無言館

凛とした薄暗い空間に、強奪され破壊された悲しみが漂っている。数えきれない程の錯綜する絶望や慟哭にたじろがずにはいられない。国家をも超越する情念の空間である。
「絵の巧拙など問題ではない。修業途中の“わかがき”のういういしさ、どこまで伸び得たか未知数の才能が、戦争によって無残にねじきられた実相を、展示の作品はあなたに語りかけてこよう」(澤地久枝)
信州上田市郊外の丘の上に1997年に立てられた無言館は東京美術学校(芸大)生を中心に、絵を志した若者たちが、戦争によってその人生を断たれ残された貴重な作品を展示している。具体的な人間の記録をたどれば戦争否定に帰結するほかないという明確な主張である。
たとえば、中村萬平は浜松出身で、在学中にモデルをつとめた霜子と結婚するが、同年、華北へ出征。まもなく長男暁介出生。しかし半月後、最愛の妻・霜子は他界する。妻の死を祖国からの手紙で知った萬平は戦地にのぼる満月をあおいで泣いた。翌年、野戦病院で戦病死。享年26歳。展示された霜子の裸身の油彩画はところどころ絵の具がはがれ落ち傷みが激しい。しかし、これはまぎれもなく萬平のまなざしそのものだ。最愛の妻を永遠に見つづけるまなざしは半世紀変わらなかったように、これからも変わらないだろう。彼の人生の絶頂期を無残に破壊したのは戦争だった。
「あと五分、あと十分この絵を描きつづけていたい。外では出征兵士を送る日の丸の小旗が振られていた。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから…。日高安典はモデルをつとめてくれた恋人にそう言い残して戦地に発った。しかし、安典は帰ってこなかった」20年4月19日、ルソン島にて戦死。享年27歳。
当時、東京美術学校を卒業、徴兵されたが生還した画家野見山暁治は「はなばなしい使命感や、自己犠牲の美しい響きとは遠かった」と回顧する。さらに、徴兵されるその時の印象を「日々まみえる家族のひとりひとり、信じあえる友人、あるいは離れがたいひと、なにげないあたりの景色、それらが急に貴重なものとして浮かびあがる。そうした、かけがえのない日常を絵の具や粘土で確かめるのは今しかない」と語る。最愛の家族や身近な風景画が多いなか、朽ちかけたアジサイの花を精密にデッサンしたものもあった。浜田清治である。17年1月にマレー半島で戦死。享年27歳。二歳上の兄国治もシベリアで戦病死した。
前田美智雄が戦地から妻・絹子に送ってきた絵葉書は400通をこえた。どれもが、生きて帰るまで待っていてくれ、という愛の便りだった。しかし、フィリピンに転戦後、美智雄の便りはぷつりと途絶えた。20年8月5日頃マニラにて戦死。享年31歳。絹子は戦後、夫のくれた絵葉書を何度も何度も暗記するほど呼んで暮らしたという。
ところどころに残雪が積った無言館のまわりは、日本のどこにでもありそうな里山の風景である。コンクリートの十字形の建物の中には戦死した画学生30余名、300余点の遺作・遺品が展示されている。それぞれの作品には故人についての短い説明文が展示されている。“すすり無きの聞こえる美術館”と呼ばれるそうだが、決して誇張ではない。
可能性、希望、愛情、情熱などに満ちた人生を切断され、破壊された無念が、この空間にふれた者を羽交い締めにする。日常において戦争について、さほど深刻に考えたことのない人間でも、その無言の叫びには凍りつく他はない。
1997年に建設された無言館をぜひおとずれたいと思ってきたが、ようやく実現した。それにしても敗戦後、初めて自衛隊が戦闘の行われているイラクに派兵が決まった時期とは何と皮肉な事か。澤地久枝は、無言館図録に「戦場へのぞむ(征途につく)という言葉は、この半世紀、日本では、かろうじて死語であったことを、死者たちに頭を垂れて告げたいと思う」と書いているが、この言いまわしが無効になってしまったのだ。あえて言及するなら、(征途につく)という言葉を死語にさせまいと育んできた半世紀を、日本人は手前勝手に平和などと呼んできたにすぎない。無言館の住人たちの悲痛な願いを踏みにじるような今の日本の姿が在る。
教育の崩壊は戦争に無関心な教師と生徒をうみ出してきた。そして戦争を知らない世代が戦争を渇望する社会をつくり出している。戦争を教訓としなかった社会は、死の意味を知らず、それゆえ生からもほど遠い刹那的な価値だけがはびこった。そして言葉の重さが消えていった。幾千万の犠牲者が文字通りコケにされたのだ。そのひとりひとりの人生は無言館の住人たちのように絵画という表現手段を持たなくとも命の重さに変わりはない。この国で使われる言葉がこれほど軽薄になろうとは無言館の住人たちには想像も出来なかったにちがいない。
小泉首相は年末休暇に映画「ラスト・サムライ」を観に行った。記者に感想を聞かれ「死を恐れないばかりか死を望んだ者がいたことに感動した」と答えた。一連の小泉語録に表われるのは、軽薄さと場当りであり、哲学の不在であるが、同時に(自分だけはリスクを回避できる)という傲慢な自信だ。その小泉首相は1月1日、靖国神社を公式参拝した。6者会談をひかえた微妙な時期であるだけに記者が韓国や中国に対する影響を聞くと「どの国にも伝統や習慣があり、それについてどうこう言うことはない」と笑顔で答えた。
アフガンやイラクの伝統や習慣を破壊して自国に都合の良い民主主義を押し付ける米国に無条件で賛同・支援したのは日本ではなかったか?それにA級戦犯を祀る軍神信仰の神社に参拝するのがいつからこの国の伝統や習慣になったのだろう?
無言館の作品たちに接して感じたのは年令の若さにしてその存在感の確かさだった。生と死に真剣に対峙したゆえだろう。そのような身の丈をせいいっぱい生きるという感覚を現在の日本人に見出せない事こそ、この国の民主主義のメッキの薄さということだ。なにしろ生きる価値を見出せず自殺する若者がひとりやふたりではないという社会なのだ。
無言館に向かう途中、駒ヶ根高原美術館で藤原新也の「メメント・モリ」(死を想え)を観た。数十万部売れた「メメント・モリ」の写真集はあらためて紹介するまでもなく、インド放浪中の写真を中心に生と死のはかなさを的確に表現したもので展示は薄暗い円型の部屋に透過光とスポット・ライトによって効果的に配してあった。メメント・モリの価値を高めたのは的を得た「言葉」である。人間を真剣に考えた末の言葉は言い得て妙だ。比較などおこがましいかぎりだが、小泉語録のショートフレーズとは対極の世界だ。ガンジスの河岸で荼毘に付される死体から発する炎の写真には「死はアナーキズムである」の言葉。
夜の上田市街をさまよっているうちに狭い路地裏のレコード店のガラス戸にロック・グループのレイジアゲインスト・ザ・マシーンのポスターを見つけた。ベトナム戦争に抗議してガソリンをかぶり、自ら火を放ち燃え盛る炎に包まれる僧侶の姿だ。日本の宗教界では考えられない行動だ。それにしても日本が向かいつつある戦争、恒久派兵がどれ程の悲惨であるか…。
無言館が、過去でなく現在を語っていることにあらためて戦慄を覚える。
2004.1.2 高木