旧日本陸軍浅茅野飛行場建設での
         朝鮮人強制労働と遺骨発掘

 

 二〇一〇年五月一日から四日にかけて旧日本陸軍浅茅野飛行場建設での強制連行犠牲者の第3次遺骨発掘事業がおこなわれた。発掘現場は北海道の北端、猿払村の成田の沢にある旧共同墓地である。ここでは二〇〇五年の試掘以来、二〇〇六年に第一回、二〇〇九年に第二回の発掘作業がおこなわれた。二〇〇七年には浅茅野での調査活動がもたれ、翌年、その調査報告書が発行され、二〇〇九年には韓国での証言収集もおこなわれた。今回の二〇一〇年の発掘は第三回目のものとなる。

発掘実行委員会の中心は強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが担っている。北海道フォーラムは浄土真宗札幌別院の納骨堂に一〇一体の朝鮮人・中国人の遺骨が発見されたことを契機に、二〇〇三年二月に結成され、これらの遺骨とともに道内にある遺骨の調査と返還の活動をおこなってきた。二〇〇四年には北海道で朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会をもった。さらに浅茅野での遺骨収集と返還にむけての活動もはじめ、猿払村民と共同して発掘実行委員会を結成し、発掘作業をおこなってきている。

ここでは発掘実行委員会や北海道フォーラム作成資料から、飛行場建設と朝鮮人の連行状況と遺骨発掘の経過についてまとめておきたい。

 

@浅茅野飛行場の建設と朝鮮人の連行

 アジア太平洋戦争がはじまると、国内での軍事飛行場建設が拡大され、猿払村でも北方での戦闘を想定して浅茅野第一飛行場と第二飛行場の建設が始まった。浅茅野での第一飛行場工事の開始は一九四二年六月ころであり、一九四三年一〇月には主な滑走路が完成し、軍用機が配備された。一九四三年には浅茅野北方の浜鬼士別で浅茅野第二飛行場の建設も始まった。この浅茅野での第一・第二飛行場建設関連工事は一九四四年まで続く。

 この飛行場工事は陸軍航空本部経理部の「国防緊急軍工事」としておこなわれた。この軍の工事を鉄道工業が請負い、その下で丹野組や川口組、坂本組などが労働者を使った。この飛行場の建設のための労働力として朝鮮半島からの強制的な連行がなされた。連行朝鮮人が送られたのは丹野組のタコ部屋(監獄部屋)だった。

第1飛行場工事への大量の朝鮮人の連行が確認できるのは一九四三年の六月である。六月一〇日には忠南の天安郡から沈載明さんら一〇〇人が連行された(『北海道探検記』)。また、権容恪さんは六月に忠南論山から連行され、金鐘錫さんも六月にソウルで捕らえられて浅茅野に連行された(北海道フォーラム収集証言)。池玉童さんによれば、京畿道と忠南道の三〇〇人が最初の連行者だった(同証言)。張基勲(玉山基勲)さんの一九四四年二月の釜山での遺骨法要関係資料によれば、張基勲は一九四三年六月二二日に慶南の金海郡の「斡旋供出要員」とされ、連行されている。このように工事が進む中で建設労働力として、朝鮮半島からの動員がなされたわけである。

連行がおこなわれた地域を死亡者名簿や証言からみていけば、京畿ソウル、高陽、忠南燕岐、天安、論山、大田、舒川、忠北沃川、慶南金海、梁山などがある。他にも全南、全北、慶北などからの連行もあったとみられる。軍工事の斡旋による連行では、各地から一〇〇人単位で連行がなされた例が多いから、浅茅野の丹野組への連行者数は連行者の出身地域の数からみて一〇〇〇人ほどとみられる。丹野組はタコ部屋で暴力的な労務管理をおこない、奴隷労働が強要した。工事が終わると、連行者は鉄道工業が請け負っている労働現場へと転送された。現在判明している場所は、鹿児島の万世飛行場建設工事現場(約七〇〇人)と三菱美唄炭鉱の下請労働現場(七五人)である。

金敬洙さんと李炳熙さんによれば、浅茅野第二飛行場工事へは慶南金海、蔚山、昌原からの連行があり、軍属とされ中隊ごとに編成された(北海道フォーラム収集証言)。ここにもそれ以外からの地域からの連行も含め、一〇〇〇人を超える人々が連行されたとみられ、一九四四年に工事が終わると連行朝鮮人は札幌を経て、帰国した(同証言)。

このようにみてみると、浅茅野での第一・第二の両飛行場の建設へと連行された朝鮮人は二〇〇〇人を超えるといっていいだろう。

集団的な連行以外にも、サハリンの北樫保の炭鉱から逃亡し、沼川の宗谷炭鉱で働いていた南応浩さんは路上で憲兵に捕えられて浅茅野に送られ、その後、計根別飛行場の菅原組の現場に転送され、さらに千島の幌莚に連行された(『北海道と朝鮮人労働者』四四九頁)。これは北海道内各地から浅茅野工事への割当による「供給」の一例であろう。その他の「信用部屋」の組をみると、坂本組の労働者も朝鮮人であり、松本組は三〇人ほどの組だが、そのうち七〜八割が朝鮮人であったという。

浅茅野の飛行場建設は主として連行朝鮮人によっておこなわれたが、それは浅茅野の原野に繁る熊笹を抜き取り、大木を撤去するという重労働だった。

一九四三年の夏には不衛生な労働環境と酷使のもとで発疹チフスが流行し、労働者が次々に罹患して死亡した。朝鮮人の死亡者名簿をみると確認されているだけでも、七月に四人、八月には二五人、九月には二八人、一〇月には九人、一一月には一〇人、一二月には八人の死者が出ている。このうち「回帰熱」と記されているものが、八月四人、九月七人であり、これらは発疹チフスによる死者とみられるが、これ以外にも発疹チフスによる患者が多数発生している。

 また、殴打暴行による死者もでた。一九四三年八月には「木村音福」(木村元福)が棍棒で殴打され、「金元金民」(金錫a)はスコップで殴られ死亡した(『北海道新聞』一九四三年八月一四日付)。しかし、死亡診断書にはそれぞれ精神異常、脚気衝心などとある。ここでは虐待による死亡が隠蔽されている。

逃亡して捕まるとツルハシの太い棒で力いっぱい殴るといった暴行がなされ、それにより、発熱や下痢の症状になって死んでいくものも多かったという。大腸カタルや栄養失調などでの病死とされてはいても、実際には虐待による死亡が多数あったとみられる。

 連行された朝鮮人の証言から第一飛行場現場での労働実態についてみておこう。

監督が棍棒を持って高いところから見張り、頑張らないと叩かれた。耳のところを叩かれ鼓膜が破れて聞こえなくなった。(池玉童証言)。

軍人のように四列に並ばせて工事現場に行かせた。少しでも仕事が遅れると棒で殴られた。監督に嫌われると下水道のようなところに連れて行かれて殴られた。倒れて病院に行ったらそのまま死んだ。仕事から帰ると戸が閉められ、どこにも行けなった。部屋の周りは鉄の檻のようなもので囲まれていた。北海道にいた時の番号は六三番であったが、九州に移動するときには三三番になっていた(権容恪証言)。

 作業中話をすることは禁止され、見つかると殴られた。水を飲むことも許されなかった。寝る時も話を禁止された。仕事が遅いと殴られた。逃げた人はつかまり、血まみれになるほど殴られた。裸にして水をかけながら殴った。休日も外に出ることはなかった(金鐘錫証言)。

 住民の証言にも、「いじめて殺すどころではないよ。あんまり辛くて、逃げたのがずいぶんあった。それを捕まえてみせしめに叩いて、スコップで叩いて、捕まったら最後だった」というものがある(「二〇〇七年報告書」二六頁)。

このように日常的な殴打による暴力的な管理と労働の強制がなされ、移動の自由がなく、逃亡して捕えられると殺されることもあった。

このなかで抵抗の闘いも組まれた。監督による殴打をきっかけに「ここにいると殴られて死ぬ、朝鮮へ帰ろう」と争議になったが、憲兵隊が来て首謀者5人ほどを連行した(池玉童証言)。日常的な殴打が集団的な抗議行動につながったが、憲兵隊による弾圧がなされた。

 

 A朝鮮人遺骨の発掘経過

浅茅野での朝鮮人遺骨の発掘の経過をみてみよう。住民たちは、浅茅野の旧共同墓地で露天での火葬がおこない、残骨残灰などを各家族の墓所に埋めて処理し、そこに灰塔や卒塔婆を建て、遺骨は信證寺に預けてきた。朝鮮人などの工事関係者の遺骨で寺に預けられたものもあったようだが、遺骨や遺体がこの旧共同墓地に埋められたままであったものも多い。

戦後、浅茅野の共同墓地は旧飛行場の跡地に移動し、その際、旧共同墓地にあった住民の墓地は整理され、一九五二年に新火葬場ができ、一九五九年には墓地として認可された。戦後、信證寺の住職が工事関係者の埋葬骨を改葬した、あるいは丹野組が遺骨を七〇体ほど受け取ったという話もあるが真相は不明である。

浅茅野での遺体の埋葬については池玉童さんの証言がある。それによれば、病舎と宿舎は離れたところにおかれた。亡くなった人を処理したが、横になっている死体をしゃがんだ姿勢にして箱に入れた。膝が折れなくて大変だったが、日本人が「えい、この野郎」と足の指を曲げて膝の折り方を教えてくれた。朝、馬車で運び、木の下に穴を掘り埋めた。上に名前を書いた杭を打った。埋めてから火葬にするといっていた(北海道フォーラム収集証言)。

遺族に渡されず、火葬されることなく埋められたままの遺体もあったとみられる。

遺体は頓別の共同墓地にも埋葬された。金海平は一九四三年に連行され、一九四三年一二月に死亡した。面に死亡通知がきたため、大阪に居住し、そこで徴用されていた息子が叔父と二人で浜頓別の共同墓地に行った。雪の中に埋められていた父の遺体はそこで焼釜で焼かれ、翌日遺骨を受け取った(韓国糾明委員会による遺族からの証言調査)。

頓別村の金海平の火葬認許証をみると墓地は頓別村共同墓地とされている。認許証では火葬の日は一二月二七日が予定されているが、遺族の証言によれば、火葬は遺族が到着してからであり、正月を過ぎてのことであった。

浅茅野の旧共同墓地には朝鮮人の遺体が残されているという証言により、北海道フォーラムがこの遺骨問題に本格的に取り組み、二〇〇五年以降の発掘作業によって二〇一〇年までに三〇体ほどの遺骨が発掘された。

二〇〇五年の試掘では、旧共同墓地の窪みからうずくまり座った姿勢での埋葬遺骨一体が発掘された。頭蓋骨の裏側には不自然な二つの穴が開いていた。

二〇〇六年には猿払・浜頓別住民や韓国の漢陽大学や忠北大学の関係者も参加して「旧日本陸軍浅茅野飛行場建設強制連行犠牲者遺骨発掘実行委員会」が結成され、二五〇人以上が参加して第一回の発掘が取り組まれた。発掘は試掘調査で遺骨が発掘された窪みを中心におこなわれ、土壙墓五つ、火葬遺構七つなどが調査された。土壙墓のうち三つで少量の遺骨があり、一つで灰や地下足袋があった。火葬遺構のうち四つは何回か火葬が行われた場所であり、三つは個別的な火葬の場であり、そのうちの一つからは火葬された七〇パーセントほどの人骨が発見された。この試掘と第一次の発掘での遺骨は一二体分と推定された。発掘現場には木製の追悼碑が建てられた。

二〇〇九年の第二次の発掘には一〇〇人ほどが参加し、ほぼ全身の遺骨一体を含む七体が発掘された。二体は木を抜くとその根に絡まるかたちで発見された。他にも、三体の遺骨が埋められている穴などが確認され、二〇一〇年に調査に引き継がれた。

二〇一〇年の第三次発掘には一〇〇人ほどが参加した。実行委員会会長を曹洞宗宗務総長が引き受け、猿払村長も参加した。発掘は漢陽大学と北海道大学の考古学チームが共同しておこない、その作業で出土した骨を拾い、洗う作業を日韓の市民が協力しておこなう形となった。

 調査対象の穴は昨年に調査したものも含めて一七か所であったが、調査中に対象地が増え、計21か所になった。そのうち一一か所を掘りすすんだところ、三体が重なって出土したところと背骨部分が出土したところがあった。他の箇所からは火葬されて粉砕された遺骨が出土した。また火葬場とみなされる場所があり、その近くには灰が集められた場所もあった。火葬場からは韓国式のキセルとみられる遺物も一〇ほど発見された。五月四日までに一一体以上の発見となった。その後さらに漢陽大学チームが発掘をすすめたところ、一体の遺骨や多くの火葬骨が発見された。その結果、第三次の発掘遺骨数は計一九体分となった。 

三体が重ねられて埋葬されていた場所は直径七五センチメートル、高さ五〇センチメートルの穴である。発掘現場ではGP11と呼ばれた。GPとはグレイブピット(墓穴)の略である。見るとすでに発掘され、骨盤や足、背骨、肋骨が地表にその姿を表していた。中央部は黒ずんでいて、上から焼かれたことがわかるが、十分に焼かれないまま土でおおわれている。一体は脊髄、肋骨、骨盤、大腿骨等が残り、その下には頭蓋と脊椎、骨盤、仙骨、大腿骨などがある一体と脊髄、骨盤、仙骨、大腿骨等腰部のみが残る一体の二体が重なっている。上の遺骨は下向き、その下は上向き、一番下は下向きに埋められていて、頭部が残っているのは一体だけであり、その頭部は小さな穴に入れるために押し曲げられていて頸椎が折れている。中には足が折られ、その先が無くなっているものもあるという。どのようにしてこのような形になったのかは不明であるが、通常の埋葬方法ではない。「凄惨なやり方」と掘り進める者の声が聞こえる。このような死体の扱いは人間の尊厳をふみにじるものという。

 刷毛や棒を使って、骨一つひとつが丁寧に土から掘り出され、トレイの上に並べられる。頭骨は掘り出された時のままうつむいたままだった。掘り出された骨が洗浄液に浸され、洗われる。頭骨をみると歯がきれいに残り、歯垢はたばこのヤニという。歯から幼いころの栄養状態が良くなかったことも推定でき、腰の骨から腰痛があったこともわかり、この遺骨は三〇代前半ほどのものという。これらは浅茅野の工事現場での死者であり、朝鮮人である可能性は極めて高いだろう。

 一九四三年一二月二〇日に浅茅野で追悼会がもたれた写真が遺族の手に残っている。一九四四年二月に釜山で遺骨一〇数体が遺族に手渡されたことを示す写真もある。この写真は一九四三年九月三日に死亡した張基勲さんの遺族の手元にあったのだが、その時、釜山には一二月頃までの死者の遺骨がすべて持っていかれたとは思えない。また遺骨は本当に本人のものだったのだろうか。発掘された遺骨はそのような疑問を与える。

現在判明している死亡者名簿からも一九四三年八月から一二月にかけて二,三日の間に死者が三人出た日は二〇回ほどある。今回の墓の穴が浅いことから、雪の中を掘って埋めて燃やしたとすれば、一一月以降のこととみられる。死者が集中した時をみると、一一月以降では四回ほどある。この三人はその時の死者かもしれない。

 発掘後の五月四日には浜頓別の天祐寺で追悼会がもたれ、大きな箱棺九個と小さな骨箱一四個が並んだ。そこで参加者も含めての読経がおこなわれた。そこは追悼と返還への想いが交差する場であった。

五月、熊笹を揺らしてオホーツクの海へと強く冷たい風が吹き抜けていく。陽光も森の中ではまばらになる。そのなかでみた三体の重なるように捨てられている人骨とその発掘は心に深く残るものだった。それは、歴史がどのような立場で、どのような方向で記されていくべきかを問いかけているように思われた。この遺骨の側から言葉をつむいでいきたいと思う。

 

 

『猿払村浅茅野共同墓地における遺骨試掘報告書』強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム二〇〇五年

『旧日本陸軍浅茅野飛行場建設強制連行犠牲者遺骨発掘事業二〇〇六年報告書』旧日本陸軍浅茅野飛行場建設強制連行犠牲者遺骨発掘実行委員会二〇〇七年

『二〇〇七年浅茅野調査報告書』強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム二〇〇八年

「韓国聞き取り調査報告書」強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム二〇〇九年三月

『無縁遺骨 過去・現在・未来』曹洞宗人権擁護推進本部二〇一〇年

『朝鮮人強制連行・強制労働の記録 北海道・千島・樺太篇』朝鮮人強制連行真相調査団一九七六年

『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』北海道一九九九年

北海道総合文化開発機構『北海道開拓殉難者調査報告書』一九九一年

『北海道探検記』本多勝一一九八一年 

北原弘巳「浅茅野飛行場建設と朝鮮人労働者」第二五次合同教育研究集会一九七五年

                                二〇一〇年五月

 

鴻之舞鉱山

鴻之舞鉱山は紋別市の西南にある金山である。一九一六年に金鉱が発見され、一九一七年には住友による本格的な開発がはじまった。鴻之舞鉱山の主な坑口は元山と倶知安内にあった。

政府による産金政策のなかで、一九三〇年代は鴻之舞鉱山の拡張が続いた時期である。竪坑が開削され、製錬所や選鉱場、青化場が拡張され、一九三六年には一日一二〇〇トンの処理ができるようになり、沈殿池も増設された。一九三七年には住友別子鉱山と住友炭鉱が合併し、住友鉱業が設立され、経営規模を拡大した。

一九三九年には政府による増産が強要され、第四次の拡張がはじまった。このなかで第七沈殿池の着工、倶知安第二竪坑の開削がおこなわれ、鴻之舞鉱山増産施設臨時建設部も発足した。一九四〇年には第八、第九の沈殿池も建設され、このなかで同年、金二・五トンを産出し、産金量は国内第一位となった。一九四一年には第五次の拡張により、倶知安内第一竪坑が完成し、一九四二年には三〇〇〇トン処理の製錬場が完成したが、政府の金山整備令によって一九四三年四月には休山した。

戦争の拡大により日本人の労働者が徴兵されるなかで、増産を支える労働力として連行されたのが朝鮮人であった。連行が始まり、一九四〇年一月に三〇二人であった朝鮮人数は一九四二年六月には一六四六人と増加した。この時日本人労働者の数は二六一一人であり、鴻之舞での朝鮮人数は四割ほどを占めるようになった。連行された朝鮮人は七つの協和寮に収容された。鉱山の休山によって朝鮮人は別子、足尾、奔別、花岡、金屋渕など各地の鉱業所に転送されていった。支山である伊奈牛鉱山(銅、鉛等)、八十士鉱山(水銀)などの開発にも朝鮮人が送られた(鉱山史の概略と朝鮮人数等については『鴻之舞五十年史』による) 。『鴻之舞五十年史』に収録された「鴻之舞五鉱山坑外図」には第一から第六までの協和寮が記されている。

戦後になって、鴻之舞での採掘が再開されたが、鉱毒問題や採鉱量の減少のために一九七三年に閉山した。

鴻之舞鉱山についての史料は紋別市博物館と北海道開拓記念館に収蔵されている。紋別市博物館には一九八八年に作成された「住友鴻之舞鉱山文献資料目録(第一次稿)」がある。目録の最後には資料の引き継ぎが終わってはいないため目録自体が「非公開」とされているが、この目録が作成されて二〇年近くがたち、いまでは公開されている。しかし、原史料は寄託文書扱いであり、住友の許可を経ての閲覧となる。一九七三年の閉山からもうすぐ五〇年であり、住友は博物館側に全資料を寄贈し、博物館の所蔵文書とし、北海道開拓記念館の鴻之舞鉱山文書のように自由な閲覧ができるようにすべきだろう。

資料目録をみると、朝鮮人関係史料としては、「労務手帳関係書類綴 解用報告書(半島)」、「貯金番号簿附申込書綴(半島労務員の部)」、「住友鉱業株式会社八十士鉱移住半島鉱員名簿」、「第○次新規徴用者名簿」、「第一分団個ハ名簿忠清寮」、「半島労務員募集関係書類」、「伊奈牛坑半島労務員名簿」、「半島人等名簿」、「被保険者台帳(喪失分)」、「被保険者証」などがあり、賃金台帳や鉱夫名簿も残されていることがわかる。

守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係料集』V朝鮮人2下(一九九一年)には、朝鮮人名簿など主な文書が収録されている。

この史料集に収録されている名簿や統計から朝鮮人連行の実態を詳しく知ることができる。

鴻之舞鉱山への連行者は一九三九年一〇月から一九四二年九月にかけての二五八九人の氏名が確認できる。八十士鉱山では二二人、伊奈牛鉱山では一一六人の連行者の氏名がわかる。沈沈殿池工事を請け負った地崎組へは四〇〇人ほどが連行されたが、そのうち一四〇人ほどの氏名が「保険料調定計算書」からわかる。

鴻之舞鉱山への連行状況について詳しくみれば、一九三九年一〇月には忠南天安・牙山・唐津から約三〇〇人、一九四〇年一月には忠南燕岐・大徳から一〇〇人、三月には忠南公州から約一二〇人、九月には慶北尚州から一〇〇人、一二月と一九四一年一月には忠南燕岐・公州から計二〇〇人ほど、一九四一年三月には京畿・江華・金浦から約一五〇人、九月には忠南扶余・論山・舒川から約三〇〇人、一二月には 忠南礼山・大徳・燕岐から約二四〇人、一九四二年三月・四月には慶南密陽・梁山・蔚山から約一八〇人、四月・五月には京畿坡州・江華から約一五〇人が連行された。ここまでは「募集」による連行である。

つぎに「斡旋」による連行がおこなわれ、一九四二年六月には慶北義城・善山・星州から二八〇人、八月・九月には忠南牙山・天安・唐津・舒川から約三四〇人と次々に連行がおこなわれていった。

これらの連行は、鴻之舞鉱山が北海道庁に連行者数を申請し、それを北海道庁が承認し、さらに朝鮮総督府が許可しておこなわれた。連行状況をみると、一郡で一〇〇人ほどが割り当てられ、現地で人員をそろえて鴻之舞鉱山へと連行してきたことがわかる。連行しても、三割近くが逃亡や送還による解雇で姿を消し、二年が経つと満期による帰国となった。そのため、再び大量の連行が計画されて実行されていった。しかし、金鉱山の整理にともない花岡や足尾、別子等の銅山を中心に鴻之舞からの転送となったわけである。

なお、『戦時外国人強制連行関係料集』V朝鮮人2下には「協和寮」の地図が数枚収録され、そのなかにモベツ川沿いの「朝鮮部落」の近くに「合宿所」が新設されたことを示すものがある(二〇八四頁)。この地図は位置の状況から第三協和寮の建設予定地のものとみられる。「朝鮮部落」とは、この鉱山開発とともに移り住んだ朝鮮人の居住地域とみられる。また、忠南燕岐などから一九四一年一二月に連行された人々の顔写真も残っている。表紙には「慶尚南道労務者写真名簿第五協和寮」とあるが、名簿で調べてみると忠南出身者である(二〇八九頁以下)。その写真一人ひとりの歴史を知るところからはじめるべきなのだろう。

現在、鉱山跡は廃墟となっている。鴻紋軌道の橋脚、トロッコの橋脚、ボイラーの煙突、墓地の無縁堂と煙突、元山の坑口、住友のマークのある倉庫、鉱員住宅の建物、沈殿池などが鉱山の歴史を物語っている。鉱山跡にある追悼碑には朝鮮人のことは記されていない。

上藻別駅逓所の建物が保存され、鴻之舞金山資料館となっている。紋別市博物館では鉱山の歴史を示す映像や坑道の復元模型などがある。

五月、鉱山の跡地にはまだ雪が残り、海に向かって冷たい風が吹く。四〇〇〇人を超えた朝鮮人の歴史を含め、民衆の側から記される歴史はまだ数多く残されているように思われた。  

 

 二〇一〇年五月