三菱崎戸炭鉱での朝鮮人強制労働

 

はじめに 

      

長崎県の北西の崎戸町・蛎浦島にはかつて三菱崎戸炭鉱があった。この崎戸炭鉱は長崎県では最大の炭鉱であり、年120万トンを出炭した。ここは高島・端島と並んで「鬼が島」とも呼ばれ、戦時には朝鮮人・中国人が強制連行された。ここで抵抗し長崎刑務所へと送られた中国人は被爆死した。今では横の大島に橋が架かり、島に車で行くことができる。

 この崎戸炭鉱については、1980年代末の長崎在日朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人5』、林えいだい『死者への手紙』などの調査・記録がある。調査の中で崎戸町の「埋火葬認許可交附簿」が発見され、1940年以降の朝鮮人死亡者名がわかった。この埋火葬関係史料は、林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』U朝鮮人1下に収録されている。前川雅夫編『炭坑誌』には崎戸炭鉱に関する記事も収録されている。

また厚生省勤労局の長崎県分の朝鮮人名簿には崎戸炭鉱の名簿もある。この名簿には事業所名がなかったのだが、崎戸町の朝鮮人死亡者名簿と照らし合わせてみて、この名簿が崎戸炭鉱のものであることがわかった。

以下、これらの先行調査や史料から、崎戸炭鉱での朝鮮人強制労働についてまとめていきたい。なお、引用に際し、林えいだい『死者への手紙』は『手紙』、長崎在日朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人5』は『原爆5』、崎戸町「埋火葬認許可交附簿」は『交附簿』と略記する。

 

崎戸炭鉱の形成と朝鮮人労働

 

崎戸炭鉱は20世紀はじめの1907年から、九州炭砿汽船の経営によって採掘が本格化した。当初からこの炭鉱の販売と融資に三菱が関与した。1911年には三菱が九州炭砿汽船の株の半分を所有、販売権を独占した。それは三菱による北海道・九州での経営拡大の一環であった。炭鉱の拡張と採掘がすすめられ、蛎浦坑が第1坑、浅浦坑が第2坑、福浦坑が第3坑になった。

1940年には三菱がこの炭鉱を所有することになる。三菱にとってこの炭鉱は、北海道の美唄に次いで出炭のある炭鉱であり、九州での三菱系炭鉱では最大のものであった。

崎戸での朝鮮人労働の歴史をみると、1912年には第65号大坪納屋の朝鮮人坑夫金件斯の記事があり、このころからすでに朝鮮人坑夫がいたことがわかる。1920年には峰第11号橋本納屋で賃金不払いに抗議する動きがあるが、そこにも朝鮮人坑夫金の名がある(『炭坑誌』198250頁)。

朝鮮人の労災死者もあり、192311月には浅浦坑での落盤事故で大坪納屋の胡福命が死亡した(胡は朴ヵ)19261月には金尚俊が浅浦坑での落盤事故で死亡した。金は慶南咸陽出身、192510月に炭鉱に入り、天見12号の韓敬泰の納屋に属していた(『炭坑誌』261269頁)。

納屋制度は1929年に廃止され、坑夫は舎監と労務係が管理する11箇所の合宿所に収容された。納屋の頭領の多くが町内で炭鉱指定の遊郭や料理店を経営するようになった(『手紙』98)。人操りが通訳をかねて労務助手に採用された例もある(『手紙』111頁)。

この頃の状況については、19283月に崎戸炭鉱で働き始めた全南順天出身の金仲錫さんの証言がある。金さんは納屋の人操りに「逃げたら承知せんぞ、殺してから海に叩き込んでやる」と脅迫された。休んでいると正座させられて、桜の木刀で叩かれ、意識を失うとバケツで水をかけるという拷問を受けた。金さんは45年働き、偽の電報を利用して脱出に成功した(『手紙』121124)

19304月には浅浦坑で朝鮮人労働者100人が、人繰りによる殴打を契機に事務所に乱入する事件が起きている。この事件では朝鮮人16人が送検された(『炭坑誌』294頁)。

このころの崎戸での朝鮮人については、つぎのような証言がある。増山喜一郎さんは、子どものころ、嵐の日に崎戸から大島に逃げてきた朝鮮人が見つかり半殺しにあうのを見た(『原爆5183)。鈴木シヨさんも小学生のころ、崎戸から脱走し大島の黒瀬郷辺で捕まり、叩かれ、小突かれて連れ戻される朝鮮人を見ている(『原爆5190)

崎戸炭鉱においては、暴力を使っての労務管理による強制労働が支配的であったといえるだろう。

193363日にはガス爆発事故が起き、44人が死亡しているが、そのうち9人が朝鮮人であった。19356月には殉職者弔魂碑が山神社付近に建てられたが(『炭坑誌』323337頁)。しかし死亡者はその後続出した。

崎戸の真蓮寺には朝鮮人の遺骨が残されていたが、解放後の1973年に韓国の木浦に移された。その名簿をみると19336月のガス爆発事故のときに死亡した朴奉硯の遺骨が真蓮寺に残されていたことがわかる(『原爆5197)。解放後も返還されずに残されていたものも多かったのである。

 

朝鮮人強制連行の状況

 

最初に崎戸へと連行された朝鮮人数についてみてみよう。

中央協和会の史料「移入朝鮮人労務者状況調」をみると、1939年から19426月までに2058人が連行され、現在員数は1344人となっている。石炭統制会の史料では1943年の5月には2952人の現在員数があり、19426月からこの5月までに現在員数で約1600人の増加がある。この間に2000人ほどが連行されたとみていい。石炭統制会の史料から、19435月から194410月の間に1700人ほどが連行されたことがわかる。(石炭統制会「労務者移動状況調」「県別炭砿労務者移動調」「労務状況速報」「雇入解雇及就業率調」「主要炭砿給源種別現在員表」「給源別労務者月末現在数調」、『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』所収)。

これらの数値から崎戸には1944年末までに5500人以上が連行されたということができるその後の連行者数の存在を考えると、崎戸炭鉱は6000人以上の朝鮮人連行があったといっていい。

このように連行者数をみてみると、崎戸炭鉱は戦時下、三菱鉱業傘下では最大規模の朝鮮人連行先であり、長崎県内では三菱長崎造船とともに最も多く朝鮮人を使用していたところになる。長崎の三菱高島炭鉱への連行者数と崎戸への連行者数を合わせれば、1万人ほどの朝鮮人が崎戸と高島の両炭鉱に連行されたことになる。

朝鮮人募集の現地での総指揮は労務課の友貞正人さんがおこない、労務係の大町・中山・嘉村・川村さんらが割り当てられた面を回って連行した。この連行のための資料をタイプ打ちした庶務課の山村直子さんは「若い者を見つけるとかっさらってきた」という話を聞いている。連行朝鮮人は第1から第5の親和寮と第2坑の天見の啓天寮に入れられた(『手紙』1167)

元朝鮮巡査も外勤に雇われていた(『原爆5』218頁)。逃亡者には暴力の制裁が加えられた。海へと逃走したものが岸壁に連れ戻され、陸の上から棒切れなどで叩かれ撲殺された。寺本玄同さんはそれを「カッパ殺し」と表現している(『原爆5209頁)。

つぎに、崎戸炭鉱への初期の連行者の状況についてみてみよう。

 金興基さんは1939年に慶北栄州伊山面から連行された。金さんは18歳だった。栄州からは180人ほどが釜山から下関を経て連行され、親和寮に収容された。朝鮮語を使うな、騒ぐな、坑内にタバコを持ち込むな、といった20か条の規定を暗誦させられた。金さんは崎戸炭鉱の西12方で石炭の採掘を強いられた。朝鮮人はガスが多く崩落の激しい切羽に送られた。食堂の内側にある小部屋でリンチされ、鞭打たれた。2年たって帰国したが、今度は福岡の炭鉱に連行された。半年で逃亡してさすらいの末に帰国すると、つぎには函館のドック建設会社に連行された(『告発 強制連行編』17頁〜)。

黄在辰さんは全北鎮安郡出身、19409月、20歳のときに崎戸に連行された。第1親和寮へと370人ほどが収容された。黄さんは猟師の闇船に乗って脱出しようとするが失敗、つぎには服を着替えて佐世保行きの連絡船に乗り込み、脱出に成功した。その後大村や川南の飯場に行くが、発見されて警察で殴打された。しかし連れ戻されるときに脱走して長崎で働くが、被爆した(『手紙』159頁〜)

194111月に朝鮮人350人が満期を迎え、一時帰休の100人余が12月上旬、休日奉仕作業をおこない、その金を神社の鳥居に寄付した(『炭坑誌』380頁)。かれらは193911月に連行された人々であり、奉仕労働を強いられたのであろう。

大山祇神社には柱に「浅浦坑鮮人一同」と刻んだ鳥居がある(『手紙』109頁)。

19428月ころには全北完州からの連行があった。元壽鳳さんはいう。2年間ということだったが1年間延長された。一日10時間の坑内労働だった。8畳に5~6人が詰め込まれ、毎晩点呼があった。休んだり逃げたりすると棒で殴っていた。父の死を知らせる電報が来ても隠され、帰国できたのは死後3ヵ月のことだった(『百萬人の身世打鈴』395)

1942年に連行された江原蔚珍郡出身の金龍鎬さんはいう。1942年に巡査の命令で面事務所に集められ、崎戸に送られ、第2親和寮に入れられた。炭鉱は外勤の労務担当の朝鮮人にケーブル線で殴打させていた。落盤で数十トンのボタが落ちると坑夫はペシャンコになり、掘り出すと同時にぶくぶくと膨れあがった。その無残な姿を見ると2度と坑内に入りたくなくなる。194411月、18歳の時だが、干潮時に歩いて大島に逃走した。松本組に入り、大島炭鉱の石炭を石炭船に運ぶ仕事をした。のち久留米連隊の朝鮮人部隊に入れられ、香椎の沿岸警備隊に送られ陣地つくりと防空壕の掘削をさせられた。銃を与えられたが実弾は渡されなかった(『手紙』172頁〜)。

死に直面し、捕まればリンチがあったが、自由を求めての逃走は絶えなかったのである。

1942年には慶北星州郡からの連行もおこなわれた。金在碩さんによれば、19424月に100人ほど星州から「2年契約」で連行され、浅浦の啓天寮に収容された。1年前にも星州から100人が連行されていた。外勤の労務係にケーブル線で殴られた。坑内から道具方に回された。連行がすすむと啓天寮は400人ほどになった。菅峰には所帯持ちが居住していたが、そこに遊びに行き、闇の逃亡ルートを知った。伝馬船を使った専門の運び屋がいた。2年満期になっても帰国できず、1年前の集団では成績のよいものだけが一時帰国を許された。外勤の労務に抗議し半殺しの目にあった。故郷の警察署長宛に炭鉱の実情を訴えたところ、刑事が第2坑を調査に来て、やっと帰国の許可を得た(『手紙』125頁〜)。

成炳仁さんも1942年に星州郡から連行され、第3親和寮に収容された。成さんは農業会に綿を供出した帰りに、三菱の募集人に「米飯が食べられこんなにいいところはない」と声をかけられ、トラックに押し込められた。1942年のガス爆発事故の時には夏みかんを吸いながら救助作業をした。妹の結婚に際して帰国できず、寮長に殴られ、外勤にはケーブル線で殴られた。釘を打った板の上に正座させられ、軍靴で蹴り上げ、ケーブル線で殴るというリンチを受けた。体全体がミミズ腫れになり、腿が化膿した。病院へと送られたが帰ると寮長に木刀で殴られ1日休んで入坑させられた(『手紙』142頁〜、『百萬人の身世打鈴』391頁〜)。

星州の崔敬坤さんは1943年ころ巡査によって連行され、19449月に死亡した。残された家族は飢えながらやっと生き延びた(『手紙』23頁〜)。

成炳仁さんの証言にもあるように、19427月にはガス爆発事故があり、死亡者12人のうち9人が朝鮮人だった。『交附簿』から、このときの死者の出身郡は全北任実・高敞・沃溝、慶南漆谷・栄州・南海・密陽などであり、10代の青年も多いことがわかる。同時期の死亡者には全北金堤・益山・扶安・完州、慶南固城などの出身者もあり、連行初期には、全北や慶南からの連行者が多かったことがわかる。

なお、『交附簿』の連行者とみられる朝鮮人死亡者128人のうち、約3分の1が全北出身者であり、任実・沃溝・扶安・完州・益山郡の出身者の死者が多い。これらの地域から集団的連行が行なわれたのである。

つぎに連行期後半の状況についてみてみよう。

19432月には対馬の佐須奈村から朝鮮人20人の勤労奉仕隊が50日間、動員された(『炭坑誌』391頁)。南萬相さんは慶南馬山出身、19387月に崎戸に来て、1942年に炭鉱をやめた。やめた後に、対馬から炭焼きの朝鮮人を連行してきた。解放によってヤミ船で2回釜山へと仲間を送ったという(『原爆5205頁〜)。

1943年には崎戸炭鉱は126万トンを出炭した。この年、慶南・全北・全南から1000人以上が連行され、1943年後半には全南から500人を超える人々が連行された(「半島人労務者供出状況調」『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』61頁所収)

このときの全北の連行は完州からのものだった。金泰煥さんはいう。19438月全州に400人が集められ、麗水から下関に送られ、崎戸に連行された。スコップで156両分積み込まないと上に出られなかった。次々に死んでいった。疲れていて眠りこむと死んでいた。奴隷だった。佐世保行きの船に乗り込んで逃亡に成功した(『百萬人の身世打鈴』391頁〜)。

1943年後半には全南宝城郡からの連行があった。

 宝城出身の韓丁變さんは194310月ころに班長とされ、崎戸に連行された。1944年末に体調が悪い旨を記した手紙が来たが、19451月に死亡した。一度も送金はなかったという(『手紙』59頁〜)。安鶴淳さんは徴用の度に逃れてきたが、秋の稲作業の帰りに捕えられて連行された。自分が行くと農業ができないといったが、巡査に殴打された。安さんは19445月に死亡したが、連行された仲間が解放後に遺骨を持ってきた(『手紙』67頁)。

 朴?輪さんは19443月ころに宝城郡から連行されたが、3月末に落盤で死亡した。戦後、親戚のものが遺骨と葬式の写真を持ち帰ったが、子どもは父の死後生まれ、父の死により教育の機会を失った(『手紙』70頁)。

このように戦時の増産体制の下で労働者数は増加し、19442月には崎戸での労働者総数は7055人となり、そのうち集団連行された朝鮮人が2623人を占めた(『炭鉱誌』403頁)。在留者を含めた朝鮮人労働者数は3100人近くとなり、労働者総数の4割を超えるようになった(『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』174頁)。

19441月の崎戸の朝鮮人の数は2987人であるが、他の炭鉱と比べてみると、北炭夕張の4759人、貝島大之浦の3539人、三井三池の3128人、日炭高松の3070人に次ぐ数である(「主要炭鉱朝鮮人労務者就業状況調」、『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』74頁)。

19445月ころには慶北尚州からの連行があった。当時は徴用を逃れ山奥の洞窟に隠れた。三菱の労務係は働けそうなものを探し回り、捕まえると面事務所に連れて行った。新婚の鄭現黙さんは連行された2ヵ月後の7月末に死亡した。火葬された遺骨を親和寮で弟が受けた。会社は同郷の仲間とあわせず、補償金も旅費も支払わなかったという(『手紙』17頁〜)。

19448月末からはサハリンからの転送が始まり、崎戸には朝鮮人510人と日本人1570人が転送されてきた。労働者数は8300人を超えた(『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集U』194頁)。

長崎の朝鮮人連盟が保管していた遺骨名簿がある(「朝連長崎県本部接収遺骨名簿」『戦時外国人強制連行関係史料集W上』719頁所収)。崎戸炭鉱での朝鮮人死亡者名簿を『交附簿』から作成し、この遺骨名簿と照合したところ、黄致順(羅州)、木村在順(井邑)、李健穆(宝城)、朴在煥(扶安)などの氏名が一致した。このことから崎戸炭鉱での遺族に未返還の遺骨も存在することがわかる。

死亡者が出ると初期には送り届けていたが、家族に引き取りに来させるようになったとみられる。戦争末期には遺骨送還は止まり、解放後に同郷の仲間が持ち帰ったものもある。なかには朝鮮人連盟保管(誠孝院)や真蓮寺の遺骨のように、返還されなかったものもあった。

女性たちも性の奴隷とされ、この島に連行されてきた。

蛎浦の奥浦(浦島町)には20軒の遊郭があったが、そのうち2軒が朝鮮人遊郭であり、一軒は深雪といった。浅浦の菅峰はアリラン峠といわれ、遊郭もおかれた。菅牟田の三軒屋には3軒の朝鮮人遊郭があった(『手紙』108109、『原爆5201216頁)。

 

おわりに

 

福浦地区には炭鉱記念公園があり、歴史民俗資料館がある。福浦坑の周辺には炭鉱の廃屋がみえ、公園には労働者家族を示す「活力」という像(1989年)がある。公園の入り口には坑口があり、公園には炭鉱跡の碑もある。そこには1907年から1968年までの歴史が記されているが、労働者については、その数が7500人を超えたとあるだけであり、それ以外は記されてはいない。

福浦の炭鉱跡のレンガ造りの煙突の上には廃坑後30年余を経て大きな草が生えていた。新しいものは無断進入を禁じる三菱マテリアルの看板だった。天見には朝鮮人収容寮があったが、社宅地には一軒だけが残り、啓天寮と呼ばれた朝鮮人寮はいまはない。社宅跡には礎石と井戸だけが残り、それを夏草が覆っていた。

島は過疎化し、リゾート地として観光化がすすめられ、道には「いやしの島」と記された看板がある。

戦後60年を迎える今日、当時の状況を語ることのできる人は少ない。浅浦で出会った老女は寮や神社のことをよく知っていた。もう10年経てば、当時のことを語る人はいなくなるだろう。崎戸の教育委員会の事務所に立ち寄ると、閲覧用の書架に行政関連のチラシとともに、つくる会の『公民』教科書が置かれていた。記されてこなかった労働者、性的奴隷や強制労働の歴史、展示されていく歴史修正主義者の書籍。

観光案内には「サンサンとふりそそぐ・キラキラと舞いおどる・ヒラヒラと夢のせて・ピチピチと崎戸町」「小さな町の大きな感動」とある。この地に生きた労働者の歴史、朝鮮人・中国人のことなどが捨象されて語られる「いやし」「夢」。だが、たいせつなものは一人ひとりの労働の歴史であり、それを大切にするところから、ほんとうのいやしや夢が育っていくのではないか、人の心を変える感動があるのではないかと思った。

 

参考文献

長崎在日朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人51991

林えいだい『死者への手紙』明石書店1992

前川雅夫編『炭誌』葦書房1990

「百萬人の身世打鈴」編集委員『百萬人の身世打鈴』東方出版1990

『告発 強制連行編』朝鮮日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会2003

『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント1976

崎戸町「埋火葬認許可交附簿」林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』U朝鮮人下 明石書店1991

「朝連長崎県本部接収遺骨名簿」『戦時外国人強制連行関係史料集』W上明石書店1991

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集T』1992

石炭統制会「主要炭鉱朝鮮人労務者就業状況調」「労務者移動状況調」「県別炭砿労務者移動調」「労務状況速報」「雇入解雇及就業率調」「主要炭砿給源種別現在員表」「給源別労務者月末現在数調」

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集U』1992

 

                    (2004年記事・2007年再構成、竹内記)

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