ハッピーエンドではない

 

年末年始の新聞やテレビは毎年同じパターンを繰り返すのが当然のようになっている。(悪いニュース)をなるべく排除するのだ。波風立てず、年末と正月を治めようとする意図が透けて見える。「形式」を重視する日本ならでは、ということか。だが、一部には本来のジャーナリズムが機能し続けている。信濃毎日20051230日朝刊は、小泉政権が最も隠蔽したい内容である連載記事の終章を載せた。腐臭極まる翼賛ジャーナリズムの流れに抗して孤高のプライドさえ感じられる。要旨は以下の通りだ。昨年6月、サマワの陸上自衛隊宿営地で30数人から60数人が高熱、嘔吐、下痢の症状を訴える隊員が相次いだ。レポーターであるフォトジャーナリスト豊田直巳は、ニューヨークで似た話を聞いたことがある。米軍憲兵としてサマワに駐留したマトス軍曹(39)の話だ。下痢は収まらず、次第に偏頭痛や手のしびれ、吐き気、めまいに襲われた。マトス軍曹ら憲兵隊の4人から尿検査で劣化ウランが検出された。イラク戦争では500トンから2200トンの劣化ウラン弾がイラク全土に撃ち込まれた。豊田はサマワで抵抗力が落ち感染症にかかる子供が急増し、身体に異常がある赤ちゃんの出産が相次いでいることを知る。湾岸戦争症候群の米兵の治療にあたり、現在も劣化ウラン汚染調査と被曝者治療を続けるアサフ・ドラコビッチ博士は豊田に「自衛官のほとんどが劣化ウランに汚染される。自衛官もサマワの人々も汚染から身を守る手段はない」と言い切った。小泉首相は昨年9月の答弁書で、活動地域に劣化ウランが存在しても大量の放射能を浴びたり、粉塵を吸い込むとは考えにくいと認識。帰国後も自衛官の尿の劣化ウラン検査は行わない、としている。「人道復興支援」はこのような非人道的実態なのだ。そして報道とはかくあるべきものだ。

考えてみると「死を隠す文化」と「なんとなくハッピーエンドを求める傾向」に関係が在るような気がしてならない。誰でも不安や否定的要素が好きになれないのは当然かもしれない。にもかかわらず、名作とされる文学、名画とされる映画には悲劇が数えられないほどある。多くの人にハッピーエンドが好まれるのと逆なのだ。フィクションだから本当のことを描いてもいいのかもしれない。本当は私たち自身が演じているのが悲劇であることを知りたくないということか。世界には明日がある、と誰もが思いたい。自明とされるその部分に「知りたくない何か」がありそうだ。

「人類は絶滅する」(マイケル・ボウルダー 朝日新聞社2005)が年末に出版された。「地球は過去に何度となく環境異変に見舞われ、多くの生物種が失われた。しかし、利己的な種の振る舞いが原因で生物多様性が損なわれるなどという事態は一度として起こらなかった。

著者は英国の古生物学者。地球上の生物を一個の複雑な系(システム)として把握し、その系がどのように生き延びてどのように変化するかをインターネットを通じて膨大なデータベースを解析する対話式プログラムを開発した。過去数千年にわたり生物の大量絶滅が進行している。何気ない日常風景が実は破局をめざしているということだ。そして人類の破壊的振る舞いがすでに一線をこえているという。

(発生し、拡大して、最大となった多様性が最後に収縮に転じる系)は地球、生物種、政府、帝国、ビジネス、ファッションといった制度もおなじパターンに従っている。だが、人間は自然の系の中に存在する人類の役割と人類が及ぼしている影響についてやっと考えはじめたばかりだ。自身とそれが参加する系についてあまりにも無知のままだったということだ。

ライエルとは逆の「過去は現在を理解するための重要な手がかり」というキーワードにより考察する。生物の進化は地球生命系の内部からコントロールされている。そして「物語の結末は、ハッピーエンドではない。しかも、私たちはその結末を変えることなどできそうにない」

サンタフェ研究所、ペア・バーグ博士の「砂山」思考実験に注目。地球を円錐形の砂山と仮定、すべて同じ大きさ、同じ重さ、同じ性質の砂粒を一定の速度である高さから落としつづけると、砂粒は円錐の形に積み上がる。そしてある一定の高さまでくると斜面のあちこちで小さな崩落が始まる。ただし、一挙に崩落することはない。砂山自体が一個の系(システム)として円錐形を内部から維持する力が働くからだ。円錐であろうとする力と崩壊する力の微妙な拮抗がある。そんな脆弱なバランスで地球が存在しているのに、人類がこの砂山を足で蹴って崩しつつあるのが現在、ということだ。しかも自分が何者で、自分を含む世界がどこに向かうのかさえ無関心なまま。

2100年において、地球の生物多様性がどのような状態にあるか予測するプロジェクトに全世界の18の研究所の科学者が参加している。彼らの主張によると、人類による土地利用の変化が唯一、最大の脅威であり、気候変動、硝酸肥料による土壌汚染、外来種生物の移入が追い打ちをかけ、大気の二酸化炭素濃度上昇が最後のとどめをさす。また熱帯雨林伐採による農地転用、地中海周辺国の自然破壊が脅威である。さらに1972年以来指摘されている新たな氷期の到来がある。北大西洋コンベヤーと呼ばれる海洋循環の系と太平洋の海洋循環の系が変化すればその可能性が生まれる。地球規模の人為的温暖化がメキシコ湾流の北上を妨げれば、気温はえんえんと下降し続ける。さらにヒマラヤの氷河が融けつづけている。その真水が湖をつくり、決壊して失われ続け、2035年までに消滅するとされる。それ以後は南アジア数十億人にとって地獄の乾燥が待つだけだ。もはや止めるすべはない。そして、グリーンランドの氷河も融けている。ここの氷を真水に換算すると地球の海面を6m上昇させる量という。他にも南極大陸がかってないいきおいで融けている。世界中の人口集中域は大半が海岸や河口であることを考えると海面上昇が何をもたらすか容易に想像出来るだろう。冷水塊の大量流入で海流の変化が気候変動をもたらすことも当然考えられる。2001年、世界63ヶ国の平和アカデミー研究者が「地球規模の気候変動とその動向」の声明を発表。それによるとこれから100年のあいだに地球表面の平均気温が摂氏1度から6度確実に上昇する。また今後100年海水面が上昇し続け、地域によっては多雨、渇水現象が起こりやすく、農業、健康、水資源に多大な悪影響をもたらすという。

「私の知るかぎりでは、人はその人自身と、その人に近い親族のことにしか関心はないのである」

30万年前から8000年前の化石標本を解析した結論は、人類がまさに絶滅事変の真っ只中を生きているという事実を示しており、その標本は哺乳類の科の約3分の1がすでに絶滅していると語っている。さらに現在進行形で起こっている大量絶滅の原因は現生人類にあり、最終氷期の末期から始まっている」(M・ボウルター)

最新の科学がさまざまな分野を越えて連携し人類の絶滅を立証した。ハッピーエンドではないのだ。人間だけが特別なのではなく他の生物と同様に進化、繁栄し、衰退して消えてゆく。しかし重要なのは、地球史や生命史にとって人類史は一瞬にすぎないことであり、そのうえで人類史が生命系の一部を成すということだ。

地球史を1年のカレンダーとすると、11日午前0時地球誕生、710頃真核生物登場、927日多細胞生物登場、1118日「カンブリアの大爆発」生物の爆発的多様化、1123日魚類出現、1128日生物の上陸、1226日午後817分小惑星落下で恐竜、アンモナイトなど大絶滅、1231日午後1137分現在の人類(ホモ・サピエンス誕生)、午後11595920世紀が始まり終わる。この1年間に5回の大絶滅があった。日常感覚で自暴自棄になるような愚かな反応は不必要だ。だが人類や文明が永遠に続くなどと幻想を抱くのは愚か者の証拠でしかない。「地球規模で差し迫った危機」が人類共通の前提ならば、目をそらさず、そこからフィードバックして優先順位を考えるべきだろう。戦争などに大金を使っている場合ではあるまい。「戦時体制」が奪う自由と知的可能性は莫大なものだ。見渡す限り死屍累々、大量の札が風に舞う光景がわれわれの到達点では情けないではないか。ともあれ、なんとなく世界はハッピーエンド、などという幻想は捨てよう。モラトリアムは終わった。誰もが死から逃れられないように「終わり」を自覚することが有意義で現実的な「生」の創造を可能にするはずだ。それは「見えないもの」の復権でもある。質の高い極上の悲劇のための美学を構築すべきだろう。

2006.1.7 高木

日米地位協定

 

世界の嫌われ者米国が、アジアで世界戦略拠点として何としても確保したいキャッシュディスペンサー付きの快適な基地列島とは、言うまでもなくアジアの嫌われ者日本のことだ。横須賀基地に原子力空母ジョージ・ワシントン配備計画、また神奈川県キャンプ座間に米陸軍第一軍団司令部の改編移転計画が進むなか、米海軍横須賀基地所属米兵ウイリアム・リース容疑者による強盗殺人事件が起きた。殺害された佐藤さん(56)の顔や頭に十数カ所の傷があり、肋骨が6本折れ内臓破裂状態。ビルの階段から突き落としたり、踏みつけたりしたとされる。「米軍再編」の政治的に微妙な時期に起きた日本人を守ってくれるはずの米軍の存在理由を根本から問う事件は日米両政府にとって早期解決を要求されるものだった。「ウイリアム!貴様ァーッ、世界中が反米、反基地に傾くなかで日本がどれだけ貴重かわかってるのかァーッ」と上官が容疑者を罵倒してブン殴ったにちがいない。過去の米兵犯罪が「日米地位協定」の壁に阻まれて被害者泣き寝入りが繰り返されたケースが多かったのに比べ、異例の早期決着が計られようとしている。司令官を始め、たくさんの米軍高官も葬儀に参列し、涙を流して詫びるシーンもあったというが、今回に限らず、ハワイ沖練習船撃沈事件のワドル艦長の涙にしても米軍はきっとハリウッドに依頼して演出しているはずだ。そもそも一人殺したくらいで涙流してたら戦争なんか出来るはずないからだ。肉を切らせて骨を切るということであり、大事の前の小事でもある。事件発生5日目にしてラムズフェルドの決裁により、容疑者は神奈川県警に引き渡された。横須賀署の会見で容疑者が「正直言って理由はない。自分は貪欲だから金を取った」(06.1.8 中日)と供述していることが発表された。8日付中日、毎日によれば、地元出身の小泉純一郎首相は事件後、記者会見で「日米地位協定の見直しはしない」と語った。この言葉に関係者は怒りを隠せない。

日米地位協定とは「在日米軍の法的地位や基地の設置使用などを定めた政府間協定。1960年発効。米軍の円滑な行動を確保することが目的。原則的に日本の法律は不適用。関係自治体は見直しを求めている」(06.1.8 中日)

琉球新報社がスクープした外務省機密文書をもとに、日本における米軍の行動、基地使用、米兵犯罪取扱い等の実態を検証、地位協定の拡大解釈を繰り返す日本政府の「対米従属」を暴いた「日米不平等の源流」(琉球新報社・地位協定取材班著 高文研2004)が指摘するように、在日米軍の治外法権を確保するための矛盾と無視と隠蔽を繰り返す現実は、沖縄においては周知の事実であったが、本土において上記のような犯罪犠牲者が出ないかぎり、自らの問題としてとらえられたことはなかった。「他人事」でしかなかったわけだ。

以下は「日米不平等の源流」要旨である。「9.11」以後の警備強化で在沖米軍基地の民間人である日本人警備員の銃携帯(?!)が拡大された。「思いやり予算」は年間2460億円(2003年)、このほか日本政府の駐留経費負担額は6600億円。累計は3兆円近い。地位協定では米軍の「排他的管理権」を認めている。基地への立ち入り、国内法適用を阻む強大な特権だ。これにより基地を「免法特区」として容認している。核持ち込み容認、潜水艦の潜水非掲旗による領海内港への入港は国際法に違反するが、これも容認。基地外では重量オーバーで通行不可の米軍戦車を通行可能にしている。米軍人、軍属、家族の出入国は旅券も査証もいらない。事実上の武器輸出を可能にし、「武器輸出三原則」を反古にしている。また、米軍は法人税、所得税、地方税、都市計画税など免除。「非核三原則」が国内法の「制約原則」として機能するが、それでは「軍隊としての機能を維持できず、任務を遂行しえない(外務省)」ために「適用除外」する。米海軍調査部による日本国内での米兵、日本国民の反戦活動家の身上調査も「問題ない」としている。

「独自外交のない対米追従を批判する野中広務元官房長官は『おかしいじゃないかという国民的世論も日本では出てこない。それが一番の不幸だ』と嘆く。また『日本ではアメリカが心配するほど、占領政策が成功している』と指摘」

地位協定の主眼は米兵の人権を最大限に守ることにある。日本のある研究者は米国防総省当局者から「米兵は日本を守るために時に血を流す。地位協定が米兵を保護するのは当然」と告げられた。米政府は日本の刑事司法への不信感があり、「代用監獄」の密室での取調べが自白強要につながり冤罪を生むとの弁護士連合会の認識と皮肉にも重なっている。

米軍人の私有車両(Yナンバー)が車庫証明を免除されている問題で照屋参院議員が政府を追求すると、警察庁の担当者が「県民から訴えがなかったから、取り締まらなかった」と答え、照屋氏をあぜんとさせた。

98年、第一次嘉手納基地爆音訴訟が確定。賠償額は151000万円。横田・厚木の各訴訟を含めた総額は252000万円。米側はかたくなに拒み、未払いのまま。日本政府が肩代わりして全額を税金で払っている。在日米軍司令部は「判決の当事者は原告と日本政府だけだ。原告は日本政府によって十分補償されるべきだ」と述べている。

沖縄は米兵犯罪が年間100件を超す。1972年から2003年までに全刑法犯は307,003件にのぼっている。(本土で一人殺されるくらい何だ!)

1973年外務省の無期限秘とされる機密文書「日米地位協定の考え方」によると、「米軍のもくろみ通りの際限無き拡大(前田哲男東京国際大教授)」を自ら示していた。米側に言われるままに「思いやり」が拡大し、現在では、特別協定で、労務費、米軍人らの光熱費なども負担している。米軍属夫婦が毎年23週間里帰りや旅行で留守になる際、メイドの日本人が冷房をつけっぱなしにしておくよう指示される。理由は(カビが生える)ということ。「米軍にとって安上がりな思いやり予算が基地機能強化に手を貸し、沖縄の大規模駐留を支える役割を担う」「在本土の米軍基地を前提にした地位協定を沖縄基地に適用するといろいろな矛盾が出て、基地の運用がままならなくなる。その対応に苦慮し、解釈集となる『日米地位協定の考え方』をつくった。それでも足りない部分を10年後に見直し、『増補版』として強化している」

「日米地位協定は実質的な基地の自由使用協定に近い」「住民の生活を侵害しても米軍の自由使用を認めるという日本政府の基本的立場を表わしている」と伊波市長が断じる。「地位協定の改定が進まない最大の理由は、全国の無関心だ」稲嶺沖縄県知事が指摘する。自分や身内が殺されたり、レイプされないと日米地位協定の意味も理解出来ない日本人が多いということだ。好むと好まざるとにかかわらず、自分が住んでいる国が国際情勢にどのようにかかわっているか、について無関心であることは、たとえばその国が侵略という行為に加担しているなら、侵略を容認することであるのは自明だ。そもそも国民国家が自発的に民主的行動に出ることはあり得ず、その意味で反民主的な白紙委任を与えてしまうことに他ならない。

「自衛隊派遣基本計画の基本方針のなかに、日本がイラクに出兵する理由として(石油資源の9割近くを中東地域に依存する我が国を含む国際社会の平和と安全の確保にとって極めて重要)という文言がある。イラク出兵の日本との利害関係が具体的理由として述べられているのはこの文言のみである。/イラクでの人道復興支援は究極の目的でなく、石油利権を確保するための手段ということになる。/事態を正確に表わすとすれば、イラク出兵は人道復興支援ではなく、石油利権の確保のための侵略戦争支配である」(『多様性の全体主義・民主主義の残酷』小倉利丸 インパクト出版会2005

「対テロ戦争」を米国が世界に宣言・展開し、日本もまたそのキャッチコピーを国内に導入している。米国と日本の政権に反対するすべてのものがテロリストと名指される戦争だ。イラク侵略が大嘘で始められたことがバレても身じろぎもしない傲慢ぶりは、日常を戦争体制化し、国内外に非戦闘員の犠牲者をうみ続ける。佐藤さん殺人事件の早期解決というプロパガンダは、日米の対テロ戦争がさらなる犠牲者をうむためのフェイントにすぎない。戦争体制こそが犠牲者をうみ出すことを自覚すべきだ。                       2006.1.13 高木

God damn

 

Jesus!」「Oh my God」「God damn」公共の場では使われないこれらの言葉は、それゆえハリウッド映画で多用される。映画が私的で日常であることを強調したいからだ。それにしても日常会話に「神」がひんぱんに登場するのは、その文化が宗教に拘束されていることのひとつの表れだろう。自爆攻撃の際に「アラー、アクバル」(アラーの神よ、永遠なれ)と叫ぶのも同じだ。最新の科学と高度な技術が展開する先進国は客観性が重視される社会で宗教色などほとんど感じられないが、中東やアジアの国はその対極にある、という見方は間違っている。なぜなら科学は宗教を超越していないからだ。

19世紀までは現在のような制度化された科学(客観性、再現可能性)がなかった。人間の活動が拡大し、物理的、精神的に巨大な空間と時間に関わるようになって、公共性を確保する必要性が生じた。

「徐々に真理に近づく科学が社会に認知されたのは、キリスト教の影響。キリスト教も『真理は一つ』であり、(神=真理)が、科学では(客観=真理)になった」(『科学とオカルト』池田清彦1999文春文庫)

池田は「公共性」が伝達の必要性から「記述」を求めるが、「記述」は個々の主観であるため公共性を持った客観が主観から独立することはあり得ない、という。

さらに、「自然」は予測不能であり、人間によるコントロールが不可能、自然はもともと時間を含み、常ならざるものであるため、それを時間を含まない不変で普遍の法則で説明できるわけがない、とする。

およそ、世界は解明されつくし、語りつくされたとする科学万能の立場は、単なる錯覚にすぎないわけだ。科学ももうひとつの宗教とさえ言える。科学が見い出したものとは、ほんの少しの説明可能なものと、以前よりも増えた科学で説明不能なものだった。しかし科学的アプローチや客観性をないがしろにしようという話では決してない。方法論に選択の余地はなく、その上で、答えはひとつではない。

科学とエセ科学、もしくはオカルトとの境界は曖昧だ。今日の科学的常識が、明日も通用する保証など無いに等しい。大地は微動だにしないと思われていた頃、大陸移動説(ウェーゲナー)はバカにされた。現在では小学生でも知っているし、大陸をのせた岩盤自体が液体のごとく対流(プリューム・テクトニクス)していることもわかっている。動いて当然の大地に動くと危険な原発を建てるバカがいるが、この思考はすでにオカルトとしか言いようがない。科学ではないのだ。書店の自然科学コーナーに難解な専門書に混じって真正オカルト本が並んでいる。ここに世論のありようがメタファーとして表現されている。たとえば江本の水の結晶の話(サンマーク出版)などが典型だ。特徴はわかりやすい事だ。一見、科学を装うこれらの書物が根強く生き残る理由は、わかりやすさでだまされる読者層だろう。科学の専門化は世間との乖離をを意味する。わかりにくい意味不明よりもわかりやすいものが好まれるのは当然だ。その読者が科学と信じれば彼らにとってはまぎれもない科学だ。そんなオカルト本を含めて世間における科学が成り立っている。健康食品や民間療法は科学とオカルトの両方に整合するため、科学とオカルトが混在する世間に受け入れられるのだ。

知人の女性が表情と体型が一変しているのに驚き、問いただすと、ある日突然、高熱が出て病院でも原因がわからないまま寝込んでしまったという。自分でも思い当たる事が無かったが、10日程、経って、夫の身内が自殺したことを初めて聞かされ、唖然としたという。本人と娘たちは、普通ではない体質をあらためて思い知らされた。過去にも何回か同様の出来事があったからだ。身近な人の身体の異常やその結果としての死を「言葉」として聞く以前に身体が察知して異常な反応によって表現してしまうのだという。信じ難い話だが、2週間で10kgやせて、蒼白の顔で目の前に立つ本人を否定する材料はどこにも無かった。よく通った書店が昨年閉店したが、奇しくもその店主の話だったことも話を身近にするものだった。

ブッシュ米大統領が「キリスト教徒しか天国に行けない」と真顔で口にする程、敬虔なクリスチャンであることは衆知の話だが、その米国が「進化論」を嫌ってきたことはそれほど知られていない。神がこの世をつくったという「創造論」が永いこと支持されてきたが、今は、神という言葉を避け、生物誕生は、何らかのインテリジェント・デザイン(ID=知的計画)があったとする主張が出てきた。神と言わないだけの「創造説」との批判もある。87年に最高裁が公立学校で「創造説」を教えることに違憲判決を出したが、「ID」という呼称で浸透しようとしている。

058月、ブッシュ大統領が進化論とIDの双方を学校で教えるべきとの見方を示した。/IDの拠点シンクタンク、ディスカバリー研究所の広報担当は『生命誕生の謎に答えられないなど進化論には穴がある。その弱点を含めた論議が必要』とする。/米国では54%の人がこの世を神が造ったと信じている。キリスト教右派が根を張る米国でIDの広がる素地はすでにある。/ペンシルベニア州ドーバーの選挙では(共和=ID推進派)、(民主=反対派)とはっきり色分けされた」(20051214朝日)

「日本は神の国である」と公的に発言する政治家もいる。信教の自由は憲法の保証するものだが、同時に政教分離も規定する。しかし、現実には神も仏も出る幕がないようなこの国で宗教が話題になるたびになぜか現世御利益がまかり通るのが胡散臭い。

「日本は多分、世界で最も美しい国であったと思います。その自然がもう過去のものになりつつあります。/要するに日本人、愛情が無くなったっていうことです。いいですか、自分の国土、山、川、水、木、葉っぱ、町並み、全てに対して!」アレックス・カー東洋文化研究、米国人、京都在住(2005129毎日)

アレックス・カーは、京都の町屋について語る。「家のなかにカミサマがいる。(気)が漂っている。でも町屋は世界遺産じゃないんだよ。人間の心になじむ日常的なきれいさ、こういうものこそ大事なんだ」地方都市の(シャッター商店街)を訪ね歩き、惨状を目の当たりにして「みな失敗。やっと本物を見つけなくちゃと思いたった。地方がどん底になって、ある意味、よかった。いい方向に進むんじゃないか。希望がある」感性は数値化出来ず、金で買えるものではない。しかし現在その価値が最も忘れられている。

日本人にはすでに日本が見えなくなっているのかもしれない。わざわざ神だ、宗教だと大言壮語する前に、忘れていた事を思い出さなくてはいけないだろう。「日本人は愛情が無くなったっていうことです」マネーゲームに沸き、その崩壊にまた湧いても所詮仕組まれた茶番劇にすぎない。社会の明暗が深まるなか、光のあたらない荒涼とした風景を、まず見据えなければならないだろう。

2006.1.19 高木

88歳の証言

「日本は今、アフガン・イラク侵略戦争に参加しています。いつか戦争に踏み切るのでなく、すでに参戦しているという事実認識が不可欠です。このように日本を、戦争をする国、戦争が出来る国にする動きは、長期にわたり(明文改憲)に先行して9条を骨抜きにしつつ着実に強行されてきました」(「改憲異論」誰の、何のための国民投票か? ピープルズプラン研究所編2006

これは、同著の「憲法調査会から国民投票法案審議に向けた動きについて」(井上澄夫)の部分である。この前段において、湾岸戦争から現在に至る海外派兵の軌跡を追う。衆知の事実ではあるが再確認したい。アフガンやイラクの被害者なら、それぞれが身を刻まれる思いのものだが、加害者側(日本人にほかならない)は、まるで関係無いと勝手に思い込み、はなから忘却するばかりだからである。あたかも沖縄で少女が米兵にレイプされても無関心なように。身近な者が殺されなければ、侵略戦争と呼ぶことさえ違和感を覚える社会は、それゆえ「人道復興支援」という言葉が通用する唯一の国である。

91年、多国籍軍に135億ドル供与。ペルシャ湾掃海艇など派兵。92年、「国連平和維持活動協力法」(PKO協力法)成立。カンボジア派兵開始。以後、モザンビーク、ザイール(ルワンダ難民救援名目)派兵。中東シリア、ゴラン高原派兵。旧インドネシア領東ティモール派兵。97年「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)策定。99年、朝鮮半島、台湾海峡での有事想定「周辺事態法」など新ガイドライン関連三法成立。2001年「テロ対策特別措置法」成立。米アフガン攻撃協力のため無料洋上給油の派兵(現在も続く)。2003年「武力攻撃事態対処関連三法」成立。2004年「武力攻撃事態対処関連『国民保護法』など7法成立と3条約締結。2003年「イラク人道復興支援特別措置法」(イラク派兵法)成立、空自、陸自をイラク、クウェートに派兵。(継続中)

湾岸戦争を機に「憲法第9条」を改正しないまま、堂々と派兵が継続されていることがわかる。さらに最新兵器の装備も進んでいる。AWACS配備、強襲揚陸艦、ミサイル防衛着手などだ。

アジアの国々が危惧するこうした日本の軍拡路線には無関心、無頓着で上から煽られるまま「治安悪化」に口を合わせ「不審者狩り」に血眼になっているのが日本人だ。なぜこうした無自覚が可能なのか?反戦を具体的に表現するごく一部を除いて「平和憲法」の存在にも意味にも無関心な大衆が、場当たりな反応(決して自覚にもとづく行動ではない)を繰り返している。出自も歴史認識にも興味が無いのは敗戦後教育によってそのような思考回路を失っているからだ。町村外相が、戦争体験者が次々と死んでゆき、事実を知らない者が圧倒的多数になったからもう言っても構わないだろう、とばかりに口にしたように、敗戦後、「日本の教師は偏向しているから、近現代史はなるべく教えないようにしてきた、と発言。文部省や自民党文教族が、日本史は江戸時代くらいで終わるように暗に誘導してきたということらしい」(『軍縮地球市民No.3』敗戦から60年、近現代史を知ろう 明治大学軍縮平和研究所2005

日本史の授業で3学期の終わりに「後は読んでおくように」と言った教師の言葉を思い出す。アジアの人々が当然のように知っている歴史的事実を多くの日本人が知らないという決定的な断絶がある。そのような圧倒的スケールの情報操作によって、たとえば「南京虐殺などなかった」類いの歴史捏造が可能になるわけだ。もともと知らなければ与えられる情報が偽物でも通用してしまう。自分がどこから来て、現在どのような状態にあり、これからどこに行こうとしているのか、という時間と空間の連続性を失えば、アイデンティティは歪んでしまう。

敗戦により、人権、民主主義などを手に入れたにもかかわらず、60年間もその意味も効果(作用)も理解出来なかったのが日本人だ。それゆえ平和憲法が反古にされ続けても自分の問題として実感することはなかった。あげくの果て内容も知らぬまま雰囲気で「改憲」ムードに酔っているわけだ。根無し草のごとき存在が撹乱、翻弄されてゆく。

「君が代・日の丸」問題に関わって東京都教委が出した(10.23通達)によって処分、不利益を受けた人々が通達の違憲・違法性を訴えた裁判が係争中だ。教師たちの国歌斉唱義務不在確認と不起立・不斉唱の教師にいかなる不利益処分もしてはならないことを求めている。原告400人を超える大型訴訟は教育裁判としてはもちろん異例だ。

教育学者、大田堯東大名誉教授が東京地裁で行った(「証言」一ッ橋書房)が出版された。88才という日本現代史の生き証人が、多くの日本人の教育における根本的誤解を指摘する。

明治初期のタテ社会の中で、古代中国のタテ社会の言葉でeducationを「教育」と訳したため、教育は上から下へ何かを教え込むような意味合いに理解された。本来、エデュケーションは市民革命後の市民社会の中で普及したものでヨコ社会のもの。語源は“引き出す”であり、子供の自己創出力を助けるのが教育。あらゆる生命体の個体は全部違う。さらに、人間は意図的に変化する能力を持ち、選択により予測不能な可能性があり、他者とのかかわりの中で成長する。画一的に同じ教育をしたり、支配してはいけない。(違うこと)(自ら選んで自分を変えること)(いろいろな人やものとかかわること)で個性が形成される。基本的人権の自覚と、かけがえのない一人ひとりの存在は密着している。ひとりひとり違って、しかもかけがえのないことが大事。人間の特徴は(体の外に道具(文化)をもつ)こと。文化を身につけるのが学習である。子供の自己創出力は内面から出てくるものであり、教師の内面、良心と響き合うことは、子供の自己形成を助ける演出である。アーティストである教師の自由、良心の自由はそこにある。教育は内面過程に直接かかわるもので教育者は不当な政治的、行政的干渉から自由であるべき。教育者は官庁組織を通じて国民に責任を負うのでなく、民間人たる宗教家、学者、芸術家、医師、弁護士のごとく個人的、良心的に行動する。普遍的、かつ個性ゆたかな文化の創造をめざすあらゆる国民を育てるのが教育基本法の精神。「権利」の元である英語のライトは、おれとお前は違っているが、お前の言うことは道理に合っている。市民社会のなかで違いを超えて通じ合える約束事のことを権利(ライト)という。

「公教育」を日本では、国家や行政が管理する学校ととらえるが、元になるパブリックエデュケーションには、国やお上という意識はなく市民のための教育、人々のための教育と捉えるべきだ。ひとりひとりの違いを大事にし合う市民社会の学校があり、そのお世話をするのが国や地方行政当局。日本では「公」が国や官庁などと理解されるために公教育に国家や官公庁が直接入ってゆくことになる。しかし、公共性と国政上の意思は区別されるものであり、内面的価値の実現である教育、一期一会ともいうべき芸術行為というものに対して、不当な介入をしてはならない。これが近代国家の原理である。ヨーロッパでは入学式や卒業式がない。教育現場に必要なのは「良心条項」であり「良心の自由」を認めるべき。市民社会の学校は劇場である。子供という主役があり、教育というドラマが演じられる。教師は演出家であり芸術家として独立した人格を持つべきである。「通達」や「職場命令」など言葉の問題にとらわれず、憲法第19条そのものから、この事件を判断してほしい。

以上が「証言」の要旨である。大田は戦前の天皇絶対制のもとでの臣民教育においては「日の丸」「君が代」は絶対者天皇の象徴だったと回顧する。敗戦により主権が天皇から国民にかわったにもかかわらず、「国体護持」として「体制に変化なし」がまかり通った。絶対主権者昭和天皇と象徴としての昭和天皇の違いが無視されたまま敗戦後の日本が存在し、それがために「良心条項」などが、いまもって行政権執行者の意識に定着しなかったとする。

偶然、観たBS放送でドイツで製作されたドキュメンタリー、ゲッペルスのプロパガンダについての記録映像が流れていた。党大会の会場を埋め尽くした群衆が「総統が命令し、国民が従う」と大声で連呼していた。白黒の映像は60年も前のはずなのに眩暈さえ覚えた。この国の現在を60年前の過去から時空を超えて嘲笑う不可視の存在を実感したからだ。              2006126高木