日本の戦争犯罪とその処罰について

                       

 19938月、静岡FASのメンバーと韓国を訪れ、韓国挺身隊問題対策協議会の事務所を訪れた。挺対協事務局の李さんは「これまで謝罪と賠償の問題を訴えてきたが、最近は処罰をする要求を掲げている」「根本的問題は戦争犯罪の反省と謝罪だ」「まず慰安婦問題をもって運動の焦点にし、他の戦争犠牲者との連帯をはかりたい」と語った。処罰については昨年(1992年)から考えて始めたようである。

 この刑事処罰をめぐっては、199332日付のハンギョレ新聞に次のような紹介がある。『歴史批評』春号にパクウォンスン「日本の戦争犯罪への処罰は今も可能か」が掲載され、そこでは、韓国は裁判権・犯人引き渡し権をもって刑事処罰ができるとし、被害当事者である韓国法廷で戦争犯罪の刑事処罰を求めるべきとされている。台湾元軍人の裁判の事例を踏まえ、民事補償請求では勝訴できないという判断がここにはあり、国際法上の時効不適用の原則のもとに犯罪被害国としての権利の行使を訴えているわけである,

 93年秋に『朝鮮時報』に連載された強制連行の「真相調査中間報告書」のなかにも「責任ある者たちに対する刑事処罰」の項がある。ここでは、日本政府が自ら国内法をつくり「従軍慰安婦」犯罪に責任ある者たちを刑事処罰することとそれによる反省の姿勢を求めている。刑事処罰の目的は国際的道義の回復と犯罪再発防止におかれている。具体的にはつぎのことがあげられている。一定期限を与えての罪状自首、自首しない者の抽出と裁判、死亡者への刑事処罰宣言と歴史への記録、現在までに罪行を反省し公開証言した者を赦すこと、などが提示されている。

 199212月の国際公聴会をふまえて書かれた、国連差別防止少数者保護小委員会(人権小委)での報告「人権と基本的自由の重大な侵害の被害者の損害賠償、補償および更生を求める権利についての研究」(テオ・ファン・ボーベン報告)のなかにつぎのような一節がある。「国際法の下における犯罪にたいする損害賠償には犯行者を訴追し処罰する義務が含まれる。刑罰を受けないことは本原則に抵触する」「人権侵害に対していかなる有効な救済も存在しなかった期間について時効法は適用されてはならない。重大な人権侵害による損害賠償に関する請求は時効法に従うべきではない」。このファン・ボーベン報告書では処罰は義務であり、損害賠償請求の時効に制限はない、とされている。

 1993年の8月に挺対協事務所で「処罰」について問題提起されたときは、イメージがわかなかった。しかし、以後、処罰をひとつの重点として考えてくると、「補償」要求だけでは見えなかったものが見えてくる。

 一般に刑事犯罪であれば起訴され処罰され謝罪・賠償があるが、今も日本の戦争犯罪は事実究明の段階にあり、戦争犯罪実行者の記録は隠蔽されたままである。各地の調査では、史実の究明が第一の課題であるが、それは「起訴」資料の発掘ということもできるのだろう。

 日本帝国主義の植民地支配下での皇民化による強制連行、占領地での毒ガス・細菌戦などの戦争犯罪は、不問のまま免責されてきた。それは天皇裕仁の統帥権・植民地支配権を問うことなく、天皇裕仁の戦争責任を免責することと一体のものであった。天皇は主権者であったのだから、このことは論証の対象ではなく自明の事柄である。この天皇の下に無数の岸信介や石井四郎や児玉誉士夫がいるといえるだろう。

 心に刻む会の『戦後補償ニュース第10号』(199312月号)は「処罰」を掲げ「第2の東京裁判」のはじまりと処罰による補償実現の必然化を論じている。19933月のアジア太平洋人権NGO会議で、フィリピン元「従軍慰安婦」調査委員会と韓国挺対協が共同で、軍慰安婦などの犯罪は人道に反する罪であり、「この犯罪への責任者を政府が処罰しなければ、その政府は共犯とみなされる」という提案をおこなった。処罰要求が被害者団体から提起されるようになったのである。

 199311月に浜松でアウシュビッツ展が開かれ、11千人が入場し、12月には静岡で731部隊展が開かれ5千人が入場した。これらの企画に参加して学んだこと、それはドイツと日本の戦争犯罪とその戦後処理の違いであった。東欧諸国はナチスドイツの戦争犯罪を追及し、「時効不適用条約」を国連の場で成立させている。この条約の視点にたてば、日本の戦争犯罪に時効はない。

 日本の過去の戦争犯罪の責任者として第1にあげられるのが天皇裕仁である。近代天皇制システムは戦争遂行のための動員装置であった。「処罰」要求は、過去の戦争犯罪の責任を明らかにし、戦後も戦争責任を隠蔽してきたシステムの変革を示していると思う。アジアの戦争被害者の声を受けとめ、天皇制の戦争責任の追及と天皇制の廃止を求める主権者民衆の力の強まりが実際の「処罰」を可能にしていくと考える。

                          (19944月 竹内記)