浜岡原発反対運動小史
浜岡で原発建設の話がもちこまれたのは1967年のことだった。町の「広報はまおか」では原発の安全性がさかんにキャンペーンされた。一方、現地では67年に浜岡原発反対共闘会議が結成され、漁民の海上デモや陸での集会・デモなどがおこなわれた。しかし、中電は漁民の反対の声をきりくずしながら、71年に1号機の建設をはじめた(74年運転)。74年には2号機の建設をはじめ、さらに77年には3号機の建設を発表した。70年代は浜岡での原発建設ラッシュの時代であり、反対の声をおさえるために国や中電から多額の金が投入された。
81年の3号機公開ヒアリングに対しては静岡県労働組合評議会や住民の会などによる大きな反対行動がとりくまれた。また80年代には静岡や浜松で反原発をかかげる市民団体が結成された。一方、中電は85年に4号機の建設を発表した。町は受け入れを表明するが、その直後にチェルノブイリ原発事故がおきた。1号機の水もれ事故もおき、浜岡現地での抗議集会やデモがもたれた。
90年代に入ると、原発下請労働者の被爆死に対する労災闘争が行われた(嶋橋訴訟)。一方、中電は5号機の建設をすすめるが、おわることのない増設にたいし、現地浜岡で、浜岡町原発問題を考える会が結成され、原発反対の声をあげるようになった。また、県内各地の市民・労働者を横断して、浜岡原発を考える静岡ネットワークが結成された。同ネットワークは東海地震下での安全性を問い、5号機反対や使用済み核燃料輸送反対の活動をすすめた。チェルノブイリ・もんじゅ・東海と大きな事故がつづくなか、脱原発、反原発への市民の意識は高まり、全国各地での原発関連の住民投票は反原発派が勝利した。
しかし中電は2001年、浜岡原発でのプルサーマル計画を公然と示すようになった。その矢先の事故が今回の1号機の配管爆発と炉心からの漏水事故であった。今回の事故に対しては自治体から中電に強い抗議がおこなわれた。小笠町議会は中電に老朽化なら廃炉へとせまり、吉田町議会は国に対し1・2号機の廃炉を求める意見書を採択するに至った。浜岡町も原発は安全という姿勢から「危険なもの」との認識の変更を公表するに至った。この間浜岡町は中電と一体となって原発を推進してきたが、今回は中電に対し通報のおくれを「背信行為」として批判している。このような経過のなかで、今回の結成集会はもたれた。
・浜岡原発訴訟へ
浜岡原発は福島や若狭などの原発とともに全国で先がけてつくられた。それは国家の権力のもと、国や中電の金の力で地域住民の尊厳をおかし、札束で頬をなぶるようなやり口で維持されてきた。しかし事故の続出は「安全神話」を崩壊させ、自治体を含めて市民からの廃炉の声をたかめることになった。
原発は地域の生命を絶つクサビのように存在している。この裁判はそれを市民の力によって廃炉とし、原発のない地域社会をつくっていく第1歩になるだろう。それは浜岡原発30年の節目となるたたかいである。裁判の会では多くの市民に裁判への原告としての参加を呼びかけている。
2002 (竹内)