1回朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える
                全国交流集会参加記

 

岐阜・三菱と川崎の航空機地下工場跡

一九九〇年八月二五・二六日と名古屋で第一回朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会が持たれ、岐阜の地下工場跡のフィールドワークがもたれた。呼びかけは名古屋のピッタム(血と汗)の会であり、全国から二五〇人ほどが参加した。今回の集会は韓国大統領の訪日と連行関係の名簿の要求、それにともなっての各地での名簿の発掘という時期にもたれた。

交流集会では、瀬戸・兵庫・相模湖・高槻・東京・三重など各地の報告がおこなわれ、さらに参加者からの発言が続き、夜は分科会形式で交流会がもたれた。各地の調査に取り組む市民運動の仲間や研究者、在日一世世代などが顔を合わせて活発な討論を交わした。翌日は軍需工場の疎開先である岐阜の久々利と瑞浪の地下工場跡を見学した。

集会では各地のこれまでの活動をもとに次のような発言があった。

「事実、真相を明らかにしていきたい」「知事引継書の公開を求めよう」「企業や政府に名簿を提出させよう」「八月に政府が公表した名簿は連行者全体の一〇分の一ほど」「政府にも実態を明らかにするよう要求すべき」「市史などの誤った記述を改めさせたい」「地域史の中で正しい記述を」「大企業に質問状を出して調査をすすめたい」「埋火葬関係書類の調査が求められる」「政治的外交解決が被害者を踏みにじっている」「失われている歴史をわたしたちの歴史として取り戻そう」「労働した人たちが自ら名乗りをあげ、語り始める運動を」「日本人と朝鮮人の関係が問われている」「侵略によって殺されたアジアの死者について考えよう」「地下壕の現場の地平から歴史を見るべきだ」。

集会会場で『ピッタム 地下軍需工場建設と朝鮮人強制連行の記録』(一九九〇年)を入手した。この冊子は名古屋の軍需工場の歴史と釜戸や久々利の疎開用地下工場についての調査報告書である。ピッタムとは朝鮮語で血と汗の意味である。この冊子を参考に名古屋の軍需工場の疎開についてまとめるとつぎのようになる。

名古屋は陸軍の第三師団の拠点であるとともに航空機などの兵器生産の拠点でもあった。名古屋には陸軍造兵廠がおかれた。北方の岐阜の各務原には陸軍飛行場があり、各務原には川崎重工の航空機工場がおかれた。名古屋は航空機生産の拠点となり、三菱重工や愛知時計電機で航空機が生産され、中島飛行機の工場もおかれた。他にも軍需工場として大同製鋼、岡本重工業、東海電極、神戸製鋼、住友金属、日本車両、名古屋造船などの工場があった。

三菱重工の名古屋工場は航空機生産の拠点であったが、空襲が激しくなると北方の岐阜の山地に多くの地下工場を建設した。可児市の久々利と平牧の地下壕はこの三菱重工のエンジン疎開工場のひとつである。

久々利には四〇本近い地下壕が固い岩盤を貫いて作られ、その延距離は七キロメートルを超えるものだった。そこに朝鮮人が数千人の規模で動員された。久々利の工事は大林組が請け負った。その下請けには宮下組、石田組、岩田組、坂本組などがあったが、動員された朝鮮人は二〇〇〇人ほどという。柿下側には二八本の穴が掘られた。

鄭戌陵さんはこの工事現場へと一九四五年の春に大阪から徴用された。鄭さんは大林組の下請けの石田組の下でトンネルを掘る仕事をさせられた。柿下の農家の農家の一間に住み、二人一組で二四時間二交替の労働だった。配給でもらえたのはトウモロコシの粉ばかりだったという(『ピッタム』五六頁)。

近くの平牧にも三菱のエンジン生産用の地下工場が掘られたが、『ピッタム』に収録された「平牧地下工場建設組織」によれば、東海軍管区経理部にもとに三菱重工第一臨時建設部、運輸通信省第二地下建設隊、飛島施工隊が組織されている。この飛島施工隊(飛島組)が平牧の工事を請け負って朝鮮人を使い工事をすすめた。

フィールドワークで久々利の地下壕に入ったが、岩盤は硬いものであり、それを掘り進んだ痕跡が四五年を経たいまも残されていた。湿気のある岩盤の現場は工事が終わったばかりのようだった。

つぎに訪れた瑞浪の地下壕は川崎航空機の地下工場として作られたものだった。川崎航空機の各務原の工場は岐阜県瑞浪の明世や八百津の和知に移転する計画を立て、川崎航空機の明石工場は大阪の高槻への移転を計画した。瑞浪の明世の地下壕工事は間組が請け負い、戸狩山などに地下壕が掘られた。工事は一九四四年一〇月ごろから始まり、一〇〇〇人を超える朝鮮人が動員された。さらに一九四五年四月頃には、御岳のダム建設現場から中国人三三〇人が転送され、三九人が亡くなった。

この地帯から化石が出ることから、壕口の一部は博物館が化石の見学用に利用している。戸狩山には「日中不再戦の誓い」を記した中国人強制連行死者を追悼する碑が建っている。しかし、連行された朝鮮人について記すものはない。

これらの地下壕の壕口は強制労働の歴史を語り、また見るものに語り継いでいく努力を求めているように思われた。この集会に参加して、調査の課題や一世世代の想いを聞くことができた。

(その後、ピッタムの会などによる愛知と岐阜の地下工場の調査は『証言する風景―名古屋発 朝鮮人・中国人強制連行の記録』〈同刊行委員会編風媒社一九九一年〉の形でまとめられた)。                            

(一九九〇年八月調査に補足)