北炭万字炭鉱への連行と死傷状況

 

1万字炭鉱

万字炭鉱は岩見沢市栗沢町にあった。栗沢での石炭の開発は当初、朝吹英二によっておこなわれたが、一九〇三年に北海道炭礦汽船がこの鉱区を獲得し、一九〇五年に夕張第一炭鉱万字坑として開坑した。万字炭鉱の名前は朝吹の家紋卍に由来している。一九一四年には万字炭鉱は北炭幌内鉱業所万字炭鉱となった。その後、幌内鉱業所が幾春別、万字、美流渡などを傘下におき、美流渡は万字の支山に統合された。美流渡での採掘は一九一八年から始まっている。

万字での石炭採掘と運搬のために一九一四年には岩見沢から万字炭山までの二三キロほどの鉄道が通じ、一九二〇年には美流渡炭鉱を結ぶ鉄道も付け加えられた。この万字線は一九八五年に廃止され、栗沢町は二〇〇六年に岩見沢市と合併した。

万字炭鉱での朝鮮人の歴史は、第一章の北炭幌内と三笠の炭鉱の項でみたように一九一六年から始まり、一時期には四〇〇人ほどの朝鮮人が就労した時もある。恐慌にともなって解雇されることになるが、それまでの雇用総数は二千人を超えたとみられる。万字での朝鮮人使用は夕張での使用とともに早いものであり、万字墓地に残る「鮮人共同墓之碑」(一九二六年)はこのころの万字炭鉱での朝鮮人の歴史を示すものである。一九三九年から始まった強制連行によって万字炭鉱でも朝鮮人が増加し、一六〇〇人を超える朝鮮人が連行されてきた。

北海道開拓記念館にはこの北炭万字炭鉱の史料が所蔵されている。この史料は開拓記念館の所蔵資料であり、閲覧は自由である。ここではこの史料から朝鮮人関係で判明する事がらをまとめてみよう。

 

2連行と帰国

この史料の中で重要なものが、朝鮮人の夫名票である。強制連行期のものでは約一五〇〇人分が残り、一九二〇年代のものも二千人ほどが残されている。美流渡坑は万字炭鉱の支坑とされていたので、万字炭鉱の夫名票には美流渡坑分も含まれている。これらの名票から北炭の一九二〇年代から一九四〇年代にかけての朝鮮人動員の実態がわかる。名票は一九一〇年代後半から戦後に至るものであり、炭鉱が使用していた木のケースに除籍順に収納されている。連行期の朝鮮人の名票は整理され、別の紙箱に入れられている。日曹天塩炭鉱の名票も一箱分ある。

一九二〇年代の名票をみると逃亡者が多い。それは、甘言によって「募集」されてきた人々が現場から逃亡したことを示している。どこから誰がどのようにして万字や美流渡へと連行されてきたのか、その後の動向の分析も求められる。これらの名票の存在は、多くの朝鮮人労働のうえに石炭採掘があり、それが日本の産業化を支えてきたことを物語っている。

連行期の一九三九年から四五年までの名票をみると、連行時期・募集地方・連行者出身地・前歴・職名・連行先・解雇理由・家族状況などがこまかく記されている。この名簿から朝鮮人死者数をみると六二人である。美流渡坑での一九四四年八月二一日午前零時頃の坑内火災事故での朝鮮人死亡者二六人の名前もわかる。夫名票には一九四四年四月二五日付けで「軍需徴用」の万字炭鉱印が押されているものが多い。逃亡者については「逮捕」として処理されているものもある。

万字炭鉱への集団的な連行について、この朝鮮人の夫名票から詳しくみてみよう。

連行が始まると、美流渡へは一九三九年一〇月に光陽から、一一月には任実から連行された。万字には一一月に淳昌と金海から連行された。このうち名簿で判明している連行者数は一七五人分である。

光陽の二九人分のその後の動向をみると、旅行未帰還も含め逃亡者が一九人、死亡者が四人、解雇・送還等が三人、満期が二人であり、期間を延長して八・一五まで残留していたのは一人だけである。死亡した鄭俊拭・金順沢・金聖順・金又出の四人は一九三九年一二月一日のガス爆発事故によるものである。逃走についてみれば、高永草は一九四〇年三月に逃走したが、秋田で逮捕され、五月に美流渡へと再び連れ戻され、一九四二年八月には労働不能となった。高は扶助料とともに解雇された。柳在浩と韓基五は一九四二年八月に逃走して他の鉱山で働くが、四三年三月に発見され、四月に美流渡に戻された。しかし、柳在浩は翌月に再び逃走し、韓基五も翌年四月に逃走した。

一一月に万字に金海から連行された人々の動向をみてみよう。名簿があるものは五七人、名簿の欠番が九つあることから、連行の総数は六六人ほどとみられる。この五七人の連行者のうち、逃走・旅行未帰還は二一人、送還・解雇は一二人、満期が一九人、八・一五までの残留者は五人だった。

この集団での事故の状況については、その一端が『障害扶助料関係書類』からわかる。この史料によれば、李相守は一九四二年六月に鉱車事故で下顎を骨折した。朴小徳は一九四一年九月に台車材料から転落し、右第一趾を失った。金再徳は一九四三年八月に、圧搾空気によって左目の視力を低下させた。李鮮玉は一九四二年三月に 鉱車事故で尿道を断裂し、翌年一二月に扶助料とともに解雇された。

一九四〇年の連行状況についてみてみよう。

一九四〇年八月末には美流渡に泗川から連行された。万字には九月初めに、泗川からの連行があり、九月末には安東から、一二月には霊巌からの連行があった。この年の集団連行者数は判明分で一六三人である。前年は逃走率が四割近かったが、この年の逃走率は一割五分と減少する。その背景には監視と管理の強化があったのだろう。

美流渡へと泗川から連行された人々の中に柳四守がいた。鉱夫名票には中島四守の創氏名で記されている。名表では、中島四守は泗川郡昆陽面から一九四〇年八月二七日に美流渡へと連行され、一九四三年四月二二日に「無断退山」したとされている。一九四〇年八月二七日の美流渡への連行者数は五〇人ほどである。九月九日には万字へと泗川から五〇人が連行されている。それは、八月はじめに泗川から一〇〇人が北炭幌内炭鉱向けに連行され、幌内から美流渡と万字に振り分けられたということだろう。

柳四守さんの証言が『朝鮮人強制労働・強制連行の記録 北海道千島樺太篇』に収録されている(二一九〜二二九頁)。以下、要約して当時の状況をみてみよう。

柳さんは大津里の農家の四男で小作農だった。三月、五月の呼び出しは免れたが、断ったら処罰するといわれ八月にやむなく応じた。泗川から東莱に送られ、六人一組で班を編成され、釜山におくられた。下関で国防服のようなものに着替えさせられ、汽車で北海道の幌内炭鉱に連行され、三週間の訓練を受けた。そして美流渡に送られ採炭をさせられた。朝鮮人は団結し、班長や組長が待遇の改善を要求した。一年ほど経ったとき、一人の朝鮮人がベルトコンベアのチェーンに挟まれ手首をもぎ取られるという事故が起きた。炭鉱側は肩から切断してしまおうとしたが柳さんたちは反対して岩見沢の病院での治療を受けさせた。先頭になって活動したためか、契約の二年が経って帰国できると思っていたが、もう一年の延長を告げられた。

残されるくらいなら逃げてやろうと班長と逃亡した。オホーツクの沢木の築港現場で働いていたところ、寝込みを憲兵隊に襲われ、計根別飛行場の建設現場に連行され、広野組のタコ部屋に入れられた。長時間労働を強いられ、一日に五〇回は殴られた。そこは自由がなく生き地獄のような現場だった。逃亡者のなかには鼻に牛のように紐を通してみせしめされたものもいた。朝鮮人の金山という親方に誘われ、浅茅野飛行場の建設現場に行くことになった。金山飯場では普通に働くことができたが、浅茅野の他の組では病気になった朝鮮人三〜四人を穴の中に投げ込んで捨てているという話だった。その後、滝上での道路工事を経て、広島県に行った。原爆投下後に死体の片付けを手伝って被爆し、白血病になった(以上要約)。

鉱夫名票をみると、一九四〇年八月の泗川からの連行者は二年半後の一九四三年の四月に満期となり、多くのものが帰国している。帰国できずに一九四三年四月二二日に逃走した泗川出身者は、曙海四守、金村?日、金村?春の四人を確認できる。逃亡しても、発見されて連れ戻されることもあり、タコ部屋に入れられてしまうこともあった。

一九四〇年九月に泗川から万字に連行された大山鴻甲は再契約の強制のなかで精神を病んだ。そのため一九四三年八月に解雇されるが、これに対し北炭は「将来の労務者開拓」のために見舞金三〇〇円を支払った(大山鴻甲関係文書『障害扶助料関係書類』所収)。

一九四〇年一〇月には美流渡へと「縁故」や「志願」の名で動員された者がいたが、二人は一〇日ほどで坑内作業に耐えることができずに辞め、一人は半年後の四一年六月に逃走し、もう一人金基泰は同年七月に業務上の事故によって死亡した。一〇月に万字に志願した二人も一カ月もしないうちに坑内作業を嫌って辞めた。このように定着は困難であり、坑内労働力を得るために強制的な連行をおこなっていったわけである。

つづいて一九四一年の連行状況をみよう。美流渡へは一月に長水から、二月に任実から連行がおこなわれた。万字には一月に長水から、七月に淳昌から、一〇月に義城から、一二月に完州からと連行が続いた。これらの連行者のうち逃走者は二七人、送還・解雇は二〇人であり、満期までは四七人が継続し、一三人が八・一五まで残った。万字の満期帰国者には一九四五年一月になって満期とされているものがあり、四年に及ぶ労働を強いられた者もいる。

一〇月に義城から連行された安田泰寿・呉山道源・柳炳善は五月三一日に逃走し、一〇月まで美唄で農夫として働いた。その後一九四三年一月まで夕張炭鉱の三宅組で働いていたが、発見されて二月に万字に連れ戻された。一九四四年四月には軍需徴用扱いとなり、安田泰寿と呉山道源は家族を呼び寄せ、睦区に居住した。

一九四一年一〇月には二見沢の岸組の下で朝鮮人が万字に動員されたが、一二月までに逃走や稼働不能などを理由に職場を離れている。一二月にも岸組の朝鮮人を動員しているが、翌年五月までに帰国や逃走で姿を消している。

『労務者職別人員表』には万字と美流渡のそれぞれ二つの協和寮に関する「出役人員表」がある。その表からは一九四〇年一二月から一九四二年九月までの日々の在籍の状況がわかり、増減分から連行者の動向を窺い知ることもできる。万字と美流渡の協和寮の人員数をみれば、一九四一年二月には万字第一協和寮で五一人、第二協和寮で一三九人の計一九〇人、美流渡第一協和寮で五〇人、第二協和寮で六七人の計一一七人となり、合計すると三〇七人となる。一九四一年の在籍数は以後減少するが、三〇〇人弱で推移する。一九四二年をみると在籍数は四〇〇人を超えるようになる。たとえば、三月には万字の第一協和寮で八六人、第二協和寮で二〇三人の計二八九人、美流渡の第一協和寮で六〇人、第二協和寮で八二人の計一四二人、合計すると四三一人となり、増加する。

以後、連行は官斡旋によっていっそう強化されていくことになるが、現場からの逃走や事故も多発するようになる。なお、協和寮の位置については、所蔵史料の万字と美流渡の炭鉱地図があり、美流渡の地図からは協和寮の位置がわかり、万字の地図からは二見沢にあった協和寮の位置を推定できる。

一九四二年の連行状況をみてみよう。

美流渡へは一月に海南、二月に瑞山、五月に江華、六月に洪城、八月に茂朱、一一月に麗水から連行された。万字には一月に海南、三月に扶余、八月に茂朱、九月に慶州、一〇月に鎮安、一一月に麗水、一二月に山清からと次々に連行された。この年の連行者数は判明分で四三〇人を超える。この背景には戦争の拡大による石炭の増産と連行朝鮮人の満期や逃走にともなう減少への補充があり、連行形態も募集から官斡旋へと強化された。この時に連行された人々は一九四四年四月になると軍需徴用扱いを受け、期間を延長され、八・一五までの動員を強制された者が多い。

万字に海南から一月に連行された四四人のうち一四人が逃走に成功しているが、一九四二年の五月二〇日に逃走した門内面の四人は捕えられている。そのひとり金山永述の名票には六月八日に逮捕とある。かれは万字に連れ戻されたが、一九四三年六月に再び逃走した。

万字に扶余から三月に連行された松山栄宅は五月一六日に逃走したが、一八日に函館水上警察署で逮捕された。しかし、連送途中に列車から飛び降り、再び逃走した。

美流渡に瑞山から二月に連行された星本秀興と星本貴福は泰安面松岩里の同郷であり、四月二一日に逃走したが、七月に千歳鉱山で逮捕され、連れ戻された。星本秀興は解放後に帰国し、星本貴福は一九四五年一月に解雇された。

このような逃走による抵抗や満期による帰国が数多くあり、炭鉱側は人員の確保に追われていた。

一九四二年六月に労働者年金保険法が制定された。この法は現業労働者(男)を対象とするものであったが、一九四二年一一月に連行された朝鮮人の名票の裏面をみると、一九四三年一〇月一日に労働者年金保険に加入していることがわかる。たとえば、張田志完の場合、北二四九六二五の番号で登録され、資格喪失日は帰国に伴う解雇の翌日の一九四五年一〇月二六日となっている。なお、労働者年金法は男子の事務労働者や女性に適応を拡大する形で一九四四年一〇月に厚生年金法に改定された。

この厚生年金の番号からも、連行の状況を知ることができる。一九四一年七月に連行された金谷東坤は北六八一五五、一九三九年一一月に連行された崔龍秀は北六八二九二、一九四一年二月に連行された金本龍石は北六九八九一となっているように、一九四二年の法律制定によって、すでに連行されていた労働者の登録もすすめられたことがわかる。金本龍石は一九四二年一二月に落盤で死亡したが、労働者年金保険に登録されている。

その後の登録状況をみると、一九四二年五月に連行された嘉山大錫は北二〇四九三五となり、先にみた一九四二年一一月に連行された張田志完は北二四九六二五、一九四三年四月に連行された金玉童は北二五〇三七六となる。一九四四年二月に連行された景宮永植は北三五五〇一六となり、一九四五年一月に連行された金謙鎮は北五四二七九〇、一九四五年五月に連行された李英浩は北五五五五四九となる。北炭の年金名簿の番号を追っていくと、六万台から二十万台を経て五五万台へと推移していく。これは北海道での登録労働者の増加を示すものであり、一九四四年末の登録数の増加は年金法の改定によるものであろう。この労働者年金の名簿からも連行状況を知ることができるわけである。

続いて、一九四三年の連行状況をみてみよう。

美流渡へは二月に江陵、四月に延白、八月に錦山・益山からの連行があり、万字には一月南海、三月金海、八月錦山、一二月益山からの連行があった。連行者数は二〇〇人ほどである。この時期に連行された人々の名票には、一九四四年四月二五日付けの「軍事徴用」の印が押されているものが多い。朝鮮人の連行において徴用による連行は一九四四年九月とされるが、連行現場においてはその五カ月ほど前から軍事徴用が適用されていったわけである。それにより拘束性がより強化されたわけである。

八月に万字に錦山から連行された金村在興は九月に逃走し、網走の土木現場にいたが、一一月に連れ戻され、翌年一月に福寿坑内でのガスによる窒息で死亡した。同じく錦山から連行された山本南星は翌年三月に逃走するが、小樽水上警察によって逮捕された。四月には連れ戻されて軍需徴用扱いになり、解放後に帰国した。

一九四四年の連行状況をみてみよう。

万字史料の『労務者人員表』には連行者の人員の記載もある。この史料からは一九四三年末から一九四四年にかけての連行の状況がわかる。この表の記載によれば、一九四三年一二月一一日に一八人(掘進夫一七人・外運搬夫一人)、一九四四年二月一三日に四五人(掘進夫四二人・外雑夫二人・定夫一人)、五月八日に四人(内雑夫)、七月六日に二七人(内雑夫二三人・外雑夫二人・外工二人)、九月一九日に三五人、一〇月九日に三〇人(内雑夫)となる。

夫名票からは、美流渡へは二月に洪城、六月に軍威、七月に載寧、一〇月に再び洪城からの連行があり、万字には二月と一〇月に洪城からの連行があったことがわかる。一九四四年で連行者の氏名が判明しているものは一三〇人ほどであるが、坑夫番号に欠番が多く、欠落しているものも多い。

石炭統制会の統計表である「労務状況速報」、「雇入解雇及就業率調」、「主要炭砿給源種別現在員表」、「給源種別労務者月末現在員調」(長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』T所収)などの数値をみると、一九四四年一月には三一人、二月四五人、六月四五人、七月三八人、八月二六人の雇用数がある。多くが集団的な連行者であるが、これだけでも一八五人となり、一〇月になっての連行者を加えれば、一九四四年には二五〇人ほどの連行があったことになる。名票には一〇〇人を超える欠落があることになる。

北炭釜山出張所が作成した「チロ送出情報二」には、幌内向けの集団の連行状況を示す記述もある。それによれば、六月の軍威からの連行者は一〇〇人中、八五パーセントの連行を予定していたが、軍要員輸送と重なった。集合できたのは七〇人であり、混雑の中でさらに一九人が行方不明となり、引き継ぎは五一人となった。さらに輸送途中で四人が逃走したため、連行数は四七人となった。七月の載寧分の五〇人は四三人を引き継ぎ、五人が逃走し、港発は三八人となった(北炭『釜山往復』所収記事)。

この「チロ送出情報二」の記事から、『労務者人員表』の七月六日分の二七人の連行の記載が、載寧からの連行者三八人のうちの一部を示すものであることがわかる。

名票では美流渡への六月軍威、七月載寧の連行者についてはそれぞれ六人分が残っている。かれらは幌内炭鉱向けに編成され、幌内から万字炭鉱に送られてきた朝鮮人の一部である。夫名票の載寧分は二〇人ほどが欠落している。

軍威や載寧からの連行にみられるように、人数が少なくなった原因は朝鮮内での連行への抵抗が強まり、多くを連行できない状況に追い込まれていたからである。この中で官斡旋から徴用の適用の適用へと連行はいっそう強制力を強めていくわけである。

一九四五年の連行状況をみてみよう。

美流渡へは三月に霊光・永川、四月に泗川・晋陽、五月に昌原・陜川からの連行があった。万字には一月に珍島・康津、三月には咸平・海南・永川、四月には晋陽、五月には陜川からの連行があった。二四〇人を超える連行者数である。五月の連行者数は五八人であるが、この中から八・一五前に二七人の逃亡者がでている。このような逃亡の増加は、北炭による執拗な連行と自由を求めての逃亡による抗争が続いていたことを示すものである。

『昭和二〇年度以降 求人申込及割当認可綴』からは、一九四五年七月の在籍状況と不足数がわかる。それによれば、万字炭鉱には一九九二人の労働者が在籍し、そのうち連行朝鮮人数は坑内八一一人、坑外一一〇人の計九二一人である。労働者の約半数が朝鮮人であり、坑内労働者をみれば、三人に二人が朝鮮人となる。万字では二三八七人が必要とされ、朝鮮人の不足数は二〇〇人と計上されている。このような計算をもとに連行の申請が出されていくわけであるが、時期は一九四五年の七月であり、翌月は日本の敗戦となり、連行朝鮮人は解放を迎えることになる。

連行された人々の帰国の状況については、『半島人関係雑書綴』(一九四五年)の史料から、帰国者の数、連行者の出身郡、八・一五解放時の残留状況などを知ることができる。この史料から、八・一五解放後に万字と美流渡から帰国した朝鮮人労働者は一〇〇〇人ほどであり、家族を含めれば約一四〇〇人が帰国したことがわかる。

その内訳をみてみよう。すでに一九四五年九月三〇日、一〇月九日、一〇月八日の三回で四〇〇人ほどが帰国している。一一月二六日の集計であるが、美流渡の第一協和寮に昌原・永川・錦山・江陵・麗水、第二協和寮に霊光・洪城・錦山、第三協和寮に益山・載寧・延白・晋陽などの連行者が約二一〇人収容されていた。万字では、第二協和寮に錦山・天安・軍威・珍島・咸平、第三協和寮に山清・南海・金海・洪城・海南・陜川、第四協和寮に益山・洪城・軍威・載寧・康津・晋陽などの連行者が約四〇〇人収容されていた。そこに逃走して復帰した者が一〇〇人ほどあり、万字と美流渡の寮全体の朝鮮人数は七〇〇人ほどになる。家族持ちの朝鮮人は組夫を含めて美流渡と万字で五〇人ほどいた。これに朝鮮人の家族二五〇人が加わると全体で一〇〇〇人ほどになる。これらの朝鮮人の帰国は一二月二二日、二八日におこなわれた。この時の帰国者の坑別の内訳は家族を含めて万字で約六〇〇、美流渡で約四〇〇人である。

九月から一二月にかけて帰国した連行朝鮮人の数は万字六七〇人、美流渡で三二七人の約一〇〇〇人である。この中には逃走復帰者が一〇〇人ほど入っている。一五〇〇人ほどの夫名票の異動別内訳をみれば、逃亡二八九人、解雇送還一五七人、満期帰国二三一人、徴兵七人、死亡六五人、八・一五解放時残留七五七人となる。名票の欠落分は一九四四年だけでも一〇〇人以上あり、連行者の総数は一六〇〇人をこえるだろう。

なお、名票での帰国による解雇の日付は、九月三〇日、一〇月九日、一〇月二五日、一一月五日、一一月三〇日によるものが多い。特に一〇月二五日の二〇〇人ほど、一一月三〇日の四六〇人ほどで帰国による解雇者七五〇人の九割を占める。

 

3 労働災害による死傷

万字炭鉱での労働災害による事故死や負傷については、変災や殉職関係の史料からその実態が判明する。

『災害関係第二』(一九三九年、庶務部)と『美流渡変災関係』(万字礦)には、一九三九年一二月の美流渡・初音坑でのガス爆発についての死体検案書や鉱夫名簿、葬儀に関する史料が収録されている。事故は坑口から一六二四メートルの深部斜坑左九片本層昇で起きた。死亡した金聖順の「変死者検案書」をみると、全身が炭粉で覆われ、拭き取ってみると瞳孔が開き、結膜下に溢血があること、顔面や両腕に火傷があることなどが記されている。死因は爆発によって吹き飛ばされたショックと窒息によるものとされ、即死状態だった。他の者の検案書をみると、鄭俊拭はさらに顔面の裂創や右足関節の脱臼、金順沢は頭部挫創による脳髄の損傷、金又出は後頭部などの挫創を受けるなかで死亡したことがわかる。

『変災綴』(一九四〇年五月から一九四三年一二月)と『変災事変報告』(一九四三年から一九四七年)からは、炭鉱での事故と死亡の状況が判明する。

『変災綴』には、「変死者検案書」「検診書」「災害事変報告」「変災見取図」「災害報告」「災害事故速報」「聴取書」などが収録されている。一九四〇年では韓福童、゙?煥、一九四一年では金基泰、神農聖九、一九四二年では李鮮玉、金本龍石、金井在福、一九四三年では葛容翼、大城鳳祚、兪聖穆、呉海奎煥、豊田明変、朱泰洙、松浦炳律などの記事がある。美流渡での一九三九年一二月の変災報告書も含まれている。

検診書によれば、葛容翼は一九四三年二月一〇日の午後一一時に運転中の機械に接触し、左上下肢が複雑骨折し、出血多量で死亡した。負傷報告書の記事をみると葛は人車卸捲揚機の運転手であり、巻付を直そうとして機械の歯車に巻き込まれ、左手左足を轢断したとある。葛は全北茂朱出身、一九四二年八月に美流渡に連行されている。連行されて半年後の出来事だった。

『変災事変報告』には、一九四四年では金谷知順、金村在興、山田泰泳、黄泰洪、金田鐘順らの記事と八月の美流渡の初音坑事故の報告、一九四五年では松岡奎錫、月本圭哲、清城相堅、西原別先、金谷東洙らの記事があり、一九四三年九月頃の社宅の写真もある。

解放前の一九四四年七月二〇日に火薬爆発によって死亡した西原別先と金谷東洙に状況についてみてみよう。一人の身体は爆発により挫滅・飛散して、肉塊と骨片となり、人体組織の識別ができなかった。もう一人の頭部は骨折し、脳髄や大腸が露出し、右足も骨折するという状態だった。

『美流渡礦初音礦左四片変災関係』(万字炭礦)は、一九四四年八月の初音坑での事故の報告書書類であり、罹災者調書、変死者検案書、災害報告、弔辞などが収録されている。『変災事変報告』にはこの事故の警察署長報告などがある。これらの史料から事故の状況について詳しく知ることができる。ここでは警察署長報告の記載から事故の状況をみてみよう。

美流渡炭鉱での事故時の従業員数は四九九人、この内朝鮮人は二六五人と過半数を占めていた。日産は三五〇トンほどである。

八月二〇日の八時五〇分ころ、坑口から五〇〇メートルにある第一斜坑左四片の圧搾機室で火災が起きた。発火の原因は電気モーターの過熱とみられる。消火隊が派遣されたが、坑内は狭く、足場も悪かった。火は炭層や支柱に延焼し、煙は全坑内に充満して渦巻いた。火の熱気と注水による水蒸気が大量に発生し、不完全燃焼による一酸化炭素も発生した。当時坑内には五二人が入坑していたが、一八人は坑口近くにいたため脱出できた。しかし、三四人は脱出できずに死亡した。その内二五人が朝鮮人だった。二三日には火勢が弱まるなかで罹災者の収容が始まり、二四日には火災は鎮圧された。三一人が収容されたが、三人は収容できなかった。警察は朝鮮人寮を巡回し、動向を監視した。九月二日合同葬がもたれた。炭層の崩落が随所にみられ、一部は水没するという状況であり、損害額は四百万円ほどと推定されている。検死は二七日から二八日にかけておこなわれた。

検死書には、顔面や胸腹部などは膨隆し、紅色となっていること、酸化炭素中毒により苦悶し、窒息死したことなどが記されている。林川中天(全北茂朱)の検死書はなく、収容さえなかった一人とみられる。この事故で死亡した大山暎出(京畿江華)は一九二六年二月生まれの一八歳の若さだった。連行されたのは一九四二年九月であり、一六歳のときである。負傷者報告書には大山の記事があり、一九四三年六月八日に採炭の際、落盤で右肩を打撲し、負傷していることがわかる。

『殉職者関係書類綴』(一九四三年〜)には、一九四五年の西原別先、陶慶成、柳井益雄、清城相堅、松岡奎錫の記事、一九四五年七月の万字・美流渡産業報国会による殉職者名簿、一九四四年の金村在興、金山周玄、金田鐘順、一九四三年の豊田明変、大城鳳祚の記事、一九一七年からの万字・美流渡での殉職者名簿(一九四四年四月調査)、遺族扶助料調査、一九四二年の大城鳳祚の記事、『殉職産業戦士名簿』などが含まれている。

この綴にある殉職者名簿からは一九一七年から一九四四年はじめまでの万字・美流渡での殉職者名が明らかになる。また、この綴りにある『殉職産業戦士名簿』は北海道産業報国会が一九四二年六月から一九四三年五月までの殉職者を集約して作成したものであり、そこにはこの時期の北海道各地での朝鮮人死者の名や殉職理由が記されている。

なお、万字炭鉱の史料のなかには産業報国会作成の『殉職産業人名簿』も所蔵されている。この名簿は一九四二年までの死者を集約したものであるが、所蔵分には万字炭鉱についての訂正資料が挿入されている。訂正箇所は、北炭幌内(万字・美流渡分を含む)の死者六人を住友唐松坑の死者と誤植したところである。

これらの史料から万字・美流渡での朝鮮人死者の状況が明らかになる。判明した六三人の死亡者のうち万字分は一一人、美流渡は五二人であり、美流渡での死亡者が多い。

負傷状況については、『負傷報告綴』(一九四三年度)、『負傷報告』(一九四五年度)などの書類から負傷の具体的な状況が判明する。報告書面には住所、氏名、負傷理由、略図、現場状況、傷病名、事後処置、負傷状況、傷病名、治療日、労務の意見などの欄がある。負傷者の多くが朝鮮人であり、四五〇枚を超える報告書が収録されている。

報告書をみると、落盤や炭車の事故で手足の指を失う事故が多い。たとえば、一九四三年一二月一八日に金澤奉祚はエアー捲機に右手を捲きこまれて右示指末節を挫滅した。ロープの捲きつけを直そうとしての事故だった。

『障害扶助料関係書類』(一九四三年〜)には鉱夫障害扶助料支給伺、鉱夫障害扶助料並給与金支払通知、診断書、念書などが収録されている。この文書類は、障害扶助料の請求とその支払いの書類である。これらの史料から、一九四一年から一九四四年八月までの主な事故と四〇人ほどの障害の状況が判明する。

『厚生年金関係書類雑綴』(一九四五年〜四六年)には、障害の状況を示す障害関係発行診断書控、診断書、障害年金請求書、障害手当金請求書、障害年金立替受領念書や保険関係の史料である労働者年金保険被保険者業務種別変更届、健康保険厚生年金保険被保険者資格喪失届、被保険者氏名変更届、退職積立金及退職手当清算調書、被保険者報酬月額変更届、厚生年金保険被保険者業務上死傷届、脱退手当金請求書などの書類が含まれている。

障害関係発行診断書控の一覧からは負傷者四四人の障害状況が明らかになる。障害年金請求書や診断書、保険の死傷届からも坑内での事故の状況や事故による身体の状況がわかる。被保険者の資格の変更届からは保険番号や保険資格の取得日などがわかる。

収録されている金本玉允と景宮永植の障害年金立替受領念書についてみてみよう。金本玉允は一九四四年一二月一〇日の事故で右下肢の機能障害が残り、景宮永植は一九四四年十一月二五日の事故で脊柱彎症になった。二人はともに洪城出身で、美流渡第二協和寮に居住していた。念書は一九四五年一二月二五日の日付で、金本に一九四六年六月からの障害年金五カ年分二七五〇円を、景宮には一九四六年一月からの障害年金五カ年分一二五〇円を立替払いするが、その金額の受領については炭鉱側に一切を委任するというものである。一九四五年一〇月二四日付の厚生年金証書も添付され、そこには、金本には一九四五年一月から年五五〇円、景宮には四五年六月から年二五〇円の障害年金の支払いが記されている。名票をみると、二人とも一九四四年二月に洪城から連行され、一九四五年五月一八日付で病気のために解雇されている。名票からは労働上の災害と後遺症についての詳細はわからない。

障害関係発行診断書控には二人に一二月一三日に見舞金や扶助料などが支払われたという記事がある。この控にある四〇人ほどへの支給日は一二月一三日や二〇日、二一日である。そのことは、この障害関係発行診断書控が朝鮮人の帰国に際しての支払いのなかで作成されたものであることを示している。

問題は念書の一二月二五日の日付である。協和寮の朝鮮人は一二月二二日までに帰国し、残りの家族は二八日の便で帰国している。一二月二六日に申請し、一九四六年一月四日付で出された印鑑証明書も添付されている。すでに解雇されていたこの二人は二五日に残留していたのだろうか。二人の念書の住所氏名の文字は同一人物のものあり、念書の署名は本人の自筆によるものとはみられない。帰国にあたっての朝鮮人の支払い要求のなかでこの念書が作成されることになったとみられるが、受領については一切を炭鉱側に委任する形になっている。ここに記されている立替支払い予定の五年分の障害年金が実際に本人に支払われたのかについては不明である。障害を負った人々への未払い状態が帰国によって発生したことは事実であり、それらは支払われることなく現在に至っているものが多い。

北炭夕張の項でみたように、障害年金額五一二円に支払いを示す「厚生年金仮證書」を発行しても、その後の支給はなかったというケースが多かったとみられる。

変災と負傷の史料は連行朝鮮人の労働災害による死傷状況を具体的に示すものであり、労災事故が多発し、多くの人々が後遺症をもったことを示している。解放後の帰国にともない、障害を負った人々や遺族への支払金のうち、未払いのままの金銭も多かった。

『障害扶助料関係書類』と『厚生年金関係書類雑綴』にある診断書や扶助料の支払通知や負傷報告書と鉱夫名票の記事を参考にして一〇〇人ほどの負傷の状況を示す表を作成した。一九三九年から四五年まで千件を超える労災事故があったとみられるが、ここにその一端を示しておこう。

鉱夫名票には、解雇の理由を「疾病稼働不能ニ付」と簡単に記しているものがある。その疾病の多くが、坑内による労働災害であった。故郷から連行され、事故で労働不能となり、わずかの扶助料付与で解雇された人々も多かったのである。

鉱夫名票の裏側には北炭への誓約書が印刷されている。一九四二年の張田志完のものをみれば、誓約書には創氏名が記され、創氏名の印鑑が押されている。また、収入印紙が貼られ、そこにも印鑑がおされている。だが、その創氏名は鉱夫名票の表の記載と同じ筆跡であり、本人によるものではない。

この北炭への誓約書の第一条は幌内炭鉱の「御命令」に従い誠実に就業するというものであり、雇傭期間の欄は空白のままである。誓約書の第二条は規則を守ること、第三条は解雇されても苦情は言わないこと、第四条は満期や解雇による帰郷の際、旅費等は請求しないこと、第五条は逃亡や事故により債務が弁済できないときには保証人が引き受けることとなっている。一九二〇年代の北炭の誓約書と比べると、解雇の条件に、新たに指揮命令違反や故意に炭鉱の秩序を紊すこと、無断欠勤一五日以上、経歴の偽りなどが加えられている。かつての誓約書にあった賃金の一定金額を北炭に預け入れるという条項はなくなっているが、実際には強制貯金がおこなわれていた。

誓約の内容は、北炭の命令に従い、規則を守って働くこと、解雇されても苦情は言わないこと、借金は返済すること、帰郷の際の旅費は請求しないことというものである。しかし、労働力が不足していたため、実際には誓約に反して萬も解雇されない例が多かった。たとえば、逃亡しても、連れ戻されれば就労を強いられ、経歴の偽りがあっても名票を訂正することで対応している。二年の満期が来ても、延長されることが多かった。それはこの労務動員の本質が奴隷的な拘束による労働の強制にあり、「誓約書」を交わすような労働契約ではなかったからである。

 

以上、万字炭鉱史料を利用して万字炭鉱への連行の状況と労働災害の状況についてみてきた。北海道開拓記念館には寄贈史料であるこの万字炭鉱の史料の他に、北海道炭礦汽船札幌事務所の「寄託」史料がある。この史料の閲覧は制限されていて、現時点では市民には公開されない。開拓記念館が作成した目録をみると、朝鮮募集関係や災害事変関係の書類が多数含まれている。これらの文書が公開されれば連行と労働災害の状況がさらに明らかにできるだろう。なお、姜徳相「北海道開拓記念館蔵 朝鮮人鉱山労働者関係史料について」に、この札幌事務所「寄託」史料の朝鮮募集関係のものの紹介がある。

八.一五解放から七〇年を迎えようとしている今日、真相糾明に向けて、一部の研究者に対してだけではなく市民に対しても当時の史料は公開されるべきである。それは北海道で三万人を超える朝鮮人連行をおこなった企業の歴史的な責任である。

 

参考文献

「北海道炭礦汽船万字炭鉱史料」北海道開拓記念館蔵

『鉱夫名票』朝鮮人分

『災害関係第二』庶務部一九三九年

『美流渡変災関係』万字礦一九三九年

『変災綴』一九四〇年五月〜一九四三年一二月

『変災事変報告』一九四三年〜一九四七年

『美流渡礦初音礦左四片変災関係』万字炭礦

『殉職者関係書類綴』一九四三年〜一九四五年

『負傷報告綴』一九四三年度

『負傷報告』一九四五年度

『障害扶助料関係書類』一九四三年〜一九四五年

『厚生年金関係書類雑綴』一九四五年〜一九四六年

『労務者職別人員表』一九四〇年一二月〜一九四二年一月

『労務者人員表』一九四二年二月〜一九四四年一月

『幌内鑛業所美流渡礦建物配置図』一九四三年一二月

『北海道炭砿汽船萬字礦建物配置図』一九四四年一月

『昭和二〇年度以降 求人申込及割当認可綴』一九四五年

『半島人関係雑書綴』一九四五年

『殉職産業戦士名簿』北海道産業報国会一九四三年

『殉職産業人名簿』大日本産業報国会一九四三年

 

「チロ送出情報二」 北炭『釜山往復』所収 北海道大学図書館蔵

「労務状況速報」、「雇入解雇及就業率調」、「主要炭砿給源種別現在員表」、「給源種別労務者月末現在員調」 長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』T緑蔭書房一九九二年所収 

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行強制労働の記録 北海道千島樺太編』現代史出版会一九七四年

朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委『北海道と朝鮮人労働者』札幌学院大学生活協同組合一九九九年

姜徳相「北海道開拓記念館蔵 朝鮮人鉱山労働者関係史料について」 戦後補償問題研究会『在日韓国・朝鮮人の戦後補償』明石書店一九九一年所収

                                  (二〇〇九年一二月調査)