においてスコット・リッターが明言したように、イラク攻撃の大義である大量破壊兵器は今だに見つからないばかりか、それ自体がデッチ上げだった事が、さまざまな面で明らかになりつつある。英国でも米国でも、そして国連を無視した先制攻撃をいちはやく支持した日本においても、事実を回避するために合理的な議論とは程遠いやりとりが虚しくかわされている。
現場からのフィードバックが無くなる事は机上の空論がまかり通るということだろう。現場を知らない者が大言壮語してはばからない状態である。デッチ上げで1万人が殺されたイラクの人々が何を望んでいるかを無視した復興支援という名目の占領支援が続いている。自衛隊の活動するサマワがゲリラ抵抗戦の例外でない事が早くも証明された。一触即発の現地の緊張感を派兵自衛官の家族以外に日本でどれだけの人が理解出来るだろうか。特に2世議員の子供会のような国会において。「小泉首相は衆院予算委員会で、A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝について、私は抵抗感を覚えない、と語った。よその国から、ああしなさいこうしなさいと言われて、今までの気持ちを変える意志は全くないとも述べた」(04.2.11朝日)
「コクサイコーケン」などと上擦った声で叫ぶくせに、国際関係のイロハも解らず、隣人たちが何を考えているかをまったく無視して、国内外におけるさまざまな弱者、被害者の立場を理解できないままでも、一国の首相が存在可能ということか。
自民党国防族議員の中心人物であり、防衛政務次官を歴任したタカ派の大物箕輪 登、前レバノン大使天木直人、新潟県加茂市長で元防衛庁キャリア小池清彦、自衛官出身の作家、浅田次郎などが派兵に踏み切った小泉政権を糾弾したり、訴訟を起こしたりしている。イデオロギーにかかわらず現場経験者たちが、稚拙な論理で対米隷属に終始するポチ小泉政権を論破する様は、小気味良いばかりだ。しかし動き出した巨大なファシズムの前に少なくとも現在はその声も力も小さい。合理性や正当性のかけらも無いこの国の流れとは、合理も正当も理解せず、その場の雰囲気や情緒だけが判断基準である国民が支えているのだろう。
学校教育が破綻して、いつのまにか塾に通うのが当り前になり、学校側が生徒の個人情報を塾に渡しているという。塾が主で学校が従というわけか。国会中継よりもビートタケシの政治番組の方が人気があることと似ている。本末転倒とはこの事だろう。まさに政治のギャグ化だ。
「どうしてこんな世の中になってしまったのか、正直言って私自身にもわからないのです。国がこれほど大きく方向転換する決定的なきっかけが何かあったのかというと、見当たらない。(中略)日本でだけこのようなことが起こったことが、私には非常に不思議であり、かつ不気味にも思えます」「(1月19日、第159回通常国会施政方針演説は)何よりも、日本人の言葉の基本的な機能と力に対する信頼が決定的に失われたことを示すひとつの例となるでしょう」(高村 薫 作家 世界04.3)
おそらく日本人はBSEや鳥インフルエンザばかりでなく、何種類ものとんでもないウイルスに集団感染しているに違いない。感染が拡大するにつれて自分の事以外は無関心になってゆく。さまざまな症状のうちでも特徴的なのは、危機感の喪失だろう。そうでなくては地震列島に50基以上の原発を稼動させ、戦争放棄の憲法下で重武装派兵し、莫大な借金を抱えながら身の程知らずの危険な買物に明け暮れ、対米隷属政権に好き放題にさせることなど有り得ないではないか。とりあえず、まだ免疫機能の働いている人たちが義憤にかられて行動しようとしている。残された希望はここだけと言う事だ。
「ここまでくるとシビリアンコントロールの暴力。戦争を恐れるより自衛隊のクーデターを恐れたほうがいい」「私は反戦論者です。半世紀、人に向かって引き金を引かなかった自衛隊に誇りを感じる」(浅田次郎 日本ペンクラブ集会にて サンデー毎日04.2.22)
政治的選択が日常を決定しているという感覚の欠落は、政治家と個人(国民)との乖離であり、無関心の原因だろう。しかしこの国のファシズムの重要な原動力でもある無関心が際限の無い暴力であることを忘れるべきでない。何もしない事、無関心でいる事が加害者を意味するということだ。
「日本には憲法が無いのか!」と大声で怒鳴り、テーブルを叩き、さてと、誰を殴ろうか…いや、やっぱり暴力はいけない。        2004.2.13 高木


MD(ミサイル防衛)

 「『座して死を待つことまで憲法は想定していない』(石破防衛庁長官)『MD導入ほど専守防衛にかなった装備はない』(小泉首相)『抑止力が利かないテロはやられるか、やるかだ』(防衛庁幹部)」(03.12.20毎日)
政府は03年12月19日、ミサイル防衛(MD)システム整備を正式決定した。MD導入はシビリアン(文民)である首相、防衛庁長官が決定して自衛隊に下げ渡すトップダウンで決まった初のケースだ。冷戦後、また9.11以後の対テロ戦略という名目の侵略のために「先制攻撃」や「使える核」を公言する米国に、一も二も無く同調する日本は実質的に戦争可能な国として、米国との一体化に向けて決定的な一歩を踏み出した。やる事為す事、すべて憲法違反という異常な国がここにある。
「『(機能する自衛隊、日米同盟をめざして、米軍トランスフォーメーションに日本は完全に一体化すべき』(石破茂)『国益を踏まえた主体的防衛戦略が必要。PKOで他国部隊が攻撃されても、ぼう然と見過ごさざるを得ない政府の集団的自衛権解釈は限界』(額賀福志郎)(杉原浩司 派兵チェックNo.135)
日本の領土を超えた軍事的関与を考える時、憲法の禁じた「集団的自衛権」の抵触が問題になるのは必然だ。ましてMDの本質は、領土・領空を超えた空間概念だ。終末戦争としての核ミサイルを頂点(もしくは限界点)として展開した冷戦期の発想をクリアしないと新たな「軍産政複合体」の需要とそれを喚起するための言説が得られないために、よりグローバルな視点が編み出された。不安定による安定とも言える(核ミサイル対核ミサイル)という均衡を壊して優位に立つために、ならず者国家が大量破壊兵器を保有してもそれが無効になるシステムをつくればいい。それがMDである。すなわち発射した核ミサイルをミサイルで撃ち落す。いわば弾丸を弾丸で射ち落とすわけだ。しかし、このシステムが技術的に荒唐無稽である現段階で、反米の立場から想定すると、米国とその同盟国を攻撃することは可能であることが簡単に解る。同時に限りなく多数のミサイルを、さまざまな方向から米国に向けて発射すればよいのだ。もっともこれは原理上の可能性としての話だ。現実には原発一基の事故でさえ世界大の影響を及ぼすことは衆知の話だが。武力で平和を得ようとしても無理な話である。際限の無い軍拡競争ばかりでなく、パレスチナ、チェチェンなどで起きている事態はそうした発想への究極の回答とも言えよう。空前の殺戮からも何も学習しない人間とは、その意味においてレッド・データ・アニマルということだろう。
ところで米国提案のMD導入は、初めから決まっていた。
「わが国防衛の指針である防衛大綱を改定してでも米国に協力する(はじめに米国ありき)の姿勢は、専守防衛のはずの自衛隊をイラクという戦地に派遣する姿勢と何ら変わりない。イラク報道に比べ、MDが報道される量はずっと少ないから国民が気づかなかっただけのことである」(ミサイル防衛システム導入の欺瞞を暴く。 半田滋 現代04.3月号)
そして肝心のMDの命中率は
「イラク戦争で、イラクから発射された16発以上のミサイルに対し、撃墜に成功したのは9発にすぎなかった」「91年、湾岸戦争でイラクが発射した88発のミサイルに対し158発を発射。撃墜できたのはわずか9%」「米国で行われた初期段階のテストで11回のうち、10回命中。ところが、より実戦に近いテストでは7回の試射でわずか2回の撃墜にとどまった」
「米国物理学会は、米政府が2004年度から配備するMDがほとんど実用性がなく、効果がない、とする研究を発表。米国防総省政策評価担当のC・スピニー氏も、北朝鮮の脅威は弾道ミサイルでは防げないと懐疑的」(ミサイル防衛システムの欺瞞を暴く。 半田滋 現代04.3月号)
米ランド研究所の試算では、日本のMD配備に1兆2000億円から5兆9000億円かかるという。それでも国民が文句も言わずにいる姿はもはや怒りを超えて笑い話でしかない。
MDが導入されれば、実際にほとんど機能しなくても米国と日本の「軍産政複合体」が儲かり、力による支配戦略も実現するという考えは、さまざまな予測可能もしくは予測不可能な要素により頓挫するに違いない。敵対心が敵を生み出すのは原理だ。戦場の悲惨が伝わらないことが戦争を継続する重要な要素だろう。特にそのパイプが意図的に切断されている政治の場においてである。その結果として、戦場からのフィードバックを失ったまま戦争について空虚な論争をする日本がある。仮に劣化ウラン弾の被害が映像として毎日のように報道されたら自衛隊派兵そのものが中止された可能性だって否定出来ない。世間が考えている以上に神経と金が注ぎ込まれているのが情報操作である可能性を忘れてはいけない。荒唐無稽のMDを実現することよりも研究開発のプロセスにおいてMDの必要性を信じこませる言説が重視されているのだ。言換えればどんなSFでも可能ということだ。必要条件は「敵」である。ニヤニヤと笑いながら戦争の継続を目論み、利権に舌なめずりする連中を恐怖させるのは、反戦の声の世界的連帯だけだ。行動を忘れた知識人など犬にでも喰われるがいい。まともな人間でいるためには、殺され、傷つく人々の傷み、悲しみを汲むだけで充分である。戦争を止めよう!人間を返せと叫ぼう!戦争で儲ける奴らを野放しにするな!黄色いハンカチが自衛官の無事帰還を祈るシンボルとされているが、肝心のイラク人の無事を祈っていないではないか。太平洋戦争における千人針の再現でなく、ひとを殺してはいけない、殺されてはいけないという命の原点を見失うべきではない。まだ、血の乾かない戦場に立ちすくむアフガニスタンやイラクの人々こそ平和憲法の現実的な意味を理解するにちがいない。それが決して実現不能の理想でないことを。
日本国憲法は積極的に平和行動する権利を明確にうたっている。それは平和を希求する国民の義務でもある。戦争を放棄するという国際的な非常識を誇りを持ち、胸を張って実現させよう。
2004.2.8 高木



「世界がもし日本国憲法だったら?」

「誰でも必ず隠したい事や弱点がある。徹底的に探し出せ」凄腕の陪審コンサルタントであるフィッチ(ジーン・ハックマン)が部下に怒鳴りつける。「ニューオーリンズトライアル」の一場面だ。銃の乱射事件で銃器メーカーを訴えた裁判で、負けるわけにいかないメーカー側は金に糸目をつけずに最高の陪審コンサルタントを雇う。正義と法の裁きの場である裁判の陪審員選抜から裁判に至るまで恐喝、暴行、脅し、尾行、不法侵入などあらゆる手段を使って相手を探り勝訴を狙う。フェアをアンフェアでデッチあげるわけだ。人間がいかに脆弱で偏向しやすい存在かを見せつけられる。ささいなきっかけで敵にも味方にもなるのだ。可塑的とも言える人間の危うさをコントロールするために相手の弱点やスキャンダル、ゴシップを調査しつくす。いわゆるプロファイリングというものだ。それが権力との親和性を持つことは言を俟たないだろう。もちろんそれが独裁政権の占有であるはずがなく自称民主主義国家においても堂々と行われ、その究極の姿が米国社会ということだ。フィクションはノンフィクションと無関係であるはずがない。
「そんな安物スーツで市民派弁護士だと?」とローア(ダスティン・ホフマン)を冷笑した勝ち組を自負するフィッチは、そのままブッシュやラムズフェルド、ウォルフヴィッツを思わせる。正義などと青臭い事をほざくな、世界は表と裏があるのを知らんのか?という具合だ。
「食えなくなっていいのか?」「仕事が欲しくないのか?」「ローンが払えなくなるぞ」という(内なる権力)によって、本当は何が正しいのか理解していながらも仕方なしに現行政治を支持するという日本人の構造にしても同じことだろう。こうして子供に何が正しい事かを教えることが出来ない大人の世界が在るわけだ。要するに「お上と金持ちに逆らうな」ということである。
「自衛隊にたよらないイラク復興支援を求める5358人分の署名を一人で集めた高校3年生今村歩さんが、小泉首相あてに、『平和的解決を目指し、各国軍隊の撤退を呼びかけ、これ以上イラク国民を傷つけないよう、そして日本国民1人1人の安全に責任を持つべき一国の首相として、勇気ある行動をして下さい』と要望」(04.2.2毎日)
これに対して首相は「先生はよくイラクの事情を説明して、国際政治が複雑ということを生徒に教えるべき」「自衛隊は平和貢献するんですよ。この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない。なぜ、警察官が必要か、なぜ軍隊が各国で必要か」(04.2.3毎日)この発言に対して全国教職員組合が発言の撤回を求めた。
「小泉首相は参院イラク復興特別委員会で『先生方が、自衛隊派遣を武力行使に行くとか憲法違反などと生徒に言うなら問題だ』『日教組にはイラク派遣は憲法違反だとデモしている人もいる。先生は政治運動に精を出すよりも生徒の教育に精を出すべきだ』と述べた」(04.2.6毎日)
非論理的全体主義のなんと空虚で滑稽な事か。他愛無い学歴詐称なんか飛び越えてしまうエピソードだが、こんな首相に国を任せるのは噴飯ものだ。
「イラク戦争従軍カメラマン高橋邦典の(ぼくの見た戦争2003年イラク)が評判だ。静岡高校で授業で紹介すると『新聞やテレビには血まみれの死体は出てこない。ありのままの姿、心で見る本だと思った』『戦争は嫌、というより、なぜ戦争をしなきゃいけないのかと疑問がわいた』東京都葛飾区の中学校でも『自分が痛いです』と泣きながら訴えてきた生徒がいた。教諭の大野さんは『今回は、日本が岐路に立たされている。戦争を教えるのは教師の務めだと思ったのです』と語る」
「イラクの子供たちの絵に詩人谷川俊太郎が詩を添えた絵本が出版される。(おにいちゃん、死んじゃった)(教育画劇)では、「ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことをきかせようとしたり、じぶんのこころに戦争につながるそういう気もちがないかどうか。じぶんの気もちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、それでは戦争はなくならない」という谷川氏のメッセージがある」(04.2.3朝日)
 9.11後に出版され130万部のベストセラーを記録した「世界がもし100人の村だったら」(池田香代子、ダグラス・ラミス マガジンハウス)のスタッフが同じスタイルで「やさしいことばで日本国憲法」を出版したが売れゆきはかんばしくないという。
 「100人の村…」は南北問題をはじめ、いかに世界が偏向しているかがわかりやすく単純化されたモデルで描かれていた。イデオロギー以前の問題として親しみ易かったのだろう。さまざまな階層の多様な人々の興味を引くには共通項としてのグレーゾーンがきっかけとなるのかもしれない。しかし総合的に判断する際にはその分だけネガティブな要素も取り込んでいることを忘れるわけにはいかない。たとえば民主党には右から左まで多様なイデオロギーがあるように。しかも党として改憲を明示しているのだ。
 話がそれたが「やさしいことばで日本国憲法」はとても良い本だ。たとえばこう書かれている。
 「日本国憲法は、日本のわたくしたちからの政府への命令である。憲法は政府をわたしたちの命令下に置く。憲法には、政府が持つ権力、持たない権力、政府ができること、できないことがはっきりと書かれている」
 「平和憲法」に接する機会が無いとしたら、そのために失うものはあまりにも大きい。その意味を含めて教育の意味は重い。
2004.2.6 高木



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