イラク反戦日誌6 2005・11

日米安保再編「中間報告」

2005年10月末、日米両政府による在日米軍の再編成に向けて中間報告が出された。ここで示されている動きは、自治体や市民の意向を無視し、日本をいっそう米軍の支配下におくものである。この動きにより、自治体や市民との矛盾はいっそう激しいものとなり、各地で反基地反戦運動が形成されていくだろう。かれらの戦争政策が、民衆の反戦運動のたかまりとその運動の横断の条件をたかめているということもできる。

 最初に中間報告や最近の報道からこの米軍の再編についてみてみよう。

 この軍拡・再編はアメリカによる対中国・朝鮮への戦略による配置であり、韓国の米軍を、これまでよりも南北分断線から遠方に配置し、日本を出撃拠点として整備するという動きになっている。米軍は「5027−04」作戦計画において、作戦計画をより先制攻撃的なものに組み換えてきたが、今回の配置はそのような米軍のより侵略的な作戦計画による布陣といっていい。

海での軍事的共同についてみれば、この間、米軍は空母群の増強を狙い、イージス艦を増強してきた。横須賀が日米の司令拠点となり、原子力空母の配備が計画されている。MD計画の下に、日米の平時からの共同作戦がすすめられ、イージス艦の増強と国内でのPAC3ミサイルの配備がすすめられていく。

陸では、座間に米陸軍第1軍団の作戦司令部と陸自の中央即応集団の司令部がおかれる。相模補給廠には1300人の米陸軍部隊が増強される。

空では、横田に日米の共同司令部が置かれる(日米共同運用調整所)。この日米共同運用調整所は今回の再編のキーワードといえるだろう。米軍嘉手納や三沢などの訓練が、日本の空自基地の千歳・百里・小松・新田原・築城など5箇所へと拡大される。また嘉手納を自衛隊も使用する。岩国基地には厚木基地から1600人の米軍と57機の艦載機が移転し、この間強化されてきた岩国基地を使用する。厚木には68機・5000人が残るが、ここに岩国から自衛隊機17機を受け入れる。岩国基地が韓国の群山基地や烏山基地とともに、対朝鮮の攻撃の前線となる。鹿屋基地には普天間基地から米軍300人と空中給油機や輸送機が移転し、岩国基地の航空機による攻撃を支援する形がとられる。

沖縄の海兵隊は6000人がグアムに、1000人が日本本土に移転するが、その移転のための数千億円の費用は日本が持ち、日本が移動用の高速輸送艇を購入する。普天間の移転については、辺野古の海上基地建設は断念するが、辺野古海岸に滑走路を作り、艦載機を発着できる滑走路とする。

 以上がこの間の米軍再編がらみで出てきている動きの概略である。このような基地の米軍主導の共同拠点化の中で、改憲や国民保護といった有事態勢づくりが提示されているわけだ。しかしこのような戦時体制づくりは、自治体や市民からの抗議をいっそう強める。

座間では司令部移転に反対する連絡協議会が組織され、市渉外課基地対策係を窓口に市民大集会がもたれるに至った。新田原でも周辺1市4町が米軍の基地使用に反対する対策協議会が組織されている。横須賀市議会は全会一致で原子力空母配備反対の意見書を可決した。自治体や市民を無視した、日米支配層の「防衛強化」が、自治体を含めての怒りの渦を形成している。政府内には、自治体の同意が得られないときには政府による執行ができるようにと特別措置法の準備を狙う動きもある。

     戦争国家

 「冷戦」以後、グローバリゼーションのもとで、米軍は「地域紛争介入」戦略をとり、それへと自衛隊を組み込む動きがすすめてきた。紛争自体アメリカが作りあげたものが多いのだが、「対テロ」戦争がおこなわれるようになった。他方で世界的なレベルで反戦運動も高まっている。2003年、世界的なイラク反戦運動の高揚があり、2005年9月にはアメリカで30万人の反戦デモがおこなわれた。日本でも新基地建設をめぐって沖縄辺野古での基地建設阻止運動がおこなわれ、海上基地建設計画を断念させるに至った。

 1990年代の安保再定義、日米共同作戦体制づくりは、1999年の新ガイドライン関連法の制定の後、2001年テロ特措法、2003年イラク特措法と海外派兵法の制定がすすみ、その間に有事法も制定されてきた。そのなかでAWACSや空中給油輸送機の導入や訓練がすすんだ。AWACSは日米共同訓練へと繰り返し投入されるようになった。AWACSによるグアムやアラスカでの共同訓練もおこなわれるようになってきた。

 一方で、「小泉劇場」や「チルドレン」(議員の隷従化)といわれるような、主権者の側の権利の疎外がすすみ、新たな翼賛体制がつくられてきた。また過去の戦争を肯定する教科書づくりや、改憲策動もすすみ、「国民保護」という名の統制と動員の計画の策定がすすんできた。

     反戦運動の経験と課題

 イラク戦争開始前後には、多くの市民が反戦運動の列に入ったが、派兵の恒常化とともにその数は減ってきている。それは一過性のもののようだが、反戦の意思の内心での継続もあるだろう。反戦を訴える核心があったから、結集があったことも事実であり、集まりの強弱にかかわらず、反戦のよびかけはいまも継続されている。

 ここで、反戦や反派兵の思想について考えてみよう。

 戦争は国家による殺人行為であり、殺人は人倫に反するものである。「命こそ宝」である。戦争は生命環境を破壊する。これは人間尊重と環境の視点である。

戦争による死は、多くの生命のその生存の根拠を破壊する。今ある生も、もし親の世代が戦争で絶えていたならば、存在しないだろう。そのような歴史的体験を経て今、私たちの生がある。20世紀には1億を超える戦争死者があった。そのような体験を繰り返させないことは、戦争の世紀の経験のうえにあるわたしたちの歴史的な責任である。過去の戦争犯罪をあきらかにし、その戦争責任を果たすことが先決だ。これは歴史的な視点である。

戦争は支配階級の利益によるものであり、支配階級による民衆基層からの兵士のリクルートによっておこなわれる。殺すことを強いられる相手は兄弟や姉妹である。兵士とされる者の人間性の復権に向けても「戦争に行くな」と兵士自身に呼びかけることが求められる。これは階級的・国際的な視点である。

戦争は、嘘・欺瞞で満ちている。隠された真実を知り、それを追及することは人間的なことである。これは公正・真実という社会的倫理の視点である。

日本にとっては、特に朝鮮認識が、日本の現状を見る鏡となる。南北統一と国交正常化に向けての取り組みと、排外主義の克服が課題とされるべきだろう。拉致事件を口実とした戦争策動を抑える歴史の形成が求められる。

歴史はそれを民衆が獲得する方向で歩みをすすめてきた。憲法第9条第2項は戦力と交戦権を否定するものであり、請願権とあわせて、第2項は反戦・反基地行動の法的根拠でもある。第9条を、国民国家的軍編成の枠組みを超え、軍隊のない社会の実現に向けての第1歩として捉えたい。反戦行動は、第9条の戦争放棄という権利の行使であり、その活動は第9条を維持しようとする「不断の努力」である。

眼前の軍事基地と兵器は、国家権力として絶対性をもってあらわれる。さらに、それらの軍事的存在はその肯定力を増幅させて、民衆に迫ってくるものである。そのような絶対性への批判力を持ち、自前の反軍事の論理を組み立てるとともに、それらの軍事的存在が見えないところで繰り広げていく破壊について想像する力が求められると思う。

過去の侵略戦争において、浜松の飛行部隊は中国やシンガポール・ビルマ・インドなどアジア各地を空爆した。現地の資料と飛行戦隊の記録を照合しながら、これらの部隊がおこなった侵略の史実を再把握し、浜松各地に残る戦争史跡を民衆の視点で捉えなおすなかで、歴史認識を地域から再構成していく、そのような作業も欠かせないものであると思う。

質の違うものとの対話力や、想いを練り合わせる力、動機の自由の尊重なども反戦平和の歴史的潮流の形成においては、留意すべき視点である。

高良留美子の詩に「きょうだいを殺しに」がある。

そこには「わたしたちは言わなければいけなかった どんなに美しいことばで飾られようと あなたたちが殺しにいくのは きょうだいしまいなのだと」「国とは何なのか 国とはなんだったというのか わたしたちは一度でも そのことを考えたことがあったか」とある。

派兵と「日の丸」の波のなかで、言わなければならないことがある。反戦平和の表現が求められている。        
                      (2005・11 竹内)