十二.匍匐前進、?
三月一日、夕方が待ちどおしい。うずうずする気持ちを抑えつつ、時間が過ぎるのを待
つ。
昨日夕方、仕事先から戻った係長の松永氏が水木次長と1階東側入り口ですれ違い、そ
の際に
「岡元さんがユニオンに入ったぞ。」
と告げられたとか。
すると、私が加入したのは個人でも入ることのできるユニオンだと、あたりはつけられ
たんだな。
係長も驚いただろう。まさか、あのおとなしい私が反撃してくるなんて思っても見なか
ったはず。私に解雇を受け入れる覚悟をつけさせなかったと、上にイジメられるかな?同
じ仕事をしている後輩が先に昇任する事に承服できないと言って一年間減給されたことが
ある人である。(第2係ってこんなんばっかり?出向が二人いるのも工事の担当が上とぶつ
かって辞めちゃったからだし。)
悪いわねー、でもそれも勉強の内さ。と、ここはクールにやり過ごす。
さて、月初めのこの日の朝は今月のアルバイトさんが社員に一通りあいさつをするのが
慣例なのだが、あいさつを受ける間もなく、部・次長、総務の俊原氏が理事長室に入って
行く。
「あいさつしなくていいかしらねえ?」
私と肩を並べてその後姿を見送りながらアルバイトさんがつぶやく。
「あー、ごめんね。私が今ちょっと波風立てているものだからね。」
いや、初めに立てたのは会社だけど。
アルバイトさんはこの会社にアルバイトとして雇われているのではない。市が臨時雇員
として雇用している人たちだ。仕事の繁忙時に会社はひとり、ふたりと市に依頼して派遣
(?)もらうのだ。市は三ヶ月続けて雇うと社会保険などに加入しなければならなくなる
など、いろいろ問題が出てくるので、一ヶ月おきの雇用という形態を取っている。その間
の一月を一応『市』ではない所の仕事を斡旋してもらってある程度の仕事を確保する。し
かし、一年を通して連続して仕事があるという保証はなく、月の下旬までに人事課から連
絡のなかったものは翌月仕事がない。ないらしいと分かってからでは翌月の仕事を探すの
は厳しい話だ。年収を百三万円程度に抑えたい主婦ならいいかもしれないが、きちんと仕
事をしたいものには何ともけじめのつかない形態だ。もちろん(?)交通費は出ないし、
保険はないし、日給六千二百円だし。この点は私の給料も大して変わらないけど。何十年
と長くやっている人もいるので、本来こういう人たちこそ何とかしても良さそうなものだ
けど、さて…。
やっと終業時間となって、ユニオンの事務所へ直行。委員長が待っていてくれた。
「これね。」
と通知を見せてくれる。
うーん、出だしが
『貴社の当市での活躍に敬意を表します。』
だわ。さすが、社会人。(自分は何なの。)この道のプロ(?)。
私の書いたものは一応お手本があったとは言え『敬意』はなし。どーんと怒りに満ちて
いた。怒ってはいたけど。でも、このくらいの余裕と礼儀がなくてはね。うん。
「会社の方はどうです?」
朝の様子をひとくさり語る。
「対策会議か。」
そう、対策会議のため、部長は行くべき北浜の仕事に一時間遅れて出かけたのだった。
『裁判になったら困る。』
と電話口でしゃべっていたのを、やはり北浜で仕事をしていた副主幹が耳にしている。
実は、委託された業務に関係して訴えられ、裁判をひとつ抱え込んでいるのだ。担当は
部長なので、彼としてはこれ以上荷物を抱えたくないのである。今年定年退職でもあるし。
「明日は部長と総務の俊原氏が二人で会社の弁護士のところへ相談しに行くようです。」
これは総務の俊原氏の電話でのしゃべりから察した話。何せ、立ち上がれば社員ほぼ全
員の顔が見えるし、電話の声もたいていは聞こえる、内容に想像がついてしまう、そうい
う小さな会社である。会社顧問の弁護士に相談すると言っても、こういう問題は労働問題
専門の人でないとなかなか分からないものらしい。
私は実は二月十五日に会社の近くの某弁護士事務所を訪れている。アドバイスをしてく
れる人が欲しかったのだ。しかし、労働問題は扱わないと言われて、あえなくダウンして
いる。
この町の規模では労働問題は扱える弁護士が何人もいると思えない。
「だからそっち方面の人にちょっと話を聞くかして、僕や書記長の名前を言えば、相手は
『あ、そりゃあやめといた方がいい。』って言うと思うんだけどね。」
と委員長。それで解雇はなかったことにしてくれると、話はシンプルで済むんだけどなあ。
まあ、そうもいかないか。
今までどんな仕事をして来たか、どんなことがあったか、日々あったこともメモでもい
いから書き出しておきなさいと助言をいただく。
通知はさっそく配達記録で出してくれるという。配達証明にしなくていいだろうかと訊
ねると、配達記録でも後を追っていけるから十分だとのこと。明日は係長の代わりで北浜
へ行って仕事。通知が届いた時の様子を見られないのがちょっと残念ではある。
十三.匍匐前進(2)
三月三日、ユニオン事務所に寄る。
会社の塚崎部長から、午前中に通知に対しての返答があったとのことだった。
「交渉の日は三月十日の午後四時からと決まったから、その日は年休を取ってね。」
「了解しました。」
と言っても、本当のところは『団体交渉って、何?』状態である。単語としての『団体交
渉』は座右の書にも出てくるが、はて、その実態はいかがなもの。いつもなら、何かしら
疑問を覚えた時には図書館へ行って研究調査(!)するのだが、ここしばらく当初に借り
た座右の書を手放せないでいることもあって、他の本を借りられずにいる。
走り出してから考える、この性格にちょっと難があるかも。でも前日に一度打ち合わせ
をして、当日も交渉の前にじっくりミーティングをするというから、何とかついていける
かな?
さて、会社では俊原氏が会議室に籠ったりして、はりきって勉強しているようだ。とは
言え、部長は頭を使いたがらないし、次長は前へ出たがらないし、理事長はたぶん逃げる
だろうから、下が勉強するしかないって事なのだが。
交渉の時に言いたいことがあったら書き出しておきなさいと委員長にアドバイスをも
らう。
言いたいこと、言いたいこと。なかなか頭が回らない。ない脳みそをかき回しながら愛
車をこいで帰宅する。
ああ、まだ母に言えない。
三月七日、八日とユニオン事務所に寄る。もう通い状態だ。事務所の居心地がどうにも
いい。古くて狭い部屋なんだけど、住み着きたくなるのはなぜ?最上階だから『天守物語』
でも気取ってみるか。いや、私では本当にバケモノ話になってしまうかも。それは怖いわ。
十日の前々打ち合わせである。
会社の組織図、パンフレット等、これはという資料を提示する。委員長からはインター
ネットで検索した、雇い止めに関する資料をいただく。
『雇い止めをめぐるトラブルを未然に防止するために』とタイトルが付いている。厚生
労働省が二〇〇〇年に定めた指針について説明されたものだ。
『有期労働契約』とは、「あらかじめ雇用期間を定めて締結されている労働契約」を言
い、その契約をする労働者がパートタイマー、契約社員、嘱託、臨時社員、アルバイト等、
事業所でどのように呼ばれているかは問わないとある。
指針の趣旨については、有期労働契約の最初の締結及び更新あるいは雇い止めの説明や
その手続きの実態を見ると労働者の保護という観点から問題が見られるとしてあり、雇い
止めに関する裁判の判決では、結果として雇い止めが認められなかった例も少なくなく、
有期労働契約に係わる労働者の適正な労働条件を確保するための対策が求められている、
ということで、『指針』が定められたと説明されていた。
うーむ。しかし、こういうものをその時々に会社側がきちんと学習していればトラブル
が防げるだろうか。そんなことはないだろうな。「いかに会社に有利な形で辞めさせるか」
が会社の取り組みの基本姿勢のほとんどであり、この時すでにトラブルが始まっていると
して差し支えないのではないだろうか。経営状態が危ういなど、真正の資料を提示して説
明する、退職後の就職を支援するなどの実のある対応を心がける会社がどのくらいあるだ
ろう?
使用者が考慮すべき事項として、『雇い止めの予告』という項目がある。
『使用者は、契約を更新して同じ労働者を引き続き一年以上雇用していた場合で今回更新しないときは、契約期間終了の少なくとも三十日前に更新しない旨を予告するよう勤めること。』という内容だが、これなどは
『雇い止めをするときは契約期間終了の三十日前に予告すればいい。』
という話になって世間に蔓延しているようだしなあ。会社が一方的に通告すればいい話、
と解釈しているところが多いだろう。うちの会社を初めとして。
委員長からは他に『整理解雇』についてのレポートもいただく。これは家に帰ってじっ
くり読むことにしよう。
「会社の方はその後、どう?」
「うーん、例の俊原氏が交渉日前の九日まで休みを取っていますね。」
取っているのである。こんな時期にまとめてこれって、集中して対策を練っているとし
か考えられないが、実際のところは分からない。会社としては飽くまで解雇(雇い止め)
を言い立ててくるだろう。そのためにあることないことを言い出す、とは座右の書にも書
いてあった。何をどうひねり出そうかと、呻吟しているのだろうか。
「あなたはどうしたいのか、よく考えておきなさいよ。」
と委員長からまたアドバイス。
そういえばユニオンの役員さんたちには具体的に私はどうしたいのか言っていなかった
っけ。
しかし、自分でも確としたものはない。黙っていれば雇い止めがあるだけ。今こうして
会社には辞めないといってみたけれど、会社がどうしても解雇を言い募るなら、その先に
どういう手立てを取ろうと退職があるだけ。初めに書いたように、条件が整えば退職して
もいいかと言っても、整うべき条件がろくにない状態だ。ましてここで辞めたとして、け
っこうな年なんだから素直に次の仕事が見つかるとも思えない。
これだけないない尽くしなんだからなあ。とりあえず解雇の撤回を掛けて、やれるとこ
ろまでやってみるしかないんじゃなかろうか。そんな思いがあるだけだ。
「まあまずは十日の交渉に集中して、裁判のこととかは考えなくていいからね。」
でも、このままなら退職はたかだか三週間先のことですよぉ。月末の日曜あたり、副主
幹に頼んで事務所を開けてもらって机の整理とかしなきゃならないだろう。う〜っ、おっ
くうだなあ…って、いや、そういう話じゃないって。
裁判にしても、そこまでやりたいのか、やれるのか、何とも心は決まっていない。
裁判と言っても、まずは《地位の保全》の仮処分を申請して、それから本裁判となるわ
けだ。早ければ二ヶ月ほどで終わるらしいが、さてどうしたものか。
帰宅して、久々に図書館から借りた本、『ユニオン・ネットワーク』を読む。全国各地
の地域ユニオンとその闘いの一端が紹介されていた。
その中に『解雇無効は勝ち取ったが、復職はできなかった。しかし謝罪文は勝ち取った。』
という記述があった。
これがいいなあ。
安い給料でも、誠心誠意、がんばって働いて来た人間を、忙しいときは配慮のはの字も
なく使っておいて、それが済んだら他の人を使うことにしたからと切って捨てる。給料が
安ければその人間に対してもそういう扱いをしていいってもんじゃない。人としての価値
や尊厳を給料額で扱われたくないわね、というのが今回の行動の本音なのだ。もし、ここ
で私が黙って引き下がったり、下手に和解したらどういうことになるだろう?このやり方
でいいんだ、辞めさせるについて特に何も考えることはないと会社は思うだろう。そして
今後もこの方法で弱い立場の人間を辞めさせるだろうし、事あれば正社員に対してもそう
するだろう。
それは私と同じ立場の社員のためにならない。会社のためにもならない。また、社会の
同じ境遇の人のためにもならない。
何があったのか、どういうことだったのか、私が何を思ったのか、ちゃんと示すことが
大切だ。
それなら裁判はやらねばならない。
うん、そういうことだ。裁判もしよう。やるだけのことをやって、できるものなら謝罪
文を勝ち取ろう。『こんな失礼なことをしてごめんなさい。礼を尽くすべきでした。』と、
理事長以下連名で。
しかしねえ。世の中は労働者を長時間・過密に働かせて、挙句に使い捨てる方向に走っ
ているけれど、それに倣っていてどうするんだろう。そのためにさまざまな歪みが発生し
て皆が苦しんでいるのが見えているのに。妙な(儲けなければいけないとか)プレッシャ
ーのない小さな会社だからこそ、社会に対してきちんと責任を果たす形を作っていけるの
だろうに、世間の先鋭をいくことができる位置にあるのになあ、うちの会社は。世の中を
見回して、後を追うという方法しか知らないのがいかにももどかしい…。
三月八日にもちょっとユニオン事務所に立ち寄る。
交渉は二日後に迫っている。何が起こるのか、わくわくしているかと言えば、そんなこ
ともない。不安ということもない。こんなに心が動かない状態でいいのかって、その方が
心配だ。
「まあこうしてやってみてもね、結果は約束できないです。」
委員長が言う。
それはもちろんだ。結果を約束して欲しくてユニオンに飛び込んだわけではない。こう
して、相談をした早々にアドバイスをいただき、その上具体的に動いていただいている。
どれほどありがたいことか。今回の事は私のしていることなのだから、結果はすべて私自
身の責任なのだ。
そのくらいの覚悟はありますからねー。(心置きなく動いてくださいって…?)
さて、それはさておき、気になっていることがひとつあるんですが。
「会社に入った時の身元保証人に一言ことわっておいた方がいいんでしょうか。普段は
そうつきあいのない親戚なんですけど。」
「うーん、それは特に言わなくてもいいと思いますよ。」
懲戒解雇ではないのだし、会社が保証人に何かしら措置を求めることもないだろうと委
員長。
そう、平素感謝の言葉も伝えていないので、何かあったら申し訳ないと思っているのだ
が、告げて面倒に巻き込むのもね。一応社会的に立場のある人だし。
もうひとつ、気になっていることがあるんですが。
「えーと、当日はどんな格好をしていけばいいんでしょうか。スーツとか?」
実は改まった格好が苦手である。普段は何かしらのトップスとパンツでお茶(?)を濁し
ている。当然(?)ちゃんとしたものなんて持っていない。一着くらいなら何とか、かな。
「何でもいいよー。僕らはいつもこういう格好だし。」
委員長はラフなファッションだ。
うーむ、年に一回もしない格好で臨んでビビらせるのもいいんじゃないかと思う。本気
だと判らせたい。いつもの格好じゃ迫力に欠けるよなあ…。ふむ?
十四.匍匐前進(3)
三月九日は夜七時半まで残業する。向が丘の竣工記念品の送付準備作業が詰めを迎えて
いるのだ。件数約千二百件、くらいかな。何をするにもけっこう手間を喰う数だ。
昼間に階段のところで2部の渥美さんとすれ違ったので、雇い入れ通知書のコピーをも
らえないか頼んでみた。他の臨時職員との労働条件に違いがあるかどうか比較してみたい
のだ。1部と2部とでは勤務時間や業務の内容について条件が違うから、本来なら浅井嬢
や井嶋嬢のものを見たいのだが、さすがに互いに微妙な立場なので見せてくれとは言い出
しにくい。事情も話していないし。まあ、知らないわけはないが。
渥美さん自身は二〇〇二年十二月に《あと三年》と告げられている。だからか、今回は
契約更新について特に話はないという。自動的に更新ということだ。
明日は団体交渉で休むけど、と言うと、金曜日に持って来ますねとのこと。ごめんどう
をおかけします!
団体交渉前夜のミーティングは夜八時から。書記長が仕事でこの時間になるためだ。こ
こでもお世話をおかけします。お疲れのところを…。
事務所に入るとテーブルの向こう側に新しい顔。ヒゲの顔の暖かい感じの人だ。(あと
で子供が五人いると聞いてビックリ。いいなあ!)
「いろいろな人に話を聞いてもらっておいた方がいい。」
と委員長。
団体交渉には委員長と書記長ともうひとり、副委員長という人が参加してくれるらしい
が、顔を合わせるのは明日だ。交渉が長引けば役員さんたちも参加できる時とできない時
があるだろう。そうした時にフォローをお願いすることもできてくる。そのためにも、い
ろいろな人に話を聞いてもらっておくことに依存はない。
「今日も残業してきました。」
と言うと、
「今日も?」
この期に及んでまだ?と新顔氏が笑う。ほんとうにこの期に及んでもまだ、だ。こういう
事態だから溜まっている有休も取らずに仕事に行ってるけれど、本来ならとうに年休消化
に入っていていいんだぞ。会社は年休消化しなさいなんて一言も言わないけど。
この年休については後で書記長が発言する。
午後八時頃、書記長が到着してミーティングを開始する。
第1回の交渉はざっと「解雇」について状況を確認する程度で、時間としては一時間ほ
どだろうととのこと。会社の方の出席者は部・次長と総務の俊原氏、社の顧問弁護士を予
想しているが、定かではない。私としては俊原氏の出席を拒みたいところだ。彼があちこ
ち立ち回って知恵を付けているのは見て分かっているしね。
「向こうが出席させたいって言えば拒めないよ。こっちも三人行くしね。」
うーん、そういうものなのか。まあ、いいか。
交渉は二月二十八日の『通告』が「解雇の通告」なのか「退職干渉」なのか確認すると
ころから始めて「解雇の撤回」はできないのかという話に持っていくという。
何か言いたいことがあれば書き出して置くようにと、もう一度アドバイスをいただく。
うーむ。少しは書き出してあるけれど。
「年休だけど、年二十日あるって言ってたね。」
「ええ、その他リフレッシュ休暇と夏休みがあって、それが八日。」
今年もまだ十七日残しているくらいで、年休はほとんど取れないが。(就職時に当時の係長、
今の1部の田中課長から年休についての説明があったが、まあ、取らなくてもよいけど、
とボソリと言われたのを覚えているなあ。)
「で、翌年は権利がなくなっちゃうわけ?」
「そう説明されましたけど。」
「年休って権利は二年間あるんだよ。去年十日使って十日残したら今年はその十日プラス
二十日で三十日あるという具合になる。それだけでも使い方を誤っているね。残業もけっ
こうやっているみたいだけど?」
「多い時で月三十二時間とか、年平均二百時間くらいかな。」
臨時職員の中ではもちろんだんとつに多い。一部のプロパーを凌いでいる。会社ベスト
テンにはいるかな。本当はそれでも十分に仕事はできなかったのだが、体調も看つつとい
うことだ。
「深夜とかは?」
「深夜はめったにやらないけれど、場合によっては夜十時を過ぎて、それから郵便局に寄
って通知を投函してから帰宅ということもありましたよ。」
副主幹はよく午前一時とかもしていたよなあ。この人なんか年五百時間くらい残業をし
ている。
「僕らはだいたい四時間までと決められているけどねえ。」
と、これは委員長。委員長は元国家公務員だ。
残業は減らせというのが社の方針だった。市の方針にならってのことらしい。私と副主
幹は、特にこの二・三年、膨大な量の事務をこなしていた。仕事は委託契約されたものだ
からある程度の期間内に終わらせなければならない。当然、どうしても仕事量と期間を見
合わせてこのくらいは残業はしなければならなかったのだが、平成十六年にはこんなこと
もあった。
各事業の決算が終わった頃に市から受託した仕事を第2係で担当することになった。メ
ンバーのスケジュール的に他にできる人がおらず、私が受け持つことになったが、当時大
きな節目を迎えていた南平の仕事も抱えていて、そちらにも締め切りがあり、受託した仕
事もこの一ヶ月半ほどの内に成果品を提出しなければならないとあって、一日が四十八時
間あっても足りないような状況に陥ってしまっていた。そのため連日残業していたときに
現次長が言った言葉が
「あまり残業するな。」
ついでに言った言葉が
「サービス残業ならいいがな。」
半分冗談口調だったが、私は顔が引きつったとも。ほんとうなら二人か三人でかかる仕
事を放り投げてよこして『サービス残業』を口にするんじゃない…。
この時はどうにも仕事が間に合わない、と南平へ通知を出す準備作業について総務係の
臨時職員に手を貸してもらうよう頼んだが、総務課長にあえなく断られている。それでも
通知を出さねばならない日が迫っていたため、副主幹が当時の「長」の付く人たちに通知
を封筒に入れる作業だけでも手伝ってくれるよう、話をつけてくれた。
ところがである。フタを開けてみれば作業をしていたのは、総務課長が『あの子達は忙
しいから』と断る理由にした総務係の臨時職員だった。「長」の付く者がこんなことはでき
ないと、総務課長が彼女たちに回したらしい。
ああ!今思い返しても切れたくなる日々だったなあ。
閑話休題。
「話変わるけど、張り切っていると見えた俊原氏、実は体調悪くして半分入院している
ようです。点滴終えた夕方にちょっと顔を出しに来る。」
集中して勉強しているなんて思って、失礼しました。でも私も精神的に、身体的にもちょ
っと来ているような気がする。ごはんがおいしくないのだ。胃が気持ち悪いし。
そんなことを言ったら、
「それじゃあ何とかいい結果を取り付けて、おいしくごはんを食べられるようにしなくち
ゃね。」
「料理なら書記長が上手なんだよー。自分で野菜も作っちゃう。」
「あー、私は料理はちょっと…。市場へでかけておいしい食材を買うのは好きなんだけど。」
「そりゃあそれが一番の基本だけどさ。」
たわいない会話に緊張がほぐれる。
「岡元さん、お酒は飲むの?」
「たくさんは飲まないけど、飲みますよ。」
「じゃあいつかは祝杯をあげられるよう、がんばろう。」
そうできたらいいなあ!
この頃、私は自分の中であまり感情が動かないのを自覚していた。こんなことをする会
社の、具体的に誰かしらがとても憎らしいとか、その対象にされたことがひどく悔しいと
か情けないとか、そういうことをほとんど思わなかった。返って副主幹の方が怒っていた
くらいだ。
私は具体的に行動に出ているというのに妙に頭が動かない。ものの本を見たら
『プレッシャーで感情が抑圧されて云々』
とある。これかしら。アブないかな?
「もともと引きこもり気味な人間なんですけどねえ。あまりしゃべらないし。」
「じゃあこれを機会に外へ出ましょう。一緒に他の団体交渉に行く?」
「わー、行きます、行きます。連れてって。」
団体交渉の「だ」の字も知らず、労働問題の「ろ」の字も知らない人間が叫ぶ。我なが
らよく言えるものだが、この状況をブレイクスルーしたい一心ではある。解雇がなくたっ
て行き暮れて引きこもり状態なのだ。前だろうと後ろだろうと、どこかしらへ足を踏み出
したってバチはあたらないだろう。
「ははは、その内乗っ取られたりしてな。」
「しゃべらないなんて言って、こういうやつに限ってその内どっとしゃべり出すんだぜ。」
ホントに無口なんですってば。今はしゃべらないと用が足りないから一生懸命しゃべっ
ているけど。
「でも、岡元さんの件を知り合いの弁護士に教えたいなあ。」
と書記長。
「喜んで飛んで来て、仕事をするっていうよ、きっと。」
そうなの?
裁判は頭の中にあっても、その時の弁護士のことまでは考えていなかった。第一、つて
がない。しかし、委員長や書記長には知り合いがいるわけだ。いずれ、力を借りる日が来
る、かな?
「ああ、でも、やっぱり緊張する。」
会社とか、そういうところに自分を真っ向から主張するなんてしたことのない人間なのだ
から。いよいよ明日なのだし。
本当に私はそんなことをするのだろうか。どことなく実感が湧かない。でもやるんだな、
これが、と妙にクールな部分もある。
「これで一度やってみたら軽くなるよ。」
「そうそう、浮き上がっちゃうような気分になる。」
口々に皆が盛り上げてくれる。
「でも、」
と委員長が笑った。
「この人が心配しているのって、実は明日何を着て行くかってことなんだぜ。」
一同、大爆笑。
いや、だから作戦の内かなって…。