2002・6月9日 浜岡原発での人間の鎖行動によせて

 6月9日、浜岡原発の廃炉を求めての現地抗議行動がとりくまれた。この日の行動は8日のチラシまき戸別訪問、9日のチラシまき、中電への要請、原発包囲(人間の鎖)、浜岡原発から町役場までのデモ、10日の県・町への要請という一連の行動のなかでとりくまれた。

●原子力館(広報館)の展示

 敷地内に入ると右方にPR用の原子力館がある。この館の展示の中心(シンボル)は実物大の原子炉であり、原子力発電の安全性の宣伝が展示の第一の柱となっている。1号機の事故(01年11月)はこの原子炉炉心からの水漏れとECCSの配管の水素爆発だった。中電はこれらの事故のため2号機も止めざるをえなかったが、02年5月、住民の批判を無視して3号機につづき、2号機の運転を再開した。しかしすぐに2号機ECCS系統から水漏れが発生し、運転を停止した。

 事故の続出、それも炉心からの水漏れ、ECCS系統での爆発事故はこの館の展示の中心コンセプトをくずすものだった。中電は大きな打撃をうけた。その危機感が展示からもうかがえる。

 原子力館に入ると、展示の入口に1号機事故のパネルやビデオがおかれている。事故後の12月に原子力館に入ったが、そのときにはなかった展示だ。ビデオからは「外部への放射能もれはあれいません」の声が流れる。「内部で放射能がもれました」とは決していわない。

 入口にはあらたな冊子がおかれていた。

『原子力Q&A』・電気事業連合会2002年3月

『プルサーマルについてのご質問にお答えします』同3月

『浜岡原子力発電所1号機配管破断および原子炉下部からの水漏れについて』中電・2002年5月

 こんなにもたくさんの冊子をつくり安全性をキャンペーンせざるをえないところに中電・電気事業連の危機状況が顕著に示されている。

 

●原爆遺伝障害や原発労災死の抹殺

 『原子力Q&A』をみると放射能はあっても大丈夫、毎日放射能をうけての生活、放射能をうけても子供への遺伝障害は見られない。原発で働く人のがん死率は一般人と同じ、事故時には迅速に対応するといった表現がならんでいる。

 「広島・長崎の原爆により多量の放射能を受けられた方々などを対象に多くの調査がおこなわれました。その結果、今までの調査では子供への遺伝的な影響はみられませんでした。人間の遺伝子は放射線などで傷つけられてもある程度は傷を修復したり排除したりするしくみが備わっていると考えられています」(p.10)といった表記もある。このような表記はこの国の電力会社が過去の史実を無視し、デマを宣伝しているといわざるをえない。

 被爆による遺伝障害はここでは抹殺され、生まれることなく亡くなった生命や、生むことを断念せざるをえなかった人々の想いやその歴史などはかえりみられることがない。

 原発労災についても全くふれられず「死亡率は一般の方とほとんど変わりません」(p.12)とされる。

 プルサーマルの冊子をみると「リサイクル」が強調され、MOX燃料をとりあつかう場合も「作業員への影響はありません」と断言している(p.7)。

 中電は昨年の春ころ、浜岡でのプルサーマル計画をすすめていた。今回の事故でその計画は挫折したが、プルサーマル計画再開にむけてキャンペーンをすすめている。原子力館のトイレに入ると「プルサーマル推進」の説明板がはられていた。トイレの手洗い場にまでプルサーマルを宣伝し、来館者にプルサーマルのイメージをうえつけていこうとしている。近くにはリサイクルトイレットペーパーにもあった。

 今年の4月に出された中電の事故冊子の裏には「今回の事故の教訓を活かし、原子力の安全確保に全力で取り組んでまいります」とある。この冊子を館にならべ、2号炉の運転を再開した直後、再び事故がおきた。

 原発停止を求める1000人余の訴訟が4月25日に提訴されたが、これに対抗して中電が発行したのが耐震チェックの冊子だ。ここでは「安全」が強調されている。しかし今回の2号炉の水漏れ事故現場の写真をみると原発の老朽化を感じざるをえない。今回の破損配管は耐震チェックの対策とはなっていなかった。冊子では「伸縮自在継手」を紹介し、耐震対応を示しているが、多数の配管にすでに存在するであろう応力腐食部分が大地震の際にどうなっていくのかは不明だ。

 過去の史実(遺伝障害や労災死)を抹殺し、死者の存在を無視する電力資本の語る安全性。こうした安全性では現在、そして未来にわたる市民の生命の尊厳は無視されているといえる。

 

●すすむ5号炉の建設

 原子力館の62メートルの展望塔から原発をみると、5号機建設用の10数基の巨大なクレーンがみえる。右側に1、2号機があり、左側に3、4号機、中央にあるのは事務棟、一番奥に5号機が建設されている。展望台内には展望者を監視するカメラもある。

 東電には福島に10機、柏崎に7機、関電は若狭湾に11機、九州電は6機の原発を動かしている。中国電力の原発は島根にあるが、もう1ヶ所の対象地山口県上関では住民が大きなたたかいを展開し原発資本と対峙している。中電は浜岡に4機をもつ。芦浜や、海山での住民の抵抗によって、中電の原発計画は三重県から追放された。三重県の住民の30年の抵抗が勝利している。このなかで中電は浜岡での原発の維持・増設とプルサーマル推進をすすめてきた。しかし今回の事故により中電の計画は頓挫をよびなくされた。とりわけ大きな特徴は自治体からの中電への批判が高まったことだ。電力資本のいいなりにならず、老朽炉の廃炉を中電や国へと申し入れる動きが小笠町吉田町焼津市他のように続出した。中電の支配力が強い浜岡町には廃炉を求める動きはいまだないが、周辺市町の動きは浜岡町に影響を与えざるをえない。また住民の停止訴訟やこの間のチラシ入れでの地域住民の反応からわかるように中電の原発推進政策への批判は高まってきている。

 原子力館に「遊ポット」という子どものあそび場がある。そこには「あそボット」というロボットがあり、放射能が日常的に存在することを示し、放射能への安全性を子どもにキャンペーンしている。ここでは原発から出される有害な放射線については全く示されない。まさに子どもだましの展示である。

 6月9日、中電敷地内には抗議行動参加者を出むかえるかのようにいたるところに、敷地内での示威を制止する看板が貼られていた。ベンチにすわっていると中電の「私服」がきて「ここはわたしたちの土地」「おくの部屋で要請書はよんでもらうから」という。その後、私服のおじさんがきて、ボソボソいうので「あなたは何者?」ときくと「ケイサツのものです。××さんに話があります」という。あちこちにいたおじさんたちは警察と中電の警備の係の「私服」だった。中電は「私服」をつくり住民になりすまして、構内や申し入れ会場に配置していた。

 5号機建設がすすむなか、旧炉での事故が増発している。このなかで中電は「反テロ」を口実に廃炉や原発停止を求める市民を自社内に私服のスパイまでも育成して監視している。

 

●中電への要請行動

 6月9日の13時30分から原子力館入口の休憩室で中電への要請がおこなわれた。これまで原発入口の門のところで要請(申し入れ)をおこなってきたが、中電は他者の眼を封じるために別室を用意して対応した。

 浜岡原発を考える静岡ネット、浜岡原発止めよう関東ネットなどの団体や参加した市民が詩をよんでアピールし、原発の廃炉や停止を要請した。参加者は約70人。 

 対応した中電職員は横断幕をひろげることを拒んだり、要請への回答については「係争中」を口実に回答する意思を全く示さなかった。このような係争中を口実とした問答の拒否は会社の方針である。中電の対応は消費者や市民の声をふまえて対応するという企業倫理をもたない。中電は一方的にチラシを全戸に配布し、戸別訪問をおこない、それをもって「地元の理解をえた」とし、3号機・2号機の再開をすすめた。これまで抗議する人々に対し、「係争中」を故実に要請書のうけとりさえ拒否してきた。今回、要請書はうけとっても、質問にはこたえようとしない。このような中電(巨大独占資本)の対応に要請会場からは怒りの声があがった。消費者の権利には安全性・情報をえる権利、意見表明権、選択権などがあるが、中電は地域環境をおかし、情報と電力を独占し、裁判を口実に対話を拒否し???にたいして不誠実な姿勢を示している。

いつまで消費者主権を侵す対応をつづけるつもりなのだろう。

 このような中電の対応に対しては、市民のみならず廃炉を要求しはじめた自治体担当者からも批判の声があがっている。中電は原発推進にむけて地域住民に対し、現金でその頬をなぐるような行動をとってきた。そのような利益追求と利益誘導を第一とする資本にとって住民一人一人の生命などは眼中にないということなのだろうか。だが、このような消費者に対する倫理を喪失した企業の行動は自ら墓穴を掘っていくことになるだろう。

 今回の2号機の批判の声を無視しての運転再開強行とその直後のECCS関連の事故はそのことをよく示している。

 

●浜岡原発への人間の鎖

 要請ののち参加者は、要請会場からデモ出発点の原発入口の交差点まで移動した。移動中参加者は申し入れ会場内で用意した横断幕やプラカードを原発・原子力館駐車場で広げた。デモ出発点の原発入口交差点にあつまった人々は約70人。青信号の際に参加者は幕をもって手をつなぎ、両手をたかくかかげて原発入り靴から約80メートルにわたって「人間の鎖」をつくり、廃炉への意思を示した。短い時間ではあったが、原発入口は民衆の抗議の意思によって封鎖された。

 その後、浜岡町役場へとデモ行進をおこない、役場内で総括集会をもって行動をおえた。

 浜岡原発35年の歴史をみてみると、60年代後半に、浜岡町民の反対グループを核に原発反対共闘会議が結成され、反対運動が形成された。70年代後半、1.2号炉が建設され、3号炉の着工がねらわれるなか、80年代はじめに県労働組合評議会を中心に大規模な反対行動がとりくまれた。

 80年だし、連合労働運動による総評型労働運動の解体がすすみ、反対共闘や県評が主導する形の反原発運動から反原発の市民運動へと主体的変化がすすんだ。静岡や浜松では反原発市民運動グループが生まれた。この市民運動は86年チェルノブイリ事故、そして1号機からの最初の水漏れ事故の際に原発現地で抗議行動を展開した。また、90年代に入り、嶋橋労災闘争によって原発下請労働問題があきらかにされた。

 そして中電が5号機建設をすすめるなかで浜岡での考える会、県内での静岡ネットの結成がすすんだ。

 2001年の1号機事故による1000人余の浜岡原発停止市民集団訴訟や周辺自治体からの廃炉要求意見書採択にみられるような住民・自治体の動きは浜岡原発35年のたたかいの節目となるできごとである。それは、1967年の設置問題の顕在化以降、金と権力によって地域をじゅうりんしてきた原発資本と国家に対し、地域民衆がその侵された人間の尊厳を回復する転換点とすべき動きである。またこれまですすめられてきた諸グループの活動が再結集されていく時期でもある。

 今回の人間の鎖が、浜岡原発の廃炉にむけての烽火となっていくことをねがう。

(竹内)