1 静岡県での戦時強制労働

 

一 研究経過

 

以下は、戦争下の静岡県での朝鮮人の強制連行・強制労働についての研究と調査をまとめたものである。

朝鮮人強制連行とは、一九三九年から四五年にかけて日本の戦争への総動員態勢のもとで、労務や軍務へと朝鮮人を動員したことをいう。中国への全面侵略戦争が始まると、朝鮮人の労働力動員が計画された。国民徴用令が公布され、そのもとでの労務動員によって、朝鮮半島から一九三九年当初は「募集」、一九四二年には「官斡旋」、さらに一九四四年には「徴用」の適用という形で連行がおこなわれた。それらの動員は「皇民化」政策とともにすすめられ、現地では甘言や詐欺を含む強制的な連行となった。連行された現場では監視と体刑をともなう労務管理がおこなわれた。そこは強制労働の現場であり、自由も求めての逃走者が続出した。軍人や軍属とされて連行された人々もいた。かれらにとって逃走は処刑の対象にもなった。性の奴隷とされた女性たちもいた。多くの人々が、日本のみならずアジア各地へと連行された。日本への連行者数は労務・軍務を含めて百万人以上とみられる。「皇民化」政策は精神を奴隷化し、朝鮮人を日本人に仕立てて戦争に動員するものであった。総力戦態勢は植民地から労働奴隷の連行をすすめていったのである。

朝鮮人の強制連行・強制労働は県下では、伊豆や奥天竜の鉱山・各地の軍事飛行場・軍工場・地下工場建設・発電工事現場などでおこなわれ、連行先は県内五〇箇所以上、連行者数は一万五千人を超える。また、中国人も五箇所に一二六〇人が連行された。

この調査をはじめたのは一九八〇年代の後半だった。その当時、資料としてはいくつかの現地調査報告、自治体史などでの数行の記事、中央協和会史料、「特高月報」や「社会運動の状況」などの史料、新聞記事しかなかった。研究は年表づくりからはじめた。

一九九〇年に県内の現地調査を重ねた。この調査と史料収集をふまえて、一九九〇年末に「静岡県下の強制連行・強制労働について・文献紹介」を記した。そのときまでの静岡の強制労働に関する主な調査記録としては、加藤善夫「静岡県における中国人強制連行事件」、静岡県地理教育研究会『富士川の変貌と住民』、同『よみがえれ大井川』、県立松崎高校郷土研究部「戦時中のアルミニウム鉱山について」、小長谷澄子「静岡の遊郭二丁町(四)」、沢田猛・永井大介「奥天竜における朝鮮人強制連行」、枝村三郎「静岡県における戦前戦中の在日朝鮮人の労働争議等」、金浩「日本軽金属による富士川発電工事と朝鮮人労働者動員」、鄭鴻永「故郷に向いて建つ無縁供養塔」(『地下工場と朝鮮人強制連行』)などがあった。

一九九〇年に名古屋でもたれた強制連行強制労働を考える全国集会に参加した。一九九一年四月、県内での強制連行の調査の必要性と調査団体の結成がすすみ、この年の一二月、県内の歴史研究者や市民運動者、在日コリアンが参加して「静岡県の朝鮮人強制連行を記録する会」が結成された。記録する会は、証言の会や奥天竜の鉱山・大井航空隊跡・清水軍需工場・掛川地下工場跡・静岡二丁町跡などのフィールドワークを開催した。一九九二年には掛川市に対して中島飛行機地下工場の調査と保存を要請した。

一九九〇年代には県内での調査活動もすすみ、県内の強制連行強制労働について言及したものが多く発刊された。会の活動をすすめるなかで、韓国政府の要請をふまえて厚生省勤労局名簿が発見され、そのなかに静岡分もあることもわかった。

この調査期間の中で記されたものあげれば、『静岡県史』の資料編や通史、海野福寿・小池善之「鉱山における強制連行朝鮮人」、小池善之「統計よりみた静岡県在留朝鮮人の歴史的状況」、同「戦時下朝鮮人女性の動員」、同「強制連行された中国人その一証言編 静岡県の事例」、同「『厚生省調査報告書』と朝鮮人強制連行」、静岡県朝鮮人歴史研究会『朝鮮人強制連行の傷跡 静岡県編』、朴聖澤「私の徴用体験と戦後静岡の朝鮮人運動」、小屋正文・小林大治郎・土居和江『明日までつづく物語』、松本芳徳『大井海軍航空隊』、『三島にも戦争があった中島飛行機三島工場〜地下工場建設と朝鮮人の強制労働』、志太榛原の戦争を記録する会『わたしたちの街にも戦争があった』、静岡県近代史研究会『史跡が語る静岡の一五戦争』、静岡県地域史教育研究会『静岡県民衆の歴史を掘る』などがある。

また、一九九七年には記録する会の要請を受ける形で、掛川市が『掛川市における戦時下の地下軍需工場の建設と朝鮮人の労働に関する調査報告書』を発刊した。

記録する会の活動は一九九七年頃までつづくが、九七年、東京麻糸紡績沼津工場に連行された朝鮮人女子勤労挺身隊裁判がはじまった。そのなかで「東京麻糸紡績沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊裁判を支援する会」が結成され、記録する会の活動力は支援する会に移行し、記録する会自体の活動は停止した。この裁判のなかで朝鮮人女子勤労挺身隊関係の事実があきらかになり、裁判の準備書面に取り入れられた。それらは支援する会の『朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟関係資料集』などの冊子として発刊された。

このような活動に参加するなかで、一九九〇年代はじめから静岡県近代史研究会の会誌・会報などに県内の強制労働関係の調査報告を記した。会誌には「伊豆鉱山と朝鮮人強制連行」、「戦時下の地下工場・飛行場建設と朝鮮労働者動員」、「久根・峰之沢鉱山と朝鮮人強制連行」、「大井川電源開発と朝鮮人動員」、「静岡県の特攻基地建設」などを記し、会報には「『地のさざめごと』のなかの従軍慰安婦」、「大井海軍航空隊『専用』慰安所について」、「静岡県へと連行された朝鮮人兵士李仁浩さんの証言から」、「共立水産工業大場工場への朝鮮人強制連行」、「日本鉱業峰之沢鉱山『華人労務者就労顛末報告書』(抄)」、「戦線鉱業仁科鉱山での中国人の抵抗と弾圧一九四五年六月」「一九四五年六月二三日戦線鉱業仁科鉱山での中国人の決起・張文泉証言から」「清水港へ連行された中国人李鳳泰の証言」「浜松の陸軍飛行学校のアジア爆撃と戦争末期の軍地下壕などの戦争史跡について」、「静岡の戦争〜朴洋采さんと趙貴連さんの証言から」などを記し、他誌に「中島飛行機原谷地下工場について」、「日本鉱業尾小屋鉱山への朝鮮人強制連行」を記した。また、朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 中部東海編』の静岡県分を担当し執筆した。

このようなかたちでこれまで発表した報告を、静岡県での強制労働の概説、伊豆の金山、伊豆の明礬石鉱山、久根・峰之沢鉱山、大井川電源開発、清水の軍需工場港湾、東京麻糸沼津工場、浜松軍需工場と疎開、地下工場建設、軍飛行場建設、伊豆特攻基地建設、軍人軍属・性的奴隷の一二章に再構成した。再構成するなかで静岡県の強制労働について記された諸研究の成果を組み込み、その実態があきらかになるように試みた。

県内の調査をすすめるなかで、全国的な連行状況をあきらかにする必要性を感じた。その第一歩として一九九六年に中部地域の地図と一覧をつくり、一九九七年に「強制連行全国地図」を作成した。また全国各地の連行状況や財閥による連行状況、死亡者の名簿なども調査し、二〇〇五年には「朝鮮人強制労働現場全国一覧表」を作成した。二〇〇七年には「朝鮮人強制連行期死亡者名簿」も作成した。これらの全国的な調査の報告については二〇〇七年に『戦時朝鮮人強制連行調査資料集』の形で公刊した。

一九九〇年頃、調査のなかで戦時下の強制労働の調査活動が天皇制国家の戦争責任を問い、アジア民衆との連帯にむけてのものであり、天皇制国家による徴兵・徴用という人間の動員と生命の収奪を記録することは、その歴史を総括し清算していくためのものと考えた。天皇代替わりのなかで主権と戦争責任が問われていたときに調査したため、強くそのことを感じた。

二〇〇〇年に入って過去の戦争と植民地支配を肯定する動きが強まってきたが、戦争と植民地支配を肯定するのではなく、誤りとして反省すべきと思う。この反省のうえに東アジアの民衆の友好や平和がある。戦時下、奴隷的労働を強いられた人の側から歴史をみつめて捉えなおし、人間の尊厳を侵すことを繰り返してはならないと思う。過去の清算は終わってはいない。戦時の強制労働の歴史の記憶を継承し、社会化していく表現が求められていると思う。この静岡編の論集はその一つの試みである。

静岡県下には強制連行の足跡を示し、天皇制国家の植民地支配の責任、戦争責任を問いつづける史跡が数多く残されている。そこには連行された人々の血と汗と涙、自由と解放への想いが結晶している。これらの史跡は私たちにむかって歴史認識のありようを問い、歴史への想像力を喚起しつづけていると思う。

 

二 朝鮮人の連行先と連行者数

静岡県内各地での強制労働の状況を記していくにあたり、はじめに静岡県の連行先、連行者数、統制と抵抗の状況、帰国の状況をみておきたい。

 

連行先

静岡県内に在留していた朝鮮人の数をみると、一九二〇年には一五〇人ほどであった。一九二三年には一四〇〇人をこえ、一九三二年には五二〇〇人、一九三七年には六七〇〇人ほどであったが、一九三九年に連行がはじまると一万二〇〇〇人と倍増していった。

 一九二〇年代から三〇年代にかけての県内の朝鮮人の就労先を『静岡新報』『静岡民友新聞』などの当時の新聞記事からみると、鉄道、発電、道路、埋立、水道、軍事基地などの土木建設、港湾荷役、鉱山、紡績・製糸工場、料理店などに就労している。

一九三九年以降の連行先についてみてみよう。一九四二年六月段階での、朝鮮人の連行先とその数を示す史料としては中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」がある。

この史料から、静岡県分の強制連行先をあげると、

鉱業では、日本鉱業兜之沢鉱山(磐田郡龍山村)、日鉱渇ヘ津鉱山(賀茂郡稲生沢村)、土肥金山鞄y肥鉱山(田方郡土肥町)、縄地鉱山〔高根鉱業所〕(賀茂郡白浜村)、古河合名久根鉱業所(磐田郡佐久間村)、中外鉱業且揄z鉱山(田方郡上狩野村)、長尾炭礦(榛原郡中川根村)、土建業では、西松組兜x士川第二出張所(庵原郡松野村)、飛島組兜x士川第二出張所(庵原郡富士川町)、大倉土木且ナ川出張所(庵原郡内房村)、大倉土木鞄本坂作業所(志太郡東益津村)、大倉土木鞄ソ山出張所(志太郡徳山村)、滑ヤ組日発久野脇発電所工事(榛原郡中川根村)、軍需工場では、東京麻糸紡績沼津工場(駿東郡大岡村)、日本軽金属梶i庵原郡富士川村)、港湾業では蒲髣^商店(清水市)などがある。

一九四二年の中央協和会の『協和事業年鑑』には一九四〇年当時の「労務者訓練所開設状況」の記述がある(二一七〜二一八頁)。そこには、東京麻糸沼津工場、大倉組芝川作某所・下稲子作業所、鈴与商店、間組中川根作業所、久根鉱業所での状況が記されている。

 連行先と数を示す史料としては、一九四六年の厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」がある。これは戦後に集約されたものであり、すべてではないが連行企業と連行者数が判明する。この史料から強制連行とみられる事業所をあげるとつぎのようになる。

日本鉱業河津鉱山 日本鉱業峰之沢鉱山 古河鉱業久根鉱山 中外鉱業持越鉱山 土肥鉱業 湯ヶ島鉱山 戦線鉱業仁科鉱山 宇久須鉱山 間組日発久野脇発電工事 大倉土木日発久野脇発電工事 大倉土木日本坂トンネル工事 運輸省熱海地方施設部 清水港運送 黒崎窯業清水工場 豊年製油清水工場 日本鋼管清水造船所 日通静岡支店 日通浜松支店 鈴木織機 東京麻糸紡績沼津工場 共立水産工業 土屋組 中村組

『特高月報』などの権力側の史料にもいくつかの連行先と連行者数が判明する。

 これらの史料から、一九三九年以降、県内で朝鮮人が強制連行された場所を集約すると三〇ヵ所ほどとなる。これ以外にも軍事基地や地下工場建設、軍人軍属などで朝鮮人が動員されている。それらの現場を含めれば県内で朝鮮人が強制動員された現場は五〇ヵ所以上になる。

 

連行者数

「募集」

強制連行がはじまると、静岡県では一九三九年に九八五〇人余りであった朝鮮人は一九四〇年には一万五七〇〇人をこえ、一九四四年には二万二〇〇〇人をこえていった。

一九三九年の数字をみてみれば、鉱山においては県下には一一〇人が連行されるが、一九四〇年末までに四二人が去る。四二人のうち、逃亡が一九人、本国送還が二一人、自己都合帰国が二人であった。土建関係では一五〇〇人が認可され、一九三九年に八〇〇人、一九四〇年に六八六人が連行される。一四八六人の連行者のうち、逃亡二一三人、本国送還四六人、自己都合による帰国が四五人であり、一九四〇年末の残留者は一一八二人である(「社会運動の状況」一九四〇年、『集成』四 四七四頁)。

 県下へと鉱山・土建あわせて一五九六人が連行されたが、一九四〇年末の減員は計三四六人だった。この段階で五人に一人が減員している。労働者の抵抗は逃走したり、改善を求めて争議に入ることなどさまざまな形でおこなわれていった。

一九四一年の県下の強制連行の特徴は逃走者の増加である。一九四一年度に連行されたのは三四〇八人であったが、逃走者は一四〇三人にのぼる。三人に一人が逃亡したのだった。発見されたのは二〇三人である。さらに「不良」「病弱」にともなう送還者は一五四人あり、減員数は一八五一人であった。

さらに争議への参加者は就労者二〇五六人のうち四二五人であり、五人に一人が争議行為に参加していた(「社会運動の状況」一九四一年『集成』四所収、七〇四頁、七一〇頁)。争議の多くは「慰留」によって「解決」しているが、労働者の要求はとり入れられざるをえなかったのではないか。連行は逃亡と争議という反撃にあった。

 逃亡者が激増するなかで、政府は朝鮮人管理のために、協和会員章所持の全国一斉調査をおこなった。

 静岡県内では一九四二年八月一五日〜九月三日までの約半月の調査において六六七五人が取り調べられた。無所持は三三一人である。この三三一人のうち逃亡者と判明したのは三五人だけだった。本国への送還は四人、八人が元の職場へ送りかえされた。二四六人の労働者に対しては就労させて会員章を交付するという手続きをとった。七五人は照会中となっている。(「協和会員章無所侍者の一斉調査並に措置状況」『社会運動の状況』一九四二年『集成』四 九三五頁)。

 

「斡旋」

一九四二年、「募集」という形の連行政策の失敗、労働力確保の破綻にともない実施されたのが「斡旋」という名の連行であった。一九四二年末までの時点で、県下へと「募集」され、連行された労働者は四五八九人であり、他県から三二六人が「転送」され、計四九一五人となった。このうち、逃亡は一九五一人、「不良」送還は一〇一人、期間満了帰国は七四二人(その他一〇一人)であり、減員数は二八七六人におよぶ。残っているのは一三二〇人という状態だった(「社会運動の状況」一九四二年『集成』四 九二二頁)。日本労働者が徴兵にともなって不足する労働力を、朝鮮人の連行によって確保しようとするもくろみは破綻しつつあった。

「募集」連行者は一九四三年末をみれば、県内へと四五八九人が連行されたが、二三五八人が逃亡し、九三四人が期間満了帰国、他県転出が九二二人であり、現場に残っているのは六〇三人という状態になる(「朝鮮人運動の状況」一九四四年二月分『集成』五 三五三頁)。

さらに、一九四二年には県内で「斡旋」によって九〇〇人の連行が承認され、六九二人が連行された。このうち逃亡が二六人あり、発見された者はいない。「斡旋」者は静岡県下一九四三年六月末までに、一二三四人(内逃走二六五人)、一二月末までに一五六五人(内逃走五七二人)であり、六月から一二月までに三〇〇人以上が逃走した。半年間で連行した人員相当分が逃走するという状態であった。「斡旋」者数の変化については「社会運動の状況」「特高月報」による(『集成』四 八九四頁、『同』五 二一五頁、三五六頁)。

『特高月報』から一九四三年までの静岡県への募集と斡旋の連行者を合計すると、六五三一人(内訳、募集四五八九入、転入三七七人、斡旋一五六五人)が連行されたことになる。これに、呼び寄せ家族(一九四三年末までに五〇六人)を加えると七〇〇〇人を超える連行者数となる。

また、この一九四二年の一〇月には、在日朝鮮人の軍属徴用として海軍直轄事業場土木建設工事での強制労働がはじまっていく。この徴用に対しても出頭拒否による徴用忌避がおこなわれた(「社会運動の状況」一九四二年、『集成』四 九〇〇頁)による。これらの人々も連行者数に加えてもいいだろう。

 

「徴用」

一九四四年九月から「徴用」による連行がはじまっていくが、静岡県への一九四四年度の連行者数を示す史料が「昭和一九年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」である。これは「内務部内臨時職員等設置制外五勅令中改正ノ件」(一九四四年一二月二八日付)という閣議決定添付資料のなかに記されていた(朝鮮人強制連行真相調査団による)。この史料においては一九四四年度の連行者予定数は二九万人とされ、このうち静岡県への連行者予定数は三六七八人されている。内訳をみると金属山八八三人、土木建築二三五四人、工場その他四四一人である。

 厚生省勤労局調査(一九四六年)での静岡県への一九四四年の連行者数は一三〇〇余であり、この厚生省史料には、約二三〇〇人の連行先が含まれていないということになる。

 

連行者数の合計

『特高月報』による一九四三年までの連行者数に、この一九四四年度の「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」での連行者予定数を加えると、約一万人の連行者数となる。

さらに厚生省勤労局史料から一九四五年分の一四〇〇人ほどの連行者数を加えると連行者数は一万一四〇〇人ほどとなる。

ここには軍人軍属、「慰安婦」として連行された人々、一九四四年末以降、軍事基地建設・地下工場建設へと動員された人々はほとんど入っていない。地下工場や軍事施設建設の現場への連行を、仮に一現場で二○○人の連行とすると、三〇ヵ所で約六〇〇〇人の連行となる。静岡県内への連行・動員状況からみて、県内へと連行・動員された朝鮮人は少なくとも一万五〇〇〇人を超えると推定することができ、そのうち約一万人については連行先を確定することができる。政府が史料を隠蔽してきたため、この連行先と連行者数の確定は一九九〇年代に入ってやっとできたのである。

県内在住の朝鮮人数の推移をみれば、一九三九年には一万人以下だった在住者数は一九四四年には二万二千人をこえ、四五年には三万人を超えた。一九三九年から一九四四年までの逃走や帰国などによる減少数をふまえれば、一九四五年までに三万人ほどの朝鮮人が県内へときているとみることができる。このうち半数以上が強制連行者とみられる。

 

一九四三年の職業状況

なお、一九四三年三月の県内の朝鮮人の職業状況については「協和事業二関スル件」(『藤岡今松知事重要事項事務引継書』一九四三年七月)からわかる。

それによれば、一九四三年三月末の県内の朝鮮人数は一万七〇七七人となっている。この史料では、世帯数は二八二八、人口は男一万一四一三人、女五六六四人である。職業をみると、土木建築五六二六人、商業八九八人、繊維工業七九六人、鉱業七一二人、その他の労働者三七五人、その他の有業者二二六人、接客業者六二人、学生生徒六二人、国民学校児童二〇三二人、在監者五六人、農業十一人、有識的職業四〇、無職五四七五人となっている。

思想動向としては、八割が労務者であり、思想主義的運動に関心をもつものはほとんどなく、時局認識が薄く、利己的で移動性が高いため、国防献金や勤労奉仕で時局の認識を高めるとしている。この捉えかたは権力の側からのものである。

権力の表記はつぎのような民衆の内心を捉えたものではない。朴洋采さんの証言によれば、朴さんの父は八・一五解放とともに、静岡で「倭奴(ウェノム)らはオレを忠実な皇国臣民と思っていただろうが、オレは亡国の恨みを忘れてはいない」と韓国併合の「勅諭」と明治天皇の「ご真影」を足で踏みつけ燃やし、「日帝から解放された」「解放万歳(ヘバン・マンセー)」と語り合っていたという。

 

 三 統制と抵抗

 

協和会について

 静岡県の朝鮮人数が増加するなかで、朝鮮人団体の結成がすすんでいった。一九二〇年代半ば頃から結成された団体を、内務省の「社会運動の状況」や新聞記事からみると、小山朝鮮人労働友和会一九二四年、相愛会静岡県本部一九二六年、浜松融和協会一九二八年、清水市融和親睦会一九二八年、清水内鮮同和会一九三〇年、静岡日鮮融和会一九三〇年、三ヶ日町親睦会一九三一年、東亜会一九三一年、極正団一九三一年、静岡協東会一九三二年、東豆労働組合一九三三年、沼津内鮮融和事業協会一九三三年、労友親睦会一九三三年、共助組合一九三三年、富士郡朝鮮人親睦会一九三四年、朝鮮人親睦会一九三四年、大井川親睦会一九三四年、三信親睦会一九三六年などある。これらの団体は親睦、相互扶助、融和をすすめるものが多い。

なかには、東豆労働組合のように失業朝鮮人を中心にして結成されたものもあった。静岡合同労働組合や解放運動の全国組織に参加した朝鮮人もいた。

 侵略戦争の拡大によって、朝鮮人が日本国内へと強制連行されるようになると、一九三九年十二月、連行した人々を統制し、その抵抗をおさえつけるために、静岡県協和会が設立された。一九四〇年三月には約一万一〇〇〇人を組織して二五の支会が、各警察署を拠点にして結成された。

結成前から県下では地域や職場で協和会につながる運動がおこなわれていた。一九三九年には地域では岳南協和会、磐南一心会、熱海同和会ほかの活動があり、現場では一九三九年八月に日本軽金属富士川発電工事現場で西松、大倉、飛島の各組が職場協和会を結成するといった活動があった。

 静岡県協和会の設立と各支会の結成によって、行政、警察、軍、資本が一体となって朝鮮人を動員するようになった。それは朝鮮人の強制連行に対応した組織であった。 県協和会の活動を追っていくと、天皇への忠誠を強要し、軍事教練、献金、日本語教育、思想生活統制、勤労奉仕、志願兵募集などをおこない「皇民化」をすすめていったことがわかる。年を経るごとに、日本人として「徴用」し、「徴兵」していくための活動がつよめられ、「徴用」や「徴兵」制導入のための調査、勤労報国隊の組織化、逃亡者調査、「銃後」支援活動などをおこなっていった。一九四四年には結成時から約二倍の二万二〇〇〇人を県協和会は組織している。この四四年に協和会は興生会へと再編されていくが、県内での活動についてはわかっていない。警察史料を中心とした協和会関係史料の公開と発掘が求められる。

 

 連行された人々の抵抗

 

 連行・動員による強制労働と協和会による監視のなかでも、朝鮮人の抵抗はやむことがなかった。県内に連行された朝鮮人の争議を『特高月報』からみれば、一九四一年一二月までに賃金増加や監督の排除などを求めて二〇五六人中四二五人が争議に参加した。争議は一九四三年末までに二五件あり、七〇〇人以上が参加している。同年末までの逃亡率は四五パーセントほどである。厚生省調査名簿から逃亡者をみても、四〜五割の逃亡者がでている現場が多い。

 朝鮮人の逃亡状況についてはサハリンの公文書館に残されていた警察署文書から日軽金富士川発電所工事現場からの逃亡者の氏名が数多く判明した(長澤秀編『樺太庁警察部文書 戦前朝鮮人関係警察資料集』)。このような文書からも強制連行の一端をうかがい知ることができる。

 朝鮮人の争議は帰国、家族呼び寄せ、強制貯金反対、暴力的管理反対、収容所改善などのさまざまな要求を契機に起こされている。連行された人々は争議への参加や現場からの逃亡によって日本帝国主義による労務動員政策に現場から抵抗していった。それは日本の戦争遂行能力を生産現場から低下させ、日本の敗戦と朝鮮の解放をもたらすことにつながっていた。

 

 四 帰国 

 

八・一五解放により、朝鮮人の帰還がはじまる。政府は連行朝鮮人を優先的に計画輸送しようとしたが、下関や博多には多くの朝鮮人が集まったため、待機状態となった。静岡県では静岡・清水・浜松・沼津の空爆跡の清掃作業がおこなわれたが、そこには帰還前の朝鮮人の姿もあった。

厚生省名簿には帰国(退所)の年月日が記されているものがある。その記述によれば、八月末には黒崎窯業清水、峰之沢鉱山、日通浜松、九月に入り豊年製油、鈴木織機、清水港運送、鈴与、宇久須鉱山、富士紡小山、一〇月には共立水産工業、久根鉱山、日本鋼管清水などから帰還していった(『静岡県史』通史編六近現代二 四七六頁〜)。『掛川市における戦時下の地下軍需工場の建設と朝鮮人の労働に関する調査報告書』の証言八六頁)によれば掛川の中島飛行機地下工場に連行された勝呂組の朝鮮人は一二月に帰還した。

このように集団的に連行された朝鮮人の帰国が一二月までにおこなわれていった理由は連行朝鮮人の反発や未払い賃金支払い要求を回避し、戦争犯罪の追及を恐れたためであるとみていいだろう。

一九四五年九月二〇日の次官会議「引揚民事務所設置二関スル件」の付表には「内地在住朝鮮人帰鮮者希望者見込数」(一九四五年九月二五日)がある。そこには静岡県の一九四四年末の朝鮮人在住総人口は二万二四一八人と記され、強制連行者である集団移入労務者数は二一二三人とされている。当時の連行状況からみてすこし連行者数が少ないように思われる。一般在住者二万二九五人のうち帰国希望は八一二八人となっている。

静岡県庁に保存されている『地方長官会議綴』の一九四六年二月の報告書類には厚生課による「朝鮮人、台湾人帰還二関スル件」が収録されている。すでに連行者の多くが帰国しているが、この史料には一九四五年九月一日付けの朝鮮人在住数が記されている。その数は三万一五〇人であり、一九四六年二月二〇日までに、二万二七二五人が帰国している。現在数は七四二五人となっている。八・一五解放後の九月には静岡県に三万人を越える朝鮮人がいたことになる。

この史料によれば、朝鮮人連盟静岡県本部が結成されると、朝鮮人連盟が帰還希望者を取りまとめて輸送順位を決め、県が「帰鮮計画輸送証明書」を交付して指定列車に乗車させるようになった。一九四六年二月からは送還を促進するために市町村長が「帰還証明書」を発行交付し、指定列車に乗せるようになった。静岡県での一日の帰還の割り当て人員は一一五人とされ、市町村長扱い六〇人、朝鮮人連盟扱いが五五人とされていた。残留見込みの朝鮮人数は約二〇〇〇人となっている。

帰還を促進させるためにGHQは一九四六年三月一八日に登録をおこなった。それによると登録者数は八九四九人、帰還希望者はそのうち六九〇九人だった。翌年四月時点の県内の朝鮮人数は七六五八人となっている(『静岡県史』通史編六近現代二 四七八頁、四八一頁)。県内では七〇〇〇人を越える朝鮮人が在留を志向したのだった。

『外国人登録関係綴』(御殿場市印野支所文書)には一九四六年以降の駿東郡・沼津市などでの朝鮮人帰国の状況を示す史料がある。

一九四六年五月二二日付駿東地方事務所長による「皈鮮希望者ノ皈還ニ関スル件」には帰還希望者と未帰還者について報告を求める資料が付され、六月の駿東郡・沼津市などからの帰還の割当が示されている。それによれば、六月二日沼津市九〇人、六月一四日駿東郡富士岡村二〇、深良村一六、御殿場町八、小山町二九、沼津市二三の計九〇人、六月二三日三島市四〇、清水村一四、大平村五、印野村二、富士岡村三八の計九九人,七月六日沼津市五〇人、とある。また、五月三一日付の朝鮮人の輸送計画表には乗車駅が記されている。七月には駿東地方事務所長が三月一八日の登録の際に帰還を希望した朝鮮人の職業別分類を求めている(『外国人登録関係綴』)。

ところで、帰国者が増加する中で未払い賃金や死亡や負傷への賠償金が問題になる。この未払い金の状況を調べるための全国調査が一九四六年の厚生省勤労局の調査である。それは各地での朝鮮人連盟による交渉が高まったことヘの対応だった。日通静岡支店の厚生省勤労局名簿には、朝鮮人連盟が退職手当として一人千円(逃亡者五〇〇円)を要求したが一人三〇〇円(逃亡者は一五〇円)として解決しようとしたが、未解決とある。

厚生省は企業側にたち、朝鮮人連盟の賠償要求を「不当要求」とみなした。一九四六年一月には「差別的取り扱い」を、罰則を持って禁止したが、それは朝鮮人の要求を拒むために使われた。六月には一九四五年一一月二七日以前の給与と九月一日以前の退職金への請求権を否定し、朝鮮人連盟を労働組合ではないとして、その交渉権を否認した。厚生省は、朝鮮人連盟の連行の賠償要求に対して、その交渉権と請求権を認めず、賠償支払いを不当行為としたのである。

さらに厚生省は一〇月関係企業に対し未払い金を供託するように指示した。そして本人や家族には連絡することなく、一〇年で供託金への請求権を時効消滅させた。このとき、まだ朝鮮半島との国交はなく、韓国との国交回復は供託金の請求権消滅から約一〇年後のことである。他方、政府は企業に対して華鮮労務対策委員会の要求に応じて巨額の補償金を支払っている。その後一九四九年に朝鮮人連盟は解散させられ、その資産は没収された。

このように政府は連行者を十分な支払いをせずに送還し、連行や未払い金への賠償要求を「不当行為」として否認し、抗議・要求行動は暴行・脅迫という「不法行為」とした。その未払い金などを供託して没収し、さらに朝鮮人連盟の資産も没収していくことになる。その一方で朝鮮人への監視と管理の強化をすすめた。県内には七〇〇〇人ほどの朝鮮人が在留することになったが、一九四七年五月、外国人登録令が残留朝鮮人を監視し管理するために導入された。植民地支配下で民族的連帯性を持ち、社会的抵抗力を形成してきた朝鮮人に対し、登録証の常時携帯義務を強要し強制送還をちらつかせて統制し監視しようとしたのである。さらに一九五二年には外国人登録法で指紋押捺を含めての登録を強要した。

しかし朝鮮人側の登録への抵抗は強かった。一九五二年一〇月一〇日の「外国人登録証明書の切替について」(『外国人登録関係綴』)をみると、戸籍係の朝鮮人数報告と八月末までの登録証明書発行数の報告を並べ、登録状況を調べていることがわかる。それによれば、八月末の時点で、沼津の四六五人中、四三二人が登録、全体を合計すると六四一人中、五一七人の登録があった。この時点での登録者数は八割ほどであった。この切り替えは、朝鮮戦争下での在日朝鮮人の活動をよりいっそう監視するためのものであった。

連行に対する賠償や未払い金の請求についてはその証拠となる名簿類の一部が一九九〇年代に入ってあきらかにされたが、その全貌はいまもあきらかではない。

 以上、連行先・連行数、統制と抵抗、帰国の状況についてみてきた。

 沼津から列車に乗って帰国する人々の姿をある老人は次のように記している。「沼津駅を発車する際突如として、アリランの大合唱が大きなうねりとなり澎湃として辺り一面に響き、頬を濡らして歌っていた」と(『戦争体験記』県老人クラブ連合会七頁)

このような解放の喜びを迎える前の労働現場の状況について、以下の項で具体的にみていきたい。