中島多鶴さんの体験、泰阜村・満州移民の歴史

2006年6月11日、天竜で平和を守る市民の会の講演会が持たれ、泰阜村満州移民団の生存者の中島多鶴さんが体験を話した。中島さんは今年で81歳になる。

       

長野県泰阜村5000人ほどの村だったが、そこから1189人が移民とされ、632人が死亡した。不況の中で養蚕業が壊滅的な打撃を負い、政府はその村の民衆を「満州」へと美辞麗句で送った。泰阜村の現代史は満州移民という棄民の歴史を象徴するものである。

泰阜の人々は黒龍江省の大八浪の開拓団なった。中国人の土地を取り上げての入植だった。中島さんは現地で看護婦の仕事をした。敗戦にともない、列車は軍人軍属を乗せて出発、開拓民は残された。逃避行のなかで、『小さい子は処分しろ』といわれ、子を川に捨てるようなケースもあった。かの女は『私は生き抜きたい』という意志を強く持った。方正で収容所生活を送り、ハルピンから長春・錦州を経て日本に帰った。1946年8月、1人での帰還だった。父はシベリアに送られ、病んで帰国し、母と妹は1953年に帰国した。満州で4人の妹が亡くなった。団長は責任を追及されて中国人に銃殺され、死体は狼に食われ、髪だけが残っていたという。帰国後中島さんは日中友好運動と残留者の帰国運動をおこない、厚生省と残留者の帰国にむけて交渉もおこなった。

中島さんは講演で『戦争は勝っても負けてもおこなってはいけない』『戦争のなかで親が自分の手で子を殺していった』と語った。この国は、最下層の民衆をアジア侵略の最前線に送り込んで加害者としていた。その加害者とされた民衆は、わが子を自らの手で殺すという状況に追い込まれた。支援なきまま戦後も放置され、国交が正常化してやっと帰国ができるようになった。中島さんが収容された方正では4000人余の日本人が死亡し、現地に1963年に建てられた日本人公墓がひとつだけあるが、その数倍の中国人が日本によって死を強いられた。

多くの死の上に生命があり、人知れない哀しみのなかにその生存があることを、かの女の体験は示している。泰阜のひとりひとりの農民の地平から戦争の歴史をみつめ、そこから中国農民の歴史をもみつめていくことが大切だと思う。           (竹)