● 室蘭の中国人追悼碑

 札幌の近くの当別町材木原に劉連仁の碑がある。建立は2002年である。明治・昭和炭鉱から逃走した彼が13年ぶりに発見されたのは1958年のことだった。2004年2月に訪れたとき碑のあるところは3メートルほどの積雪に埋もれていた。上部の雪を取ると碑が現れた。碑の内部は空洞になっていて、ちょうど彼が雪の中に穴を掘って隠れ場所としていたところのようだった。

 1940年代なかばに日本へ連行された中国人は約3万9千人、135箇所、そのうち北海道へは約1万6千3〇〇人が58の事業所に連行されている。北海道は戦時下収容所列島でもあった。

 室蘭は北海道の軍需工業地・軍港であった。北海道炭鉱汽船が石炭積み出しのために室蘭へと鉄道を引き、輸出用の石炭搬出港とされた。1893年には軍によって軍港にも指定された。日本製鋼や日鉄輪西製鉄所がつくられ、鉄・兵器の生産がすすんだ。この室蘭に戦時下、労働力として、たくさんの朝鮮人、中国人、連合軍捕虜が連行されてきた。

 連行された人びとは、港湾・工場での労働を強いられた。戦時統制の中で、港運業は石炭・雑貨・製鉄関係に統合されその下に朝鮮人・中国人が配置された。朝鮮人兵士も連行されていた。

室蘭へ連行された中国人は5事業所1855人。半年あまりで564人が命を失った。1954年になってイタンキ浜から125体に及ぶ中国人の遺体が掘り出されている。浜の近くの丘に追悼碑が1972年に再建されている。

新日鉄の南方の丘にあがると、工場群と室蘭の港が見える。前方には新日鉄の工業用の石炭・コークスが見え、かなたに白鳥大橋がある。室蘭はかつて戦争の拠点だった。

1995〜6年を見れば計70隻ほどの日本の軍艦が入港し、99年には米第7艦隊ブルーリッジが寄港している。これまで港湾の軍事使用がねらわれてきていたことがわかる。軍艦の寄港が増加し、いまイラク派兵のために使われようとしている。室蘭を再び軍港としない取り組みが求められているように思われる。軍港と強制労働の歴史に学び、港湾を平和と友好の場としていくべきだ。

浜の砂は細かい。太平洋からの波が浜に打ち寄せる。うちよせられた貝殻が白く点在する。砂は風に吹かれて音を放つ。イタンキの浜と室蘭岳は何もなかったかのようにその姿を示していた。平和に向けての歴史を語り継ぐための行動を待つかのように。