扶桑社『新しい歴史教科書』(2006年用)の問題点

● はじめに

過去の克服というとき、ドイツにとってユダヤ人認識がその克服の<鏡>とされるように、日本においては朝鮮がその克服の<鏡>となるといえるだろう。ここでは扶桑社版教科書の朝鮮認識を中心に、この教科書を読んで感じたことを記したい。

歴史というものは史実に対して忠実でなければならない。解釈はさまざまあるわけだが、史実を都合よく書き換えてはならないし、資料を恣意的に引用してはならないものである。また、人間の尊厳を大切にし、平和や国際友好にむかう視点も大切だろう。

すでにこの教科書に対しては、主観的・排他的な記述、天皇中心の家族国家観、民衆の視点の欠落、自国中心他民族支配の肯定、といった批判がなされている。これらは妥当な批判である。ここでは読んで感じたところをいくつかあげてみたい。

● 古代史の記述から

はじめに古代からである。扶桑社版の見開きには、百済観音像がある。この像が日本で作られたものと断定している。どこで作成されたのかについては不明だが、しかし、この像を作ったのは渡来人である。飛鳥文化自体が渡来人による仏教文化である。扶桑社版には広隆寺の半跏思惟像はでてこない。朝鮮との結びつきを示すものは意図的に排除し、百済観音を国産品と示すことで、朝鮮系渡来人の存在まで捨象しているように思われる。なお、p33には「帰化人(渡来人)」となっている。現在での歴史用語は渡来人が主流であるが、この教科書では帰化人としている。

p30は「神武天皇の東征伝承」である。この神話から、なぜ九州から奈良に向かったのかを考えれば、朝鮮からの渡来があって九州から奈良へとすすんだと解釈するのが妥当だろう。p35には17条憲法があるが、その解釈は恣意的であり、この要旨では王の絶対的権力を示しての和と反抗の禁止、そのうえでの徴税という本来の意味が理解できない。p46・47は日本の神話である。ここには神話の「天の岩屋」などについて調べてみようなどといった神話学習が「発展学習」として示されているが、古代史についての発展学習はほかに多くのテーマがあるだろう。

中世や近世については略するけれども、p102の家康らについてのコラムを読むと、江戸時代を「平和で安定した社会の実現」と記している。これが著者の歴史認識なのであろうが、このような表現からは、社会を多角的に捉え批判的に見つめていくという基本的な視点が感じられない。

近代史の記述から

近代についてみてみよう。項目には「アヘン戦争とイギリスの中国進出」とある。アヘン戦争はイギリスの中国侵略とすべきであり、このような進出の文脈で記述していけば、日本の侵略も「進出」となっていくだろう。

p149の明治維新の表記では、「公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たち」によって実現したとしている。これは一面的な評価であり、歴史変革の諸要因が無視されている。自己に都合のよいものだけを以って歴史を語ることは自己正当化につながる。

p151の台湾侵略でも「台湾の民を罰するのは日本の義務」と侵攻を正当化する記述になり、開発をすすめた日本人が紹介されていく。p160の大日本帝国憲法については統帥権に関する本文記述がなく、教育勅語については肯定的な表現である。

このページの後に、伊藤博文と朝鮮半島のコラムである。伊藤を子孫や家の事を考えずに国家の事ばかり考えた人物としてまとめている。朝鮮植民地化とのかかわりについてはまったくふれられていない。朝鮮半島を「大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている」とし、日本の戦争による朝鮮政策を「日本の安全保障」の名によって肯定していく。

朝鮮認識は重要である。この教科書のように日本への攻撃的な腕として形容することはアジア平和への関係性を最初から切り捨てていることになる。このコラムではロシアは「清朝以上におそろしい大国」と形容されている。記述はこのような感情的な形容ではなくその行動の原因が記されねばならないように思う。

田中正造の行動については「天皇に直訴しようとして」注目を集めたとしている。鉱業停止を求めての活動についてはまったく触れられず、天皇との関係によっての記述があるだけだ。正造の写真もぼやけている。もっといい写真があるのに使われていない。p176には津田梅子のコラムがあるが、かの女が和服を好み、「犠牲の精神と忠誠」を大切にしていて、武士道を尊敬していたルーズベルトを感動させたとまとめている。女性のコラムのまとめ方としてはきわめて一面的といわざるをえない。

日清戦争の項では、東学農民の運動は「東学農民戦争とよばれる暴動」とされている。韓国での民衆運動は暴動扱いであり、日本の植民地化を「影響下におさめる」というあいまいな記述をおこない、列強が異議を唱えなかったという記述まで現れる(p170)。

日露戦争に関連してp168にはネルーの言葉が引用してある。それは、日本の勝利をみてのインドの独立に関するものだが、実はこの文章のあとには、日本が少数帝国主義に加わりそれによって朝鮮が苦しみをえたことが記されている。ここではそこを欠落させて都合よく引用している。これを姜徳相は恣意的資料操作として批判している。

日本の戦争の肯定

ここで、第5章、第1次・第2次世界大戦の項をみてみよう。ここに執筆者たちの歴史観がよく示されている。第5章第2節(第2次大戦の項)では、二つの全体主義から書き始め、ファシズムと共産主義を同列に扱い、大量殺戮をおこなった体制として同列に否定する。最後に「互いに対立しつつも、相手から支配のやり方を学び合っていた。」と断定している。この文脈で治安維持法が、註4で紹介される。全体主義である共産主義から防衛するための法として紹介するという肯定的な文脈での記述である。日本がファシズムの側に立って殺戮を繰り返したことが、この項では記されない。

さらに、中国での排日運動の強まりを戦争の理由としてあげる。「満州で日本人が受けていた不法行為の被害」という文が入れられ、被害者救済の文脈の中に「満州事変」が記される。南京事件は註で記され、犠牲者数に論争があることが詳しく記される。加害行為への配慮はなく、アジア支配に対し他の教科書にはあっても、ここでは欠落している事柄が多い。アジア各地への戦争は大東亜戦争の表現を用いている。

日独伊三国軍事同盟を「実質的な効用がなかった」と評価して記述する。アジア各地での侵略戦争についての加害・被害についての詳細な記述をおこなわず、「日本の将兵は敢闘精神を発揮してよく戦った」(p205)、「多くの国民はよく働き、よく戦った。」(P209)と描く。戦争が自衛と独立の為のものであったという戦争肯定の視点で、資料紹介がおこなわれる。

植民地の下での朝鮮民衆の状態については記されていない。これでは昨今の戦後補償をめぐる動きについての基礎的知識を得ることはできない。他社の教科書には多くの記述がある。

p214のコラムは戦争と全体主義の犠牲者であり、ファシズムと共産主義が「戦争とは異なる」国家の犯罪として膨大な犠牲者を出したとしている。さらにp215では東京裁判を考えるというコラムをおき、「日本人への戦争がいかに不当」であったかのような宣伝がなされたと批判的に記述している。これは、戦争が罪悪であるとする見方を否定する観点での記述である。第5章の最後には、「一部の共産主義の国家が残り」危険な状態があるとする文脈の記述がある。

そして最後のコラムは昭和天皇であり、誠実・立憲君主・聖断・戦後復興の担い手として賛美されて描かれる。日本の戦争責任の概念は捨象される。周辺国家を危険なものとし、自己の活動を正当化していく。このような文脈は危険なものである。

公民教科書から

 ここで、公民の教科書をみておこう。近代国家編成の基本的な認識は人権を維持するための社会契約であり、市民の権利がありその権利の維持のために義務の規定が出てくる。しかし、この教科書では公共の福祉や義務が強調されるが、この認識がない。差別の撤廃に関する記述も少ない。

p94には男女共同参画社会についてのコラムがあるが、その内容は男女共学反対の署名運動を肯定的に伝えるものであり、男女共同参画社会の解説となっていない。大日本帝国憲法についても肯定的な記述であり、統帥権についてはまったくふれられていない。「天皇主権」という用語さえ記されていないのである。日本国憲法制定過程に関しては、政府案が天皇主権であったことなどは記されずに、占領軍による憲法であることのみが強調されて記されている。大日本帝国憲法の問題点は示さないが、日本国憲法の問題点を示すことに熱心な記述である。憲法改正についての記述も自衛隊派遣への国際的評価が高まっているという文脈で記されている。

この公民教科書の「9つのポイント」なるものが最後に記されているが、ここでは歴史的な共同体と天皇中心共同体が同一化されている。天皇がわが国の始まりとともに存在したなどと記しているが、これは皇国史観であり、歴史学研究の成果をまったく無視したものである。

おわりに

このような教科書を政府が検定合格としたことに疑念を感じざるを得ない。さまざまな意見が存在することは事実だ。しかし、天皇主権の憲法を賛美し、その問題点を隠蔽し、戦争体制を肯定するものを教科書としてはならない。それは現憲法体制に反するものであり、憲法違反である。

繰り返すが、問われているのは朝鮮認識である。北東アジアの平和、南北の分断から統一への視点を持ちながら、その地域民衆の平和と民主化への取り組みが重視されるべきだ。国家間では国交の正常化が諸問題の解決の第一歩となる。一方で戦争政策をすすめる動きを抑止しながら、他方で人権運動が求められているといえるだろう。日韓条約時、韓国は朴独裁政権だった。それから40年、韓国の民主化はすすんだ。日本についていえばこのときの過去の未清算が今も続いている。この清算なしには東アジアでの友好関係はありえないだろう。

現在の教科書問題の中心テーマは、日本の過去の戦争の正当化を中心とした歴史の改ざん・歪曲にある。史実を自己に都合よく解釈する行為は公正ではない。この公正さの欠落は国際的信用をなくすものである。

選別の強化のなかで、知的な意欲や認識の継承が切断される層の増加という現在の学力状況があり、他方ではパフォーマンスによる為政者への煽動がおこなわれている。さらに新たな派兵と憲法改悪の準備がすすんでいる。このような戦争国家の中での、戦争を正当化する教科書の出現に対して、市民の歴史認識と平和への表現行動がまさに問われている。このような時代にこそ、主権者自身の表現の自由とその継続的な軌跡が示されねばならないように思う。

2005・9(竹内)