西伊豆明礬石鉱山

 

  一 戦時体制と明礬石開発

 ここでは西伊豆での明礬石鉱山への強制連行についてみていきたい。

 西伊豆の宇久須と仁科では明礬石が採掘された。明礬石開発の経過については、県立松崎高校郷土研究部「戦時中のアルミニウム鉱山について」、日本軽金属梶w日本軽金属二〇年史』、古河鉱業梶u創業一〇〇年史」などに詳しい。以下、鉱山の開発についてはこれらの資料と収集史料によってみていく。

「宇久須鉱山年表」は宇久須で明礬鉱を発見した山本階の手元に残されていた年表である。ここには一九三四〜四〇年までの経過が住友資本の用箋などに記されている。

それによれば、山本階は宇久須で大久須金山を経営していた佐藤謙三に明礬石を見せた。佐藤は鉱石の分析を専門家に依頼した。岩谷東七郎「宇久須明礬石浮游選鉱試験報告(予報)」(一九三四年九月)、加賀谷文治郎「伊豆宇久須村明礬石鉱床に就て」(『日本鉱業会誌』一九三五年二月)はその分析報告である。

佐藤は一九三四年五月、協力者の武田健一によって前川益以(浅野同族会社)の紹介をうけ、住友東京支店を訪れて鉱山開発への援助を申し入れる。しかしこの申し入れを住友は謝絶した。このため前川・武田も住友を訪れ、岩谷や加賀谷の報告をもとに要請をおこなった。住友は調査をおこなうことになり、矢部技師長による試験・調査の末、宇久須鉱山の明礬石開発についての契約が一九三六年の二月に成立した。契約内容は、住友が明礬石採取権・鉱業権・土地所有権を得、佐藤に無利息の融資として一〇万円を与え、会社設立までの費用は住友が負担するというものであった。

 住友は契約が成立すると、本格的な探鉱を開始し、調査研究をすすめた。この研究報告が「宇久須明礬石鉱二関スル研究報告」(住友本社技師長矢部忠治一九四一年一月)である。この報告には、宇久須鉱山の概略、選鉱試験結果、アルミナ製造試験報告などが記されている。この報告の結論は、宇久須鉱床が地表近くに限られており、確定鉱量は一四〇〇万トンに達すること、浮游選鉱によって高い実収率をえたこと、他のアルミナと異ならない純良アルミナを生産できること、そのアルミナを使ってアルミニウムを生産しても品位は劣らないこと、そしてアルミニウムを原料としてジュラルミンを作ったところ充分使用できたこと、などである。

住友は伊豆明礬石を利用してのアルミニウム生産に確証をえたとみることができる。住友は佐藤との契約後、予算を組んで一九三六年〜四〇年までに一二万七千円を支出した。また佐藤は住友との契約時に三〇万円を要求していたが、当初、住友は一〇万円を与え、のち追加分として五万円を融資した(「宇久須鉱山年表」)。

 このころの宇久須鉱山の研究としては、日本学術振興会の委嘱調査報告として岩井周一「伊豆宇久須明礬石鉱床」(「明礬石鉱床」『地学雑誌』一九四一年二月)がある。

 一九四一年五月、オランダ支配下のインドネシアからのボーキサイト輸入が停止した。この輸入停止のなかで、日本はアジア太平洋戦争を開始し、それによってオランダ領を支配し、ボーキサイトの「輸入」を再開する。しかし敗退がすすむ一九四三年ころから、ボーキサイトではなく、中国産の礬土頁岩や伊豆の明礬石を使ってのアルミ生産が計画された。一九三九年に設立された日軽金は政府指示に従って、礬土頁岩を主とし、伊豆の明礬石を従とする製造方針をたてたが、礬土頁岩の大量供給が間にあわず、明礬石を使用して生産することになった(『日本軽金属二〇年史』)。

アジア太平洋戦争のなかで日本は敗退を重ねて占領地を失っていった。それにより輸入原料が途絶えたため、政府は明礬石などの国内産原料を利用してアルミニウムの生産を計画するようになった。そして、ここで労働力として利用されたのが朝鮮・中国からの強制連行者であった。

すでに一九四一年五月、佐藤謙三と前川益以は「国内資源二依ルアルミニウム及ビ加里肥料自給国策樹立二就テ」を記して「国策樹立」を訴えている。佐藤・前川はつぎのように主張する。軽金属なくして現代の文化国防を保持しえない。アルミニウム原鉱を国内資源から活用して自給の国策を樹立すべきだ。また国内食糧生産において肥料問題の解決は急務である。ところで明礬石はアルミニウム生産工程中副産物として硫酸加里を回収しえるから一石二鳥である。政府はアルミニウムの自給の国策を確立し加里肥料生産をおこない、また政府は保護政策を樹立して輸入資源と比して割高となる生産費の補償をし、明礬石を原鉱とするアルミニウム及び硫酸加里製造の国策会社を設立すべきである、と。

 佐藤・前川は前出の住友矢部報告・岩生論文を附して、このように訴えたわけである。

一九四三年、西伊豆の明礬石は政府による積極的な開発命令をうけ、さらに一九四四年の臨時国産推進本部設置による国内原料によるアルミ生産体制の推進によって、佐藤・前川が主張したように開発されていくことになった。侵略戦争の敗北過程のなかで、西伊豆の鉱山資本と国家とが結びついていった。

仁科での鉱山開発についてみてみよう。

西伊豆町の仁科鉱山は内田与作による鉱の発見以来、浅田化学が採掘を続けてきた。

 一九四二年一二月、住友本社の進藤淳之助・豊田英義は仁科の浅田化学による明礬石鉱区を視察した。これは軽金属統制会の依嘱によるものであり、軽金属統制会や他の会社との共同視察団の一員としての調査だった(住友本社・進藤淳之助・豊田英義「伊豆天城浅田明礬石鉱区視察概報」一九四三年一月)。軽金属統制会は国内資源によるアルミ生産を目標に共同調査にのりだしたのである。

この報告では、至急鉱区内地形図を作成すること、探鉱坑道を穿ち鉱床の深度を攻究することが訴えられている。この段階では精密調査が行われていないため、鉱の分布・品位・鉱量が未確定であった。すでに佐藤謙三もこの地域の事業化をねらい「試掘許可願」を東京鉱山局長に出している(「明礬石試掘許可願(天城御料地内)」一九四一年六月)。かれが添付した地図には仁科村白川の長九郎山北部と他の二地域が記されている。

 このように西伊豆の明礬石が注目され、一九四三年に宇久須で宇久須鉱業渇F久須鉱山が設立され、仁科(白川)には戦線鉱業鰍ェ設立された。日軽金(資本系列は古河)も開発を援助した。

一九四五年に入り、軍需省航空兵器総局伊豆明礬石開発本部が設置され、伊豆明礬石の増産がもくろまれた。各社は再編され、住友資本が宇久須鉱業を、古河資本が戦線鉱業を経営することになった。この一九四五年には中国人の強制連行もおこなわれた。

静岡県も西伊豆での明礬石の開発を支援した。静岡県軍需課「軽金属増産推進二関スル件」から開発と増産の状況についてみてみよう(静岡県「長官会議資料」一九四五年五月分所収)。一九四三年一月に静岡県軽金属増産推進協力会を設置、一九四四年一一月には軍需省の求めに応じて、伊豆明礬石緊急戦力化現地促進協議会へと発展させ、軽金属原料の国産転換をすすめた。しかし鉱山開発は進捗せず、開発工事は国営化され、増産が企画された。現地には軍需省臨時開発本部が置かれた。建設工事は竹中工務店が請負、運輸は伊豆合同運送、清水港運送、静岡機帆船が担った。日軽金清水工場ではアルミナ生産確保には日産八〇トンの精鉱を必要としたが、西伊豆の鉱山からの入荷は十分にできなかった。さらに清水工場では苛性ソーダやマグネシウムが不足しアルミナ製造処理が行き詰っていた。

 一九四四年三月、軍需省は古河鉱業に戦線鉱業の経営を引きうけるよう交渉に入ったが中断した。一九四五年三月、軍需省は古河に戦線鉱業の経営を命令した。株式構成は戦時金融金庫(一〇〇万円)、帝国軽金属統制会(五〇万円)、古河鉱業(七五万円)、日本軽金

属(七五万円)であった。

 約三千人の労働者が仁科鉱山の選鉱場や索道建設などの突貫工事に従事した。労働者の多くは朝鮮人であった。鉱山整備には日軽金、鹿島組が関与した。

 日本土木建築統制組合の「昭和二〇年度第一次朝鮮人労務者割当表」には宇久須鉱山土木工事に鹿島組二〇〇人、日本軽金属の仁科選鉱場施設工事に栗原組一〇〇人の割当が記されている。鉱山労働のみならず、土建工事にも連行者がいたとみていいだろう。

 伊豆での明礬石開発にともない、選鉱設備として清水の蛍石選鉱場、住友鉱業の土肥鉱山、日本鉱業の河津鉱山の設備が転用され、全国各地の鉱山から集められた機器も転用された。松崎に粗アルミナ工場(四万トン)の建設も予定されたが、一九四五年八月の地鎮祭のみで打ち切られた。

 日軽金蒲原工場への動員学徒の証言によれば、明礬石から作るアルミナの質は悪く、その純度は二〇パーセントを割った。明礬石を使うと電解炉の脇にへばりつき、ひとつの電解炉を一日に二回三回と掃除しなければならなかった。一九四五年七月には炉の半分が明礬石の使用のために動かなくなった。そこに米軍機が工場裏のダムを攻撃したので発電が止まり、工場は麻痺した(『豆州歴史通信』一〇一号一九九五年二月)。

 これが強制労働によって得た原料の行き着いた先の姿であった。

 

  二 宇久須鉱業

宇久須鉱業鰍ヘ田方郡土肥町におかれ、東京支社と宇久須鉱山を持ち、宇久須村の深田の鉱区を中心としていた。宇久須で明礬石採掘に従事した山本階史料のなかには、古びた朝鮮の地図がある。平安北道鴨緑江の南、楚山附近の甑峰の鉱区調査図である。かれらが朝鮮・中国・サハリンの鉱山に関心を持っていたことがわかる史料としてはほかに、朝鮮〜三龍社鉱山一九三七年、長鼓金山一九三九年、金剛山水鉛タングステン鉱一九三九年、豊年金鉱一九三八年頃、国師峰金山一九三七年、「樺太」〜女麗水銀鉱山一九三三年、「満州」〜朱家溝金鉱一九三五年などがある。

 宇久須鉱山の鉱区については、採掘区域と鉱床分布を示す地図が残され、「明礬石鉱床実測地形図」には鉱区・索道・インクライン・現場見張・事務所・従業員住宅などが記されている。これによって鉱山の概略を知ることができる。

 大久須には金鉱があり一九三三年ころには採掘されていた。採掘労働者だった内田淳一さん(一九一七年生)はその後三度徴兵され、帰郷、一時期宇久須鉱山深田鉱で明礬石採掘をした。露天掘りだったという(一九九〇年談)。現在は宇久須では硅石が掘削されている。

 宇久須鉱山へは六〇〇人ほどの朝鮮人が強制連行された。厚生省名簿をみると、一九四四年五月に全南宝城などから七五人が連行され、一九四五年二月には四一三人が忠南論山・公州ほか各地から連行された。このなかには三菱名古屋からの転送者四八人も含まれている。一九四五年五月には土肥鉱山から九二人が転送された。鹿島組の鉱山土木工事へと連行された人々もいたから、八〇〇人ほどが宇久須鉱山関係で連行されたとみられる。

 宇久須鉱山で労務係をしていた山田憲一さん(一九一六年生)の話をまとめてみよう。

 日本人は七〇人ほどだった。事務所に一五〜六人、山の現場事務所(見張)に五人、日本労働者は五〇人余りだった。朝鮮人二〇〇人、中国人二〇〇人ほどが働いていた。

 労働は八時から一六時くらいまでであり、班長の日本人労務係が朝鮮人・中国人を宿舎に帰し、一七時に仕事を終了した。日本人職員が朝鮮人を私用に使い、六尺位の自分のための防空壕を掘らせたり、ビンタ(殴打)したりした。朝鮮人の飯場は掘立小屋風の小屋が四棟あった。朝鮮の親方(班長)は日本語ができた。 

山田さんの仕事のひとつは中国人に「集合・休憩・解散」の命令をすることであった。朝礼では朝鮮人・中国人毎に整列させた。一班一〇人の構成だった。「国旗」の掲場、注意事項・作業指示をおこなった。場所は山の事務所の横であり、掲揚柱を木で作り、旗を掲げていた。かれらの仕事の内容は採掘・運搬(トロッコ押)・雑役であった。露天堀りの鉱区から採石した明礬石をトロッコで運び、段から降ろしてインクラインで下へと搬出し、そこでトラックに積み運送した。土肥のトラック会社と契約し、最盛期には二〇台ほどのトラックが一日五〜六回の割合で土肥と宇久須を往来した。鉱石は土肥金山の船着場へと送られた。

 鉱区は二カ所、深田と八木沢山にあった。深田の鉱区が大きく鉱石の八五パーセントほどを産出した。八木沢山は深田から四キロメートルほど北側にある。そこでの採掘は朝鮮人が行った。深田では中国人・朝鮮人が採掘にあたった。選鉱場建設のための敷地が整備された時に、敗戦をむかえた。鉱区でははじめは四本ほどの坑道を堀って採掘したが、山の事務所裏には明礬石が九九パーセントという鉱区もあった。軍需省の指定を受けた時は露天掘りだった。

 山田さんは中国人と朝鮮人がそれぞれ別の場で働くように指示した。朝鮮人に対し「朝鮮」と呼ぶと「朝鮮人も日本人も天皇陛下の下皆同じだから」と怒ったという。日本人の監督が朝鮮人に対し三〜四人、中国人に対しに五〜六人ついた。朝鮮人・中国人、それぞれのなかから二人の作業責任者を選んでおいた。当初、朝鮮人につけていた日本人監督は、中国人が連行されてきたため二つに分け、中国人・朝鮮人へと配置した。中国人を「ニイコウ」と蔑称した。

 雑役の仕事は朝鮮人がおこなった。船が船着場に到着すると船からトロッコ用の線路や軍需省からの材木を降ろし運んだ。請負制の方が仕事ははかどり請け負いのことを「コマリ」と呼んだ。通常はトロッコの線路を二人で荷いだが、請け負いにするとかれらは三本をゆわえて一人で荷ぎ、一時頃には仕事を終え飯場へ帰って休んでいた。朝鮮人二〇〇人のうち一八〇人ほどが仕事に出てきた。「稼ぎに日本へ来た」というが、さらってきたようなものであり、四〇歳位から一七〜八歳の青年がいた。

 朝鮮人の飯場の構造はドアが人口にあり、中央にストーブ、電球は二本、隊長がドア近くに居住した。

 中国人は採掘、道路建設に従事した。道路はトロッコ用と、山の事務所から下へ降りるための道路の二種類を建設した。中国人が逃亡した事があった。五人が逃げ、二人は大仁の手前で捕えられ、他は山づたいに逃げ、今の長岡の消防署の辺で三人が捕えられた。当時警防団が山狩りをした。

 死亡した中国人の遺体は土葬にした。敗戦後、一体を班長の日本人が掘りおこし火葬した。残りを中国人が掘りおこし火葬し本国へ送った。宿舎から五〇メートルほどの所で火葬した。山田憲一さんの証言をまとめれば以上のようになる(賀茂村にて、一九九〇年談)。                        

 宇久須鉱山では一九四四年九月二七日、朝鮮人争議が発生した。「移入」された「金本某」が現場で作業を「懈怠」していると、鉱石運搬中の鉱山附属運転助手がかれを「叱責」、両者は口論となり、「金本」は殴打された。朝鮮人三〇人が「金本」に同情して支援、運転助手を包囲し乱打、重傷(全治一ケ月)を負わせた。これに対し現場係員らは運転助手を事務所へと保護した。朝鮮人たちは作業事務所をとりかこみ、「助手を出せ」と制止をきかずに対峠した。警察が出動し、「主謀者」一〇人を検挙し、一〇人全員を「傷害罪」として送局したという(「特高月報」一九四四年一〇月分『集成』五所収 四六○頁)。

労働者への暴力的労務管理が日常的であり、その暴力への怒りは、団結しての直接行動へと転化した。あるいは就労の拒否・逃亡として表現されたこともあったであろう。

 ここで中国人の強制連行についてみてみよう。

 中国人は一九四五年一月一七日、青島を出発、一月三〇日現場へ連行された。中国人は一九九人が連行されている。「契約」は二〇〇人であったが、華北労工協会の職員が連れて北京から青島にむけての移動中に一人が逃走した。戦後の報告のなかには、鉱山からの逃亡者のうち、土肥の警防団に捕えられた一人はトビロであばら骨を打たれ、鉱山に帰り死亡したとするものもある。また、「事業場報告書」では、労務関係者の人選に留意し、「華人労工使用の参考」(鷺第三九〇五部隊参謀部発行)をふまえ、予備訓練をおこなったのち「華人」を管理したとしている。連行と労働の結果、死亡者は一四人であった。(田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』一六八頁、五五七頁、五七九頁)。

 宇久須鉱山の「華人労務者就労顛末報告書」をみると、中国人は山東省で「募集」され北京訓練所で1カ月の「団体訓練」を受けた。連行された中国人の年齢は一二歳から六六歳であり、農民が六割近い。宇久須鉱山職員四人と労務員三人、警察官三人が一月二二日に神戸港に出張し、一月三〇日に沼津からトラック六台で連行した。二月から採掘準備や作業用道路の開鑿などの土木工事に使い、六月からは荷役、七月からは運搬などにも使った。五月五日には逃亡者が出た。稼働率は日本人の七五パーセントであり、朝鮮人よりよく、隊長斎樹発(斎書法)の人格が高潔であるとしている。

「山本階関係資料」のなかに四枚の「附表」がある。中国人の送還帰国に関する「事業場報告」の附表とみられる。「附表」一は「事業場概要」、二は「関係者名簿」、三は「配置人員表」、四は「個人別就労経過調査表」である。ここで一と四の表から鉱山関係者と中国人名をあげておきたい。

 鉱山関係者(数字は就任〜退任年月日)

社長   佐藤謙三 一九四五・一・三〇〜 五・一〇)

鉱山長  近藤次彦 一九四五・五・一〇〜 一一・三〇

採鉱課長 細谷政司 一九四五・一・三〇〜 三・三〇

勤労部長 實藤正城 一九四五・一・三〇〜〔二・一五〕

勤労次長 小西駒之助一九四五・一・三〇〜 二・一五

勤労課長 杉本嘉助 一九四五・五・一 〜 一一・三〇

給与長  川上 良 一九四五・一・二〇〜 一一・三〇

勤労課員 荒澤信三郎一九四五・一・二〇〜 一一・三〇

真鍋信雄 一九四五・一・三〇〜 一一・三〇

簾内椿吉 一九四五・四・一五〜 一一・三〇

菅 勝利 一九四五・三・一五〜 一一・三〇

佐々木政之助一九四五・一・三〇〜 一一・三〇

武田長司 一九四五・一・三〇〜 一一・三〇

星野信雄 一九四五・ 〔記載なし〕

厚生課員 長林 孝 一九四五・一・三〇〜 一一・三〇

会計課員 加藤雅夫 一九四五・五・一  〜一一・三〇

嘱託医  池田 正 一九四五・一・三〇〜 一一・三〇」

 これらの会社関係者(川上良より左は「移入送還時附添人」)に加えて「県警察部、山下計男(松崎署)・中村保作(沼津署)・藤井啓一(沼津署)」の記載があり、最後にガリ版印刷の後に関係者が書き加えた人物として、「華北労工協会・嘱託・山本実 一九四五・二・一〜一二・三」がある。山本は送還の渉外事務を担当したと思われるが、かれの名は、中国人を強制連行して働かせていた熊谷組田子浦飛行場建設現場の記録にみられる。かれは中国人労働者によって殺害計画の対象とされていた人物である。山本は富士から宇久須へと現場を移勤し、中国人労働者を監視していたものとみられる。

 中国人労働者は一九四五年一二月一日に出国した。「附表四」には二四人分の氏名が記されている。二四人は華北労工協会によって連行されたが、全て山東省館陶県の出身とされている。名前と年令を記しておきたい。

 「斉書法(三七)・李白章(二五)・王志山(二三)・張善王(ニ八)・李興賢(四○)・李云黄(四九)・李今史(三四)・陳少●(三二)・張山到(二五)・張鳳巣(二五)・舒玉章(四三)・劉閣王(二六)・郭長山(四八)・趙徳楼(四一)・李蘭庭(二六)・張好●(四八)・張明清(四二)・薜舎章(一五)・張明山(四四)・時書生(三六)・杜錫河(四三)・杜玉来(四六)・張六郡(一三)・李安和(二〇)」。帰国したのは一八五人であった。以上の二四人はそのうちのメンバーである。「附表」によれば職業は「苦力」・「食料店」他である。

 

  三 戦線鉱業仁科鉱山

 アジア太平洋戦争末期、西伊豆の明礬石を利用してのアルミ生産計画が国家によってすすめられた。戦線鉱業と宇久須鉱業の経営が強化された、鉱業所へと労働力として朝鮮人・中国人が強制連行されていった。戦線鉱業は地元住民・動員学徒・受刑者・朝鮮人・中国人を徴用して明礬石を採掘した。

戦線鉱業の初代社長は陸軍中将建川美次、その次の社長は十河信二であり、主管は中村陸軍少将であった。古河鉱業がこの戦線鉱業の経営を命令されたのは一九四五年三月である(『古河鉱業創業一〇〇年史』)。戦線鉱業は国策会社として成立し、軍の力を背景に土地を強制買収した。

戦線鉱業関係者は、(事業所所長)宮崎益欣・大川英三、(職場長)石井国平・江端清、(直接取扱責任者)柴原守衛・高田寿夫・杉野克次・釘宮幸雄、(警察)水口巡査部長・山下計男(松崎署)、(医師)山田万美・長谷川美夫・藤野精である(『中国人俘虜殉難者調査概要』)。    

『百年のあゆみ 豆陽中下田北高』によれば、戦線鉱業に学生三〇人が動員された。作業内容は道路作りであった。赤土の道を、隊列を組んで行進したという。かれらが「傾倒」したのは、拓大出身の右翼である釘宮労務課長やその下の朝日青年であった(県立下田北高校『百年のあゆみ豆陽中下田北高』一〇八一頁)。

朝鮮人の集落も形成された。大沢里国民学校に朝鮮人の子どもが通学するようになった。朝鮮人は白川線の建設に従事したり、戦線鉱業の仕事に従事したりした。東伊豆方面から来た人々が多かったという。 

厚生省勤労局へと戦線鉱業が提出した名簿には四八六人の名前が記されている。

 戦線鉱業へと連行された朝鮮人は、厚生省名簿によれば一九四四年一一月に釜山から九八人、一九四五年一月に黄海海州・碧城・慶南固城・河東などから一八八人、二月には慶南昌原・昌寧・咸安から一七八人、三月にも昌寧・咸安から二二人が連行されている。鉱山土木への連行者もあった。鉱山整備や明礬石採掘などの戦線鉱業関連の工事に動員された朝鮮人数は二〇〇〇人から三〇〇〇人という。

厚生省勤労局名簿から一九四五年三月から七月にかけての逃走成功者をみると毎月、二〇人以上となる。四月の逃走成功者は五〇人をこえている。自由を求めて八・一五前までに連行者の約四〇%が逃走に成功している。

 ある住民は子どもにつぎのように語っている。朝鮮人たちは小さな川の西側に粗末な小屋を建てて集落をつくった。悪臭が漂い、生活は不健康であり、労働は過酷だった。岩を崩し、土を削り、それらを運ぶが、少しの休みもなかった。馬力牛より以下の条件で働き続けた。監督が少しでも休んでいると殴りつけた。食料は米のカスやヌカ、豆だった。近所の土木業の家に寄り合いの連絡に行くと、一掴みの米を盗んだという理由で朝鮮人が裸にされ、太い青竹が割れるほど叩かれていた。逃亡して捕まると、駐在署の前に一列に座らされ、土木業者や消防団長から殴ったり蹴ったりの制裁を加えられた。体を折り曲げてアイゴー、アイゴーと泣き叫んでいた朝鮮人たちの声や姿が今もはっきりと思い出される、と(『父母に聞く戦争体験』三一頁)。この証言が仁科のものであるのかは不明だが、このような風景が仁科でもみられたであろう。

 仁科村白川へ動員された張東?さん(一九一三年生)と妻の金順子(一九一九年生)さんの場合についてみてみよう。

二人が白川へ来たのは一九四五年一月であった。二人とも慶尚南道馬山の出身である。「名前を加えなければダメ」と創氏改名を強制されている。二人は馬山で結婚していた。日本へ来て働けという徴用命令がきた。張さんは考えた。父の弟(おじ)がすでに日本に渡り、伊豆の熱川に妻子と暮していたが、今は妻子を残し、仁科白川で働いていると聞く。どうせ日本へ行くなら知りあいのいる白川へ行こう。当時の徴用は昨日結婚したばかりでも「明日行け」というやり方だった。金さんによれば釜山から船に乗り玄海灘の船中で一泊、下関から列車に乗り、車中一泊ののち、熱海へ着いた。バスで伊東を経て熱川へと行った。バスに乗るにも点数カードを与えられ、それを使って熱川に行き、そこから白川へと向かった。中国人宿舎と反対側の地点の橋のふもとの小屋に家族と共に住んだ。金順子さんは二人の子を連れての旅だった。着いてすぐにもう一人が生まれた。

 鉱山が盛んな頃は二〇〇〇人ほどの朝鮮人が住んでいた。家族が住んだ付近にも二〇〜三〇軒のバラック小屋があった。張は朝七時から夜五時までおじが請負った仕事に従事した。おじは親方として三〇人ほどを部下にもち請負って仕事をしていた。金さんは三人の子育てとボロ衣を縫う日々だった。白川付近は人間だらけの状態になった。朝鮮人家族持ちも多く居住していた。住居は物置以下のバラック小屋、一家に一部屋で五〜六人が入り、八畳くらいのところで暮らした。張さんは配給で分けられた地下タビをはいて仕事に行ったが、それだけでは足りず藁草履を編んで履いていった。藁草履で仕事をする方が多かった。

 単身の徴用者は数十人で一つの小屋に入った。単身者とは別に家族持ちは食事をした。家族持ちの場合、ひとつの長屋に一〇世帯ほどか居住した。賃金は一ケ月で三〇円ほどだった。山づたいに逃亡した朝鮮の徴用者もあった。食料もなく仕事が厭になって、山づたいに逃亡したが、逃げても食料はないしどうなったのであろうか。一〇数名は見聞したことがあるという。

 張さんが従事した仕事はトラックの出入りのための道路建設と鉱山での採掘だった。中国人に対する食料は朝鮮人より悪かった。朝鮮人にはパンの配給があったが、中国人へは豆かすだけだった。これが生死を決めた。中国人は栄養失調に加え、豆カスだけの食料で腹を下し、次々に死んでいった。金さんは日本人監督が中国人に対し「仕事をしないから」と殴りたたく光景を、配給を受けに行く途中で見た。やせて栄養失調の人間を殴る風景はみていられなかったとかの女は語る。徴用者の多くは朝鮮へと帰った。夫妻にとって敗戦直後の生活は、今日死ぬか、明日死ぬかの生活だった。戦後一〇年は仕事がなく、苦しいものだった。仕事を求めて街へ出たと金さんは語る(西伊豆にて、一九九〇年談)。

次に中国人の状況についてみてみよう。

強制連行された中国人は二〇〇人であったが、連行途中で二二人が死亡、労働現場で八二人が死亡、計一〇四人が死亡している。死体は山の中に埋められた。それらは一九五四年、村民たちによって発掘され、追悼された。「興亜建設隊」、これが中国人につけられていた名称であった。

戦線鉱業の元事務員によれば、地元労働者(白川・仁科)は一ケ月二五円ほどの賃金を得ていた。中国人は少しの食糧で働かされ、少しでも仕事をおろそかにするとムチで打たれ、苦痛なしごきをうけていた。逃亡して捕った者は天井から逆さまにつるされ、ムチで打たれていた。「ただ少しの、食料をあてがわれ、むちでたたかれながら、仕事をしていた奴隷がいたのだ」という(県立松崎高校社会科編『父母に聞く戦争体験』二一頁)。

『豆州歴史通信』には、伊豆新聞の記事から中国人が憲兵に打ちのめされ、動物のような泣き声で、泥の中を転げ回って苦しんでいたという証言が紹介されている『豆州歴史通信』六九号)。

 

 戦線鉱業で中国人の現場監督だった平馬恒哉さん(一九一五生)の話をまとめてみよう。

平馬さんは名古屋に行き、朝鮮人を「徴用」する仕事をした体験もある。一九三八年九月、徴兵され名古屋で入隊したが、鍛冶の技術を持っていたため、軍馬の蹄鉄を打つ仕事をした。二年三ケ月の軍務の後、浅田化学で働き白川道の建設に従事した。一九四三年に浅田化学は戦線鉱業へと再編、名称を変更した。南方からのボーキサイトの輸入が途絶えたため、代用鉱として明礬石を採鉱するための軍需会社の設立だった。戦線鉱業では採鉱の仕事をした。露天掘りであった。社長は建川中将、のち宮崎という軍人が社長となった。労働力として利用されたのは日本人・朝鮮人・中国人の労働力だった。

 日本の労働者はトラック五台ほどに分乗し、一台に三〇〜四〇人が乗りこみ、隣村の田子・仁科・松崎から二〇〇人ほどが働くために来た。白川からは三〇人ほどが仕事に出た。学徒動員という形で、拓大の学生、「浜松工業」生徒そして下田北など近隣の学校からも

動員されていた。受刑者も一〇〇人ほどが働かされていた。

 朝鮮人は旧来から土木工事で使われ移住してきた人たちと「徴用」で連行されてきた人たちがあった。かれは名古屋に一時期居住し、地理がわかるということで戦線鉱業の労務課長に連れられ、三人で名古屋へと朝鮮人の徴用に出かけた。二〇〇人の青年を名古屋の三菱工場から連行した。連行途中空襲にあい日程が遅れた。連行した者たちは皆若く単身であった。当時三菱は空襲にあい生産現場は破壊され、労働者は余っていた。そのなかから戦線鉱業が二〇〇人を連行した。「若い娘も働いている」「仕事はいいし空襲もない」「仕事の環境がいい」といった甘言で騙して連行した。列車で沼津へ行き沼津からトラックで仁科へと連れてきた。

 朝鮮人たちは白川地区の鉱山近くに集落を形成していた。土地は戦線鉱業の所有だった。徴用され連行された朝鮮人たちは旧来から居住する人たちから話を聞いてか、半数近くは逃亡した。天城の道網線にそって田方・河津・下田方面へと逃げていく。逃げ方は巧みだった。昼頃弁当を持ったまま三人ほどのグループで逃げた。昼食が終わり点呼をとるといないことがわかる。追いかけてみるがつかまらなかった。当時の労働時間は七時三〇分から一七時頃までだった。

 一九四四年一二月、中国人が連行されてきた。平馬さんは現場で中国人を監督する仕事についた。労務課長は事務所にいた。中国人の住居は戦線鉱業の宿泊施設の山の上方に作られた。住居の周囲は竹で囲われ、逃亡できないようにされていた。監視人が夜、外から鍵をかけた。中国人のなかから隊長を選んだ。隊長に選ばれた者は八路軍の少尉だといった。仕事の行き帰りには監視人がついた。二人の通訳がつき一人は「満州」出身の「王」、もうひとりは「李」といった。王は「日本人に兄貴が殺された」といっていた。

 現場の監督となり、通訳を通じて中国人の作業監督に命令を出した。中国人にいつ襲撃されるかもしれないという恐怖のため、常に護身用の刃物を携帯して指示を与えていた。

 中国人と朝鮮人の作業現場は別の場所だった。

 中国人たちは七日分の食料を渡すと六日で食べてしまい「明日の分を渡さなければ仕事に行かない」と要求した。

 ある時、点呼をとると、ズボンの中にマントウを隠している中国人がいた。逃亡するための用意と判断して、かれを宿舎の梁に縛ってぶら下げた。降ろすことを忘れ、ぶら下げられたまま死んでしまったという話を聞いた。

 また、中国人のなかで管理に従わず抵抗した中国人を所長が「日本刀でぶった切る」と騒いだ。周囲がその行為をやめさせたが、「食糧をひとりじめした」「腕力が強かった」ということで中国人が別の場所に移され、「問題解決」した。年輩者が班長となり、「動揺」はなくなったという。

中国人たちは採鉱現場に駆け足で行かされ、日本人の近くになると「イチ・ニ」 「イチ・ニ」「歩調をとれ!」と行軍させられた。

 仁科において、明礬石は上鉱でも四二パーセント程度の含有率だった。軍部は一日一〇〇トン生産の命令を出した。現場では含有率五パーセントのものまで一〇〇トンの割当をこなすために出した。久根鉱山から来た職員が削岩機を導入したが中国人はツルハシによる採掘だった。御殿場線のレールをはずしてインクラインも作られた。しかし仕事の実績はあがらなかったという(仁科にて、一九九〇年談)。

 連行は中国人内部にも対立をもたらした。このような対立を作りあげることによって日本の支配が貫徹されていった。中国人の死因は「栄養失調」、「大腸カタル」と記されているが、その中には抵抗し虐待された人間の死が必ずあるとみるべきだろう。日本人の管理者に悪と思われる行為も中国人たちにとっては生存をかけた闘いであったといえる。抵抗する者を虐待し転送することで、戦線鉱業の「秩序」は保たれた。しかし、それは収奪と支配の安定であり、その安定は中国人の葬列なき死体の増加と放置をもたらしていった。

後藤たまゑさん(一九一八年生)によれば、土地を安く買いたたかれ、戦線鉱業に奪われたという。かの女のつれあいは戦線鉱業の用度係に採用された。周辺に二五〇人ほどの朝鮮人が居住した。はじめは単身だったが家族を呼んだ人もいたようだ。当時は「半島の人」と呼んでいた。当時木炭車のトラックも使われていた。白川道は拡張され、鉱物を港へと運んだ。架線工事を行って鉱石を移動させる計画もあったようだ(仁科にて、一九九〇年談)。                          

 朝鮮人飯場が建ち並んでいた白川川の対面に居住する武さよさん(一九一八年生)によれば、飯場は河原の上の現在では田となっている所の上部に建設され、付近一帯は全て飯場になったという。八月一五日の敗戦時、「女の人は襲われる。危い」といわれ、息子を二人連れて営林署の官舎の方へ逃げた事があったという。戦線鉱業の「島沢」と名のる管理幹部が宿泊に来たりした。かの女は戦線鉱業の車庫の横に毛布にくるめられ、死体のまま放置され捨てられている中国人の姿を見たという(仁科にて、一九九〇年談)。

東京都中央区銀座の東京華僑総会・東華教育文化交流財団には中国人強制連行に関する史料が保存されている。この華僑総会の史料のなかには静岡県内の連行先である峰之沢、清水港運業会、熊谷組富士、宇久須鉱山、戦線鉱業仁科鉱山の事業場報告書がある。これらの報告書は各事業所が戦後、外務省による調査にともない提出したものである。花岡鉱山での中国人蜂起とそれへの弾圧を占領軍が知ることになり、各事業所関係者は戦争犯罪追求がみずからに及ぶことをおそれた。このような状況下で作成した報告書であるため、中国人は「契約」によって就労したと強調し、中国人捕虜への虐待については隠されている。しかし、これらの史料から連行状況の一端を知ることができる。

 中国人は一九四四年一二月末に中国の塘沾の港を出、一月はじめ戦線鉱業仁科鉱山へと強制連行された。連行途中、船中で二〇人、車中で二人の計二二人が死亡、連行直後の一月に二二人、二月に二一人、三月に七人が死亡している。

 連行された中国人の出身地をみると、河北省?県、寧河県、豊潤県、固安県、天津市ほかである。戦線鉱業へ連行された集団は峰之沢鉱山へと連行された集団と同じ時期に運ばれている。連行された人々は抗日戦争での捕虜や河北省での労工狩りによってかりあつめられた人々であった。塘沾北砲台の強制収容所での虐待にのちに連行された人々は衰弱していた。そのことが連行過程と連行直後の大量の死亡につながった。抵抗して殺された人もいただろう。

 中国人の四月の死者は三人、五月は四人と連行直後とくらべると減っているが、六月に入ると死者は一二人へと増加した。その後の死者をみると七月は五人、八月は七人、一〇月は一人である。死者の合計は一〇四人となり、連行者の半数以上が死亡した。戦線鉱業での強制労働、虐待、劣悪な食糧事情のため、かれらは絶滅にむかう状況へとおいこまれた。逃走して抵抗する朝鮮人の増加、連行された仲間がつぎつぎに倒れ死んでいくなかで抵抗が組織された。

 この抵抗がとりくまれた時期は花岡鉱山で中国人が蜂起していった時期に近い.抗日兵士・共産党員を中心とした中国人リーダー八人が六月二四日に検挙され、松崎署へ投獄された。投獄された八人は八・一五解放後、清水へと転送された。

 戦線鉱業が戦後作成した事業場報告書のなかに「華人労務者幹部組織図」がある。中国人たちは約三〇名で一班、約六〇名で一小隊を形成させられていた。鉱山側は以下のように中国人を組織化して強制労働させていた(戦線鉱業仁科鉱山分・東京華僑総会所蔵)。

旧組織(一九四五年一月七日〜六月二二日)

(隊長)●宋宝珍、(現場通訳)揚希齢、

本部付(副隊長・通訳)●王忠郷、(炊事長)●?孟新、(医師)李雅中、(書記)●張文泉、

(第一小隊長)●曽守山(第一班長)、●劉志序、(第二班長)●王老趙

(第二小隊長)●張殿甲、(第三班長) 、王克郷、(第四班長) 張瑞生

(第三小隊長) 李慶先、(第五班長) 陳立庚、(第六班長)李國珍  

 検挙されたのは、宋宝珍・王忠郷・?孟新・張文泉・曽守山・張殿甲・劉志序・王老趙であり(旧組織図内●印)、かれらは隊長・副隊長・炊事長・書記・隊長・班長という指導的立場にあった。この検挙状況から抵抗闘争が組織的・集団的にとりくまれていったことがわかる。弾圧後の組織はつぎのようになった。

新組織(一九四五年六月二四日〜一二月)

(隊長)張瑞生、(通訳) 揚希齢

本部付(医師・書記)李雅中、(炊事長) 陳立庚

(第一班長)李慶先、(第二班長) 王克郷、(第三班長) 李國珍

華北労工協会理事長趙h、戦線鉱業(株)仁科鉱業所宮崎益歡、鉱山統制会勤労部鋼澤利平によってかわされた「契約書」が残されている。この書類は強制連行という戦争犯罪を隠蔽するために日本政府が「契約労働者」の形式を組織的につくりあげたことを示している。

 張文泉さんの証言は仁科鉱山へと連行された中国人の決起の状況があきらかにするものである(何天義編『日軍槍刺下的中国労工』四 新華出版社刊所収)。

「事業場報告書」(東京華僑総会蔵)から、虐待と酷使のなかでの抵抗により、八人が検挙されたことはでわかるが、書記の張文泉さんの証言によって、中国での収容所、連行状況、仁科での決起と弾圧、解放後の状況などを知ることができる。証言は日本語訳(私訳)で三〇〇字稿三五枚分となるが、ここでは要約して紹介したい。

 張文泉さんは一九四三年一月、荊県(現天津市内)で抗日ビラを配布したため検挙され、軍事裁判で四年の刑をうけ北京の臨時監獄へ入れられた。 一九四四年一〇月中旬(旧暦)、列車で塘沾の収容所へ送られた。塘沾収容所には一二〇〇人余が収容され、周囲には電気鉄条網がはられ、塔にはサーチライトと機関銃をそなえて監視していた。寒冷な土地であるのに毛布は二人に一枚しかなく、食事量は少なく、水が欠乏した。人々は雪を食べたり尿水を飲まざるをえなかった。多くの人々が病に倒れた。収容所は人間地獄の様相を呈していたが、南棟では蜂起がおきた。リーダーは皆の前で殴打され殺された。

 二〇〇人毎に隊(三中隊)が編成され、一二月に日本へと連行された。王担元はまだ息があったが海へ捨てられた。下関から静岡の仁科へ連行され、アルミ用鉱石の採掘をさせられた。休日はなく、収容所の外からは錠がかけられた。食料は少なく毎日のように死者が出た。死者の名をノートに記録した。

 重労働と酷使のなか、食料の増加をもとめストライキをおこない、再度ストをおこない増量をかちとった。五月五日には要求して死者の追悼会をおこなった。

 六月二三日、仕事中に仲間が足の甲を骨折した。県の病院での治療を求めたが、監視人は拒否した。山麓の鉱山事務所での交渉となり、朝鮮人が支援した。仲間たちは「私たちを人として扱わず、あまりにいじめている。たたかおう」と憤激、宋総隊長や張さんも「時機は熟した、いつかはこうなる」と判断。鉱山事務所を襲撃し、逃げおくれた日本人を殴打、ガラスなどを破壊した。中国人朝鮮人の怒りのなかで、鉱山側は病院送りを認めた。 

 翌日、憲兵隊が親切をよそおい「公正処理」を語って調査、早朝、武装兵に包囲され、警察や憲兵によって一ケ所に集められた。総隊長宋宝貞、書記張文泉、中隊長張殿甲・曽寿山、班長劉志緒・王洛池、食事長?夢新、通訳王忠郷の八人が検挙された。張さんら三人は下田警察、他の五人は松崎警察へと送られた。

 下田がアメリカ軍の空爆にあい、日本人は防空壕へと逃げたが、張さんら三人は牢獄に残された。三人は松崎へと転送され他の五人とともに拘束された。そこで殴打され拷問をうけた。牢獄生活で疥癬になった。王忠郷は日本語がわかり、ラジオニュースから情勢を理解した。

 八月一五日、日本が降伏すると、その日に船で清水へと送られた。一二月汽車で佐世保に行き、仁科の他の仲間と再会した。骨折した仲間はすぐに現場へ帰され、傷口が腐り片足を切断していたことを知った。連行時二〇〇人の総隊は九〇人余りに減っていた。帰国する際、船からかすかにみえる祖国の影にむかい、「ああ祖国よ!私は帰ってきたぞ」とそっと呼びかけた(二七一頁)。

 この証言により、決起は六月二三日であり、八人が八・一五まで拘束され、解放後は清水へと転送されたことがわかる。

一九九四年七月西伊豆町仁科・白川地区へと二人の被連行者(劉蔭郷・?雲志さん)が訪れた。二人は西伊豆町主催の追悼行事に参加、体験を語った。劉蔭郷さんの証言は『二戦?日中国労工口述史』三にも劉恩発証言として収録されている(四三三頁)。同書には呉廷湿証言や李玉閣(李干革)証言もある(四三五頁、四六一頁)。

戦線鉱業への被連行者のうち一九九四年段階で、劉蔭郷(天津漢沽)、劉志序(天津河東)、李千革(天津寧河)、李潤徳(同)、巌万有(天津東麗)、王忠郷(天津南開)、郭勤堂(河北東光鎮)、孫吉林(河北武邑県)、?雲志(河北徐水県)、尹輝(河北?県)、竇永龍(同)、楊朝鳳(河北豊潤県)、王汝珍(河北楽南県)の一三人の生存が確認されている。このなかの王忠郷さんは抵抗し弾圧された人々のひとりである。

一九九四年の追悼行事での証言と当時確認できた生存者の一覧は西伊豆町の冊子で紹介されている(西伊豆町資料)。仁科での中国人死亡者の遺骨送還にかかわってきた酒井郁造さんらは一九九五年夏、西伊豆町長らと中国を訪問、仁科への被連行者の郭勤堂、李干革、李潤徳さんらと会見した。そのときのききとりの内容は酒井さんによる三島市民講座での講演レジュメ(一九九五年)で紹介されている。これらの資料から連行された人々の証言をまとめてみよう。

郭勤堂さんは一九二五年生まれ、東光鎮南関村出身、この村の近くで抗日ゲリラ隊に参加していた。一九四四年、日本軍に逮捕され、約一ヶ月後に天津に連行され、塘沾収容所に入れられた。冬だったので雪を食べたり、自分の尿水を飲んで渇きをしのいだ。船中で四人が重病となり、海へ投げ捨てられた。仁科の山の中に連行され豆で作った曼頭を与えられた。野菜や木の根をほじって食べることもあった。病気でも現場へ行かなければならず、日本人の監督に殴られた。そこで八〇数人が死んだ。一九四五年一一月、配給をもらうため下に下りたとき、朝鮮人から日本の敗戦のニュースを知らされた。そこで、日本人のリーダーの吉田に一、住む建物の提供、二、集団での行動を認めよ、三、仕事を止める、四、早く中国へ帰国させよと要求を出した。これらの要求を出すと少し食物がよくなるなどの変化が現れた。西伊豆を出るとき現地の人が見送りをしてくれた。日本の帝国主義は憎むが日本人民はそうではない、中日両国の友好を希望する。

?雲志さんは河北省東光県の出身、保定市徐水県在住。一六歳で東光県の遊撃隊に参加した。一九四四年一一月ころ、町を歩いていたときに日本軍に捕えられた。尋問され、塘沾収容所に送られた。そこからに日本に送られ、下関に上陸した。汽車で沼津まで送られ、そこから船で仁科のちかくまで行った。港からトラックで山に行った。?さんは若かったので、食事を作る仕事に回された。ある人は食料を盗んだと柱に逆さにつるされた。食糧不足で衰弱して死んだ人が多かった。帰国後は解放軍に加わって新中国成立のために働いた。

劉蔭郷(劉恩発)さんは天津市漢沽区営城鎮在住、一九四四年旧暦九月二一日、親戚を訪ねる途中で、日本憲兵隊に捕えられた。施設に連行され、その後塘沾収容所に送られた。収容所は不衛生で水もなく自分の小便まで飲んで渇きを癒すという状態だった。四〇〇人が乗船したが、船中で抵抗や不安で食事が取れなくなり二〇人が亡くなった。日本につくと窓のない汽車に乗せられて沼津に行き、そこから船で西伊豆に送られた。宿舎は木の皮で屋根を葺いたもので、板敷きの上の藁を敷き、角材の枕で寝た。周囲は垣根で囲われ、巡査が人数を確認した。採掘現場まで四キロほどを歩いた。毎日木の根や土を掘り運んだ。食事は大豆かすや糠の饅頭で、量が少なく腹が減った。骨と皮ばかりのようになり、病気になった。治療が不十分なため仲間が死んでいった。趙連賀は劉さんの手をとり、高粱の粥がほしいといって亡くなった。営城鎮の李廷貴は傷口に蛆が満ち溢れたため、劉さんがそれを取り除いた。李さんは帰国してすぐに亡くなった。劉さんたちは戦争が終わると、アメリカの船に乗り故郷に帰った。

呉廷湿さんは固安県李各庄出身、一九四四年旧暦一〇月に日本軍の労工狩りに会い、一三ヶ月の非人間的な生活を体験した。ともに捕らえられた村人は呉秀峰、呉景善、呉景沢など九人いたが、そのうち六人が死亡した。日本軍の兵舎から北京を経て天津の塘沾収容所に送られた。収容所の周囲には電流が流され塔には実弾をこめた兵士が見張っていた。逃亡しようとすると殺された。水がなく、尿水を飲んだ。呉さんら三二人が大部屋に押し込められ、二一日間収容された。仁科に連行されると朝6時に起こされ、鉱石を掘らされた。出された豆の餅は消化が悪く、多くの人々が腹を悪くした。病気になることは死を意味した。ともに連行された呉秀峰は腹を悪くして死亡し、仲のよかった宋克己も亡くなった。日本の無条件降伏によって、呉さんは同村の三人とともに故郷に帰った。

李千革(李玉閣)さんは天津市寧河県東棘?郷王洪庄の農村に在住、当時この一帯は解放区だった。一九四四年に北塘で日本軍に捕らえられて尋問され、塘沾新港の収容所に送られた。飢えと寒さのなかで無力になっていったが、八路軍幹部によって組織された新港の暴動に四〇〇人とともに参加した。逃亡できた人はわずかだった。日本兵に殺された人々は塘沾の万人坑に埋められた。四〇〇人ほどが乗船し日本に送られた。下関に着くと体を洗われ、服も消毒された。仁科では日本人監督が一挙一動を監視、逃亡を防ぐため、朝昼夜と点呼され、強制労働に従事させられた。病棟に入れられると生きて戻れなかった。仁科で寧河県東塘?の李永年も亡くなった。敗戦のニュースを聞き、三日後には現場に行かなくなった。強制労働によって両手の骨は変形し、両脚の関節は炎症をおこし、凍傷にもなった。生き残った仲間と天津に帰ったが、鉱山で足を悪くしたため、農作業はできなかった。妻は李さんが連行されて毎日泣いてばかりいたため、目が悪くなった。二〇〇一年、李さんは新聞記者に一九九六年の静岡県日中友好協会の人々からの年賀状を示し、九五年に訪問があり、友好の握手を交わしたことを語っている。

李潤徳さんは寧河県大卒郷大月河村に住む。李さんは寧河県の市場で逮捕され、天津に送られた。日本に送られる船内は食物がなく空腹だった。仁科に山の中も食物がなかった。連行された人のなかに医者もいたが、彼は一緒に帰国しなかった。帰国後は人民解放軍に入り、その後農業に従事し、会社に勤めたこともある。李潤徳さんは擦り切れた『華人労働従事證』を保管している。そこには、滞在と連行先での労働を許可する静岡県知事の印もある。

『華人労働従事證』については地崎組が連行した中国人のものが『中国人強制連行・暗闇の記録』に掲載されている(四六頁)。これを見ると北海道知事が滞在と労働を許可している。山口県の入国印の下には種痘やパラチフスの注射済の印がある。

また北海道炭鉱汽船平和炭鉱に連行された中国人のものが北海道大学北方資料室にある。それを見ると、在塘沾日本領事館領事の証明印があり、華北労工協会労工證として発證されている。中央には山口県への入国印がある。本人の原籍や氏名・顔写真・残留家族責任者などが記されている。

この労働証明書は、捕虜や日本軍が駆り集めた人々を「労働者」としてでっちあげて連行していったことを示すものであり、国や企業だけでなく、県が就労を承認する形で関与していたことを示すものである。また、連行された人々の家族の連絡先が掌握されていたこともわかる。

仁科に連行された李鉄山さんの証言がある(小池善之「強制連行された中国人その一証言編静岡県の事例」所収)。

李さんは定県出身、一九四四年の晩秋に辛李庄で逮捕された。定県の憲兵隊に連行され、木の檻に入れられ、三週間ほどして塘沾収容所に送られた。仁科での食事が悪く、労働量が多く重労働だったため、多くの人が亡くなった。李さんは若かったため山で木を集める仕事をした。一度病気になったときには、隊長が配慮を加え、仕事を受付だけにしてくれた。当時病気になってよくなる人はいなかった。病棟に行っても治療はなく食事をへらされ、死ぬだけだった。鉱山で大きな石が中国人の足に当たり大怪我をした事故があった。中国には骨の復元の方法があるのに、監督の吉田は足を切断するといった。中国人は吉田を殴り、治療を求めてストライキに入った。憲兵隊が来てリーダーたちを逮捕した。帰国の際には汽車賃だけをもらったが、天津で両替をしてもそれほど価値はなかった。当時は亡国奴隷であり、蚊を殺すように命が扱われた。日本人はどんどん殴った。連行されると家族は物乞いまでして生活してきた。李さんはいま、杖と介添えがないと歩けない。

一九四五年六月、連行された中国人たちは絶滅を強いられる労働状況下、仲間の治療と自らの解放にむけての抵抗を組織していった。強制連行とその下での抵抗の歴史は日本帝国主義の戦争犯罪を告発しつづけている。また連行によって家族は塗炭の苦しみを背負い、帰国できた人々も多くの後遺症に悩まされた。

以上が連行された中国人の証言である。

戦線鉱業での中国人の抵抗を静岡県の近現代史における抵抗の歴史として語りつぐことができればと思う。

 『静岡県中国人俘虜殉難者慰霊報告書』(同実行委員会)に収録された堤傅平仁科村長の弔辞をみてみよう。この弔辞は一九五四年に慰霊祭において読まれたものである。

弔辞は、中国人一〇四人を「英霊」とし、「諸君コソ興亜殉難ノ戦士」と位置づけ、「東亜民族解放ノ理想」のために「殉難」したとする、死因を集団赤痢とし、「鉱石ノ発掘二従事」したことを「当時ノ日本人トシテ感謝」するというものであった。強制連行・強制労働についての歴史認識は示されず、暴力的な労務管理支配や少量の食糧という虐待についても触れられず、その責任についても語られてはいない。

 この弔辞は強制連行を現地でうけ入れていた意識のありようを示すとともに、戦後九年後も絶えることなく天皇制下の臣民観念である英霊思想が存在していたことを示している。慰霊実行委員会の代表久保田豊の弔辞での発言は、この弔辞とは異なり、軍国主義の国民的責任を問いつつ謝罪し、アジアで再び戦争の惨禍をくり返さないという決意をのべるものである。

一九九五年に中国を訪問した山本勤也西伊豆町長は、日本の侵略と強制連行という罪を犯したことを詫び、過ちを犯さないために殉難中国人慰霊碑を建てて今年が二〇周年になることをつたえた(「日中ふれあい通信」二八号静岡県日中友好協会一九九六年五月号記事)。  

戦線鉱業の跡を残すものは少ない。山神があり、営林署によれば赤川林道から赤沢歩道を上っていくと火薬庫・採鉱場跡・ケーブル跡があるという。戦線鉱業事務所跡地に一九七六年に建てられた「中国人殉難者慰霊碑」がある。この碑の建設経過については静岡県賀茂郡西伊豆町の中国人慰霊碑建立実行委員会が一九七六年に発行した『鎮魂』に記されている。碑文には、中国人強制連行について記され、戦争を反省し、子々孫々に至るまでの日中友好の誓いを固めることが記されている。

ところでこの中国人殉難者慰雲碑完成記念誌『鎮魂』には朝鮮人強制連行については記されていない。強制連行された朝鮮人に対して、責任と謝罪を示す動きは形成されなかった。朝鮮人強制連行の事実は隠蔽され、その行為への清算はとられなかった。

以上、伊豆の鉱山における朝鮮人強制連行・強制労働について記した。静岡県下の伊豆鉱山以外の調査報告については今後の課題であり、伊豆鉱山の実態についても不十分な点が多く、踏査を重ねていくことが課題である。