平岡発電工事への強制連行について

1強制連行前史・三信鉄道と泰阜ダム

2日発平岡発電工事

3朝鮮人強制連行

4平岡村朝鮮人関係名簿の分析

5中国人強制連行

6連合軍俘虜の強制連行

7飯島発電工事

 

 静岡・愛知・長野の県境近くに平岡ダムがある。天竜川を堰きとめる平岡ダムの建設工事は一九四〇年六月からはじまった。このダム建設は軍需生産を拡充するために計画され、建設労働力として、朝鮮人・中国人・連合軍俘虜が強制連行され、奴隷的労働を強いられた。ここではその実態について証言を中心にみていきたい。

 

1 強制連行前史・三信鉄道と秦阜ダム

 平岡(現在長野県下伊那郡天竜村)周辺で一九三〇年代に多数の朝鮮人が働いた場所としては、三河と信州を結ぶ三信鉄道工事(現・飯田線)と泰阜発電工事がある。

 三信鉄道工事は飯田側と三河川合側の両方から一九二九年にはじめられた。この工事でのトンネル数は一七一ケ所あり、全線の四二パーセントを占める。橋梁も九七ケ所、全線の二〇パーセントとなっている。この数字からわかるように工事は山を貫き、橋をかけての難工事であった。全線開通は一九三七年五月のことである。

 ここで三信鉄道工事を請け負った組のひとつである熊谷組についてみておこう。熊谷組の創始者は福井県出身の熊谷三太郎である。かれは石材請負業をいとなみ、飛島組叶ン立時には取締役として参加、飛島組の下請として熊谷組の仕事もおこなっていた。天竜川筋での工事についてみてみれば、一九二〇年代に天竜川電力第一水力発電、第三水力発電、一九三〇年代には三信鉄道工事の飯田側からの第二区工事や門島・中部天竜間工事(一九三四〜三七)などを請け負っている。

 一九三八年一月には褐F谷組を設立し、アジア太平洋戦争下、水力発電工事や飛行場建設を請け負った。天竜川筋での仕事をみれば、天竜川の平岡発電工事、その支流の遠山川の飯島発電工事を請け負っている。

 つぎに泰阜発電工事についてみてみよう。この工事は天竜川水力発電を吸収した矢作水力発電によって建設されたものであり、一九三〇年代の天竜川での大規模工事だった。工事を請け負ったのは清水組であった。工事は一九三二年一〇月に着工され、三五年一二月に終了した。この工事は天竜川を堰きとめ、高さ五〇メートル、長さ一四二メートルの巨大ダムを建設するというものだった。ここに二千人におよぶ朝鮮人が集められてきた。未払い賃金の支払いや飯代値下げを求めて争議もたたかわれた。

 三信鉄道と泰阜の工事現場で働いていた朝鮮人のなかに朴斗権氏がいた。

 朴氏は慶北慶山郡出身、一九一〇年生。父を一歳半のときに亡くし、村の土地の大半は日本人の土地となり、貧困のため学校へ行くこともできなかった。一九歳のとき兄を頼って渡日し、栃木・茨城を経て三河三合の三信鉄道現場に入った。日当は一円五〇銭、そこからさらに飯場代を引かれた。わずかな賃金だが、三ケ月も未払いという状況下、一九三〇年八月、日朝労働者はストライキに入った。警察が介入し、朴氏らは検束された。岡崎警察で拷問され、その後解雇された。静岡・山梨を経て、一九三三年に泰阜で働くことになったが、そこには二〜三千人の朝鮮人が働いていた。眠ったと思えば朝起きて働くという重労働の日々。賃金は一日二円八○銭だが飯代として八○銭が引かれた。一度山梨へ戻り、三五年に平岡にきた。そこで道路工事や鉄屑拾いで生計をたてていた。そして平岡発電工事現場で働くことになった。

 *朴斗権氏の証言は「朝鮮人に対する日本帝国主義による加害」(『戦争を掘る』所収)、原英章「下伊那における朝鮮人労働者の実態」(同書所収)に詳しい。ここではこれらの証言記録から要約。三信争議については斎藤勇「一九三〇年夏、三信鉄道争議」に詳しい。

2 日発平岡発電工事

 平岡ダムは高さ五八メートル、長さ二五八メートルの巨大なダムである。このダム建設は三七年に計画され、一九三八年に認可された。一九三九年、電力の国家統制にともない日本発送電が成立したため、日本発送電が平岡発電工事をすすめることになった。日発は熊谷組に対し二〇五五万円で請負契約をした。熊谷組は一九四〇年六月から、ダムの建設とダムからの水を発電所へ送るための導水用トンネルの掘削と発電所の建設をはじめていった。掘られたトンネルの長さは約七一四メートルである。

 工事は河床の巨大な岩を人力で砕いてすすめられた。ときには洪水におそわれるという難工事であり、資材の不足もあって軍需省は途中で工事を止めた。熊谷祖は近くにある天竜川支流の遠山川での飯島発電工事に主力を投入していった。平岡ダムの建設は戦後の一

九四九年に再開され、五二年から営業がはじまった。

 平岡発電工事の目的は名古屋を中心とする軍需産業に電力を供給することであった。一九四二年の主な電力供給先の工場をあげると、昭和電工(長野・金属)、大同製鋼(愛知・製鋼)、三菱重工(愛知・航空機)、名古屋陸軍造兵廠(愛知・兵器)、豊川海軍工廠(愛知・兵器)、東邦重工(三重・ステンレス)ほかがあった(『中部地方電力事業史』)。

 建設のための労働力として平岡発電工事へと朝鮮人が大量に連行され、さらに連合軍俘虜や中国人も連行されて酷使された。

 連行された朝鮮人は二〇〇〇人におよぶ。日本在住の朝鮮人で平岡へと動員された人々を加えれば二五〇〇人をこえる朝鮮人が平岡にいたと推定できる。飯島発電工事には約千人の朝鮮人が連行されているから、アジア太平洋戦争期、平岡周辺には三五〇〇人余の朝鮮人が連行・動員されたことになる。

 連行された中国人は約八八○人、連合軍俘虜は約四四〇人とみることができる。

 中部電力平岡発電所の構内中庭に一九五三年に建てられた平岡発電工事での死者を「追悼」する碑がある。そこに三八人の日本人の名前が記されている。しかし、連行された人々の死亡者については「中国人一五人、韓国人一三人」と人数だけが刻まれている。連合軍俘虜の死者については全く記されていない。証言や調査などからみて、連行された人々の死者は碑に記された数よりはるかに多いと考えられる。この碑には強制連行の史実、正確な死者の数、死者の名前などが記されていないのである。

 朴慶植氏はこの碑について、中国から遺骨を受け取りにきたとき、発電所側が責任を回避するために建てたものとし、死者数がごまかされていると指摘している(『朝鮮人強制連行の記録』)。

 天竜村役場近くの自慶院には「興亜建設隊殉識者之碑」という碑があり、そこには平岡へと連行されて死を強いられた中国人の名前が、他の連行場所での死者とともに記されている。この碑は建設隊長のひとり上条寛が一九四七年に建てたものであるが、平岡への強制連行や奴隷的労働についての史実は全く記されていない。

 平岡ダム管理所前には「在日殉難中国烈士永垂不朽」という四メートルほどの碑がある。この碑は長野県中国人俘虜殉識者慰霊実行委員会によって一九六四年に建てられたものであり、日中友好と非戦を希求する碑文がある。死者が焼かれた共同火葬場跡には「中国人烈士火葬場跡」と刻まれた碑が建てられている。ここの火葬場で焼かれた人々の遺骨がどのように処理されたのかについては不明のままである。

 戦後の日中友好運動による真相究明と遺骨送還の活動によって中国人の連行者と死者の名前は明らかになっている。『天竜村平岡における中国人強制労働の記録』には調査の記録がまとめられ、『資料中国人強制連行』には中国人死者の名簿もまとめられている。しかし、死亡した朝鮮人や連合軍俘虜についての記録は明らかにされていない。

 アジア太平洋戦争のなかでの平岡発電工事現場での強制連行と奴隷的労働の真相究明とその責任の追及は不十分なままである。連行された人々の人間としての尊厳はいまだに回復されていない。過酷な労働を強いられた人々の存在は否定され、死者の名前は奪われ消されたままなのである。

 以下、強制連行された人々の証言をまとめながら、当時の状況についてみていきたい。

3 朝鮮人強制連行

 朴斗権氏の平岡発電工事についての証言からみていこう。

 平岡発電工事で働くようになったのは一九四〇年。労働者の起床は四時半ころ、朝六時から夜の六時まで働きつづけ、飯場に帰るのは七時ころ、昼夜二交代制の仕事。トロッコ事故などで多くの人が亡くなった。死んでも住所や名前のわからない人も多く何の補償もなかった。犬と同じ扱いで人として数えられなかった。けがをしても手当もない状態、文句を言うと警察へ連行された。死体を焼いたが、薪が足りなくてよく焼けなかった。

 飯場は丸太に杉板などを打ちつけたものでガラスの窓もなく粗末なものが多かった。とても人間の住めるところではなかった。逃亡する人もあった。脱走者を警戒する番もやらされた。仕事は貨車から六〇キロものセメント袋を背負って運んだり、河床の石を掘り出し、モッコやトロッコで運ぶことだった。河床の石は氷のように冷たかった。

 *前掲『戦争を掘る』所収の朴斗権証言から要約。

 つぎに朝鮮半島から直接連行された全昌煕・全一洙・金小石各氏の証言をまとめ、実態についてみてみよう。

 全昌煕氏は慶北義城郡出身、一九四三年、一七歳のときに連行された。地域から六〇人が集められ、一五人一組の四班に編成され、汽車で釜山に送られた。船で下関に到着、鉄道で豊橋を経て、平岡に連行された。収容された所は山の中腹にあるブタ小屋のようなところ。ムシロを敷いてあっても風で吹きあがった。夜はせんべい布団一枚で寒く、とても人間の住む場所ではなかった。日本人警官に見張られ、自由な行勤はとれなかった。食事は雑穀やウドン粉などだった。

 仕事は山の中腹に導水用トンネルを掘りすすめ、岩を外へと出すこと、空腹での重労働だった。毎日のように死者が出た。目の前で作業中に爆発して十数人が死傷したこともあった。死体は日本人が運び去り、埋葬されたかどうかもわからない。心配し同情しても口に出せず、仕事を続けさせられた。

 逃亡して捕えられると皆の前で丸裸にされ、背中を木刀でたたくなど半殺しにされた。意識がなくなると水に頭を突っ込んで再び殴った。こんなところにいたら、生命がいくつあっても足りないと思い、三〜四ケ月後に仲間と逃亡し、地獄のような現場から脱出した。各地を転々とし、大阪伊丹飛行場の工事現場で八・一五解放を迎えた。

 *全昌煕証言『強制連行された朝鮮人の証言』所収から要約。

 全一洙氏(一九二一年〜九四年)は慶南固城郡出身、一九四三年二月に平岡へと連行された。五〇人ほどの飯場が五〜六ケ所あった。二円五〇銭の賃金のうち六〇銭が引かれ、残りの一円九〇銭は熊谷組が保管して本人には直接手渡さなかった。仕事は掘削と土の運搬であり、山の中腹に作られたトロッコ道を一日に一〇数回往復した。早く押せと監督に棒で殴られたため、今も腰がうずく。目の前で頭を殴られ死んだものもいた。共に連行された大邱の「大山」は逃げようとして捕まって殺された。「千原」はトンネルの中で機関車にひかれて死んだ。逃げようとして崖から落ちてたくさんの人が死んだ。死んだ朝鮮人は火葬場で焼かれた。

 *金一洙証言『朝鮮人強制連行調査の記録 中部東海編』所収から要約。

 全一洙氏の遺族は一九九七年一二月に政府と熊谷組による謝罪、父の尊厳の回復、同胞への平等な人権保障などを求め、名古屋弁護士会に人権救済を申したてた(『毎日新聞』名古屋版一九九七年一二月二六日付等各紙)。

 金小石氏は一九二〇年生、慶北高霊郡出身、ある年の一月の夜明け、自宅に踏み込まれて郡庁へと連行された。同郷の五人とともに翌日大邱へと送られ、数百人の青年とともに釜山へ。釜山から下関を経て平岡へ連行された。

 飯場はバラック小屋にむしろを敷いただけのところ。そこに雑魚寝、食事は豆かすに小麦や麦と米が一割程度混じったもの。四時から六時まで軍事教練をさせられたこともあった。トロッコで土を運ぶ仕事をした。発破、落盤やトロッコによる事攻がおき、今日は誰それが死んだという話を毎日のように聞いた。同郷者がトロッコに押しつぶされて死ぬ事故を目撃した。

 二回逃げたが失敗し、ひどい目にあわされた。三回目に豊橋方面へと山伝いに二晩かけて逃げた。豊川の農家で助けられ、そこに名古屋のいとこが迎えにきて自由をえた。同郷五人のうち三人は死に、逃亡した二人だけが生き残った。

 *金小石証言『朝鮮人強制連行調査の記録・中部東海編』所収から要約。

 朝鮮半島から強制連行された人々の数を示す史料としては厚生省報告書(一九四六年)がある。厚生省勤労局報告の長野県分から熊谷組平岡の項をみると、一九四一年に三九九人、四二年に一二一四人、四三年に三〇八人の計一九二一人を連行したことがわかる。このうち逃亡者は一五七五人とされ、連行者の八二パーセントにあたる。死者は一二人とされているが、実際にはもっと多かったと考えられる。

 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(一九四二年)をみると、熊谷組は三岳村黒沢作業所に一九三九年、五〇〇人、四〇年、二〇〇人の朝鮮人連行の承認をうけた。一九四二年三月までに六九四人を連行しているが、同年六月末には労働者数がゼロになっている。これは連行された人々が他の場所へと転送されたことを示すとみられる。熊谷組の工事状況からみて主力は平岡へと移されていったと考えられる。熊谷組平岡へは一九四一年に七〇〇人の連行の承認をうけ、一九四二年六月までに六五三人が連行されている。同月の現在数は六〇九人となっているから、逃亡などでこの時点ですでに四四人が減少している。

 連行された人々以外にも多くの朝鮮人が平岡へと来ていた。

 松村炳治氏(一九二二年生)は工事の始まった一九四〇年に木曽の三岳発電工事現場から父と共に平岡に来ている。父は三岳工事現場の総取締世話役だった。熊谷組の下で、発電所を高階、導水トンネルを宮川、ダムを岩手屋などの組が請負っていた。朝鮮人は二年契約の「募集」で連行され、一日一円九〇銭ほどの賃金だったが、飯場代九〇銭を引かれ、タバコ、地下足袋、一杯の酒などで金はなくなってしまった。始末をして月に一〇円稼いだとしても、そのうち五円を熊谷組が強制貯金した。二年すぎると日当もよくなり、家族を呼ぶ人もいた。トンネル工事は十二時間の二交代制、一つの飯場は五〇人が普通、天竜橋のむこう側には飯場が七〜八棟あった。

 家族持ちには炊事場と二間の部屋があり、周囲にセメント袋や俵を貼っていた。逃亡は多く、三ケ月もたてば半分くらいになっていた。飯場にはツルハシの柄のような棒をもった用心棒が見張捕らえられると頭の毛を剃り、同胞に殴らせた。発電所工事に一五〇〜二〇〇人、ダム工事に三〇〇人以上いた。

 *松村炳治証言・原英章「下伊那における朝鮮人労働者の実態」『戦争を掘る』所収から要約。

 文海氏は慶南金海郡出身、一九二五年生。一九四〇年に渡日し大阪の夜学に通うが、一九四三年満島(平岡)の水力発電工事現場にきた。飯場の六〇人の労働者と家族のほとんどが朝鮮人であり、トンネル工事をしていた。危険な命懸けの仕事だった。そこで事務仕事や労働者の家族に配給物を配ったり、一キロ先の地下倉庫からダイナマイトを運んだりの仕事をした。

 約六ケ月後、相模原で現場書記の仕事をするように言われ、四四年の春、相模川の水を横浜へ送るためのトンネル工事の現場に行った。徴兵検査もうけたが、八・一五解放となった。戦後ハンセン氏病となったが、「生き抜きたい」「まだやることが残っている」と自らも驚くほどの強い精神を持って生き抜いてきた。

 *文海証言『百萬人の身世打鈴』所収から要約。文氏の現場は平岡から一二キロほど先というから飯島発電工事の現場かもしない。

 

4 平岡村朝鮮人関係名簿の分析

 天竜村役場には旧平岡村役場の文書「埋火葬認可証綴」と「寄留簿」が残されていた。ここではこれらの史料を転記したものを使って、平岡発電工事現場での死者、朝鮮人の転入状況、強制連行者の存在、朝鮮人飯場の位置などについて考えてみたい。また戦後の朝鮮人の民族教育についてもふれたい。

 天竜村(旧平岡村)に残されていた「埋火葬許可証綴」には朝鮮人五八人分の記載があるが、このうち一三人は解放後の死者である。また二七人が幼少児である。

 綴に記載された死因や居住地から発電工事関係者と考えられる者は一四人である。現状では死亡者の名前や死者数が明示されていないため、ここで追悼の意を示し一覧を提示する。これらの人々以外にも、証言によれば名前も記されずに処理されていった人々がいた。

 多くの子どもたちの死についていえば、強制労働のもとでの過酷な生活条件が生き延びることもできた生命を奪っていったといえる。

 「平岡村寄留簿」には一九二九年〜五二年までの転入朝鮮人家族二〇二世帯、計七九二人分の転入者が記載されている。寄留者を転入年月順に並べ、さらに居住地毎に分類してみると、朝鮮人の転入者が増加した年月と居住者が集中した場所を捉えていくことができる。

 *村沢愛弘氏らは「平岡村寄留簿」を発見し、それを分担して転記する作業をおこなった。ここではその転記資料を参照し分析した。

 この寄留簿には二千人近く連行されたという朝鮮人の名前はほとんど記されていないとみられる。連行された人々の居住地をつかんでいくこともむずかしい。しかし寄留状況から、熊谷組の下請であった小原金助・高階福太郎らが家主となっている所には連行者が居住したと考えられる。

 一九四三年三月についてみると、慶北聞慶郡から一五人ほどが小原と高階の飯場と考えられる所に振り分けられている。寄留年月と集団的寄留状況からみて小原金助の平岡一九八〇、同平岡二八五、高階福太郎の平岡九一四などは朝鮮人が収容された飯場であったことが確実である。高尾文太郎・斗万の平岡一二八九にも一九四三年四月に三世帯の朝鮮人が転入している。ここは家族持ちの朝鮮人の飯場となっていたと考えられる。熊谷組が連行した朝鮮人の数は約二千人であり、逃亡者が続出したが、朝鮮人を収容した飯場は連行者数からみて二〇ケ所以上あったと考えられる。ここで所在がわかったのはほんの一部である。

 連行は一般に一〇〇人、二〇〇人の単位でおこなわれている。一九四〇年から四三年にかけて平岡へと一〇数回の連行がおこなわれたとみられ、証言やこの名簿の分析から、連行者の中には慶北義城・高霊・聞慶、慶南固城郡からの人々が含まれていたということができる。

 三信鉄道は一九四三年に国有化され、飯田線となるが、この鉄道は戦時下、労働奴隷運搬用線としても使われていた。

 現場では死亡事故が続出した。朝鮮人は逃亡することで自由をえることができた。逃げる人々を助ける農民や在日朝鮮人もいた。現場から自由を求めての逃走は日本帝国主義の戦争遂行能力を生産現場から低下させ、自国の解放をはやめていくことに結がっていた。

 朝鮮人家族の平岡への転入によって朝鮮人の子どもたちの数も増えていった。

 平岡小学校『八〇周年記念誌』(一九八〇年)から一九四一年から四三年までの卒業生の名前をみてみると、一九四一年星山珍相・星原丁得、四二年山本桂植、丹山珪復、茂山玩植、四三年丹山珪日、中山鐘硯といった創氏名があり、他にも朝鮮人と思われる名前がみられる。居住先不明とされている数などからみて一学年約一〇〇人の中に二〜三〇人の朝鮮人がいたと考えられる。

 寺平幸夫氏(一九三六年生)によれば一九四三年に平岡小学校へ入学したが、一クラス約五〇人のうち朝鮮人は一〇人ほどいたという(一九九七年ききとり)。

 平岡発電工事がおこなわれていた間、朝鮮人の子どもたちの数は三〇〇人ほどになっていたと考えられる。平岡発電工事が中止になると、熊谷組は近くの飯島発電工事に主力を傾けるようになった。それにともない平岡居住の朝鮮人は飯島へと連れていかれた。

 八・一五解放を迎えると朝鮮人じしんによる民族教育が追求されていくようになった。

 解放後、在日朝鮮人連盟飯田支部平岡分会が結成され、一九四六年五月には朝鮮人連盟満島初等学院が設立された。この学校ははじめ旧役場前の民家におかれ、のち平岡の長野町九一二に建物ができた。学校の建設は朝鮮人として力強く生きていってほしいという親たちの願いによるものであった。李太好・金文守らが国語・算数・歴史地理・理科・図画・音楽・体育などを教えた。幼い子どもたちが朝鮮語であいさつし、歌う姿をみるだけで同胞たちは大変に感激していたという。

 この民族学校は一九四九年一〇月一九日に連合軍総司令部の圧力で閉鎖され財産も接収された。一九四九年一〇月二一日付「南信時事」によれば、教師四人、生徒五六人で運営されていた。

 *民族教育については、権載玉『アボジ』、原英章「満島朝鮮人学校」『伊那』七四一号から要約。

 

5 中国人強制連行

 はじめに平岡への中国人強制連行の経過についてまとめておこう。

 平岡へと中国人が最初に連行されてきたのは一九四四年六月のことであった。

 日本は華北への侵略をすすめ、各地に強制収容所を建設し、捕虜や一般民を駆りあつめた。そのひとつに石家荘におかれた「石門労工訓練所」がある。そこから「満州」や日本へと収容された中国人を連行して、労働力の収奪をおこなった。

 一九四四年四月、日本の連行政策のもと、熊谷組の職員が中国に行き、華北労工協会と四〇〇人の連行「契約」をむすんだ。一九四四年六月、約四〇〇人の中国人が石家荘の「石門労工訓練所」から青島を経て、塘沽の収容所へと送られた。連行用貨車の扉は外から鍵がかけられていた。塘沽の収容所から船に乗せられ下関へ。そこから汽車に乗り、豊橋で乗りかえて平岡へと連行された。

 平岡に到着すると連行された人々は二隊にわけられ、鶯巣の上条隊に一九八人、栗生瀬の今村隊に一九九人が配置された。

 一九四四年一〇月には平岡から福島県沼倉の猪苗代発電工事へと二〇〇人が転送された。そこには一〇月末から一一月にかけてすでに五一二人の中国人が連行されていた。沼倉では一五人の逃亡者が出たが、一四人が捕らえられて二人が死亡、一人は行方不明のままだった。捕らえられた一二人は一二月末に、北海道のイトムカ鉱山にある地崎組「第一華人収容所」へと送られた。平岡では一九四四年一二月末に、七月に逃亡して捕らえられた三人がイトムカの地崎組華人収容所に送られている。

 一九四五年一月には沼倉から六八六人が平岡へと転入してきた。そのなかには以前に、平岡から沼倉へと送られた人々一九九人(一人は死亡)が含まれていた。樫渕に二一一人の満島隊がつくられることになった。四五年三月には病気の九人(うち五人は失明)を中国へと送りかえそうとしたが、一人は下関で死亡した。

 一九四五年五月、平岡での工事が中止になると、五月末、北海道の野村鉱業置戸鉱山へと二九七人が転送された。すでに置戸には一九四四年五月・七月と計一九五人の中国人が連行されていた。置戸へ送られた中国人の一部は抵抗を強めていくが、抵抗グループは一九四五年七月末、憲兵隊によって検挙された。

 六月には、平岡の中国人五一三人が五次にわたって、岐阜県の陸軍各務原飛行場拡張工事へと送られていった。

 平岡へと連行された中国人は計八八四人であり、平岡発電工事関連での死者は六二人である。過酷な労働と生活条件のもとで失明や眼病となった人は四〇人をこえた。

 平岡での労働はコンクリート用の砂利採集や運搬が主なものであった。朝六時ごろに起こされて点呼をうけ作業をさせられた。賃金は熊谷組が積みたて、本人には支払われなかった。中国人は虐待され、服は破れて肌が露出する姿で生活させられた。かれらは藁を拾って足に巻きつけ建設資材の袋をかぶって寒さをしのいでいた。食事はマントウと汁だけだった。そのため栄養失調となり、多数の死者と病人が出ることになった。

 *『資料中国人強制連行』『資料中国人強制連行の記録』『日中にまたがる労務支配』『戦争の傷跡・満島捕虜収容所の歴史像』などから要約。

 つぎに強制連行された中国人の証言をまとめてみよう。

 劉治平氏は河北省辛集市の人。日本の侵略がすすむなか一九四二年に冀中抗属中学をやめ、抗日幹部に情報をおくる任務についた。一九四四年三月、三度目の逮捕にあい、晋県へ送られて憲兵隊で拷問された。汽車で石家荘へ送られ日本軍の牢へ入れられ、その後、石門労工収容所へと連行された。石門収容所では逃亡を防ぐために高い土塀で囲み、電流を流していた。虐待と粗悪な食料のために死者が出た。日本に送られることになり、黒服に着替えさせられ、日本兵に監視されて塘沽の収容所に送られた。

 塘沽で二〇〇人が逃亡する計画を立てたが実行できなかった。塘沽で船底につめこまれて下関へ。下関から平岡へと連行された。連行された約四〇〇人は二つの隊にわけられ、劉氏は第二中隊に入れられた。監督金村の下で石や砂の運搬をさせられた。二人が逃亡したが捕えられて暴行をうけた。休日は一日もなく、夏は太陽の下、冬は大雪の中、一枚の衣服で酷使され、病気で休めば食事を減らされた。中隊の二〇〇人のうち四〇人余が死亡した。二〇人の班のなかで四人が死んだ。眼病者も続出した。

第一班長の?文如が中心になって、徐杰(総隊長)、安広恩(通訳)、李万福、劉治平、干振江ら八人で兄弟の盟を結び秘密組織をつくった。その目的は連行された革命派幹部を保護し敵の力を弱めるために闘争をすすめることだった。監督がみていなければ工具などを川へ捨て、死者が出ればストライキで抵抗した。日本のスパイとなる中国人に対しては手を抜かなかった。

 一九四五年三月、第二中隊の船が転覆し、一五人が死亡した。これに対しストライキに入り、追悼会開催を要求した。日本側は憲兵を派遣、就労を求めたが抵抗した。その後追悼会がもたれた。

 一九四五年六月には岐阜県の各務原飛行場へと移された。監督の金村はどこかへ逃げ、飛行場は空襲にあった。八月、日本は敗北し労工は解放された。?文如・徐杰らが中心になって俘虜委員会を結成し、闘争をすすめた。品位を良くし、八路軍規律を維持し、女性への侮辱、商店・民家からの略奪を禁止した。栄養不良のため中国人は疥癬にかかっていた。

解放後、祖国に帰り、老母と再会し、ともに泣き、喜びあった。日本政府と企業は謝罪し損害を回復すべきであり、そのうえで人民は真の友好をつくることができる。

 *劉治平証言「苦難的労工生活」『日本槍刺下的中国労工・石家荘集中営』所収、同「一个長野労工的自述」『日本槍刺下的中国労工・中国労工在日本』所収から要約。

 王慶元氏は河北省正定県の人。抗日活動メンバーに情報を提供するなかで一九四四年三月に逮捕され、石家荘収容所の南兵営に他の六人とともに連行された。そこで「大東亜共栄」などの訓辞を聞かされたりした。収容所での虐待と劣悪な食事のなかで、病死者が続出した。約三ケ月後、四〇〇人が塘沽へと送られ、そこから下関を経て平岡へと連行された。

 到着すると二日目から働かされた。仕事はトロッコ一台を五人一組で一日に二五回にわたって運搬することだった。非人間的な生活のなかで二人が逃亡したが、すぐに捕らえられた。「金桂」という監督は悪質であり、かれは中国人同士で殴りあわせた。

 日本への空襲がはじまるようになり、一九四五年のはじめに二回のストライキをおこなった。それにより食事量も増加した。四五年六月二四日、岐阜県の各務原へと送られたが、そこでも空襲をうけた。新聞を拾って読み、状況を考察した。解放後もなかなか帰国できなかった。

 *王慶元「我被抓到日本長野当労工」『日車槍刺下的中国労工・石家荘集中営』所収から要約。

 寇旭滌氏は河北省無極県南馬郷の人。一九三八年から革命運動に参加し、翌年中国共産党に入る。地方武装隊長や書記として活動、村に帰り村長を務めていたところ、一九四三年二月に無極憲兵隊に捕らえられた。気を失うほどの拷問をうけ、八路軍の徴収大隊長とみなされた。その後、石家荘の収容所へ連行された。このとき送られた二五人のうち、六ケ月後に生き残っていたのは六人だけだった。四四年、収容所南兵営は華北労工協会の管理となったが、収容所は人間地獄を呈していた。連行されると、はじめに第一部に入れられ、のち第二部に移された。脱走計画がたてられたが失敗し、幹部は処刑された。労工協会の教官が、死刑にはしないが日本へ送ることになったと告げた。

 一九四四年六月下旬に塘沽へと送られた。そこで脱走の手引きがあったが、実行できなかった。塘沽から長野県の熊谷組の現場へと連行され、二日目から仕事をさせられた。仕事は山を掘り、石を採り、道路をつくることであり、朝五時に仕事をはじめ、午後五時に終わるという毎日だった。毎日二〜三個のマントウの食事で働かされ、けがや病気になる者も多く、仕事量も増えた。空腹で服も足りない状態で雪の中での重労働を強いられた。凍死しかねない寒さのなかで、セメント袋を拾い体をあたためた。

 このような状況下、党支部を互済会の形で石?海、張新順らと結成した。中隊の死者は一〇数人であり、互済会の力が死者を少なくした。死と闘い、生き抜くことが勝利への道だった。

 一九四五年の春、岐阜県の各務原飛行場へと移された。破れた新聞を拾い、世界情勢を知ろうとした。八月の解放を人々は勝利の歓呼で迎えた。日本人は我々を正視しえなかった。一二月に帰国した。

 *寇旭滌「作労工的悲惨遭遇」『日車槍刺下的中国労工・石家荘集中営』所収から要約。

 馬汝駿氏は抗日運動に参加し、一九三八年、民族解放先鋒隊のメンバーとなった。抗日大学で学び、冀南で抗日運動に従事し、一九四二年南皮県泊鎮八里庄で活動中に、南皮憲兵隊によって逮捕され、拷問をうけた。その後東光憲兵隊に渡され、さらにさまざまな拷問をうけた。そして北平へ送られて約半年間拘禁され、軍法会議で二年半の実刑判決をうけ、胡同陸軍監獄へ入れられた。一年七ケ月後の一九四四年八月、塘沽の収容所へ送られた。

 収容所の周囲には電線が引かれ、所内は汚れ悪臭が漂っていた。財産は没収され、父が送ってくれた綿衣も脱がされた。塘沽から船で日本へと送られたが、乗船した一二〇人のうち、抗日運動関係者が半数以上を占め、中国人を使って中国人を支配する政策によってスパイ分子も入れられていた。労工隊長に推されたが断り、蒋英時が隊長になった。闘争の重要性を認識し、同郷会を結成して誓約をかわした。

 最初に福島県の猪苗代に連行された。そこで石と砂を分別する重労働を強いられ、食事は少量のマントウだった。そのなかで闘いをはじめた。監督が来ると少しだけ体を動かし、いなくなると仕事をやめるという形でサボタージュやストライキをした。寒さでこごえ、飢餓のために病人が増え、死者も出た。そのような状況下、われわれは革命をすすめる者であり、道は平坦ではなく、勇気を持とうと決意し、精神をたかめた。

 虐待に抗して馬汝駿・馬子欣・胡敏・王万森ら冀中グループがストライキに入った。馬は捕えられ拘置された。警察に殴られながらも「日帝打倒!日本強盗打倒!」と叫んだ。四日目に釈放されたが、平岡の満島隊へと送られることになった。

 満島隊の労工の多くは日本車の掃蕩作戦によって捕らえられた冀東区の農民であった。労工隊長の申は日本語ができた。囚われの身となり、食も足りず、凍餓死や病死の危機にあっても、闘争を堅持し、忍耐心を持ち、祖国へ帰ろうと励ましあった。

 一九四五年に北海道の置戸鉱山へと送られた。仕事は鉱山の付属地を平地にすることだった。抵抗をすすめたが、弾圧され、頭を殴られ血を流した。網走の憲兵隊へと連行され、日本人を殺して鉱山を焼く計画があったのか、ソ連やアメリカと連携があるのかなどと訊問され、他の仲間は拷問をうけた。福島でも抵抗行動をとっていたので、共産党書記とみなされていた。

 拘留されているときに日本の無条件降伏を知った。解放後日本人の教師との交流もあった。置戸を出発し、佐世保から塘沽に到着した。祖国よ!母さん!苦労した子どもたちがあなたのふところに戻ったんだよ!という思いがこみあげた。

 *馬汝駿「富士山下的魔窟」『日軍槍刺下的中国労工・中国労工在日本』所収から要約。

 韓克恕氏は天津在住の人。一九三七年、抗日組織であった救国会に参加、学生や教師を抗日運動へと動員する任務についた。天津から北京へと場所をかえて活動していたときに憲兵隊に逮捕され、拷問をうけ監獄へと移された。

 軍事法廷で二年半の判決をうけた。日本に送るがすぐに帰れるなどと言われ、二二〇人余と共に乗船し、長野県平岡の水カダム工事現場へと連行された。その後置戸へと転送された。栄養失調者や失明者が出た。ある日、平和になったと告げられ、帰国した。

 *韋聿「一位中国労工的戦時経歴」『日軍槍剌下的中国労工・中国労工在日本』所収から要約。

 劉玉年・劉占生氏は家から農作業に出かけようとしたところを日本兵に銃剣を突きつけられて拉致され、石家荘の収容所に連行された。馬燿波氏は一九四四年三月の深夜、家族と寝ているところを日本兵に襲われ、銃剣の台座で頭や胸を殴打され、石家荘の収容所に送られた。かれらはこのような形で石家荘の収容所へ駆り集められ平岡へと連行されてきた。

 *信濃毎日新聞「戦争への問い・強制連行中国から」一九九三年三月二〇日、同二三日付掲載記事から要約。

 寺平政美氏は一九〇五年生、平岡出身。一九四四年五月ころ在郷軍人分会長となり、のちに中国人の満島隊の隊長となった。中国人の仕事は砂利の採集と工事用資材の運搬が主であった。朝六時に起床し点呼、七時から仕事をはじめた。総隊長は一五円とされていたが熊谷組が通帳に積み立てていた。戦後、各務原から代表が受取りにきた。

食事は小麦粉と代用品のコヌカやフスマを六対四で混ぜたパンが一日に三個と塩水に近い汁。入浴はなく、失明者や栄養失調者が出た。寝具は毛布一枚のみでシラミがわいた。死者は山中の火葬場で焼いたが、遺体を焼ききれず一部を拾集して残りを谷へ捨てたこともある。医者は来ても、手もふれずに死亡診断書を書いた。暴動がおきたときには在郷軍人分会を動員して鎮圧するようになっていた。「危険思想」を持つ者を満島隊にあつめ反抗しないように指導した。言うことを聞かない者や煽動する者は選別して、懲罰として北海道へ送った。

 *寺平政美証言・原英章「平岡ダムにおける中国人強制労働」『戦争を掘る』所収から要約。

 以上、中国人強制連行についての証言をまとめてみた。

 これらの証言から、中国民衆の抗日意識、逮捕や拉致の状況、石家荘収容所での虐待、日本への連行、平岡での酷使と抵抗、日本国内での転送、解放と帰国の際の歓喜の状況などがわかる。連行された人々のなかの抗日活動メンバーは、秘密のうちに抵抗組織を結成し、生命の維持と解放にむけて精神を高め、抵抗を強めていったのである。

 

6 連合軍俘虜の強制連行

 平岡へと連行された連合軍俘虜については資料や調査が少なく、わからないことがおおい。ここでは連行と労働の概略をまとめておきたい。概略については『戦争の傷跡・満島捕虜収容所の歴史像』(明治大学後藤ゼミ編)を中心にまとめる。

 一九四二年一一月一八日、平岡に東京俘虜収容所第三分所がおかれた。熊谷組の大工が動員され、約二〇日で収容所が建設された。周囲に高さ三メートルの板塀がつくられ有刺鉄線がはられた。その中に二階建ての収容所が建てられた。門の両側には衛兵の詰め所がおかれ、入口には日の丸をかかげた管理棟があった。他に診療所・調理室・倉庫・便所などがあった。俘虜を陸軍部隊の二〇人が監視したが、四三年になると「傷痍軍人」が俘虜監視に動員された。

 一九四二年一一月二六日、フィリピン戦線からコーリー中佐以下アメリカ兵の俘虜七三人が連行されてきた。連行途中の船で三〇人が死亡、国内輸送中にも一人が死亡するという苛酷な連行状態であった。一一月二八日にはシンガポールからイギリス兵俘虜八〇人が連行されてきた。イギリス兵は栄養失調でマラリアや皮膚病にかかっていた。俘虜の服の背に番号がつけられた。四二年の冬を越すまでに、脚気・飢餓・下痢・肺炎・殴打などで四四人が死亡した。

 死体は共同火葬場で燃やされたが薪が乏しく、火葬がすんでも頭や手足の一部はくすぶり、それを鳥がついばむ状況であった。棺桶は使いまわされた。

 収容所の監視員や下士官による暴力は日常的であった。一九四三年三月には、ティーズが殴打され死亡した。赤十字恤品の盗難事件の際には所長が俘虜全員に関係者を殴らせる処置をとったため反発を生んだ。

 仕事は採石や貨車からセメントを降ろし、トロッコで運び、セメントを練るというものだった。当初は冬でも川に入り、砂利をトロッコに乗せて坂道を押しあげ、タービンの中に入れた。午前五時に点呼をうけて六時に収容所を離れ、午後六時に仕事が終わった。

 一九四三年六月三〇日、赤十字国際委員会から派遣されたペスタロッチが平岡を視察した。かれの報告によれば、俘虜数は将校一三人に兵士二一一人であり、これまでに四八人が死亡している。一九四四年八月にはイギリス兵八〇人が茨城県の日立鉱山の収容所へと移送された。

 点呼のときに、殴打がくりかえされた。食料不足のため、顔・足・腹がむくみ、心臓病・失明・痙攣までおきた。生存者二〇〇人のうち一八〇人が脚気となり、四〇人は心臓を弱らせた。四四年冬、二〜三〇人が脚気・マラリア・肺炎等で重体となった。

 四四年一二月、俘虜は食料や衣料品の増加、労働の軽減などを求めて交渉をおこなった。その結果、食料は一日一五〇〇カロリーから二〇〇〇カロリーヘと増加、衰弱者は軽作業をするようになった。五日に一度は入浴ができた。一二月クリスマスパーティーもおこなわれた。交渉をすすめているなかで重体の三人が死亡した。

 一九四五年一月、俘虜たちはB二九の姿をみて勇気づいた。日本の敗戦が近いころには鉄骨やセメントは入手できなくなり、俘虜は山での伐採を仕事とするようになった。

 一九四五年四月、一〇〇人のイギリス将校らが香川県善通寺から連行されてきたが、かれらの多くが脚気になっていた。

 一九四五年五月、渡辺軍曹が赴任した。かれは殴打をくりかえした。重労働と虐待により俘虜の健康悪化もすすんだ。

 一九四五年八月、収容所は「第二分所」と名称をかえたが、すぐに八・一五解放を迎えた。三日後に朝鮮人から解放を教えられた。九月一日、グラマン機が食料・医薬品をパラシュートで投下、四日には海岸線へと出るように指示が出、一六日には収容所は閉鎖された。

 解放時にはアメリカ兵九三人、イギリス兵二一五人の計三〇八人がいた。死者は五〇人をこえたとみられる。日立への転出が約八○人いたというから、平岡へと連行された連合俘虜の数は四四〇人ほどであったとみられる。

 戦後、平岡での連合軍俘虜虐待が戦争犯罪として追求された。平岡関連では三次の裁判で絞首刑六人・終身刑四人・二五年刑一人の判決が出ている。

 最初に起訴され終身刑をうけた男は佐久出身、農業のかたわら父の畳職を手伝う生活をしていた。一九三八年に徴兵され、日中戦争で左眼・右肩・左手を負傷、一九四二年九月に除隊し、「傷痍軍人」として平岡俘虜収容所の監視員に動員された。死刑判決をうけた平岡出身の男は、日中戦争で体に弾丸をあび左眼を失った。除隊し一九四二年一二月、監視員にされた。かれの処刑は一九四八年八月のことであった。

 北沢小太郎氏(元収容所雇員)は証言のなかで戦犯とされた陸軍中尉の句を紹介している(『壁あつき部屋、巣鴨BC級戦犯の人生記』から)。それは以下の句である。

 天皇も 慰問に来いよ 終身刑

 ヒロヒトを 逆さまにして 吊したい

 再軍備と 引きかえの釈放は いやだ

これらの句は、捕虜虐待の最前線へと駆り出された兵士がその責任を取らされ、天皇制の戦争責任が不問とされたこと、さらに再軍備がすすめられるなかで支配層が温存されたた状況を、いまも批判してやまない。

 *連合軍俘虜に連行と労働状況については、湯本彩子「満島俘虜収容所の日々」(『戦争の傷跡・満島俘虜収容所の歴史像』所収)、阿保正博「満島俘虜収容所とその歴史的背景」(同所収)、内海愛子「連合軍俘虜と労務動員」(『日中にまたがる労務支配』所収)、北沢小太郎「淡島俘虜収容所と横浜軍事裁判」(『平和への決意』所収)などから要約。

 天皇制国家は帝国主義戦争を拡大するなかで、青年を殺人のための機械にした。「君が代」をうたい、天皇の国家のために生命を捧げることを名誉とする人間をつくりあげた。殴打を非道とする感性は疎外された。民衆を臣民にしたてあげて戦争機械として動員する政策が実行された。それを実行した政府の戦争責任は俘虜監視員に転化された。裕仁は戦争責任をとらなかった。一部の戦争指導者が戦犯とされ、天皇制国家を支えて強制連行策を実行した者たちの多くは、戦後も社会的権力を担いつづけた。

 一九九九年一〇月、元イギリス兵、ウィリアム・ローズ氏が平岡の地を訪れた。ローズ氏は一九四二年、ジャワで日本軍の俘虜となり、同年、平岡へと連行された。現場を訪れ、収容所では点呼ができずに殴打されたこと、母国への葉書はゴミ箱に捨てられていたことなどを語り、苛酷な扱いをした人もいたが、なかには親切な日本人もいたとした。ローズ氏は当時つけていた日記を天竜村へと贈呈した(『信濃毎日新聞』一九九九年一〇月一三日付)。

 強制連行と奴隷的労働の歴史を否定し、その記憶を封印することはできない。

連合軍俘虜の収容所は天竜中学校グランドにおかれていた。その一角に連合軍俘虜の追悼碑が建設され、二〇〇〇年九月に除幕式がおこなわれた。二〇〇〇年に出版された『天龍村史』(下)には平岡ダム建設史の項があり、強制労働についても記されている。

 

7 日発飯島発電工事

 日本発送電は平岡発電工事をはじめるとともに、平岡地点で天竜川に合流する遠山川での飯島発電工事を計画した。この工事も熊谷組が請け負い、一九四三年から突貫工事がおこなわれた。平岡発電工事の進行が遅れるなかで、熊谷組は主力をこの飯島発電工事に移していった。

 この工事は木沢(現南信濃村)に小さなダムをつくり、その水を約一〇キロメートルにおよぶ導水用トンネルで下流の飯島まで運び、そこで発電するというものであった。工事は主として連行された朝鮮人を使い、学徒も動員された。

 熊谷組が飯島発電工事に連行した朝鮮人の数については、厚生省報告書によれば一九四三年に二一一人、一九四四年に七二七人の計九三八人とあり、そのうち逃亡者は四二八人、死者は四人とされている。

 連行された朝鮮人の証言から当時の状況についてみていこう。

 金泳九氏は慶北義城郡出身、一九二二年生。渡日していた父は関東大震災で行方不明になった。一九四四年二月、面長からの連行の指名を区長が伝えた。このとき義城郡から二〇〇人が郡庁へとあつめられた。釜山から下関を経て、豊橋で飯田線に乗りかえて満島へ。

そこから四〜五〇人づつ、犬や豚のように扱われてトラックの荷台に乗せられ、木沢村の小道木へと連行された。収容されたところは熊谷組の下請、坂本組の前田飯場だった。翌日、警察へと連れていかれ、名前を登録し番号をつけられた。

飯場には一〇〇人ほどの朝鮮人がいた。周囲はニメートルほどの塀で囲まれ、屋根を杉皮でおおい、大きさは長さ五〇メートル、幅七メートルほどだった。その建物の周りには板が打ちつけられていた。飯場の中央には枕木が二列に並べてあり、その枕木に頭をそろえて寝た。朝五時になると枕木をたたいて起こされた。入口に監視人がいて、昼夜見張りをし、警察も毎日監視した。

 仕事は導水用のトンネル掘り、土を出すための横道も各所に掘られた。トンネルは二段掘りですすめられ、二メートル毎に杭木をたてた。仕事は朝六時ころからはじまり、昼夜二交替制であった。工事監督は日本人であり作業服の番号を呼んで指示した。金氏の番号は二五番。抵抗すると殴打され、賃金は食費を引かれて一円八〇銭だが、それすらまともにもらえなかった。

 食事は玄米に味噌、醤油、タクアンといったもの。生のサツマイモを布団の中でこっそり食べるなどネズミのような生活だった。休むこともできず、入浴は月二〜三回。同じ班の六人のうち二人が下敷きとなる事故もあった。人が死んでも犬が車にはねられて死んだ程度にしか扱われなかった。隊列をくんで「皇国臣民の誓詞」を唱和させられたりもした。

 逃亡者が出ると昼夜にわたって探し、みせしめに皆の前でツルハシの柄で殴り、気を失うとモグサで体を焼き、更にたたいた。

 一九四五年三月、前田飯場から二〇人が大阪茨木の安威軍地下工事現場へと送られた。二ケ月ほどたったころ、友人とそこを逃走し、宝塚を経て、仁川で八・一五解放を迎えた。強引に連れてこられ、人間扱いされなかった。にもかかわらず政府や熊谷組からは何の補償もない。

 *金泳九証言『故郷への轍』所収から要約。

 権載玉氏の父は一九○三年生、慶南山清郡出身。植民地支配のもとで土地を奪われ一家は離散。父は渡日し福岡の炭坑で働き、のち東京へ行くが関東大震災にあい帰国した。一九三五年に再び渡日、吉隈炭坑で働くが落盤で重傷を負う。その後、瀬戸、名古屋、御嵩を経て、一九四四年、木沢村の熊谷組配下の木下組の現場に入った。

 飯場は前沢旅館の前にあり、狭い小屋に裸電球がひとつ、そこに一七〜八歳から六〇歳すぎまでの五〜六〇人がいた。そのなかの李青年は「早く故郷に帰りたい。父母に早く会いたい」と語っていた。仕事は朝から晩までの一二時間労働。履物はスリ切れ、はだし同然の姿であり、食べることがたたかいの日々であった。

 逃亡して捕らえられた者は殴打された。「アイゴー」と泣き叫ぶ声が響きわたった。飯場頭は腰に手錠をつけ、飯場の横には鍵のかけられた逃亡者専用の部屋もあった。事故や病気で死んだ同胞を樽のようなものに入れて四〜五人で夜中に埋めにいった。

 八・一五を迎えると飯場中が万歳の叫びで湧いた。テーブルの上に肉が並び、ドブロクをかわして歌い踊っていた。飯場は夜を徹してにぎわった。

 *権戴玉『アボジ』から要約。

 洪象寛氏は一九二一年生、済州島出身。一五〜六歳のころ、兄を頼って渡日、各地を転々とし、一九四四年五月ころ名古屋から家族とともに平岡にきた。徴用からのがれるために木沢の木下組の飯場で働き、一〇〇人余の徴用者と飯場で生活した。そこには結婚して三日目に馬山から連行された青年もいた。昼夜二交代、一週間毎に交代する危険な仕事で牛馬のように酷使され、人間として扱われなかった。事故、殴打、栄養失調による死者が出た。山が崩れて工事場で生き埋めになり、四〜五人が死んだ。事故で死んだ同胞を荼毘に付し寺の近くの山にあった墓地に埋めた。今も冷たく放置されている。逃亡者もいたが、逃げることができずに捕らえられた人には飯場頭が暴行を加えた。

 その後、長崎へ行き、一九四五年五月ころには乗鞍岳の道路工事を連行された人々とともにおこなった。八月に佐久の壕掘りに動員されていたときに八・一五解放を迎え、平岡に戻った。解放後は朝鮮人連盟の活動に参加し、民族学校の建設にもとりくんだ。

 *権蔵王『アボジ』、洪象寛証言・原英章「下伊那における朝鮮人労働者の実態」『戦争を握る』所収から要約。

 つぎに現地での聞き取りをまとめてみよう。

 梶間睦雄氏は一九三三年生、木沢・小道木在住。

 小道木にあった飯場は戦後すぐの台風で流されてしまった。今でも竪坑と横坑の跡が残っている。家族持ちの朝鮮人の子どもは木沢小へ通っていた。飯場の棟は四〜五棟あり、一棟は家族持ちの朝鮮人が居住していた。朝鮮人は直接朝鮮半島から連れてこられた人が多かった。飯場で朝鮮相撲をしているのをみたことがある。逃亡者を捕えて皆の前で、コップ大の太い棒を挟ませて座らせ、後ろから押さえつけてリンチしていた(木沢・一九九八年聞き取り)。

  熊谷剛氏は一九三〇年生、木沢在住。

 木沢の青龍寺奥の山の手にあたる松ノ田の墓地に一九四四年ころ、生き埋めになって亡くなった朝鮮人が三人ほど埋葬された。その葬式もみた。松ノ田で火葬され、埋めた上に石を乗せた。火葬場跡の下の方に今も数個の石が残っている。死後、監督が見舞いにこないと日本人の労働者が怒っていた。近くに「足立」や「岡」などの朝鮮人が居住していた。木沢には大西飯場や青木飯場があり、労働者のほとんどが朝鮮人だった。「長谷川仙吉」という朝鮮人の飯場頭がいた。思想的には共産主義で戦後、北へと帰った。かれは木沢小の体育館をつくった。木沢小は、一クラス三六人ほどだったがそのなかに三〜四人の朝鮮人の子どもがいた(木沢・一九九七年聞き取り)。

 夜川瀬には松本飯場や集団の朝鮮人飯場があり、家族持ちは民家に泊まっていた。ある民家には「高田」という朝鮮人夫婦が居住し、一九四五年の六〜七月に高山へと移勤したという(夜川瀬・一九九八年聞き取り)。

 名古山には現・児童館のところに朝鮮人の向井飯場があった。他には近くに藤原飯場もあった。逃亡した朝鮮人を捕らえては怒っていたという(柴原商店、名古山・一九九八年聞き取り)。

 住民の話から、導水用トンネルに沿って南信濃村の各所に朝鮮人の飯場があったことがわかる。一九四四年の工事現場での死者の名前はわからない。なお『熊谷組社史』は、平岡発電工事現場から飯島発電工事現場へと中国人約七〇〇人が動員されたとしている。

 飯島発電工事へは学徒の動員もあった。

 北原悦朗氏(一九二六年生)によれば、勤労動員は一九四〇年から始まり年々拡大されていった。一九四四年になると飯田中学では通年動員がおこなわれ、五年生は名古屋の三菱航空機製作所、四年生は一学期に伊那の飛行場建設、二学期は飯島発電工事現場へと動員された(九月〜一二月)。二学級の九〇人は木沢取水口のダム工事とトンネル工事、他の二学級九〇人は飯島の発電所工事に動員された。木沢へと動員された学徒は木沢小体育館、発電所工事へと動員された学徒は飯島の飯場に居住した。仕事の内容は砂利をふるいわけや砂利の運搬であったが、ふるいわけは重労働であった。食事は米麦と甘藷が半分ずつ入ったものと薄い味噌汁にタクアン。トンネル掘りやそれをコンクリートで固める危険な仕事は朝鮮人がおこなった。監督の目を盗んで学徒がアリランを歌い朝鮮人と交流する場面もあった。

 *北原悦郎「勤労動員とソ連での抑留生活」(『平和への決意』所収)から要約。

 以上、証言をまとめながら、平岡・飯島発電工事における強制連行と奴隷的労働についてみてきた。

 アジア太平洋戦争下、平岡へと連行された人々は番号をつけられて物のように扱われた。苛酷な労働を強いられ人間として扱われなかった。そのようななかで、死の恐怖とたたかい自由への希望をもちつづけ、抵抗した人々がいた。徴用拒否や逃亡が犯罪とされた社会のなかでも逃亡する朝鮮人を助けた農民もいた。虐待され苦しむ者に手をさしのべることは人間としての道だった。

 連行された朝鮮人にとって人間であろうとすることが現場からの逃亡につながった。連行された仲間の死のなかで中国人たちはストライキをおこなった。自分をみつめればみつめるほど自由と解放への想いは深くなっていったはずだ。圧制下でも生き抜こうと抵抗しつづけた歴史がここにある。

 天皇制国家は侵略戦争をすすめ、人間を奴隷化し、酷使し殴打することが評価されるという社会を形づくった。それは人間が非人間化されるシステムだった。虐待のなかで名前もあきらかにされず死んでいった人々は数多い。無念の死を強いられた人々のまなざしは、再びそれをくりかえさないようにと語りつづけている。戦争遂行のための電源開発工事現場をみつめることによってその戦争の侵略的本質があきらかになる。

 強制連行・強制労働の真相があきらかにされ、戦争犯罪として責任が追求され、その歴史認識が共有されることで再発が防がれていく。

 朝鮮人・中国人の強制連行は「募集」や「契約」などの体裁をとっておこなわれた。それは国家と企業による植民地・占領地からの奴隷品の移動であった。戦後、熊谷組などのゼネコンは中国人朝鮮人の強制労働にともなう損失を政府にもとめ補償金をえた。一方戦争下のこのビジネスによって死を強いられた人々の名前の一部はあきらかにされることなく今日に至っている。強制連行に対する責任追及のあいまいさは被害者の尊厳をいまも侵している。

 平岡の谷間に散在する遺骨は真相究明、責任者の処罰と賠償、真実の歴史認識、そして被害者の人間としての尊厳の回復をもとめつづけている。その声にこたえていく行為のつみかさねがアジアの民衆間の友好を形づくっていくと思う。

 この稿では平岡発電工事現場での強制労働について証言をまとめることを中心にして考えてきた。論究不十分な点については今後の課題としたい。

この稿は「朝鮮人強制連行調査の記録・中部東海編」の編集作業にかかわり、「中国人強制連行の実態と背景研究会」の平岡での現地調査に参加し、先行研究に学びながら資料を収集するなかでまとめたものである。

 

参考文献

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平岡村「平岡村寄留簿」一九二九〜五二年(転記資料村沢愛弘氏蔵)

平岡村「埋火葬認可証綴」(転記資料・同)

『写真記録昭和の信州』信濃毎日新聞社一九八九年

石川正他『図説飯田下伊那の歴史』郷土出版社一九九五年

平岡ダム対策委員会『平岡ダム交渉史』一九五三年

長野県歴史教育者協議会『戦争を掘る・長野県歴教協三〇年の道程』一九九四年

長野県歴史教育者協議会『僕らの街にも戦争があった』銀河書房一九八八年

長野県歴史教育者協議会下伊那支部『飯田下伊那の戦争遺跡』一九九〇年

故郷への轍冊子刊行委員会『故郷への轍』一九九五年

田中寛治編『五〇年目の証言長野県飯島発電所』TVC 一九九五年

百萬人の身世打鈴編集委員会編『百萬人の身世打鈴』東方出版一九九九年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 中部東海編』柏書房一九九七年

朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』明石書店一九九〇年

権載玉『アボジ』朝鮮青年壮一九九四年

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社一九六五年

森薫樹・永井大介『日本のダム開発』三一書房一九八六年

長野県教職員組合下伊那支部年配者の会『平和への願い』一九九五年・九六年分

原英章「満島朝鮮学校・終戦直後の民族教育の軌跡」『伊那』七四一号所収・伊那史学会一九九〇年二月

斎藤勇「一九三〇年夏三信鉄道争議」『東海近代史研究八』所収 東海近代史研究会一九八六年

『平和への決意』第四回平和のための信州戦争展(飯伊地区)実行委員会 一九九二年

日中友好協会南信地区本部『天竜村平岡における中国人強制労働殉難の記録』

中国人強制連行の実態と背景研究会『日中にまたがる労務支配 九七年秋国際シンポジウム東京集会報告集』一九九八年

何天義編『日軍槍刺下的中国労工 石家荘集中営』『日軍槍刺下的中国労工 中国労工在日本』新華出版社一九九五年

「『戦争』への問い・強制連行中国から」信濃毎日新聞一九九三年三月二〇日〜二三日

田中宏内海愛子石飛仁編『資料中国人強制連行』明石書店一九八七年

田中宏内海愛子新美隆編『資料中国人強制連行の記録』明石書店一九九〇年

田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行資料』現代書館一九九五年

戦争犠牲者を心に刻む南京集会編『中国人強制連行』東方出版一九九五年

熊谷組『熊谷組社史』一九六八年

中部電力『天竜川と平岡発電所』(平岡発電所パンフレット)

中部電力『中部地方電力事業史』一九九五年

明治大学政経学部後藤総一郎ゼミ編『戦争の傷跡・満島捕虜収容所の歴史像』一九九八年

平岡小学校『八〇周年記念誌』一九八〇年

天龍村史編纂委員会『天龍村史』二〇〇〇年

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