519 広島安野発電所「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」開催

                 

2012519日、広島県の安野発電所近くの中国人記念碑の前で40人ほどの中国人遺族を迎えて「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」がもたれた。

●中国人受難者追悼・平和集会

 この集会でははじめに、西松安野友好基金の内田雅敏さんが、受難の碑を友好の碑にすることの意義を語り、平和共存を求めて覇権に反対した日中共同声明の精神をふまえて民衆による手作りの追悼式をすすめるとともに中国人強制連行問題を全面解決することを訴えた。中国人受難者・遺族を代表して邵義誠さんの文を家族が読みあげた。その文は、公然とした謝罪、賠償金支給、記念碑建設の3つの要求を実現させた人々の努力を語り、追悼と共にこの碑の前で永久の平和に向けて静かに深く思索することを呼びかけるものだった。

続いて、安芸太田町長、中国駐大阪領事館、善福寺住職などがあいさつし、二胡の演奏のなかで献花がおこなわれた。献花の後に、遺族が碑に刻まれた親族の名前を探し、対面した。故人の写真とともに確認する、刻まれた文字に触れる、名前の前で思い出を語る、労苦をわかち涙をぬぐう、写真に収めるなど、さまざまな形でそれぞれの追悼の時がもたれた。

遺族が碑の前で持参した紙銭を燃やして追悼する。炎が紙を包み、灰となって風に舞う。それはこの地から亡くなった者たちへと時空を超えて生きるものの想いを届けるようだった。

●安野への中国人強制連行

この追悼・平和集会の後、安野発電工事の中国人収容所跡地などの現地見学会がもたれた。

安野発電工事は太田川上流の滝山川の水を加計の土居で隧道に取り込んで、丁川、香草、津浪、光石を経て坪野まで送り、安野発電所で発電するというものである。隧道はのべ77キロメートル、掘削地点は11か所に及んだ。起工式は1943年の秋のことであり、1944年には工事が本格化したが、完成は戦後の1946年末になった。近くの吉ヶ瀬発電の現場をはじめ各地から朝鮮人が集められた。強制連行者も含めて集められた朝鮮人は800人以上になった。

中国人が連行されてきたのは19448月のことである。中国人は山東や河北から360人が駆り集められてきた。連行中国人は発電工事用の隧道に沿う形で、取水口の土居、隧道掘削口の香草、津波、発電所の坪野の4か所に収容された。坪野が第1中隊、津波が第3中隊、香草が第2中隊、土居が第4中隊とされ、人数は第1から第3中隊までが100人、第4中隊が60人であった。中国人はこの安野の現場で29人が死亡したが、抵抗して刑務所に送られて原爆死した者、被爆による後遺症で苦しんだ者もいた。

●坪野の善福寺

安野発電所近くにある善福寺には5人の中国人の遺骨が1958年まで保管されていた。そこには呂鳳元さんのものもあった。呂さんは4人の子を残して日本に連行され、亡くなった。遺骨が置かれていた場所で阿弥陀経が読経され、訪日した遺族は、祖母は生きているはずと思いつづけていたと語る。人の命への思いに民族の差はない。

裁判では5人が原告となり、11人の日本人が陳述書を書いて、強制労働の実態などを記した。その一人の谷キヨ子さんは近くに住んでいたが、西松組の下請けの島田組の日本人が棍棒を持って労働させていたことや祖母がジャガイモを与えたことなどを記している。現在88歳になる谷さんは、中国人にやさしく接した思い出を語った。

70年ほど前に民族を超えて友として生きた人々の話を聞き、中国人遺族が私は人としてあなた方の友ですとあいさつし、老女の手を握る。

●安野発電所の竪坑

坪野にある安野発電所へと上部から3本の余水管で水が運ばれているが、このうち右側の余水管の上部にみえるコンクリート製の竪坑が戦時期の構築物である。隧道からの水をこの竪坑で取水して下の発電所へと落としている。この竪坑の建設には中国人も動員された。この竪坑からは神社近くにあった中国人第1中隊の坪野収容所跡も見ることができる。

安野の現場での暴行と侮辱のなかで、中国人に暴行を加えてきた大隊長と第1中隊3班の班長を殺すという抵抗事件が1945年7月13日に起き、11人が広島刑務所に送られ、被爆した。別に逮捕された5人は取り調べを受けるなかで被爆死した。

解放後にこの近くの太田川での転覆事故で亡くなった第1中隊の劉存山さんの遺体は発見されなかった。劉さんの遺族はその話を竪坑から太田川をみつめ、目を潤ませながら聞いた。

●津浪と香草の収容所跡

津浪には第3中隊の収容所がおかれていた。収容所跡地は現在では水田となっているが、区画はほぼ当時の形を残していて、ここに収容所があったことを知ることができる。連行された中国人はここから200メートルほど先の隧道掘削工事に動員され、ズリを外に運び出す仕事などを強いられた。

津浪の収容所の監視員の証言の記録をみると、中国人を下関まで西松組と監視員が引き取りにいき、貨車とトラックで安野に連行した。収容所は中央が通路で両側が寝床だった。監視員1人と警察官1人が常に見張っていたとある。

香草の神社の横には第2中隊の収容所がおかれた。栗栖薫さんは現在82歳であるが、父がこの収容所の監視員とされたことから、自らも収容所に行き、監視員詰所に泊まったことがある。栗栖さんは現地で収容所の図面や中国人が梁に吊るされて制裁をうける絵などを示しながら、次のように話した。

自宅内には吉田組の工事事務所がおかれ、家の近くを通って中国人が仕事に行く姿も見た。川上という男が中国からついてきて警察や現場との連絡をしていた。粗末な建物で、マントウのみで食事も悪かった。数か月で体力をなくしていた。仕事場は2か所に分かれ、ズリを運び出す仕事などをさせられ、トロッコで外に出す仕事もした。びしょ濡れになっての仕事であり、12時間労働したらそのまま寝るという状態だった。人間としての扱いではなかった。朝鮮人がダイナマイトや削岩機などを使って隧道の掘削をおこない、近くに40人ほどの朝鮮人の集団の仕事場があり、その飯場もおかれていた、と。

この現場でのトロッコの運搬中の事故については宋継堯さんの証言記録がある。宋さんは16歳で国民党の遊撃隊に参加して日本軍の捕虜となり、安野に連行されている。1945年3月ころ、空腹での長時間労働が続き、トロッコを押してトンネルから外に出たときに脱線し崖下に転落した。宋さんはトロッコと共に投げ出され、目には砂がたくさん入った。その後、両目が腫れて発熱したが、治療を受けることができず、失明した。そのため帰国したが、その後の生活は困難を極めた。

今回の現地見学に参加した劉宝辰さん(元河北大学)は、宋さんが下関で自らの手で腫れた右目を絞り出してつぶしてしまったという証言を紹介した。

今回来日した遺族の名票をみると、帰国後1950年までに若くして死亡した人も多い。それは安野での過酷な労働が原因とみられる。

●土居・滝山川ダム

土居には滝山川ダムが建設された。ここから取水して隧道に流し込み、安野発電所へと水を送った。滝山川ダムの対岸には第4中隊の収容所がおかれた。

証言記録によれば、邵義誠さんは第4中隊に入れられた。邵さんの父は「満州」の炭鉱へと連行され、行方不明になっている。邵さんは青島で歩いているところを捕えられて監禁され、日本に送られた。毎日12時間収容所前の川のなかで採石の仕事を強いられた。12月頃には疥癬になり働けなくなった。治療もされずに放置され、食べ物は半分に減らされた。1945年3月には働けなくなった者とともに中国に帰された。家に着くと家族はバラバラになっていて,8年にわたる流浪の生活を強いられた。

呂鳳元さんは連行されて第4中隊に入れられたが、1ヶ月半後に死亡した。生存者によれば、治療を受けることもなく亡くなったという。呂さんの遺骨は、解放後に火葬場で発掘されて善福寺に安置され、1958年に中国へと送られた。遺族がその現場に立ち、話を聞き、当時の状況を全身で受けとめる。

安野の現場から逃走する中国人もいた。郭克明さんの証言記録によれば、2カ月ほど経った夜、仲間とともに逃走し、広島の町に着いたところで逮捕された。監督たちは指に細い竹を挟んで力一杯に手を握り締めたり、太い棒を敷いて正座させ、火のついた煙草を背中に入れたりした。加計署に連行され、18日間拘留され、厳しい取り調べを受けた。釈放されると、坪野の第1中隊の広場に集められた全中国人の前で太い棍棒で腿を殴られて気絶した。その後見せしめのために広場を引きまわされたという。

安野の現場は、強制移送と奴隷化、暴力と侮辱、逃亡と逮捕、拷問と見せしめ、抵抗と被爆死、帰国後の流転そして家族の離散と、連行された人々や家族の苦しみと悲しみの歴史を物語る。

 

●民衆の平和へ

安野での歴史の真実と正義を求める活動は、安野での連行調査の開始、1992年の中国現地での連行中国人の被爆者との出会い、1995年の安野受難労工聯誼会の結成、西松建設との交渉、1998年の広島地裁への提訴、香港や台湾での行動、2004年の広島高裁での時効の主張は権利の濫用とする勝訴判決、2007年の最高裁での敗訴、200910月の中国人側の要求を認める形での西松建設との和解、201010月の追悼碑の完成と追悼集会の開催、基金と継承の活動と、20年に及ぶ。

ダムの取水口へと音を立て、渦を巻いて水が取り込まれ、隧道にむかっていく。人々が強制連行強制労働の現場を歩き、当時の労苦を思う。遺族一人ひとりが、ここで労働を強いられた人々の物語に思いを馳せる。遺族が、頭に大きなけがをしたと祖父が語っていたと語る。安野で体調を崩し、帰国後は収入を得ることができず、子どもに教育の場を与えられなかったという人もいる。そのような遺族が安野の現場に立ち、悲しみの歴史を思い起こし、新たな未来について考える。ここは、遺族と市民が新たな平和への意思を分かちあう場でもある。

 安野の中国人の記念碑には連行中国人360人全ての名前が刻まれている。碑はその時代の歴史認識の地平を示すものである。碑の前に立ち、労働の現場を歩いた後、ある遺族は「逃げて制裁を受けた話は聞いていたが、労工の厳しい実態を知った。当時の技術も知ることができた。碑をみて、悲しく、虚しい気持ちになったが、これからは友人として付き合ってほしい」と語った。

このような対話のできる関係が各地で生まれていくこと。それが民衆の平和形成につながっていくと思う。