派兵と「慰霊」について ・ 
浜松地域の戦争の歴史から

                                                 


●はじめに
 
 きょうは、「派兵と慰霊」というテーマで集会がもたれています。今日の集会の主催者である反天皇制運動の実行委員会では三月一九日に太田昌国さんをお招きして討論集会をもっています。その記録を読んだのですが、そこでは三つくらいの問題提起があったと理解しています。
 ひとつは、「抵抗線の決壊」という表現で現在の運動・言論状況が示されています。言い換えれば、抵抗する側がどういう内実を持っているのか、つまりこちら側の歴史認識が問われているという問題提起であると思います。第二点は、現在の天皇制がどういう歴史性をもって存在しているのか、その本質は何なのかという問題。そして三つ目は、戦争犯罪の問題を再度確認しながら、新しい抵抗・運動の姿を模索していくことが求められているという問題提起であったと思います。

今日の話をこの問題提起を引き継ぐかたちですることができればと思います。
 ●浜松からの派兵
 最初に浜松からの派兵について紹介したいと思います。浜松では「昭和」のはじめに陸軍航空基地が建設されました。この軍事基地ができる前から、古くは戊辰戦争のときに神官を中心に遠州報国隊といった組織ができ倒幕に参加する人もいました。そういう人々の戦争碑も地域には残っています。地域の戦争碑を見ていきますと、戊辰、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦、山東への派兵など、戦争のたびに地域から陸軍部隊が編成されていることがわかります。一九〇七年に浜松には歩兵の連隊がおかれていますが、この歩兵連隊は二〇年代の中ごろになくなり、浜松地域からは豊橋に徴兵されて、豊橋第一八連隊としてアジア各地に派兵されていくことになります。
 一九二六年に、陸軍飛行第七連隊の基地ができました。この部隊は陸軍にとって最初の爆撃部隊だったのです。その部隊が三〇年代に拡大されていきました。航空軍事基地ができると、地域の工場の軍需化がすすみ、たとえばヤマハなどは軍用プロペラを作り、中小工場を含めて軍需生産を行うようになります。つまり浜松で軍事航空基地と軍需工場群の形成が並行するかたちですすんでいったのです。 

さらにこの軍事基地では毒ガスをどうやって空から効果的に使用するのかが研究されていったのです。それは爆弾で落とす、あるいは「雨下」といって液状にして撒くという二つくらいの方法があったのですが、そのための訓練や研究が行われました。やがて敗戦色が濃くなる中で、本土決戦用の部隊が基地の北方に置かれていくようになります。浜名湖の一部が立ち入り禁止になり、そこでひそかに軍事訓練や研究を行うという状況が生まれています。以上が概略です

       戦争犯罪としての無差別爆撃と毒ガス戦

派兵による加害についてもう少し詳しく見ておきたいと思います。
 一九三一年にいわゆる「満洲事変」がおきます。この侵略戦争とともに浜松からもはじめて飛行部隊が派兵されていきました。派兵されたこの飛行隊は後に中国で飛行第一二大隊という隊に改編されていきます。この飛行第一二大隊が作った写真帳が最近手に入りました。空からの爆撃の写真をたくさん撮っていて、こんなふうに我々は攻撃したという記録の写真帳です。この史料の発見で、この浜松地域からの部隊が派兵されて中国で何をし、どれほど中国の人々に被害を与えたのかということがようやくわかりました。 
 当時、どんな口実で派兵や殺戮を正当化していたかというと「匪賊の討伐」です。抗日軍は「兵匪」、コミュニストは共匪といって、殺戮の対象にしたのです。今風に言うと、「反テロ」戦争ということになります。 

これは浜松の部隊によるのではないのですが、最初に日本の陸軍航空部隊が空爆した場所は錦州です。錦州というのは満洲地域への入口にある拠点です。ここは張学良軍の拠点でした。最初、平壌から航空部隊が派兵され、その部隊が中心になって最初の錦州空爆を行いました。これはアジアにおける初期の爆撃のひとつですが、この時の爆撃は爆弾に真田紐を巻きつけ、飛行中に緩めて落とすというものでした。

浜松の部隊はこの錦州への空爆後の攻略の際、周辺地域で空爆をたくさんしています。また奉天・ハルピン・ハイラルなど、この周辺にはさまざまな抗日部隊が誕生したのですが、これらの抗日部隊への空爆もおこなっています。さらに33年の熱河作戦では万里の長城を越えて北京市周辺の密雲にまで無差別爆撃をしています。たとえば二千メートルぐらいの高さから一五キログラムの爆弾を大量に空から落とすといった形で爆撃をしています。そういう記録が、誇らしげにこの写真集には掲載されています。

三七年のゲルニカ爆撃を表現したピカソの絵が有名ですけれども、このようなかたちで満洲地域において行われた無差別爆撃を、わたしたち自身の「ゲルニカ」としてとらえなければいけないと思っています。 

そういう歴史を経て一九三七年の七月からの中国への全面侵略にともない、浜松から直接派兵されていくことになります。ひとつは飛行第五大隊、もうひとつは第六大隊、それから独立飛行第三中隊が出て行きます。これらは三八年に編成替えされて、飛行第三一戦隊、第六〇戦隊、第九八戦隊という形で強化・再編され、アジアへの空爆部隊として成長していくわけです。派兵されればされるほど、装備が強化され、実戦もしながら、より強固な部隊へと編成されていく。そういう形でアジアへの爆撃部隊が浜松を起点に増殖していくわけです。
 最近私が調べているのは、その中の飛行第六〇戦隊という部隊です。この部隊は蘭州や重慶などを空爆しています。抗日部隊である八路軍の拠点が山西省にありました。この地域の攻略戦にも参加しています。ここでは日本軍が焼き殺し奪うという「三光作戦」を展開しています。そのような抗日拠点を支援する輸送の拠点として蘭州があり、重慶は蒋介石の国民政府の拠点でした。それらを空爆によって破壊しようとして戦略爆撃を行ったのです。重慶爆撃は海軍の部隊も参加しましたが、陸軍による重慶爆撃は主に三つの部隊によっておこなわれました。その三つ部隊はともに浜松から派兵された後、強化・再編されていた部隊なのです。
 しかし、このような爆撃をしても中国側は抵抗し続け、派兵は次の段階を迎えます。今度はアジア太平洋戦争の準備をしながら、航空部隊は一九四一年の後半には東南アジア各地への展開を準備していきます。浜松で編成され中国に展開していた部隊も、南方へと次々に送られていきます。
 時間の関係で、シンガポールでの空爆の状況をひとつだけ紹介します。当時の史料から第九八戦隊の陣中日記をみるとつぎの記事があります。「(一九四二年)一月一八日、市街攻撃」「戦隊全力をもって一〇時二〇分出発。一三時二九分、高度六五〇〇米にて雲上推測爆撃敢行」。
 「雲上推測爆撃」というのは、目標に当たっているかは分からないけれども市街上空の雲の上からバンバン爆弾を落とすというものですから、無差別の爆撃です。さらに次のように記しています。「戦士の士気愈々高し」「征け 聖戦に征刀かざし 世界平和の 彼岸や近し」と。
 こんなふうに、無差別爆撃が世界平和に近づくための第一歩だ、という論理でシンガポールを爆撃していったのです。それだけでなくマレーシア、インドネシア、さらにはインドのカルカッタまで空爆を繰り広げていったのが、浜松から派兵され各地に展開した空爆部隊の歴史でした。
 もうひとつ、毒ガスを空からいかに効果的に落とすのかという訓練を行ってきた歴史もだんだん明らかになってきました。
 「アジア歴史資料センター」が現在、戦前の陸軍史料も含めて、インターネットで史料の公開をすすめています。それにより、関連史料が検索できるようになっています。たとえば「化学 浜松」と二つキーワードを入力して検索すると、それに関する史料が取り出せます。そのような作業により、たとえば、浜松の陸軍飛行学校がハイラルや白城子で空から毒ガス弾や毒ガスの液を撒き、相手をどう攻撃するのかという実験や訓練を行ったことがわかる史料も出てきました。もちろん、実戦で使ったという史料はなかなか出てきません。でも実験や研究をしたという史料はかなり出てくるようになりました。
 毒ガスに関しては、中国側の史料もあり、空から毒ガス戦を実行したと明確に言える状況になったと理解しています。戦後、日本は毒ガスを各地に廃棄したのですが、浜松周辺でもそれらの廃棄毒ガスによって住民が死傷したりする事件も起きています。

アメリカ軍は日本軍の細菌戦や毒ガス戦については免責しましたが、それによって、米軍は毒ガス戦や細菌戦を継承し、それらをアジアで再び使ってきました。このような戦争犯罪の免責とその継承を許すことなく、戦争犯罪の問題を地域レベルから問い直していき、それを歴史認識としていきたいというふうに考えています。

 地域の戦争碑での「慰霊」
 もうひとつの問題として、このような戦争で亡くなった人々が地域でどんなふうに扱われてきたのか、その「慰霊」の状況について考えてみたいと思います。
 地域の追悼碑、慰霊碑にはいろいろなものがあります。集団で追悼する碑としては、死亡者の名前が書いてあること、死んだ人の歳が書いてあること、どこでどんなふうに死んだのか、その死んだ場所が書いてあること。碑の調査をするなかで、このような事柄がきちんと記されているかどうかを指標とするようになりました。もちろん、その戦争責任まで記してあればよいのですが。
 個人墓について言えば、たとえばこんな記述がありました。直撃弾を受けて「一片ノ肉塊スラ止メズ」海に沈んで亡くなったと。この墓の碑から、骨も肉も髪も何も残さず死んでしまった子への肉親の想いが感じられました。陸軍の兵士の墓は、星のマークが付けられ、少し立派につくられていて、死にいたった経過がさまざまな形で書いてあります。戦争を賛美した表現が多いのですが、なかには頭部に貫通銃創を受けて死んだと記し、痛みを感じさせるものもあります。
 三ヶ日でみた町長による碑文がある個人墓には「天皇陛下万歳」を叫んで死んだとするものもありました。それは疎外された表現です。どんなに「皇民化」が叫ばれていたにしろ、やはり遺族個々人の思いとしては子どもの死は当然悲しいことなのであって、個人墓にはそのような親族の悲哀というものが比較的記されていると、私は感じています。
 地域の戦争碑を調査してきて感じるのは、碑という史跡に対し、こちらの側が、どのような反戦平和の表現を創っていくことができるのかということです。つまり、戦争碑を題材にすることで、記されてはいない皇民化の歴史、徴兵制とアジアへの戦争の歴史、戦争を遂行してきた天皇制の戦争責任といったものを、表現していくことができるのではないかと考えています。そのような意味で、戦争の記憶をめぐる文化領域での一つの攻防戦が戦争碑をめぐる彼我の関係の中にあると、地域の歴史を調査する中で、私は考えています。
 ここで私がお話してきたことは、浜松という個別の地域の話であり、東京周辺の皆さんには関係がないことかもしれません。けれども、日本各地にはさまざまな地域があり、そこにはさまざまな人たちが住んでいるわけです。

先日、立川に行きましたが、立川には軍都としての、軍事基地と軍需工場としての地域の歴史があります。地域には被弾の史跡や民衆の追悼碑などが残されています。またその後の立川での基地と民衆の抵抗などさまざまな歴史があるわけです。ですから、ひとつの地域のさまざまな歴史性を踏まえ、その地域での派兵と「慰霊」状況を問い、地域での民衆の側の歴史認識を形作りながら、現在の派兵と戦死者を賛美してその戦争責任を問わない「慰霊」に反対していく必要があると考えています。