長崎・崎戸の旅        048

長崎県の北西に崎戸島がある。ここにはかつて長崎最大の炭鉱があり、年100万トンを超える出炭があった。今では横にある大島に橋が架かり、島に車で行くことができる。ここは、かつて高島・端島と並んで「鬼が島」と呼ばれ、朝鮮人・中国人が強制連行されたところでもある。今では過疎化し、リゾート地として観光化がすすめられ、道には「いやしの島」と記された看板がある。

 崎戸炭鉱は20世紀はじめの1907年から、九州炭鉱汽船の経営により採掘が本格化した。当初からこの炭鉱の販売と融資に三菱が関与し、1911年には三菱が九州炭鉱汽船の株の半分を所有、販売権を独占し、1940年に三菱がこの炭鉱を所有することになる。三菱にとってこの炭鉱は、北海道の美唄に次いで出炭のある炭鉱であり、九州での三菱系炭鉱では最大のものであった。

 福浦地区には炭鉱記念公園があり、歴史民俗資料館がある。3坑であった福浦坑の周辺に炭鉱の廃屋がみえる。1坑は蠣浦に、2坑は浅浦にあった。公園には炭鉱跡の碑がある。そこには1907年から1968年なでの経過が記されているが、労働者についてはその数が7500人を超えたとあるだけであり、それ以外には労働者のことは記されてはいない。公園には労働者を示す「活力」という像(1989年)があり、公園の入り口には坑口がある。

 崎戸炭鉱については、1980年代末の長崎在日朝鮮人の人権を守る会の調査『原爆と朝鮮人5』、林えいだい『死者への手紙』などがある。これらの調査の中で崎戸町の埋火葬関係資料が発見され、1940年以降の朝鮮人死亡者名がわかっている。また連行朝鮮人の名簿には崎戸関連の名簿もある。この名簿には事業所名がなかったのだが、崎戸町の朝鮮人死亡者名簿と照らし合わせてみて、この名簿が崎戸のものであることがわかった。

最近では、連行された中国人が裁判をおこしてその責任を追及している。連行された中国人はここで抵抗して、長崎刑務所へと送られ被爆死している。

崎戸には何人の朝鮮人が連行されたのであろうか。史料をみると、1942年6月までにすでに2058人が連行されている。この6月から1943年の4月までに現在員数で1600人の増加があるから、2000人以上がこの間に連行されたといえるだろう。石炭統制会の史料から、1943年4月から1944年10月までに約1700人が連行されたことがわかるから、1944年末までに5700人以上が連行されたということができる。その後の連行者数の存在を考えると、崎戸炭鉱は6000人以上の朝鮮人連行があったところといっていいだろう。

このように連行者数を考えてみると、この崎戸炭鉱は戦時下、三菱鉱業傘下では最大規模の朝鮮人連行先であったことになり、長崎県内では三菱長崎造船とともに最も多く朝鮮人を使用していたところとなる。

歴史を見ていくと1930年4月に浅浦坑で朝鮮人労働者100人が、人繰りによる殴打を契機に事務所に乱入する事件が起きている。1933年にはガス爆発事故が起きて44人が死亡しているが、そのうち9人が朝鮮人であった。なかにはそのとき死亡し、遺骨が戦後も残されたままの人もいた。また、性の奴隷とされた女性たちもたくさんこの島にいた。

死亡者はその後続出する。連行期の朝鮮人坑夫とみられる死者数は約130人である。炭鉱は朝鮮人から拠出させて鳥居をつくらせている。

落盤で数十トンのボタが落ちると坑夫はペシャンコになり、掘り出すと同時にぶくぶくと膨れあがったという。死に直面し、捕まってのリンチを恐れることなく、自由を求めての逃走は絶えなかった。

天見には朝鮮人寮があった。かつての天見の労働者社宅地は一軒だけが残り、朝鮮人寮(啓天寮)はない。社宅跡には礎石と井戸だけが夏草におおわれていた。福浦の炭鉱跡のレンガ造りの煙突の上には廃坑後30年余を経て大きな草が生えていた。新しいものは無断進入を禁じる三菱マテリアルの看板だった。

戦後60年を迎える今日、当時の状況を語ることのできる人は少ない。浅浦で出会った老女は寮や神社のことをよく知っていた。もう10年経てば、当時のことを語る人はいなくなるだろう。崎戸の教育委員会の事務所に立ち寄ると、閲覧用の書架に行政関連のチラシとともに、つくる会の『公民』教科書が置かれていた。記されてこなかった労働者、性的奴隷や強制労働の歴史、展示されていく歴史修正主義者の書籍。

観光案内には「サンサンとふりそそぐ・キラキラと舞いおどる・ヒラヒラと夢のせて・ピチピチと崎戸町」「小さな町の大きな感動」とある。この地に生きた労働者の歴史、朝鮮人・中国人のことなどが捨象されて語られる「いやし」「夢」。だが、たいせつなものは一人ひとりの労働の歴史であり、それを大切にするところから、ほんとうのいやしや夢が育っていくのではないか、人の心を変える感動があるのではないか、そんなふうに思った。

                                   (竹)