三兆円ショック
チャンネル争いという言葉は死語かもしれない。だが、異なるものを見たい、知りたいとしても、異なるものが無ければ話にならない。4月27日夜、地上波TVはすべてホリエモン保釈と耐震強度擬装事件容疑者逮捕に統一された。どちらもニュースには違いない。そして、どちらも当局がその日時を設定可能であることも。この日、他に大きなニュースはなかったか?それとも国民に知らせるには衝撃が大きいので、別の話題を誇張することで衝撃を分散する意図で情報操作が行われたのか?もちろん後者だろう。在日米軍再編に伴う経費の日本側負担が3兆円で、それ以上になる可能性があるとローレス米国防副次官が公式に語ったのだ。これを仮に「3兆円ショック」と呼んでおく。ローレス発言の2日前(4月23日)に額賀防衛庁長官とラムズフェルド国防長官が、在沖縄米海兵隊のグァム移転問題で7,100億円を日本が負担することで合意したばかりだった。イラク戦争を支持、一貫して改憲を主張する読売新聞は4月27日の記事で「検証グアム移転費」として額賀とラムズフェルドの会談と合意に至るまでを、もっともらしく(?)伝えている。もちろん大金投入の言い訳にすぎないないのだが。「当日、額賀は二つの布石を打った。一つは、早期の駐日米大使のシーファーとの極秘会談。『米軍再編は、小泉首相と額賀防衛庁長官の時代でないと、時を失しますよ』額賀が強調。/二つ目はアーリントン墓地訪問。戦死した米兵の墓で黙とうした。/『米国がテロや大量破壊兵器と戦い、世界平和と正義のために頑張っていることを日本は支持している』タカ派のラムズフェルドは『日本の貢献には感謝している』と神妙に答えた。その目はやや潤んでいた。上々の滑り出しだった。/ラムズフェルドは満足げに軽口まで飛ばしていた。『これで防衛省が実現すると、もっと良いね』」
自らの命が危機にさらされることなく、兵士の命、そしてイラク人の命など(使い捨て)としか考えていない日米のトップが、巨額の税金をどう動かすか、建て前として茶番劇を国民に伝えた。ここには、決定的に拡大した格差社会やイラク侵略下、米軍による殺戮の犠牲となったイラクの人々は登場しない。もはや時代錯誤とさえ言える「正義」や「平和」のために正当化される軍事行動は、必然的に発生する民衆の犠牲には言及しないのだ。日本はそんな見え透いた論法でさえ可能な社会ということだ。冒頭の額賀の言葉は現行の衆愚政治の表現として的を射ている。たとえ「3兆円ショック」を軟着陸させたにしても報道機関として「反応」しないわけにはゆかず、4月28日の毎日は社説で、グアム移転費の日本負担7100億円が決着したばかりなのに米軍再編全体総費3兆円はグアム移転費と同様に積算根拠も不明と疑問を呈している。また中日は、「根回し中慌てる政府」という見出しで「国民一人当たり約23,000円の負担」は防衛庁守屋事務次官がローレス発言より前に、米軍再編経費はグアム移転費の他に2兆円かかる、と講演で指摘していたことを挙げ、「決して的外れな数字ではない」として「そこで真っ先に目が向くのが増税」と水を向けている。「3兆円ショック」の軟着陸のために米国は日本人拉致被害者家族とブッシュ面会や公聴会出席を実現させた。米軍による拉致被害者に同様のことをするだろうか?そもそも戦時下に使われる「人道」や「平和」の語法がどれ程欺瞞的であるか認識されていない。
改憲して戦争可能な国にしようという右派は財源をどう考えるのか?そもそも米国の言い値に従う余裕があるのか?
ニューズウイーク日本版5月3日号によれば、米国防省は米軍のイラク駐留が少なくとも10年以上を計画しているという。そしてイラクにパラド空軍基地など4ヵ所の巨大基地建設やバグダッド中心地に建設中の史上最大の巨大大使館などを長期化の証拠としている。
4月27日読売は「日米防衛指針見直しへ」という見出しでガイドライン見直しを日米両政府が決めたことを伝えた。「『テロとの戦い』など地球規模の国際平和協力活動や、MDに関する日米協力を拡充する方向で指針を改定する。/指針見直しを受け、日本政府は自衛隊の海外活動の恒久法制定などにつなげたい意向」
日米安保により米軍が日本の基地を利用した時期から、米軍の中東戦略などに後方支援として自衛隊が参加する現在までを経て、「不安定の弧」を中心に米軍と自衛隊の一体化した軍事行動が見えてきた。「集団的自衛権」の問題は、敗戦後の歴代政権がタブーとしてきた「派兵」がほとんど障害もなく実現したようになんとかなるという読みがある。要するに米国が日本をナメ、日本政府が国民をナメきっているのだ。だが、正確さが求められるのは、「米国」という言葉が単一の集合体を表わしていないことだ。米国内はイラク派兵反対の声が拡大している。戦死者、負傷者の増加、長期化(ドロ沼化)、石油高騰などは収拾がつかない状態だ。ブッシュ支持率も低落する一方である。
米軍再編とは、このような米国内事情をかかえたうえでの、きわめて支持率の低いタカ派の戦略だ。さらに不安定要素となるべくイラン空爆説まで加えたときに日米タカ派路線とも言うべき「米軍再編」が軍事的、経済的、そして国民の支持においても失敗に終ることは目に見えている。なしくずしに進行する、根拠さえ曖昧な軍拡と対米貢献は民意のはるか上空を滑ってゆく。とはいえ再編に関する岩国市の住民投票をはじめ、沖縄民衆の圧倒的反基地感情に対応する合理性など持たない。つまり無制限の対米貢献は圧倒的多数の日本人の無関心に依拠している。
「日本には、欧米の民主制にみられるような人々のダイナミックな政治参加を云々する基盤そのものが無いのかもしれない。知的エリートにもそれを支える能力が無いのかもしれない。/お上に逆らうなという前近代的主張まで飛び出し、それが世論の支持を得た。日本の議論の有り方は150年間変化していなかった」(「日本の外交は国民に何を隠しているのか」河辺一郎 集英社新書2006)
河辺は同著において、日本が国連分担金の恒常的滞納国であり、それが米国の軍事行動と連動していると指摘する。そして「日本政治にとって国際法の意味は、憲法の制約を逃れるための法的根拠とすること」であり、都合良く国内法と国際法を使い分け、ここに外務省の政治的役割があった、とする。ところが、米英が安保理決議の無いままイラク攻撃を始めた(国連無視)のため、このような場合は武力行使可能にするべく国連改革を主張。日本の常任理事国入りは軍事行動の説明にもなるというわけだ。
鎖につながれた狂犬が拘束を逃れようと力まかせに暴れまわる時、理由も目的地も持たぬように、ひたすら戦争可能を目指すこの国の姿は、“なりふりかまわぬ”の一言に表われる。右傾化だけが明白でどのような国を目指しているのかほとんど不明のままだ。
もはやちぎれんばかりだが、狂犬の自由をしばる機能を担っているのが鎖(憲法9条)であることは事実だ。民衆の無関心が関心に転じた時、鎖は本来の強靭さを発揮する。力を制することができるのは世界に通用する人権最優先の論理でしかありえない。 2006.5.1 高木
「NON!FLY」
「NON!FLY」という個展の案内状を「油で揚げてない」などと勝手な解釈をしたのは、おそらく英語の苦手な私だけだろう。「9.11」の前年に開催されたピース・アンデパンダン展の参加者でもあった中村昌司の個展が浜松市内のギャラリーCAVEで始まった。東京芸大出身の中村は、伝説の巨人三木成夫に師事した経験をもつ。生命や自然に対する見方、感性は、そんなうらやましい恩師の影響があったのかもしれない。FLYは中村が以前からこだわってきた言葉だ。かって人間と自然が調和していたであろう太古の時代へのノスタルジーは、現在の我々を決っして肯定することはないが、現状に憂いを抱くのも同じ人間であることに気づかせる。それは、たとえば戦争という最悪の行為さえ終らせることの出来ない人間の愚かさゆえに大地に安定することを拒絶されるかのように浮遊し、悩み続けることを強いる。生態系の調和の環に収まらず、そのことに苦悩しながら漂流する運命とでも言うべきか。オープニングのギャラリー・トーク「社会化される表現」では竹内康人がドイツ戦跡を訪ねた印象を語った。言うまでもなくドイツは「ナチス」という時代を経験した。その記憶はドイツの至る所に保存され日常の風景となっている。自ら生み出した人間の負の可能性をドイツ人は、現在と重ね同時に認識し続けるしかないわけだ。人々が道路を歩くたびに、路面に埋め込まれた真鍮製の板に刻印されたユダヤ人の名前が輝きを増すように。こうしてドイツにおいてジェノサイドの記憶とその継承が徹底された。もちろん年月が経ちネオナチの台頭など紆余曲折もあるが、だからこそ記憶を消さないために風景にしてしまうこと、視界に残すという選択がされた。現前するものは否定できない。それを見る者に説明を求めるのだ。ここに雄弁な沈黙が発生する。「殺してはいけない」という原点にリセットするための。
翻って日本を考えると、ジェノサイドの隠蔽と、その忘却が現在の風景を生み出しているといっても過言ではないだろう。ここにはまるで何事も無かったかのような風景が広がっている。
日本航空「JAL123便」の御巣鷹山墜落事故の残骸を一般公開する展示が始まった。当時整備士だった案内係員が「これを見ると涙を抑えられない」と語るのは、激しい衝撃でひしゃげた座席だ。特に日本社会はこのような「負の遺産」を隠す傾向にある。(JAL123機体公開は20年以上経ち世間の関心が薄れたこと、他の選択肢を失いタブーでさえ公開せざるをえなくなったほど悪化した日航の体質にある)とにかく体面を保つことが最優先されるわけだ。皮肉にもそれによって過去よりも深刻な「負の遺産」を生み出すにもかかわらず。たとえば、靖国神社に特攻機零戦の焼けただれひしゃげた機体、血塗られた座席が展示されることを想像しよう。ともあれ、中村の教え子が、修学旅行先の沖縄で平和講話において「傷口からウジが湧き、まだ生きている兵隊さんの肉をバリバリと喰っていく…」という話を聞いて「ウジってなんですか?」と尋ねたエピソードが語られたが、ウジを知らず、戦争を知らない子供たちをこの社会が育んできたのは事実だ。
「負の遺産」を隠蔽し続ける社会が口にする「平和」や「人権」が欺瞞であるのは言を俟たない。そんな社会が必然的にある言葉を避けてきた。「NON!」である。戦争を曖昧にした社会は戦前と変わりようがなかった。「上意下達」も建て前だけの民主主義なら生き延びることも可能だ。こうして二重基準や二枚舌が堂々とまかり通ることとなる。今や「NON」を表現するのは「不審者」くらいなものだ。ところで、日本美術界はことごとく政治を避けてきたが、それを許す社会の民度であると同時に表現の欺瞞が、社会の欺瞞とパラレルに進行した過程でもある。押し付けられた言葉を使うなら「負け組」による表現も「負け組」のための表現も乏しい。圧倒的に体制容認が多い。自分が何者か知りたくない、認めたくないということだろう。NO、もしくはNONが機能しない社会がどのように暴走するかを私たちは目の当たりにしているわけだ。
ところで表現に関して致命的な「共謀罪」が成立目前である。与党の「圧倒的多数」はおそらくそれを可能にするだろう。この間のマスコミの沈黙は、まさに沈黙ゆえに「共謀罪」そのものではないか。「立川反戦ビラ弾圧事件」は1審無罪を嘲笑うように、高裁において有罪に覆され、最高裁に委ねられている。「戦争国家」は何よりも民衆の自由な表現を圧殺する。民主的な戦争も、人権に配慮した戦争も有り得ないからだ。
そして風前の灯である「教育基本法」などの状況から考えると「ウジ」も「戦争」も知らない若者たちが、一足飛びに戦争にほおり込まれようとしている。
中村は、御前崎海岸で20年も流木や漂流物を拾い続けてきたという。そして、つくることより拾いにゆく方が好きであるという。渚に打ち上げられたさまざまなものたち。多くは人間の記憶を持つ。何ヵ月も何年も海を漂った末、砂浜に流れつく。無心でそれを拾い歩く中年のおっさん。漂流物が現在の社会で役立つことはほとんどない。「無用」を回収してギャラリーの空間で「有用」にする作業。中村が独白するように「有用」も「無用」も流動する価値観にすぎない。
無心で「無用」を拾うよろこびを感じる中村に私は共感を持つ。無目的で山に入り静寂に抱かれる時、それをいつも感じてきたからだ。そんな1円にもならない行為から人間とその社会を問うことが、たとえ「戦争国家」にとっては非生産的であり非国民でさえあるかもしれないが、人間の歴史、さして進歩もしてこなかった、むしろ、はるか太古の時代のほうが生態系に調和していたかもしれなかったということを考えると、その価値を実感出来る。それにしても自然と交感可能な人間が、なんと少なくなってしまった国だろう。かくも貧困な情念空間が、これから何処に向かうかを今こそ考えるべきだ。
信州上田の里山に佇む、小さな無言館は、戦没画学生(東京芸大の前身)の、国家によって絶たれた情熱に触れることのできる貴重な空間だ。高橋哲栽によれば靖国神社は、「感情の錬金術によって戦死の悲哀を幸福に転化する装置であり、戦死者の追悼でなく顕彰が本質的役割」という。その言を敷衍すれば、無言館は国家により戦死を強要された若者たちの悲劇を暴露することで兵士から人間を復権する空間であり、戦争が栄光の対極にあることを告発する。
国家によって筆を折られた画学生たちの後輩である中村の表現にこれからも期待する。
2006.5.9 高木
「V for VENDETTA」
巨大スクリーンに独裁者が登場して人々にプロパガンダを説く。J・オーウェルが60年ほど前に予見した「1984」は、言わずと知れた全体主義の恐怖政治を描いた古典的小説だが、時を経て映像通信による情報操作が現実になり、「1984」も映画化(84年、M・ラザフォード監督)された。F・トリュフォー監督の「華氏451」、テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」など近未来の独裁国家を描いた映画は、人間の可能性の暗部を恐れ、警告として創られ続けてきた。「1984」で主役を演じ、全体主義に疑問を抱いたがゆえに弾圧されるジョン・ハートが、今回なんと巨大スクリーン上に支配者として登場することになった。決して火種が尽きず時折燃え上がる炎のように、現実の合わせ鏡としてスクリーン上の全体主義(独裁)国家の歴史が脈々と存在し、21世紀のエポックメイキングとして「V for VENDETTA」が、「マトリックス」のウオシャウスキイ兄弟による脚本と製作、J・マクティーグ監督により公開された。このようにフィクションとノンフィクションは照応関係にある。サブカルチャーを侮れない理由がここにある。「マトリックス」では映像革命とも呼ばれるデジタル技術で、青年ネオが反政府グループによって覚醒させられ、虚構にすぎないものを現実として信じ込まされていたことを知り、全体を演出する支配者と対決する物語だが、ネオと格闘するスミスを演じたヒューゴ・ウィービングは今回「V」を演じている。まるで今日の体制側が明日の反体制であるかのように。Vは最初から仮面をつけて登場し、最後まで仮面を取らない。Vの生い立ちは、強制収容所に入れられていて火災に遭い、全身火傷を負う。復讐鬼と化したVが、反政府活動のために両親を殺された少女イヴィと出会うのは偶然ではない。史実として1605年、英国でガイ・フォークスは政府転覆のため議事堂爆破を企んだが、逮捕され未遂に終わった。Vはこの11月5日「ガイ・フォークスデイ」を反政府革命の日として受け継ぐことを誓う。硬質で無表情な仮面をつけたVは、その内側に秘める焼け爛れ去勢された姿の裏返しであるかのような強い存在だ。そしてイビィは強制収容所でスキンヘッドにされた見るからに弱々しい美少女。正反対の存在の出会いが双方に変化をもたらす。Vに芽生える愛情、イヴィは両親の惨殺によるトラウマと弱者であることを克服する契機として。そして自分を救ってくれたVに対する愛情。世界を暗黒に導いている支配者が、服従する者により絶対視されたままでは何も変わらない。きわめて古典的に描かれる「V for VENDETTA」は、全体主義の恐怖政治を正すには、民衆蜂起が必要であると主張する。チャイコフスキーの序曲「1812年」が流れるなかVによって権力機構の中枢である中央裁判所が爆破される。映画は何度も問い掛ける。「暴力政治に対する暴力は許されるのか?」と。世界は見えるものと見えないもので出来ている。怒りや悲しみ、喜びは見えないが、その表現ははっきりと見える。圧政に抗うことが不可能なら、人はフィクションで可能にするだろう。内心の自由を行使するわけだ。時にはそんな表現が具体的な暴力をはるかに超える効果をもたらすことがある。しかも誰も傷つけずに。
「V for VENDETTA」は20年前のサッチャー政権下における英国社会の荒廃を背景に萌芽した。弱肉強食を絵に描いたような格差社会は「リトルダンサー」や「ブラス」、その他の名作を生んでいる。セックスピストルズやクラッシュが炸裂したのもこの頃だった。「V for…」で語られる「作用と反作用」は、英国強権政治においてその意味で正常に機能したと言えよう。翻って現在の日本はどうだろう?サッチャリズムに匹敵、もしくはそれを凌ぐ格差社会が進行中だ。ならば「反作用」は?立川反戦ビラ弾圧事件をはじめ、さまざまな微罪逮捕が続き市民的権利は危機に瀕している。最近もメーデーにおいて、許可済みのサウンドデモを行っていたDJたちが逮捕される事件を民放ラジオ局が報じた。表現の自由がここまで蹂躪される状況において、意思表示しない文化人や知識人とは一体何だろう?この国に良心は無いのか?一方的に暴力政治が行われている。反応や応答が圧殺されている。この非対称が臨界を超えるとき、暴力政治は目に見える表現の圧殺を人々の内面にまで及ぼすだろう。「内心の自由」が、管理、強制され「内心の不自由」に変えられる。「共謀罪」の恣意性を権力が手に入れる恐怖とはまさにこのことだ。さまざまな物語を個別に創造するべきだ。「内心の不自由」によって権力が強制する物語しか認められない世界は暗黒に他ならない。
誇張報道される児童を狙った犯罪や「不審者」という言説により煽られる民間防衛という発想に何の疑いも持たずに結束する「日本人」集団が小泉政権を下支えする。何よりも異様なのは敗戦後60年にして平和憲法下で海外派兵が堂々と強行されながら「戦時下」であることを多くの日本人が疑問さえ持たず平静な日常を送っていることだ。比喩的な表現をするならば、Vと正反対の意味を持つ仮面をつけた無数の表情無き日本人が闊歩している。映画においてVは「民衆は政府を恐れてはならない。政府こそ民衆を恐れるべきなのだ」と語るが、すでに日本では、民衆は政府を恐れることが当然、とばかりの空気がある。少し前まで
「反政府」、「革命」こんな言葉が失われて久しい。若者は耳にしたこともなく、意味も知らない。では、アンフェアな政治が姿を消したのだろうか?誰もそうは思えまい。そう思っても口に出せないほど硬直した社会が現実ではないか。2世、3世議員の無教養で鈍感な輩が独裁を謳歌するが、その暴走に誰も異議を申し立てることも出来ないでいる圧殺状況だ。あげくの果て、政治危機など微塵も感じないかのように「脳」のトレーニングなど始める始末だ。もちろん「寒天」や「白インゲン豆」のごとく現われては消えるブームのひとつにすぎないのだが、いずれにせよ政治に関係無い部分で騒ぐことだけが共有される。
ところで表現の自由が蹂躪されるなか、小泉首相が靖国参拝に関して「内心の自由」なる言葉を持ち出す場面があった。もちろん、我田引水の詭弁にすぎないのだが、言葉の本当の意味においてこの社会で「内心の自由」が機能しているだろうか?娯楽映画においてなら許される「暴力政治に対する暴力は許されるのか?」というセリフが独り歩きする寛容はすでにない。言い換えると「内心の自由」はすでに自主規制されている。たとえば、表面上独裁政治に屈しているように見えても、「内心の自由」において反逆の機会をうかがうという図式はよくある物語だが、この国では「内心の不自由」の自覚さえ失われているのかもしれない。「内心の自由」と「内心の不自由」のはざまにVの仮面が見え隠れしている。
終章において独裁者はVにより倒され、V自身も深手を負い死んでゆく。閉鎖されていた地下鉄に爆薬を積んだ列車をイヴィーが発車させる。疾走する列車。ビッグベン(英国国会議事堂)に列車が到達、大爆発して崩壊してゆく。ロンドンの街角に無数の仮面をつけたVが出現しはじめる。Vは誰でもなく、そして誰でもあるのだ。エンディングに、1968年の世界同時蜂起に触発されたローリングストーンズの「ストリート・ファインティングマン」が流れる。
戦時下において思想弾圧は、ますます酷い光景を生むにちがいない。自主規制によって「内心の自由」を「内心の不自由」にしてしまうことは全面降伏以外の何物でもない。そこが最後の砦だからだ。 2006.5.13 高木
身体の記憶
身体の記憶を辿ってみる。若い頃ならきっとベッドタイムストーリーになるのだろうが、50代後半でこれといって自慢出来るものなど見当たらないので、ありのままを書く。それにしても半世紀とは短いようでもさまざまなことがあるものだ。
時系列を無視して身体に刻まれた感覚を振り返ると、たとえば左腕の複雑骨折(開放骨折)で初めて自分の骨を見たことが忘れられない。長時間の手術で白金の棒を入れて固定した。
奥三河山中で林道からバイクごと転落したことがあった。転倒など日常茶飯事だったがこの日は予想外で、林道の急カーブの先がまるごと陥没していた。落下しながら、空中で縦に回転するバイクが見えた。崖の下が岩でなく崩れたばかりの土と低木の茂みで幸い怪我もなくバイクも壊れずに済んだ。
落下する夢を子供の頃からよく見たのは、よく落ちる現実がそんな夢を見させるのか、そんな夢ばかり見たためによく落ちたのかわからない。いずれにせよ重力を思い知らされた。
嫌いな学校から早く帰りたいだけで校舎の2階からコンクリートの床に飛び降りて、踵の骨にヒビがはいりギプスを経験したことがある。暑い日に足が痒くて気が狂いそうだった。身体が経験するのが先か、常識を学習するのが先かという話だが、生来痛い思いをしないと理解出来ない性格かもしれない。熱湯で火傷をした時、水泡が出来て剥がれてしまった。今ならとにかく流水で冷やし続ける処置が必要とされるが、その常識が無かった時代ゆえに激痛で眠れなかった。
感染症の怖さについて今考えると、恐らくO−157だろうと思い出すのは、激しい腹痛と止まらない下痢で緊急入院したことだ。すでに血液しか出る物がなく、あまりの激痛に医師の白衣を掴んで痛み止めを要求したが「これ以上打てない」との返事に病院の窓から飛び降りようかと思ったほどだ。原因不明のまま10日ほどして回復したが、免疫に重要な関与がある腸内細菌を一掃してしまったためであろう、入院中初めてアレルギー性鼻炎を発症して今に至っている。「私」という存在は自分で意識出来るものだけで出来ているわけではないことを思い知らされた。「往く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。身体のひとつひとつの細胞は休むことなく入れ替わっている。昨日の私は、今日の私ではない。私が私のすべてを知ることは出来ないわけだ。
自然気胸は外傷などによらず、体質により肺が破れて胸壁と肺の間に空気が入ってしまうものだが、そんな知識を持たないまま呼吸困難になったため、何が起きたのか見当もつかず焦った。窓を開けたり、外にでても苦しいのだから。それにしても肺の手術は苦しい。脇の下を10数センチ切開して肋骨を広げて行う。術後コンプレッサーで負圧を発生させるため脇にパイプが埋め込まれたまま過ごす。笑顔で「下」の世話までこなす美人看護士の介護を差し引いても2度とごめんだ。新宿駅西口野宿者排除の攻防戦で機動隊の暴行で気胸にされた支援者の苦痛は、だから人一倍理解できた。
シートベルトが無いとどうなるか日本人は想像出来なかった。こんな身近な安全に関してもお上の指示が必要だった。私は免許取得以来、義務付けられる前から(笑われたが)シートベルトをしていた。法制化前の話をひとつ。
深夜、甲府の友人に会うため妻と静岡駅近くの国1を走っていた。飲酒運転の乗用車が中央分離帯を飛び越えて斜め前方から飛んできたため、「エネルギー保存の法則」により、1月の凍りつくような闇夜の空間を舞うことになった。一瞬でフロントガラスが砕け散り宇宙の星のように静止したのをはっきりと覚えている。まさに銀河そのものだった。こんな時の時空感覚に日常のものさしは通用しない。すべての動きがスローモーションになり鮮明に知覚しつつ何分も空中を飛んでいたような気分だった。車が60km〜80kmで流れる片側2車線の中央寄りから飛行して左車線後方から来たタクシーの上に落下、もつれたままその前方に逆さまに着地すると同時に車の両側から激しい火花が飛んだ。10〜15mほど滑って止まり、身体に食い込んだベルトを登山用ナイフで切って逆さになった天井に手を着くと粉々に砕けたガラスと燃料を感じた。一刻の猶予もなく、まだ座席に固定されたままの妻のベルトを切って引きずり出すと頭部の白い骨が見えた。これほどの事故にもかかわらず、私は無傷で妻も7針縫うだけで済んだのがシートベルトのおかげだったのは言うまでもない。後日そこにはオービスが設置された。こうして思い出すときりがないほど身体のエピソードがでてくる。快感だけなら楽しいのだが、生憎人生は苦痛に満ちている。そして身体の感覚は本人しかわからない。ところで格差社会を別の視点で考えると、苦痛の階層性と言えるだろう。上部ほど苦痛から開放されその分が下層に振り分けられる。苦痛が少なくなった上層には苦痛を理解、認識する回路が欠けている。はしゃぐ「勝ち組」や2世、3世議員には下層の苦痛を認識することができない。ましてやそれを補填する想像力や繊細さもはなから持たない。
さだかでない記憶によれば「痛みの歴史」という本に「黒人奴隷は痛みを感じない」とされていた。なんとも驚愕の歴史ではないか。しかし、現在でも「苦痛」の配当は世界中で黒人が圧倒的に多いという事実がある。
前にも書いたが、情報伝達技術の発達は視覚と聴覚に特化している。特に視覚が異常なほど偏重されていることに異論はないはずだ。当然、他の感覚は置き去りにされてきた。もっとも技術的に困難ゆえに視覚、聴覚に比重が置かれたとも言える。伝送の未知の分野として触覚(部分的に実現)、嗅覚そして痛覚がある。現在、これらの伝送は不可能だ。仮想現実などと騒いでもすべての感覚の伝送が可能にならなければ完全とは言えないだろう。触覚、嗅覚、痛覚の伝送が実現したら世界は一変するかもしれない。腐乱死体のブヨブヨした弾力や、耐え難い腐臭、なによりも犠牲者、被害者の痛みが伝わることに誰も耐えられないからだ。
「痛覚は他の感覚と異なり、適当刺激というべきものはない。強い不快感を伴ない、それを回避しようとするため自己防衛に役立つ。皮膚や粘膜の痛点には痛みを伝える末梢神経繊維の自由終末があり、侵害受容器とも呼ぶ。順応は起こりにくい」(電子辞書マイペディア)
痛みを回避しようとする文化の解明を森岡正博が「無痛文明論」で試みている。それにしても現在の階層社会を享受する側が「痛覚伝送」を本能的に拒絶することは想像に難くない。その実現が上層に欠ける痛みの増加をうながし均一の配当をもたらすからだ。どう考えようと、現在の社会構造を変えてしまうような技術は実現されないだろう。未知の伝送技術の実現もたとえば、バーチャル・ポルノグラフのように現在の社会がそのまま受容出来て、なおかつ構造に変化をもたらさないという条件がつけられそうだ。つまりさまざまな感覚のうちコントロール可能なものだけがこれからも偏重され、感覚の不均衡による安定が続くだろう。戦争を含めあらゆる暴力行使はこの不均衡を前提にする。
人間の感覚がすべて他者と共有可能になることは、まだ想像の世界でしかない。「他人の痛みを理解する」ことも、技術的に不可能な問題は想像の世界でしか実現できない。「無痛文明」が「他人事」とそっくりということに気づく人も多いはずだ。
ともあれ視覚と聴覚の過剰な入力が痛覚などの存在を忘れさせている。共生に最も必要とされる感覚であるはずなのに。いじめから戦争にいたるあらゆる暴力のキーワードである痛覚による世界の理解を忘れないために、せめてボールペンで手のひらでも突こう。何も起こらないかのように仕組まれた日常で、無機的に流れる数字に隠された悲劇を読み取るために。
2006.5.24 高木
表現の自由
「ある与党関係者がうそぶく。『すでに世論教育は済んでいる。憲法改正の何が悪い?車のモデルチェンジと一緒じゃないか、という雰囲気ができあがりました。国会も数の上で何の問題がない。』」(「ルポ改憲潮流」斎藤貴男 岩波新書2006)
憲法第21条は9条にくらべ影が薄い印象がある。しかし情況が改憲を先取りしたかのごとく9条否定で進行するように、21条も最終的な危機にあることを忘れてはならない。再確認しよう。憲法第21条「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。A検閲は、これをしてはならない。
21条が、表現の自由を権利と認める国において、すでに反戦ビラをポストに入れただけで逮捕、長期拘留され、「反戦」の落書きだけで逮捕、有罪を言い渡される(そんな軽微な事が何で?)という現実がある。それを問題視しない、もしくは無視するマスコミとともに。さほど政治や社会に関心が強いわけでない普通の人々が「そんな事件があったなんて知らなかった」状態がこうして出来上がる。敷衍すれば異議申し立てを圧殺する社会で(何も起きていない)と思い込む無自覚な加害者がこうしてつくられてゆく。2005年から「個人情報保護法」が施行された。普通の人々にとって一見耳障りのいいこの法律は、実は国民が知るべき公共的な情報がほとんど隠されてしまう効果を生んでいる。さまざまな事件に関係した公務員の名が隠され、官僚の経歴や学歴などの個人情報が隠され、国民の側に立つというよりも、行政側のために機能する現実がある。使いようにより「知る権利」を制限し、自由に情報をコントロール出来るのだ。すでに憲法第9条を無視して海外派兵されているイラクのサマーワにおける自衛隊の活動は、文字通り「大本営発表」だ。ジャーナリストが現場にまったく不在のままで、都合の悪い情報と都合の良い情報のすべてを防衛庁がコントロール可能な立場にある。この状態で治安悪化の一途をたどるイラクの「人道復興支援」の実態に関してフェアな情報が日本に伝わると考えるのはあまりにも愚かすぎる。
しかし、戦争国家がすべての情報を一元化してコントロールすることは原理そのものだ。インターネット時代の国境を越えたコミュニケーションや双方向性も、それだけで戦争国家の強権をくつがえす力にはなれない。少なくとも情報と現実の行動の乖離した現在の日本では。
言論の不自由の反動として匿名性に有頂天になり、はしゃいでいるユーザーたちはネット監視をどれほど理解しているのだろう?そもそも匿名がもてはやされる社会が健全であるわけがないのだが。「ウイニー」による機密情報漏出という失態を、こともあろうに防衛庁が演じてしまうのは国家機密もそのレベルというもので、そんなことで戦争できるの?と失笑する他ない。国会審議をはじめさまざまな分野の稚拙きわまりない様子は、残念ながらそれと均衡する民度を示唆しているようだ。極論すれば、官も民も隙だらけの日本というシステムが、本当のところ戦争などという極限状態に耐える能力も体力も持ち合わせないということだろう。それでも強引かつ具体的に進行する戦時体制への移行が意味するのは、まさに理念無き米国追従にほかならない。将来を無視して、場当りの利権に潤うことも民主主義や人権に目をつぶれば済むということ。「反戦なんて古いんや。俺の顔をよう覚えておけよ。何度でも挙げたげるからな。早く真っ当な道に戻れやコラ。お前社会的地位とかカネとか欲しゅうないんか。うまいもん食いたないんか?」(一連の反戦の流れで拘留された若者の取調べ)(「ルポ改憲潮流」)この国は大量の禍根を残すことがよほど得意のようだ。戦争国家が閉鎖系であるのは自明である。情報、物流、人のあらゆる動きをコントロールしなくては成立しないからだ。だが、あからさまな封じ込めは、まがりなりにも敗戦後の過程で味わってしまったかりそめの自由とのギャップが大きすぎる。画餅で満足する多くの人々のためにさまざまな虚構が大いに利用されるだろう。それにしても「対テロ戦争」という、これから(マッチ・ポンプゆえ)永遠に続く戦時体制に服従を強いられることが理解されているだろうか?60年前の戦争に学ばなかった人々が、そして戦争があったことも何が起きて何が失われたかも学ばず、聞かされなかった人々が、銃後を平和と誤認し、まんまとプロパガンダに従うことになる。
何といっても、戦時体制は表現を圧殺するために不毛の文化を生み出すだろう。さまざまな価値観、多様性が保たれてはじめて自由な表現が可能になることを考えれば、ひとつの価値観や生き方を強制することが何を意味するか言うまでもない。毎年、自ら命を断つ人々を3万人以上確実に生み出す社会でその原因が放置されたまま「国を愛する事」が強要される。同じ人間の最低限の生存権さえ無視する「国」というシステムを、である。あげく「少子化が深刻」と宣う。使い捨て労働力のことだ。もちろん兵士としても。深まるばかりの階層格差を俎上にのせず、「独身税」の声まで聞こえてくる。まさに本末転倒である。この思考を読めば、そのうち「コンドーム禁止」だって可能性がありそうだ。ともあれ、総じて下品なことこの上ない。「人間」を中心にした発想がどこにも見当たらないのだ。少なくとも憲法第21条が保証する現在においても、この国の文化が貧困極まりない様相を呈していることは、憲法第21条そのものの機能不全を反証するものに他ならない。異論、反論が飛び交いそれぞれが堂々と主張し合える社会ではないということだ。現在、表現の自由が危機に陥っていることへの無自覚が、国際性を欠いた傷の舐め合いのごときレベルの低い人間とその作品を生んでいる。この国でしか通用しないものの氾濫ということだ。フォトジャーナリスト広河隆一が、アジアで鋭い感性がたくさん生まれている反面、日本人の視点がダメになったと嘆いていた。日本画壇の高名な画家が贋作がばれて当人は勿論、画壇もあわてふためいている。若者の言葉が貧困で、喜怒哀楽の表情が無いと評論家がしゃべっていたが、では大人は豊かな表現で会話を交わし、感情の変化に満ちているだろうか?実は、恥ずかしいほど硬直し、孤立を恐れない表現など皆無ではないか。保守的で体制順応を第一とし、自らの意志に関わらず目立たないことを処世術とするけち臭い大人が、感性豊かな子供を育めるなんて絵空事。
小泉政権下の日本で、何が可能になり、何が不可能になったのか?何が創られ、何が破壊されたのか?歴代政権下、かろうじて命をつないできたガラス細工よりも脆弱な民主主義は、バーミヤンの石仏よりも派手に破壊され、憲法を国家が緊縛するという離れ業が強行されたのだ。この白昼堂々のS・Mショーが可能なほど、この国は常軌を逸してしまった。現在の荒涼とした風景は、これからさらに朽ち果ててゆくにちがいない。
はっきり言っておく。戦争国家は人間を破壊し、表現を不能にする。戦争国家が世界に通用する文化を創造することは絶対に不可能だ。 006.5.31 高木