ヒトラー最期の12日間
5人の幼子たちは深い眠りについている。だが楽しい一日の疲れが彼らの夢の世界を豊穣にしているわけではない。最も身近で最愛の存在である母親が、それまでにない厳しい態度で飲ませた睡眠薬のためだった。
全体主義というひとつの思想体系が帝国を創りあげ、そこにおける絶対的価値観は圧倒的な社会を築きあげた。だが優生思想により排除されたおびただしい弱者やユダヤ人の犠牲という土台が上部構造物の腐敗、崩壊を呼び起こすこともまた必然だった。
純粋や単一性を志向しても所詮、生物としての人間が複雑な存在であることを免れない。いくつもの確定、不確定要因が重なって第三帝国は終局を迎える。中庸や寛容を排除した分だけその末路は凄惨をきわめた。あたかも脆性破壊のごとく。
ゲッペルス夫人は、眠る我が子に近づき、小さなガラス製アンプルを子供の口を開いてくわえさせ、頭部と顎に力を込めてアンプルを砕かせる。処方された毒薬の効き目は確実で1〜2秒で死に至った。終始、表情を変えることなく淡々と5人の子供たちを殺害する光景。帝国の原理が夥しい犠牲を必要とする反生命にあったことは、それを体現するゲッペルス夫人をして、母すなわち死神という反転となって自滅するほかなかったわけだ。
数日前のゲッペルス夫人の言葉。「わたしはナチス社会以外で子供たちを育てようとは思わない」ファシズムの頂点を享受した者には、他の生が認められないことを覚悟する必要があった。帝国の終焉、すなわち己の死であることを。
ドイツ映画「ヒトラー最期の12日間」では、アウシュヴィツツ収容所やたくさんのユダヤ人の死体は出てこない。ベジタリアンで禁煙家の、もちろん反ユダヤ主義者、独裁者であるアドルフ・ヒトラーの(栄光ではない部分)が徹底的に描かれている。終始、手を震わせながら、時折、乱れた髪の毛をなでつけたり、八方ふさがりの戦局にいらだちながら、もはや荒唐無稽に等しい命令を大声でわめくが、部下には、梨の礫、糠に釘の有り様だ。鉄壁を誇った軍の統率はもはや完全に崩壊している。絶対の権力者が権力そのものを失ってゆく。精彩を欠いた中年男ヒトラーにもはや第三帝国総統の面影は皆無だ。
敗戦を予感して自殺する兵士も続出。酒と女の乱痴気パーティーに現実逃避する兵士もいる。ゆっくりと時間を費やし終局に向かう描写は、最高権力者ヒトラーの存在空間を縮小してゆく過程でもある。さまざまな命令系統が断たれてゆく。腹心の部下、忠誠を誓った部下たちが裏切ったり、あるいは名残を惜しみながら去ってゆく。残された最後の空間である地下室に愛人とともにこもり、銃声が…。
ナチズムはヒトラーに象徴されるが、もちろん一人の人間のものではない。ワイマール憲法下で選挙という民主的手段により国民が選んだものだ。日本の軍国主義が治安維持法などで強権を行使した時代も、もとをたどれば国民の選択ということだ。
映画に描かれなかったナチスの、言語を絶するさまざまな行為とその犠牲者たちは、日本軍が侵略したアジアのひとびとに重なる。60年経とうと100年経とうと、想像力の枯渇が容易に悪夢を再現することは言を俟たない。
以前、「ニュースの天才」という映画を紹介した。若手ジャーナリストが、長期にわたり記事を捏造した話だ。フィクションがノンフィクションになった。朝日新聞は8月30日「『虚偽のメモ』記者解雇」と題して朝日記者が総選挙に絡んで取材せずに虚偽の報告をして、その内容を含んだ、誤った記事が掲載されたことを報告。記者を懲戒解雇、東京本社編集局長を更迭など幹部処分したことを記事にした。だからすぐに朝日の体質が変わるわけではない。
すでに指摘したように日本の大手マスコミは腐敗をきわめ、権力との癒着により反権力的報道をしなくなって久しい。それがジャーナリズムの使命であるにもかかわらず、である。
有事法制、国民保護法などが成立し、99年以後、急加速する戦争国家化は大手マスコミを取り込んで大本営発表と翼賛報道のもとに、反戦平和行動に関して徹底的排除を繰り返してきた。そのため多くの日本人が知らない事件がある。
2005年7月12日、出版社鹿砦社松岡利康社長が逮捕された。鹿砦社はスキャンダル雑誌「紙の爆弾」を出版する。前身である「噂の真相」では森元首相の買春検挙歴暴露、小泉レイプ事件などの実績を持つ。
「最も大きな問題は、パチンコ・パチスロ業界が警察との癒着がきわめて強いこと。背景は1992年の暴対法。警察の狙いは20兆円産業のパチンコ利権と性風俗店利権。暴対法で、やくざを景品買いから排除、課税を容易にする名目でプリペイドカード導入、これら莫大な利権を警察が独占した。関連団体への天下りもある。この頃からパチンコ業界はさらに成長。今や30兆円産業になった」(「紙の爆弾」・2005.9 宮崎 学)
「お上に飼われているようなマスコミだけしか残さないという意思が、政・財・官・マスコミ界でかなり定着してしまった」
「問題は、こういった事態(逮捕)になったときに、大手メディアが全く応援しないこと」(「紙の爆弾」 斎藤貴男)
「日本という国は、あらゆる面においてウソを元に成り立っている。このウソを支えるのが記者クラブ」(「紙の爆弾」 新島 学)
今回の逮捕は、まだ起訴にもならない段階で、検察の独断で逮捕を裁判所に申請、それを裁判所も認めてしまっている。これが前例とされるなら、政府関係者等権力者の不正を追求する際、検察や警官がデッチ上げ、不当逮捕が横行し、言論弾圧が可能になる。
すでに反戦ビラをポストに入れただけで逮捕され、公園の便所に反戦と書いただけで懲役が求刑されている。何よりもマスコミがこれを重大と感じなくなっている。立川反戦ビラ事件も朝日のあるデスクは「どうせ過激派がやったんだろう」と取り上げることさえしなかったという。(後日、朝日は記事にしたが)
森達也は日本社会が思考停止したことについて指摘する。「いつ始まったかを僕は知っている。地下鉄サリン事件以降だ。不特定多数の市民を標的にしたテロ行為でパニックに陥った日本社会は、オウム信者に対するあらゆる非合法な操作や逮捕に対して見て見ぬ振りをした。その後遺症が社会を覆っている」(「おかしいぞ警察、検察、裁判所」 創出版2005)
現在の日本社会はファシズムであるとは多くの人は考えないだろう。しかし、平和憲法下で海外派兵が堂々と行われ、交替自衛官の壮行会、帰還歓迎会が日常化し、イラク侵略戦争に加担している現実をどれだけの日本人が自覚しているのか。また戦時下、銃後であることをまったく意識しないでいられるジャーナリズムの有り様にどれだけの日本人が気づいているのかという問題は、日本がどのような社会であるかを、はからずも反証しているとは言えないだろうか。無自覚、思考停止がファシズムの糧であるこをと忘れるべきではないだろう。そしてすでに日本社会が覆轍にあることも。 2005.9.2 高木
ディアスポラ・アート
共謀罪はまだ成立していないというのに、さまざまな市民運動弾圧がきわめて恣意的に行われている。こうした日本社会の、民主主義と対極の情況について内田雅敏弁護士は「仕事を探す公安部、それを制御できない検察、公安に御墨付きを与える裁判所、この三位一体によって人権侵害が作り出されている」(「おかしいぞ警察、検察、裁判所」創出版2005)と指摘する。またその情況に鈍感な翼賛的マスコミのおかげで、多くの日本人がそのような現実を知らぬままだ。こうして「異議申立て」をする人々がマイノリティ化されてゆく。ときには過激派とさえ名指されながら…。かって、オウムなら何をされてもしかたがないということで微罪逮捕、別件逮捕、冤罪さえも許してきた社会がポスト・オウムを物色する。いみじくも姜尚中が「日本人の在日化」と表現したそうだが、希少傾向の市民運動が、ますます周辺化してゆくことになる。
民主主義とは、間違っても多数決のことではなく、少数者の意見をも対等に聞くことであるはずだ。特に自覚無きファシズムである日本社会におけるマイノリティの表現は、貴重で重要な「異なる視点」であり、主流の誤算を覚醒させる可能性を期待したい。在日化されつつある立場として、いっそう共感し易くなったマイノリティの表現に注目しよう。巷に跋扈する、軽薄で存在を問うほどの深みに至らない、そして変化を嫌う保守的な表現を凌駕する「恨」のエネルギーに連なるために。
ほとんど知られていないアート・マガジン「ネオ・ベソル」Vol.4において徐京植が「なぜディアスポラ・アートを語るのか」という講演録を載せている。2004年末に京都市女性総合センターで行われたものだ。ディアスポラ・アートを徐京植は、支配的文化、主流の文化からみて周辺化されている人々のアートであるとし、一つの文化圏、言語圏から、他の文化圏、言語圏に移動してゆくのがディアスポラの特徴であるという。
在日コリアンの3世、4世が、なぜ自分達がここにいるのか、という記憶と無関係に存在出来ないこと。「いつか、どこか他から来たんだし、明日にはどこか他に行かなくてはならないかもしれないという不安定さのなかにいるのがディアスポラであり、その不安定さこそディアスポラ・アートの特徴」と語る。
ところで韓流とやらの、マスコミ仕掛けブームは、せいぜい朝鮮半島にも恋愛対象となる隣人がいることに気づかせたかもしれないが、歴史を切断した都合の良いイイトコドリであることは言うまでもない。なにしろ、日本を含む東アジアの近現代史をまるで知らない中年女性が、若者中心文化全盛の日本社会で引退を強いられていたところに、堂々とカムアウト出来る機会として煽動されたのだから。そんなわけで結局、日本と朝鮮半島の歴史認識が共有されることはなく、在日というマイノリティに対する見方が変化したわけでもなかった。たとえば、「ヨン様ぁーっ」と絶叫はしても、首相の靖国参拝をべつにわるいことと思わない(思えない)ような。それでもチョムスキー的に言うならば、少なくとも以前よりは韓国との関係は良くなっている、と書いておくべきかもしれない。韓国民主化闘争や在日の人々の努力が日本社会の差別を超えるエネルギーを持っていたということでしかないのだが。
徐京植がイラン人女性アーティスト、シリン・ネシャットの作品を紹介する。2000年光州ビエンナーレ大賞受賞作である。一方の壁にたくさんのイラン人女性が民族衣装チャドル着けて地面に座っている。向かい合う壁には男性たちの写真。観客はふたつを同時に見ることが出来ない。女性たちはチャドルのまま舟で海に漕ぎ出してゆく。単純なひとつの答えを出そうとせず、アンビバレンスな存在のありようを語ることがディアスポラ・アートの基本という。「自分は何者かと問うと同時に、なぜここにいるのかを問う。つまり、自分をここにいるようにあらしめた歴史を問うことを必ず内包している。ポストコロニアルな、植民地主義時代以後におけるアート」「しかし日本では、社会が植民地支配の記憶を抑圧し、マイノリティの歴史的起源の記憶を抑圧している。美術界でも絶えず(美術と政治や歴史は別)という図式化した言葉が語られる」
ディビッド・カンというアーティストの作品は、口に生の牛タンをくわえて、モーターオイルとケチャップと墨汁を混ぜた液で床の紙の上に書道のように描いてゆくもの。巨大な牛タンは重く、それだけでも苦行と呼べるものだが、彼の作品について徐は在日朝鮮人金夏日(キム・ハイル)が書いた「舌読」というエッセイに言及する。ハンセン病で目が見えず、指の感覚も失われ、舌で点字を読む。そうすると舌の皮が破れて血がだらだら流れる。しかし破れていることさえ自分には分からない。在日でハンセン病で強制隔離されたうえ、外国人登録しろと官憲がやって来る。なぜ自分がそういう状況にいるのかわからない。しかし、舌読で母国の歴史をはじめて知る。その喜びを、口からだらだら血を流しながら感じるというものだ。人間の強靭な「生」が咆哮する。なんとなく生きる多くの日本人は応答可能だろうか?このようなアイデンティティ、すなわち存在の根源を問う程の機会があるだろうか?精神のレベルにおいていかに日本人が貧しいか思い知らされる。歴史という根を失い、腐敗した汚水に漂うがごとく、昨日を忘却し、明日をも創造できないままに…。狡猾、背信、懐疑、隠蔽、不信、服従、諦観、盲従etc、モノが溢れた文化を裏側からのぞけば、こんな言葉が散りばめられている。思い起こせば1970年頃を境に思考が止まり、あるいは逆行し始めたように感じる。大人が子供化し、言葉が軽くなり、生存を懸けたほどの表現が急速に無くなっていった。以前なら、表舞台に立つことさえはばかられたはずの、小泉純一郎や石原慎太郎などが、ただ「わかりやすい」というだけで堂々と主役の座を占めている。そんな憂いはノスタルジーだと一笑するには余りの荒廃ではないか。では、別の言い方をしよう。なにやら、世の中騒がしくなっていないだろうか?それが内面の貧しさの反映に思えてならない。もし「豊かさ」があれば、静謐、静寂といった趣きが現われるはずだ。一日中、さまざまな騒音に翻弄される生活が、この国の思考停止と無関係には思えない。たとえば若者が登山をしなくなったのは、もしかしたら日常と精神の貧しさに安住しているからかもしれない。誰も情報を与えてくれない世界、山の静寂そして豊かさに、もはや耐えられないのだろう。つまり精神の貧困を自覚したくないということだ。だが自省、内省を欠いた暴走は、実はファシズムと相性がいい。こうして社会全体が異物を排除してゆく。話が飛躍するが、「脳死臓器移殖」という殺人は自分以外すべて異物という生物個体原理である免疫を機能停止せずには不可能だ。もちろん反自然である。これでわかるように本当は、すべてが異物であり、だからこそ豊かであるということだ。マジョリティが依拠する幻想こそ問われるべきだろう。
2005.9.9 高木
次のカトリーナ
「この国の民主主義は死んだ」9月13日、日刊ゲンダイは、大手マスコミが鈍感すぎて、もしくはわかっていても言うはずの無い見出しをタブロイド判見開き全面に掲げた。だから朝日、毎日、東京(中日)、読売、産経、日経などの読者はまだ民主主義の国と思っているかもしれない。いずれにせよ2005年9月11日を日本人は記憶することになるだろう。どのような記憶かは各人の思考に依拠するわけだが…。
世界という複雑系に、コンピュータ(二進法)を介して向き合うことが常態化したことと、多くの人が複雑なものを考えることを嫌い、単純でわかり易いものを好んで受け入れるようになったことが、コインの裏表のように思える。難しいことはわからないから専門家に任せればいいというわけだ。その結果、全体としてはかなり複雑化し、専門化したが、各個人は逆に幼稚化した。しかし専門家が本物であるか不明なまま白紙委任するのは危険極まりない。ようするに、あまりにも自分について無責任ということだ。
日本は、民主主義という観点からはきわめて特異な存在で在り続けた。個人の尊重、少数派と多数派の対等平等を標榜しながら、天皇制を維持すること、平和憲法と軍隊の存在といった矛盾は曖昧なまま連綿と続いている。そのような絶対的矛盾を孕んだままの社会は、本能的に論争を避ける傾向にあるだろう。そして論理的思考が次第に遠ざけられてゆく。保守的で変化を嫌う傾向は、それゆえに現実とのギャップが拡大するばかりだ。しかし「変化」にこそ本質があるために整合性を失ってゆく。時代からも世界からも孤立した社会の出現だ。
政治家の判断力、指導力は、リアルタイムで国民に検証されてこそまともに機能する。現実には同じ事は二度と起きない。さまざまな変化にいかに適応出来るかが問われる。もちろんなによりも人間の安全保障が最優先されるべきだ。変化は人為的なもの、自然現象も含めてである。同じ失敗を繰り返さないために、特に破局的な事件は徹底的検証が必要だ。戦争、大災害、大事故などである。検証過程の透明性確保が大切なのは言うまでもない。そして為政者と主権者が情報を共有することだ。しかしトップが責任をとらない日本社会はそのような構造や機能に無縁だった。異議申立てを放棄した民衆と無責任な為政者が均衡する。内外に暴力をはびこらせながら。
戦争体験をはじめ、さまざまなリスクから隔離、保護された温室育ちのU世、V世議員が国会の大半を占めたいま、彼らの貧しい人生経験と想像力がはたしてプロフェッショナルな政治を展開できるかという意味において、日本人は最悪な情況を迎えたと言える。なによりも彼らの多くが依存、羨望のまなざしを送る米国ブッシュ政権は、現在ネオコン路線がものの見事に馬脚をあらわした状態にある。天文学的軍事予算のために福祉を切り捨てた戦争国家は、世界一の戦争国家になったが、当然人命救助はもっとも苦手だった。自国民についてさえ、である。大型ハリケーンカテリーナ直撃についてリベラシオン(仏)が扱き下ろす。
「現地公共機関のひどい働きぶりは、連帯をも民営化することの帰結だ。メソポタミアの泥沼でもがくネオコン十字軍は、ルイジアナの濁流にもはまった」(05.9.10朝日)
他国に民主主義をもたらすために戦争をデッチあげ、あらゆる最新鋭の兵器を投入して大量虐殺を平然と行う米国が派兵する兵士は最下層の貧困に喘ぐ若者たちで、軍事優先、金持ち優遇政策のため、支配層である白人は家族を失う悲しみとは無縁だ。格差の拡大した社会では天災も人災も下部貧困層が受け持つしくみというわけだ。
ニューオーリンズ市の避難命令は車による移動を前提にしたものでその時点で車のない貧困層は見殺しにされた。そもそも市街地が川や湖より低いというオランダ状態にあった。形だけの堤防の強度は低く「想定外」のカトリーナの訪問に扉を大きく開いて歓迎するはめになった。カトリーナの情け容赦無い振る舞いは9.11以降隠蔽されてきた「家庭内不和」を思い切り世間に晒すはめになった。もはや隠しようのない死体の山、耐え難い腐臭、差別と貧困は、それまで傲慢だったブッシュ政権を震撼させるに充分だったが、表向き深刻なブッシュとは裏腹にカトリーナの復興事業を、チェイニー米副大統領関連のハリバートンなどブッシュ政権関係の会社が受注している。イラク戦争の軍官産の利権構造が自国の災害をも食い物にするわけだ。なにしろその規模は数千億ドルとされる。支配者にとって弱者の痛みとは、と場の悲鳴ほどのものだ。構う事はない。無視すれば美味しいステーキが待っている。
アスベスト被害の責任を認めた日本政府や企業が、除去作業で儲けようとする姿と何やら似てないか?ところで、米軍再編も日米軍需産業と国防族にとって美味しい話だ。安倍晋三、町村外相等と三菱重工、久間、額賀、石破といった元防衛庁長官経験者が、6兆円と言われるMD(ミサイル防衛)推進で利権を狙う構図がジャーナリスト野田峯雄によって暴露された。(週刊金曜日2005.9.2)
対米追従以外の選択肢を放棄したかのような日本の自民圧勝の選挙結果を、米国は暗闇に光明を見出したように感じているにちがいない。共謀罪をはじめ憲法改正に至るレールが敷かれたわけだ。これまで以上に米国からの要求が、量、質ともに増すことは明白だ。
イラクは内戦一歩手前の雰囲気であり、情勢悪化がサマワだけ別にする理由は無く、むしろ対米感情悪化で属国日本の敵視は深まるばかりだ。
「22日朝、宿営地フェンスから監視カメラ10数台が撤去され、カメラは黒い鞄に入れられて宿営地近くの砂漠に放置されていた。サマワの自衛隊広報は、安全にかかわる事項なのでコメント出来ない、としている」(05.8.29朝日)
「人道復興支援」という言葉の意味は一体なんだろう?
そもそも監視カメラは、(見る者)と(見られる者)というアンフェアな対立構造を生み出す。イラク人がその関係を拒否したわけだ。人道ではないということだろう。
小泉政治は、(支配する者)と(支配される者)を生み出す。もちろんアンフェアだ。これまでは中間に野党という曖昧なグレーゾーンがあったが、これを排除するため今回の選挙があった。格差社会の明確化である。流行り言葉なら勝ち組と負け組ということだ。
勝ち組の陶酔は、おそらく自家中毒を招くことになるだろう。カトリーナが訪問した米国社会は明日の日本の姿だ。国の借金1000兆円、巨大地震、アスベスト、石油不足、食糧難、原発事故、ほかにもポスト・カトリーナが無数に控えている。単純な利益誘導型の政治が、さまざまな変化に柔軟に対応出来るわけがない。ましてやダメージが勝ち組に及ばないと考えるならあまりにも愚かだ。ともかく独裁政治と弾圧がはじまる。選んだのは国民だ。
2005.9.16 高木
常識と非常識、日常と非日常
毎月の医療費に泣かされている。病院と薬局が分離した、いわゆる医薬分業になって明らかに高額負担になった。医療改革とやらの向こうに米国型の極端な格差社会が見えてくる。このまま行けば確実に貧乏人は医療から排除される。そんなことを考えて苛々しながら薬局で順番待ちをしていると、壁に貼られた子供向けポスターが目に入った。カラフルな動物がたくさん描かれていて「まちがいさがし」とある。絵のなかの間違いを探せ、というものだ。本来、そこにあっては不自然な動物を見つけるのだが、たとえば不自然なものばかりの世の中の「まちがいさがし」ならおかしなことになる。「まともなもの」を見つけ出してつまみ出せ、ということだ。今の日本で「不審者」を排除するようなものではないか。たとえば「反戦」などと口にする非国民みたいに…。
最近静岡の、活況をうかがわせる魚屋で、大きな看板に墨の手書き文字で「ミンクくじら、さしみあり」というものを見つけた。そういえば以前、この魚屋の「イルカあります」という看板も記憶にある。欧米人が見たら目を剥くだろう。グリーン・ピースなら攻撃するかもしれない。でも、よく考えれば牛や豚を食うことだって同じことだが…。この魚屋の常連は、久し振りのミンクくじらに舌鼓を打ち、今年もイルカのシーズンが来た、と季節を感じるだろうがそれ以上考えることはおそらくないだろう。
日常とはあえて意識しない時間と空間ということかもしれない。当り前と思いこむことで当該グループ以外の人が見たら仰天するほどの非常識や馬鹿げた事が簡単に日常化してしまう。そこにおいては自然なのだ。ならば日本の異常に気付くのは、考える事、感じる事を止めてしまった日本人より、外国から来た人たちだろう。
「ニホンゴワカラナイ」20代のかわいいフィリピン女性がはにかむように答えた。1歳くらいの子供は日本人とのハーフに見える。「NO WAR」と英語で説明すると「アア ワカルワカル」と言いながら反戦ビラを受け取ってくれた。他にも中国人らしきグループが「ニホンゴワカラナイ」と答え、ブラジル人か日系ブラジル人らしき人もたくさん通り過ぎた。銃後の日本は決して単一民族社会ではなく、浜松は多様な人々が存在している。9.24世界同時反戦行動デーである。浜松駅前、市民の木のプラタナスの広場で10人程のメンバーがイラク反戦アピールを行った。「反戦」の文字やグラフィックを一瞥するなり視線をそらして足早に去ってゆく人々が圧倒的に多い。イラク派兵中の日本はまぎれもなく戦時であり、銃後なのだ。異論・反論を、もともと許容しない社会がいっそう不寛容になった。他人の顔色をうかがいつつ生きる人々がそんな空気を感じ取るのか、反戦という文字や言葉にあからさまな拒絶反応を示している。自分で考える前に他人を気にする。皆と違っていてはいけないから批判を避け、孤立を避ける。かくして主流がいかなる方向を目指そうとも、その中にいることで安心する社会。しかしイラク侵略戦争の嘘をデッチ上げ、バレた今も撤退せず居座り続ける当の米国でさえ反戦デーにワシントンで10万人以上が参加したという。民主主義をイラクにもたらすために大量殺戮を強行する米国に、「もし北朝鮮から攻撃されたら守ってもらう」ために経済的、人的に全面協力する日本のイラク派兵についてマスコミがほとんど触れなくなっているのは「人道復興支援」の論理的破綻と、高まる一方のイラク人の反日(反自衛隊)感情で宿営地にひたすら固まる以外にない現実を知られたくないということだろう。それにしてもこの国のジャーナリズムは異常だ。翼賛を絵に描いたような情況は世界中でおそらく日本独自のものだろう。60年間かけて戦争から何も学ばないという、およそ民主主義社会では困難な事を達成した国である。ものの見事に轍を踏むその姿を、あろうことか自覚も批判もせずにながめるだけのジャーナリスト、知識人(と呼ばれる輩)の顔は、もはや人間の表情ではない。もちろん受け手の側もそれに対応しているのは言うまでもないが。批判的思考で情報を見るメディア・リテラシーの欠如に危機感を抱いた金子勝とアンドリュー・デウィットは「メディア危機」(NHKブックスNo.1031 2005)を著した。
「構造改革」対「抵抗勢力」といったわかりやすい二分法は、人々を思考停止に陥らせ、重要な論争点が別にあるにもかかわらず、ある種のすり込みを可能にする。
そして、米国のメディアから批判的思考を追い出したのは、人々をセキュリティ意識や不安へと誘導する恐怖政治で、見えない敵によるテロの脅威をあおることで反対意見を沈黙させるのに非常に効果的であり、その手法は小泉政権によりまるごと日本で実行されている。道路や橋といったインフラに「テロ警戒中」の看板が、もうすっかり定着してしまった。誰も違和感を抱かないのだ。このように見えない敵はまことに都合がいい。また、政権が自らに不都合な場面において、別の大きな話題をことさら大きく報道して問題をすり変える方法が米国でも日本でも行われている。プロパガンダを多用し、批判を許さないスローガン政治は、たとえば「善か悪か」のどちらかに強制される。二分法はわかりやすく、説明をする必要もないように錯覚をおこす。こうした手法は戦争のプロセスにおいて最も効果をあげることは、米国と日本が戦時国家であることで明らかだ。そして集団や組織のある特徴だけを論理的脈絡抜きに拡大コピーして、全体に置き換えてしまう「ステレオタイプ」思考があり、思考停止をさらに補強する。ステレオタイプが劣等感や優越感と結びつくと国内に差別をつくり出し、国外ではナショナリズムと攻撃性に転化する。(典型的には石原慎太郎)
「日本ほど、自身と他者のステレオタイプを大量に呼び込み、同時に生産した地域は、おそらく世界中どこにもないだろう」(メディア危機)
極端な格差社会において、メディアは安全策としてステレオタイプに依存するようになってしまう。そのほうがたやすく受け入れられるためだ。
「常識こそが(アインシュタインが主張したように)実は問題なのだ。実際、常識ほど人々が同意しがちになり、それを追認するように見える言説に好意的になりやすいものはない」(メディア危機)
少し前なら、ジャーナリストが当然察知し得た危機がすでに日常化、常識化してしまった。話題にする必要も失われたわけだ。「まちがいさがし」が「正解さがし(もしくはたたき)」になってしまった。ジャーナリストの世代交代や未熟さも、危機を危機と認識しない社会に役立っている。アドルフ・ヒトラーとナチズムに世界が震撼してから60年。反面教師だったはずの「わが闘争」が、なんと反転教師と化した。「大衆の理解力は小さく、忘却力は大きい。熟慮より感情で行動を決める。彼らが望むのは、肯定か否定か、正か不正か、真か偽か、のわかりやすさだ。短い言葉と繰り返しが必要だ。大衆は愚鈍だから小さなうそより大きなうそにだまされやすい」(ヒトラーについて 05.9.26朝日)
ブッシュ大統領、小泉首相、石原都知事らについて批判が無いわけでは決してない。問題は、それにもかかわらず圧倒的多数の支持があり、まるで天敵を失ったように「民意」という全体主義の増殖が止まらないことだ。
2005.9.26 高木