派兵国家の平穏な日常がイラクの地獄を渇望する

 

(公認の殺人)を暗示する派兵が日常化しつつある。友人の親族という間接的な形であるが、報道以外ではじめてイラク派兵を内示されたというリアルな話を聞いた。現在、浜名湖花博がでっち上げられ全国からたくさんの観客が動員されている。派兵などと無関係な、それゆえ高度に政治的なスペクタクルが展開されている。北朝鮮のマスゲームとどこが違うのだろう?

軍事都市浜松の60万市民は、こうしてゆっくりと戦時であること、銃後であることを実感させられてゆくのだろう。少しずつ日常に現われる派兵の現実、公と私が暴力を介して再編されてゆく。

小泉首相曰く、「戦争に行くんじゃない。人道支援活動だ」大袈裟に派兵の正義というフィクションが語られて、それ以外の暴力を許さない世論が出来上がる。

「(暴力はいけません)という漠然とした(正しい)モラルこそが、むしろ暴力の容認と、暴力の圧倒的な非対称性、そしてそれへの無感覚を肥大化させているひとつの動力なのです」(『暴力の哲学』酒井隆史 河出書房新社2004)

「自衛官・ご家族のみなさんへ 自衛隊のイラク派兵反対!いっしょに考え、反対の声をあげよう!」と書かれたビラは、「公共の暴力」である派兵への異議申し立てであるために許し難く反社会的とみなされてしまった。反戦は公共の敵なのだ。

自衛隊がイラクに行く本当の理由は、日本ではできない実戦想定の軍事演習を行なうことだ、と週刊金曜日(6.18号)が伝えている。戦争放棄の憲法第9条の重さをあらためて考えさせる。すべてが9条を避けるために、言い逃れ、デッチ上げ、嘘をつき、ごまかそうとする。大体、被爆国日本が放射線被爆にこれ程疎くて良いものだろうか?イラク全土は劣化ウラン弾がバラまかれ、その微粒子が風に舞っているのに、何の根拠も無く安全だからと危険な場所に無防備な自衛官を送り出している。発ガンや白血病に苦しむイラク人を無視して「ジンドーシエン」が行なわれる。

硝煙消えぬ戦闘状態を非戦闘地域と言い換えることがこの国では可能らしい。何をしても国民は反発しないと見るや小泉首相は、多国籍軍参加を国民に説明する以前にブッシュに表明してしまった。論理破綻であることが明白なのに、多国籍軍に参加するが、自衛隊指揮権は日本が独自にもつ、と言ってのけた。しかし米大統領報道官が「多国籍軍全体は米司令部の監督をうける」との見解を明らかにしている。いつもの姑息なやり方、日本政府の場当りの嘘とするのが間違いないだろう。とにかく既成事実を重ねれば勝ちといわんばかりだ。

すでに4機の実戦配備をすませ、来たるべき空中給油機導入の暁には米軍に従い、世界各地に展開しようと手ぐすねをひくAWACSだが「機体は日本企業が製造した。AWACSには旅客機のような窓はいらない。しかし軍用機とみなされて武器輸出三原則に抵触することを恐れたメーカーは、わざわざ窓をつくって輸出。ボーイング社が再び窓を埋め直してAWACSを完成させた。日本の納税者によけいな負担がかかった、と米防衛産業関係者が語る」(04.6.9毎日)

憲法第9条はこの類いのエピソードをおそらく数えきれないほどつくってきたに違いない。そのひとつひとつに日本人は欺かれ、税金をだまされてきたのだろう。

米軍の極東における軍事再編、ミサイル防衛、自衛隊本格派兵はそれぞれがリンクし合い、存在理由を引き出し合っている。日米軍事システムとしてのその働きは間違っても民衆のためのものではない。存在そのものが反生命的だからだ。説明責任のために「民主主義」や「人権」が、真摯な語法として使われた事は無く、嘘でしかないことは明白だ。きわめて限られた一部の人間の利益のために多くの民衆が犠牲になっているわけだ。それにしてもこの常軌を逸した非対称の席巻は何だろう?

イラクでは主権移譲を前に破滅的な自爆攻撃が連日続いている。そこでは数十人単位のイラク人が犠牲になっている。そして数名の米兵が…

米国のイスラエル化は死者のバランス・シートを無効にした。人道の概念も。

民衆の中にヘリコプターからミサイルを射ち込み、住宅を破壊、老人・子供・女性など無防備な弱者をテロリストと名指して虐殺する。こうした行為が日常となっている事に異議申し立てをすることは間違いだろうか?

日本人のジャーナリスト・カメラマン・NGOの5人が、イラクで拘束されたがイラクにおける彼らの活動や真意が伝わって解放されたのは記憶に新しい。参戦しているかいないか、イラクをどう考えているか、日常において何を実行しているか、などのイラクの人々にとってきわめて切実な問題を通して私たちひとりひとりがイラクの見知らぬ人たちと関係し合っているわけだ。何よりも残念な事に占領側の国民として。この事実により生ずる責任を逃れることは出来ない。

はるか遠方の日本においてほとんど無自覚のまま暮らす、占領側の立場にある日本人は自衛隊が多国籍軍に帰属を変えても、イラクの人々にとって加害者側であることに変わりはない。

日本人の波風のたたない、粛々とした日常(たとえば花博を楽しむような)が、イラクの地獄につながるとしたら…

コミュニケーション・ツールが普及すればするほど、個に埋没し、会話不能に陥る子供たちが話題になるが、この国の政治の結果として、イラクの犠牲者を自分の問題として理解出来ないでいる大人と何ら変わりはない。 

「なにか、今あるシステムに対して波風を立てること自体がほとんど犯罪のように、しばしばテロとすら見なされる傾向です。この傾向は(テロとの戦争)と決して無縁ではない」(暴力の哲学 同上) 

米国はPKOに参加する自国兵士などを対象に、ハーグの国際刑事裁判所(ICC)への訴追免除を求める決議案を安保理に提示していたが、採択を断念、決議案を取り下げた。多くの国連加盟国や人権活動家が正義の勝利と歓迎している。

それにしても日本の、小泉政権は人権に関して国際的に評価されたことがあっただろうか?世界中で活動するNGOに比べて、この国の政府は国民が誇らしく思えることを行なったことがあるだろうか?韓国ドラマの高視聴率を妬み「ジュン様と呼ばれたい」などと口にするほど軽薄で下品な感性が人命を左右していることを忘れてはならない。

2004.6.25高木

21グラム

 

マックス・エルンストを知ったのは19才の頃だった。シュールレアリストの画家エルンストは、何気なく雑誌や新聞を切り抜いている時に“コラージュ”という手法を考えついた。何の関連もないものを組み合わせた時にそれまでに無かった意味が生じる。

考えてみれば、毎日の生活も、さまざまな人生も、まさにコラージュされていると言える。目の前にあるものが別の何かと組み合わされて、まったく予想もつかなかった事態に進展してゆく…

20代半ばのある夜、夢を見た。言葉が何の脈絡もなく思い浮かび、それがコラージュされる夢だった。飛び起きてイメージをメモしておいた。しばらくして大きさの異なった自由に回転する7枚の円盤上にさまざまな言葉が浮き彫りになったものを作った。赤坂の画廊で個展を開いた際、それが最も人気があった。

メキシコの鬼才アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの“21グラム”は、コラージュの手法で見事なドラマを描いた。

3組の夫婦とその家族は、それぞれ関係なく生きていた。貧困を生きる信仰に厚いジャック、数学者ポールは、余命1ヶ月と宣告され心臓移殖しか残されていない。クリスチーナの夫マイケルと2人の娘は、ある日帰宅途中に、ジャックの運転するピックアップにはねられてしまう。2人の娘は死亡、夫は脳死と診断される。発狂せんばかりのクリスチーナに、心臓移殖の依頼がある。すでに移殖が当り前のように行なわれる米国ならではの風景だ。ほとんど成り行きで承諾してしまうクリスチーナ。

移殖された心臓のおかげで回復するポールだが、時折、拒絶反応が起こる。どうしてもドナーが誰かを知りたいポールは、調査会社を使ってクリスチーナを探し出した。最初は拒絶していたクリスチーナも次第にポールに心を開く。忘れる事の出来ない悲劇を何とかしようと、クリスチーナはポールにジャックを殺してくれとたのむ。

ジャックは、前科があり、更生をかけて信仰にのめり込んでいた。皮肉にもそんな時に3人を死亡させる事故を起こしてしまったジャックは、信仰も自分を救ってくれなかったこと、自分で答えを出す他ないことを突きつけられる。

証拠不十分で釈放されたジャックは家族を残して一人で生きようと家を出る。そんなジャックをポールとクリスチーナがやっと見つけ出した。3人が対峙した時、予想もしなかった悲劇が起こる。コラージュによって出現した予測不能の事態。“21グラム”では時間さえも切り取られてコラージュされる。その手法が(生と死)という永遠の問いを炙り出す

脳死臓器移殖は、日本でもコンビニで黄色いドナーカードが手軽にもらえる一方で、社会全体が認知したとは言い難い状況にある。医療というパターナリズムは貧富の非対称を温存する結果を生んでいる。貧者はドナーにはなっても、レシピエントにはなれない現実がある。たとえば野宿者や外国人労働者の臓器が売買されても、彼らが移殖を受けることはおそらく無いだろう。

移殖医療は脳死を前提とし、脳死は人工呼吸器を前提とする。脳死を「人の死」とするのは新鮮な臓器を取りたいからだ。生きたままの摘出が一番新鮮だが、殺人と言われたくないから考え出した恣意的な概念だ。

臓器移殖は機械論的身体観による「部品交換」の発想である。生命という未知を含む身体がそのような単純なしくみで維持されているわけがない。身体は「自己」と「非自己」を明確に認識する。拒絶反応はまさにその表現だ。他者の臓器を移殖して拒絶反応を押さえるために免疫抑制剤を使うが、それは感染症のリスクを高めることでもある。免疫抑制剤を減らすと今度は拒絶反応が起こる。つまり移殖医療は、どう転んでも病院が儲かる際限の無い集金装置ということだ。だから弱者、貧者が排除されるのは当然だ。“21グラム”はあたかも社会的に認知されたかのように語られる脳死臓器移殖が、結局、人間を救っていないどころか、命に支払われる大金と、使い捨てられてゆく貧者弱者たちという二極化した米国社会の様子がよくわかる。

さらに、つけ加えておくべきは個人情報のセキュリティの問題だろう。ドナーとレシピエントは、制度上では決して互いを知り得ない前提となっている。しかし“21グラム”では調査会社により難なく依頼通りにドナーに関する情報が暴露される。米国は社会保障番号という背番号が重要な個人情報のマスター・キーとなっている。日本の住基ネットみたいなものだ。公的に保障されているはずのセキュリティが裏社会で簡単に破られるのも、すでに日本の現実となっていることであるとともに、明日の日本の姿として米国社会の極端な二極化を読む必要がある。

ところで、イラク侵略戦争でイラク人10,000人以上、米軍800人以上の死者が出ている。10,000人のイラク人の死を理解するという耐え難い義務と責任を占領側の日本人は負っている。数字の無機的なイメージでそれらの死者を括るべきではないだろう。ひとりひとりの人生と死体を忘れる事は卑怯である。

映画は、ひとりの人間の生と死に焦点を当てて2時間程考えさせる。個人的な時間を共有するわけだ。私たちの日常が忘れたり無視したものに真剣に向き合う事が出来る。良質の作品との出会いははっきりと記憶されることになる。さまざまな生き方の人間が、どのような映画に出会うか(どんな映画を観たかは重要な事だ)で予測不能の効果が現われる。無限連鎖した情念が、無限に交叉して増殖してゆく…さまざまな可能性は多様性を認め、未知の理解、さらに寛容につながるはずだ。人間の、内省という好ましい特性をもっと評価すべきだ。

死ぬまでの、一回性のものでしかない貴重な人生を、他者が勝手に奪うなど言語道断である。正真正銘の殺人である脳死臓器移殖を(公認されたコラージュ)などとは言わせない。脳死体は、お産もするし、髪や爪も伸びる。移殖手術において激痛を感じている可能性も指摘されている。生きる者と死ぬべき者を都合良く名指す戦争や脳死臓器移殖を正当化するいかなる美辞麗句をも看破する生命観が必要だ。

「死に縁取られた有限な存在であるからこそ、人間は生を拡充させようとし、また相互扶助もうまれる…」バクーニンの言葉だ。

2004.6.11 高木

「眼球譚」

 

イラクで銃撃され死亡したフリー・ジャーナリスト橋田伸介氏の願いにより、銃撃で負傷した左目の手術を受けたモハマド・ハイサム・サレハ君(10)に同情が集まっている。全国から2000万円を超える募金が寄せられた。それ自体を批判するつもりは毛頭ないのだが、この国の義理人情扇動キャンペーンがマスコミ主導で行われる時、ほとんど成功するというパターンにいつも違和感を感じている。いわく「愛は地球を救う」などと… 

いったい、なぜモハマド君が失明しかけたのか、という原点を明確にしておくべきではないだろうか?この国が世界で何をしているのか、を棚上げにして、世界はこんなに悲劇に満ちている、あなたにも出来るセイブ・ザ・チルドレンなどと仕掛けられて、まんまとハマるのは単純すぎないか。提示された悲劇だけに反応してその悲劇の原因をとらえる視点を欠くなら、ただの現金自動支払機にすぎない。モハマド君は1人ではない。イラクで苦しむ無数のモハマド君への現実的な支援が必要だ。何よりも占領を止める事、占領の被害を補償することだ。

米国の独立調査委員会が9.11とアルカイダに関する調査発表を行ない、イラクとアルカイダが無関係だったことを認めた。要するにデッチ上げの理由で10,000人以上のイラク人が殺され、占領され続けているわけだ。こんな事があってたまるか!しかも日本は、どの国よりも早く攻撃を支持した上に、占領側に大金を献金、自衛隊3軍を派兵させている。こんな歴史的転換点がまるで認識されていない。

自国が加担するイラク占領と破壊を傍観しながら、日本に現われたモハマド君の左目の記憶に言及することなく、視覚障害だけに感情移入する都合良さには不快感さえ覚える。手術成功後にマイクを向けられたモハマド君の父親が「イラクについてコメントするのは政治的に非常に微妙な問題なので控えさせてほしい」と答えた。占領側の日本に来て、しかも国際感覚を欠いた日本人の「善意」で手術が可能となったのだから複雑な心境だろう。

「ジンドーシエン」を吹聴して宿営地にたてこもる自衛隊。イラク少年の目の手術に日本中から「ジンドーシエン」してやまない日本人。イラクの現実、イラク人の本音を伝えないジャーナリズムを軸にして身勝手なバランスが形成されている。端からみれば滑稽でしかないのに。

ところで緑内障と診断されて1年になる。眼圧が異常に高まり、視力が低下、放置すれば失明に至る疾患だ。視神経は一度つぶれると再生しない。早期発見が決め手だが、目は2つあるので補完し合うためになかなか自覚出来ない。人とぶつかってはじめてわかるケースさえあるという。「眼医者、歯医者が医者ならば、トンボもチョウチョも鳥のうち」と揶揄されてきたそうだが、恐れ多くも目は脳の一部だ。BSEの危険部位であることでも知られている。そして世はまさに視覚情報偏重文化だ。

強力な武器・兵器よりも情報を握った者が勝つ時代。視覚の優位を競った結果がAWACSや軍事衛星であり、今や世界大のパノプティコンが監視中なのだ。

視覚情報は瞬時に大量の情報を受けとることが可能だ。しかし残念ながら、そのすべてを論理的に把握することではない。テレビ全盛とラジオの衰退は、受け手の論理力を剥奪したのではないのだろうか。もしテレビが無くてラジオと新聞だけならば、小泉政権の急速な軍事化の実現は果たせなかったかもしれない。あの、脈絡を欠き、場当りで、意味不明な言説が国家を動かすなんて、どう考えても納得がいかない。ましてや女性支持者が増えたなど…

参戦後に鼻につくのはさまざまな危機を煽るキャンペーンだ。稀な事例を事さら大袈裟に扱って犯罪天国の野放し状態であるかのごとく表現され、それを繰り返すことで常態化を狙う。ビラをポストに入れるだけで犯罪になる程の潔癖な社会が、何の事はない国家大の犯罪にほかならない戦争に対しては合唱付きで付和雷同する有り様は、自国が加担する占領軍において大量虐殺や拷問の発覚にも異議申し立てが起きない社会ならではの事だ。ここではすでに戦争肯定がモラルと錯覚されている。戦争可能な体制づくりに視覚情報は欠かせない。論理的に整合しない情報を乱発しながら全体で都合良くコラージュさせる。もちろん、記憶はされないが潜在意識となるサブリミナルも駆使されるだろう。掛け声(BGM)は「ジンドーシエン」「コクサイコーケン」。

正解はひとつだけ、とされる社会はストレスを溜め込み、人間関係を破壊してゆく。必要なのは猜疑心とされながら。

攻撃性の強い生き物ほど、視覚を発達させてきた。猛禽類や、いわゆる猛獣と呼ばれる肉食獣を考えればわかるだろう。ある感覚が鋭敏なのは決して悪い事ではないかもしれない。だが、その分だけ他の感覚が鈍化したり、鋭敏さにあぐらをかいて思わぬ錯覚に陥り易くなったらプラスとは言えない。

イラクの「大量破壊兵器」を口実に始まった侵略・占領は、その大儀を失い、あせって「民主主義」を標榜したものの、内容は拷問・虐待にすぎなかった。混乱が止まらず、国連を頼むものの利権は手放したくない米軍の要請か、最初からの目論見か、はさだかでないが6月末の主権移譲に、憲法改正を飛び越えて多国籍軍参加を明言した日本。この期におよんでも「そんなバカな!」と口に出して言わないジャーナリズムはすでに死亡宣言を出したということか。

総じて、この国は論理と訣別したらしい。沈むと解りきった泥船に日本人は乗っている。ゆっくりと出航する船上では快適なクルージングを祝ってパーティが…これでは何やら米国製「タイタニック」の真似みたいで面白くない。そうだ、良いたとえがある。私たちは三菱の車に乗っているということだ。走行中いつシャフトが折れてもおかしくはない。でもそれまでは快適だ。地震列島に原発をたくさん稼動させ、身の程知らずの戦争国家を目指す。ひとりひとりは自分の事しか頭になく、行き先を知ろうともしない。加速する三菱。いつまでもつか…でもそれまでは快適だ。

 何年か後に眼科医モハマドがこうつぶやくだろう。「私に視力を与えてくれた日本人は自分たちと世界を見る視力に欠けていた」

2004.6.18 高木