三菱高島炭鉱への朝鮮人強制連行

はじめに

一、朝鮮人「募集」の開始

二、炭鉱と性的奴隷

三、戦時下の増産と朝鮮人強制連行

@増産と連行の開始 A朝鮮人連行者総数 B連行者の年齢

四、朝鮮人連行と労働の実態

@一九三九〜四二年 A一九四三〜四五年

五、労務管理の強化と死亡者数の増加

六、未払金額

七、三菱の歴史認識と被害者の活動

おわりに・参考文献

 

はじめに

 

三菱高島炭鉱へと戦時期に多数の朝鮮人が連行された。高島は長崎港から約一四・五キロメートル先にあり、端島はさらに五キロメートル沖にある。端島から南の野母半島までの距離も五キロメートルほどある。逃亡は困難だった。連行された人々にとってそこは「圧政のヤマ」「生きて帰れぬ地獄島」であった。端島は「軍艦島」の名でも知られる。桟橋近くに残る門は「地獄門」とも呼ばれ、周囲の高い堤防は逃亡を止める壁の役割もはたしていた。

端島坑は一九七四年に、高島炭鉱は一九八六年に閉山となった。高島の炭鉱施設の多くが破壊された。端島は現在無人島である。端島には二〇世紀前半に建設された施設も残っているが、崩壊したものも多い。二〇〇二年、端島の所有権は三菱から高島町へと移った。産業史跡として端島の保存を求める市民の声もある。

 高島炭鉱への朝鮮人連行については、市民団体の調査の結果、端島坑での死亡者に関する「火葬認許証下附申請書」が発見され、死亡状況の一端が明らかになった。一九八四年のことである。これらの書類から死亡者の名簿が作成され、朝鮮半島現地での調査もおこなわれてきた。高島炭鉱への連行に関する史料や調査報告については、長崎在日朝鮮人の人権を守る会原爆と朝鮮人二〜六、林えいだい死者への手紙』、同編戦時外国人強制連行関係史料集U朝鮮人1下などにまとめられている。

 これらの史料・報告に加え、ここでは三菱高島炭鉱(含端島坑)の朝鮮人連行関係史料として厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」長崎県分(一九四六年調査)の中にある高島炭鉱分の一二九九人の連行者名簿を分析する。長崎県分の原簿史料の一部は分解し、高島炭鉱への連行者数を記した一覧表と朝鮮人の名簿とが分離していた。そのため名簿の事業所名は不明のままであった。名簿を分析したところ、名簿に記された年度別の連行者と一覧表の年度別の連行者数が一致し、また、金堤郡から端島へと連行された朝鮮人の証言者(尹椿基)の氏名が名簿に創氏名で記されていることから、この事業所名不明の名簿が高島炭鉱のものであることが判明した。

 この名簿には一九四二年八月から四五年三月までの間に連行された朝鮮人のうち、八・一五解放まで残留し、帰国することになった人々の名前が記されている。それ以前に連行された人々やサハリンからの転送者、逃亡者、高島から三菱長崎造船への転送者、死亡者、八・一五前の帰国者などの名前はない。このような人々の欠落がある不十分な名簿であるが、証言や他史料とあわせることで連行状況の一端を知ることができる。

 以下、先行調査をふまえ、証言から連行実態について考え、この名簿を分析するとともに、三菱の戦争責任の現在についてみていきたい。

 

一 朝鮮人「募集」の開始

 

 高島では一八世紀はじめから石炭が採掘されたという。高島沖にある端島では一九世紀はじめから石炭が採掘された。高島炭鉱の開発は日本の資本主義とともにすすんだ。一八六八年には佐賀藩とグラバー商会によって経営されるようになり、一八七四年には官営とされ、すぐに後藤象二郎に払い下げられた。三菱は一八八一年に高島を、一八九〇年には端島を経営するようになった。これらの島々の海底の厚い炭層から産出される石炭はその質が良く、高島炭鉱は三菱の代表的な炭鉱へと成長していった。三菱は長崎での造船にみられるように日本の軍需産業として成長していくが、石炭はその生産を支える動力源となった。

 高島では多くの労働者が生命を失っている。三菱経営後の一八八五年にはコレラが流行し、五六一人が死亡(この年の死者は八四四人に及ぶ)、一九〇六年の高島蛎瀬坑の事故では三〇七人が死亡した(『炭坑誌』八六頁、一六二頁)。労災事故は絶えることなくつづく。三菱経営以後、敗戦までの労災や病気による死亡者は一千人をこえる。開発のために高島の大地を掘ると人骨が出ることもあるという。このころの高島での死者を追悼する碑が、「三菱炭礦時代法界萬霊塔」(一八九二年)、「蛎瀬礦罹災者招魂碑」(一九〇六年)、千人塚の「供養塔」(一九二〇年)の形で残されている。しかし、死亡者の名前は現地で明示されてはいない。

 暴力的な労務管理のなかで、労働者の抵抗運動もおこり、たとえば一八九七年には高島と端島でストライキがおきている。労働運動の波が高島に及んだこともあった。

 この三菱高島炭鉱へと朝鮮人労働者が集団的に「募集」されたのは一九一七年のことだった。三菱高島は労働者不足のために日本各地で募集をすすめたが、一九一七年九月二一日には朝鮮人募集の認可をうけた。朝鮮へと「募集」にでかけ、約一五〇人を高島炭鉱へと連れてきた(筑豊石炭礦業史年表二八二頁)。

 一九一八年五月には朝鮮人数は三三四人へと増加(『炭坑誌』二三一頁)、当時の高島炭鉱の労働者数は三三三六人であり、朝鮮人が一割を占めるようになった。このときの朝鮮人労働者の内訳は坑内一六六人(高島坑八四人、二子坑一二人、端島坑七〇人)、坑外一六八人であった。朝鮮人の坑内での比率は六%、坑外は三五%となる。朝鮮人の坑内での出炭成績は未熟練のために低かったようだが、しだいに坑内での労働が増えていった。

 三菱は朝鮮での「募集」をつづけ、二九年には朝鮮内に募集人を配置していた(炭坑誌二八二頁)。朝鮮人の死傷者も増えるようになり、一八年五月の二子坑でのガス爆発事故では二人の朝鮮人が負傷、一九年には高島蛎瀬坑で墜落死(二月)、落盤事故(一二月)もおきた(炭坑誌二三〇、二三五、二三九頁)。

「安藤翁公徳謝恩碑」は百万社宅の丘近くにある。碑の前面は欠落しているが、後面には「鮮人労働者募集開始」「従業スルハ大正六年十月」などの文字がある。碑は一九二一年七月三一日に三菱が朝鮮人に建てさせた。朝鮮人を管理した安藤兼造は「懇且ツ直」「善ク導キ」と賛美されている。碑には李圭祥・李五福・全徳彦・張曲奎といった朝鮮人名が刻まれていた。

 この碑は連行前史を示すものである。三菱はこの碑の復元碑を一九八八年に建てたが、批判が出ると撤去した。(死者への手紙一〇五頁、原爆と朝鮮人5・四〇〇頁)。

 安藤兼造の名は二二年十一月に落盤で死亡した林八十(朝鮮人坑夫合宿に所属)の「合宿主」として出てくる(炭坑誌二五六頁)。朝鮮人坑夫合宿は碑の近くにおかれていたと考えられる。

 端島坑での朝鮮人死者の増加については「火葬認許証下附申請書」(一九二五〜四五年分)からわかる。落盤による圧死、窒息、ガス爆発、病死などにより、この史料だけでも三九年までに労働者とみられる朝鮮人五〇人以上が生命を失っている(表一)。

 三二年三月には高島二子坑でガス炭塵爆発事故がおき、死者一二人、負傷者二一人を出した。死亡者は日本人とみられるが、負傷者のなかには朝鮮人もいたと思われる。(炭坑誌三一七頁)。三五年三月には端島坑でガス爆発事故がおきた。死亡者二五人のうち一〇人が朝鮮人とみられる。「火葬認許証下附申請書」には二人分の書類が残っている(死亡者名については表一に記載、炭坑誌三三五頁)。

 火葬認許証申請書類から「朝鮮人合宿」の「宿主」をみてみよう。記載事項から、安藤三郎(一九二五〜三五年)、李甲龍(二七〜二八年)、巌龍甲(三二〜四〇年)、李斗雨(三八〜四〇年)らの名前をあげることができる。かれらは朝鮮人を配下としていた人々である。

 申請書類にある郭孝出の届出印は「H郭孝五六〇」であり、炭鉱側が作成した番号付の印が用いられている。かれは家族で高島(端島坑)に移住していたが、三五年三月の爆発事故で死亡している。他に諸次鳳の印は「H諸次四五三」、李鐘烈は「甲四五〇李」、金實榮の印は「H金榮六六八」などとなっている。これらの印から当時の炭鉱側の労務管理の一端を知ることができる。

 一九三三年ころ端島へと移住した姜時点によれば、端島には所帯持ちが百世帯、吉田飯場には一一〇人の朝鮮人坑夫がいたという(死者への手紙一九五頁)。そのころ端島には約三〇〇人朝鮮人がいたことになる。これらの人々は坑内外の労働や竪坑の掘削などの土木労働に従事したとみられる。なお三二年四月には高島の「親和会」が「協和会」へと名称を変えている(『炭坑誌』三一八頁)。

 三五年六月には高島と端島の朝鮮人坑夫ら約三五〇人が親睦会をつくり、相互の親睦と日本語学習などを企画した(炭坑誌三三七頁)。家族を含めれば朝鮮人の数は五〇〇人ほどになっていたとみられる。高島の各地に朝鮮人が住むようになり、端島では労働者住宅内に入った。

 三〇年代後半、増産のために高島での新坑の掘削や端島での第二竪坑の掘り下げがすすめられた(高島炭礦史四九六頁)。これらの工事にも多くの朝鮮人が動員されたとみられる。

 三八年から三九年にかけての死亡者の出身郡をみると、固城郡や晋州からの出身者がめだつ。高島炭鉱では強制連行政策がはじまる前から、集団的募集がおこなわれてきた。「募集」後の労働実態は暴力的強制を伴うものであったとみられる。

三九年末からの連行はこれまでおこなわれてきた「募集」を総動員体制のなかに組み込んで再編したものとみることもできる。

三八年に一五歳で渡日した韓英明(大邱出身)は三九年夏に長崎で「八時間労働・日給四円」の「募集」に日本人名で応じた。小船で高島へと連れて行かれ、二〇人ほどの日本人飯場に入れられた。飯場は藁敷きの土間に粗末なゴザを敷いたところだった。韓はそのとき一六歳だった。坑道で石炭を積む仕事をさせられたが、親方は一〇銭・二〇銭と書き込んだ紙切れしか渡さなかった。負傷しても抜糸もしないうちに仕事に駆りたてられた。逆らえば殴られ、逃亡して発見されればリンチを受けるという現場だった。拷問による悲鳴や呻き声が飯場にまで聞こえた。飯場の出口は監視されていた。四〇年の秋、韓は三人で丸太につかまって香焼まで泳ぎ、脱出に成功した(『娘・松坂慶子への「遺言」』から要約)。

 

二 炭鉱と性的奴隷

 

 端島では性的奴隷が一九〇七年のころにはおかれていた。三菱は随所に性的奴隷をおく店を開かせ、賭博を奨励したという(日本労務管理史の記述、筑豊石炭礦業史年表二二八頁)。高島には百間崎(百万)に「料理店」(種類は不明)があった(一九一九年九月の記事炭坑誌二三八頁)。高島には六〜七軒の店があったという(浜口証言原爆と朝鮮人4・五五頁)。聞き取りによれば高島には尾浜や本町(日吉岡西方)に数軒の性的奴隷をおく店があり、本町には朝鮮人女性のみの店もあったという。尾浜には当時の面影を残す「西田家」の建物が残っている。「慰安所」の近くには監視のために派出所もあった。

 端島診療所で代診の体験がある金圭沢によれば、戦時中端島には、森田・本田・吉田(朝鮮人)経営の三軒の店があり(三一号棟近く)、吉田屋から朝鮮人女性九人が受診にきたという(死者への手紙一九三頁)。

 三七年六月には端島で「酌婦」とされた朝鮮人女性が「リゾール」(クレゾール)を飲み自殺している。(原爆と朝鮮人4・七六頁)。届出人は本田伊勢松となっている。本田は本田屋の経営者であり、一九三三年の記事には県会議員とある(『炭坑誌』三二一頁)。酷使された女性は一八歳の若さで自ら死を選ばざるをえなかったのだろう。

 梅香崎署は三九年三月、端島二七人中一二人、高島四九人中一九人の「無病酌婦」を表彰した。炭坑誌三五四頁)。この中には朝鮮人女性も含まれているとみられる。

 石炭統制会九州支部「炭山に於ける半島人の勤労管理」をみると、「特別慰安所」の項があり、「炭山の委託経営」をすすめ、千人の「半島労務者」に対し十人程度の女性がよいとしている。そこでは鉱山労務課と経営者、従業女性との連絡打合会をひらき、「逃亡防止と増産激励の責務を女子にも負わせたい」としている(二二七頁、朝鮮問題資料叢書』二所収)。

高島炭鉱でもこのような形で、委託・連絡・管理がおこなわれていったといえるだろう。三菱高島と警察、経営者が連携しながら女性を性奴隷として支配していったとみられる。高島と端島には一九三九年の段階で計八〇人近い女性が性的奴隷としておかれていたようだが、それは、炭鉱の労働者数に対応しておかれていたものとみられる。

 

三 戦時下の増産と朝鮮人強制連行

 

 @増産と連行の開始

 

 一九四〇年代に入り、高島炭鉱は三菱にとって出炭高でみると北海道の美唄、大夕張、長崎の崎戸、筑豊の鯰田に次ぐ炭鉱となった。高島は筑豊の鯰田とともに三菱鉱業が創業初期から力を入れてきた炭鉱である(三菱鉱業社史三九八頁)。

 高島の年出炭量は一九一〇年代には二〇万トン台、二〇年代には五〇万トン台、三〇年代には六〇万トン台となる。四一年の出炭量をみると、高島坑(三七万トン)、端島坑(四一万トン)であり、両坑の計七八万トンは鯰田の七四万トンを抜くことになる(高島炭礦史三〇八頁)。増産のかけ声のなかで、端島坑では四一年に四一万一一〇〇トン、高島坑(二子坑・新坑)は四二年に三九万二五〇〇トンの最高出炭を記録した(四九一頁)。

 朝鮮人はこのような戦争遂行のための大増産を支える労働力として連行された。

 一九三七年一〇月段階での高島での朝鮮人坑夫数は二三〇人であり、二〇〇人の増員を求めている。三菱高島は政府へと朝鮮人の連行を申請し、一九三九年、高島三〇〇人、二子二五〇人の計五五〇人、四〇年、五〇〇人、四一年七八五人の計一八三五人の承認をえていく。三菱はこの承認により、朝鮮での「募集」をおこなう。その結果、四一年六月の人員数は六〇八人となり、四二年三月までに九二五人、同年六月までに一一一〇人を連行した。四二年六月の現在員数は七〇〇人であり、この段階で連行した四〇〇人が高島から離れていることがわかる。これは「満期」や逃亡による減少とみられる(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」強制連行された朝鮮人の証言所収による。一九三七年一〇月分の数字は「半島人現在数及移入増員希望者数調」、四一年六月分は「朝鮮人坑夫割合調」、ともに石炭連合会関係史料、田中直樹近代日本炭礦労働史研究五八四頁、六〇三頁所収)。

 一九四二年八月からの連行状況については厚生省勤労局調査名簿から高島への連行の一端があきらかになる。また石炭統制会史料からは一九四三〜四四年の連行者数の一部を知ることができる。高島炭鉱への朝鮮人連行の記載のある史料を総合して連行状況を示したものが表二である。厚生省勤労局調査名簿からの連行分析は表三で示した。

 

A朝鮮人連行者総数

 

 表二から高島炭鉱への連行状況をみて、連行者総数について考えていきたい。

 四二年六月までの連行者は一一一〇人。四二年六月の現在員数と四三年五月の現在員数を比較してみると七五六人の増加がわかる。この期間に七五六人以上が連行されたということができる。四三年六月から一二月にかけては二二三人の連行があった。四二年六月までの連行者数一一一〇人に増加分の七五六人と四三年後半の連行者二二三人を加えると二〇八九人となる。四三年末までに二〇八九人以上が連行されたといえる。

 この数字に四四年度分の連行者数として一月から八月までの連行者数六八一人、九月のサハリンからの転送者などの四一〇人、十一月の増加分の二二人などの一一一三人分を加えると三二〇二人となる。これに四五年の一月から三月までに連行された人々の残存者二二八人、そして四月分の連行者三人を加えると三四三三人となる。この三四三三人は現在判明している連行者の総数であり、実際には三〜五〇〇人が欠落しているとみられる。

ここでみてきた連行者の数から朝鮮人の高島炭鉱(含む端島坑)への連行者総数は四千人近かったということができる。

 朝鮮人連行初期の歴史を示す碑が「岩崎平先生記念碑」であった。この碑は連行された朝鮮人によって一九四〇年一〇月に建てられたとされる。碑文によれば「内鮮一体」「出炭報国」の精神のもとで、大坪雄次郎が朝鮮人募集の中心となり、岩崎平は訓練所長として三〇〇余の朝鮮人を配下とした。この碑は岩崎の「教育」を「天性仁厚」「護我如己」と賛美するものであった。市民団体が三菱による「慰霊碑」の建立とこの碑の再建を批判すると、三菱はこの再建碑を撤去してしまった(原爆と朝鮮人5・四〇一頁、『同』6・二二三頁、死者への手紙二八一頁)。

 連行開始前の朝鮮人数は三〇〇人ほどとみられるが、連行がはじまるとその数はしだいに増加していった。

 高島での朝鮮人労働者の増加状況を石炭統制会史料からみてみよう。四一年九月での朝鮮人の割合は一四・三%だったが(高島炭礦史三一一頁)、四三年五月には二五・九%、四三年十二月には二七・五%、四四年四月は二九・七%、四四年一〇月は三二・二%となる(「労務者移動状況調」「労務状況速報」「給源種別労務者月末現在数調」『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』一所収から算出)。朝鮮人の割合は七人に一人から三人に一人へと増えている。

四四年一一月には現在員数二二五九人(坑内一九三八人、坑外三二一人)となり、全労働者の三八%を占めるようになった(長崎商工会議所長崎県経済事情調査書の数字、炭坑誌四〇八頁)。

 

B 連行者の年齢

 

 厚生省名簿から連行されて残留した人々の年齢をみてみよう。

 四二年八月、槐山郡出身の連行者のなかには一五歳が一人、四二年一〇月の延白と碧城郡を中心とする連行者をみると延白一一人・碧城二四人・他八人の計四三人が一〇代である。碧城郡出身者の残留者は五三人であり、半数近くが一〇代となる。

 四三年一月の和順郡からの連行者をみると残留者一〇九人中、八一人が二四〜二五歳であり、和順郡の各面から二四〜二五歳の青年たちを駆りあつめてきたことがわかる。同年五月の信川郡などからの連行者をみると一〇代が一八人、同年一〇月の金堤郡からの連行者をみると一〇代が一四人である。

 四四年一月の慶南からの連行者のなかにも一〇代が一九人含まれている。七月の宜寧郡からの連行者をみると残留者二三人中、一〇代が八人であり、一人は一五歳、五人が一六歳である。八月の密陽郡からの連行者は残留者一四人のうち七人が一〇代であり、内一五歳が二人、同月の富川郡からの連行者のなかには一四歳の少年もいる。

 四五年一月の順天郡からの連行をみると残留者九二人のうち二四〜二五歳五九人、三四〜三五歳二〇人、一七〜一八歳一五人となり、二四〜三五歳を中心に一〇代をふくめて地域から集団的に駆りあつめてきたことがうかがえる。三月の益山郡からの連行をみても三四人中一四人が一六〜一八歳の青年である。

連行された集団のなかには一〇代の青年も多く、一四歳の少年がいたこともわかる。

 集団的連行状況をみるために図三を作成した。全羅北道金堤郡と井邑郡からは共に一〇〇人をこえる人々が高島へと連行されている。今後の現地調査が課題である。

 

四 朝鮮人連行と労働の実態

 

 ここで連行された朝鮮人や遺族の証言をこれまでの調査からまとめ、連行の状況と労働の実態についてみておきたい。

@一九三九〜四二年の連行

 李任逑(咸安郡)は連行がはじまった一九三九年に端島へと連行された。一日の賃金が五円、食事は白米といった甘言による連行であり、新参者は一円五〇銭だった。李は四〇年七月に炭車事故により下敷きとなり、肋骨が折れ、右肺が破裂して死亡した。次男は夫の死につづいて亡くなり、夫を失った妻は長男を近所に預け、行商で生活する。しかし長男は病気がちで妻と子を残して亡くなった(妻たちの強制連行一六九頁)。

 初期には固城郡からも連行された。表相万(固城郡)は連行され、四二年二月落盤で死亡した。弟の表相億が遺骨をひきとりに行った。労務は頭骨と手足の骨の部分を拾い、残骨をスコップであつめ旧竪坑の中へと捨ててしまった。弟は七一年に高島炭鉱から死亡証明書をとっている。李又福(固城)は四三年六月に落盤で死亡。妻は夫を失った悲しみと苦しい生活で病み、三三歳で死亡。二人の子のうち下の子は栄養失調により二歳で死亡、上の子も学校へ行けずに近所の子から数を学ぶ生活だった。「点道(固城)は四二年三月に頭蓋骨骨折で死亡。遺骨はひきとられていない(死者への手紙三二、四六、八四頁)。

 崔洛相(晋陽郡)は連行されて二年後に帰郷し結婚したが、再び端島へと連行され、四三年一二月に落盤のため窒息死した(死者への手紙三八頁)。

 劉喜亘は一四歳で渡日、広島で学び神戸で働くが、四〇年に尼崎で独立思想を口実に検挙された。四〇年五月ころ友人と端島へと「志願」し吉田飯場に入った。飯場は「八階」のアパートの一階にあり、そこには約一五〇人の朝鮮人がいた。吉田飯場は海底に一番近い危険な切羽を背負っていた。連行者は北端の寮のなかにいた。数か月後、泳いだり、筏を組んだりして脱出に成功した(原爆と朝鮮人6・二〇七頁、地図のないアリラン峠一五七頁、死者への手紙二〇六頁)。

 甲洙は三七年に長崎に来て、川南造船所で働いたが、報国隊に組織され高島炭鉱に四〇日間の約束で動員された(年不明)。目の前で坑木が落下し、同胞が即死した。(原爆と朝鮮人』2・六五頁)。

 金先玉(忠北)は四二年二月に約四〇人の集団で端島へ連行された。六〜七人が八畳ほどの部屋に詰め込まれ、豆かすやイワシの食事も次第に減らされ、体が動かなくなった。原爆投下後には市内に入り、死体の収容作業などをおこなった(『佐賀新聞』一九九五年四月三〇日、五月五日付)。厚生省名簿には、四二年八月の槐山郡からの連行者に「金子先玉」の名がある。

 一九四二年に端島へと連行された南武岩(慶北)によれば、徴用で二円、請けで十一時間働いて三円の賃金とされた。一年目は米飯が出たが、四三年にはじゃがいもや麦、うどんくず、大豆カスを丸めたものになった。逃亡して八幡製鉄で働くが、再び逃亡し、宮崎の都城飛行場を経て中津へ。その後解放をむかえた(朝鮮人強制連行大分県の記録六六頁)。

 

A 一九四三年〜四五年

 

 一九四三年における高島炭鉱への連行状況をみれば(石炭統制会京城事務所「半島人労務者供出状況調」一九四四年一月)、一月には全羅南道から二〇〇人、四月には黄海道から九〇人、五月には黄海道から八七人、八月には全羅南道から一〇〇人、一〇月には全羅北道から一二〇人の計五九七人が連行されている(長澤秀編戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集1・六一頁)。

 一九四三年に全羅北道金堤郡から端島へと連行された尹椿基は一七歳だった。金堤郡からは二〇〇人が連行され、釜山で計六〇〇人となった。そのうち一〇〇人が長崎へ送られ五〇人が端島へ連行された。朝鮮人は病棟裏の「三階」の建物に入れられ、尹は一番下の階の部屋へ。賃金の三分の一は強制貯金、三分の一は故郷への送金とされだが、帰国してみると全く送金されていなかった。食事はさつまいもや外米飯と汁、イモをのぞくと飯はスプーン三杯程度。一日三交替で働かされ、低い天床の下での仕事だった。三人一組となり、一日のノルマはトロッコ一〇台以上とされた。同じ村の李は餓死、それを知らせる手紙を書くと端島の派出所へと拘留された。同じ村の金は往復する船に乗り込んで脱出した。帰国の際に「五〇円」の支給をうけた。人々はお金を出しあって闇船を買い、馬山の港に着いた。金堤から連行された李玉の場合、高浜村からの死亡通知はあったが、高島炭鉱からの連絡はなく、遺骨は不明という(百萬人の身世打鈴三九八頁、原爆と朝鮮人6・二二九頁、死者への手紙二七六頁)。

 徐正雨(宜寧郡)は表3の連行状況からみて、四四年ころに端島に連行されたとみられる。かれは一四歳だった。連行された人々は端島の端の「二階と四階」の建物に収容された。人々は腕立て伏せの体罰やケーブル線による殴打などの暴力的脅迫によって入坑させられた。高い堤防から海をみつめ投身自殺を考えた。逃亡者も出た。数か月後に三菱長崎造船所へと転送され、被爆した。(原爆と朝鮮人2・七〇頁、強制連行された朝鮮人の証言二九頁、『死者への手紙』二五八頁、もう戦争はいらんとよ二五頁、『追悼徐正雨さんその誇り高き人生』)。

 四四年六〜七月にかけては中国人四〇四人が高島炭鉱(高島坑・端島坑)へと連行された。高島炭鉱での外国人(中国人・朝鮮人)の割合は全労働者の四〇%をこえた。中国人は三菱重工長崎造船所へと連行される集団であったが三菱高島へと転送された。それに伴い朝鮮人が高島炭鉱から長崎造船へと転送されることになったという(さびついた歯車を回そう一二頁)。

 四四年九月にはサハリンの塔路炭鉱、北小沢炭鉱から高島炭鉱へと四一〇人の朝鮮人が転送されてきた(「樺太釧路整理炭礦勤労者転出先調」『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集2・一九四頁)。

 姜道時(昌原郡)は四〇年一二月にサハリンの三菱塔路炭鉱へと連行された。二年後に家族を呼び寄せるが、四四年九月単身で端島へと転送された。そのころ朝鮮人寮に三〇〇人、吉田飯場と家族持ちが二〇〇人の計五〇〇人が端島にいた。担当した切羽の炭層は薄く、ガスが多くて地熱が高かった。海水が天床から雨のように落ち、皮膚が黒く焼けていった。労務係は朝鮮人を座らせ、文鎮や皮バンドでアイゴーアイゴーと泣く人間を殴打し、意識を失うと海水を頭からあびせ、地下室におしこんだ。解放後の八月二三日、吉田飯場の朝鮮人がマンセーを叫び端島の商店街をデモした。外勤は逃げる際に一人「五〇〇円」を置いていった。サハリンの家族とは離散したままだ(死者への手紙』二二一頁、原爆と朝鮮人2・七九頁)。

 金永吉(求礼郡)もサハリンの塔路炭鉱へと連行され、その後端島へと転送された。塔路では白米に魚の食事が出たが、端島の食事は死なない程度の粗末なものだった。永田月福(論山郡)もサハリンから転送され、四五年六月に死亡。遺骨の行方は不明である(死者への手紙二三八、二五〇頁)。

 一九四五年一月に端島に連行されたとみられる趙再變(順天郡)は四五年七月に落盤で死亡した。妻は二人の子どもを残して家を出た。子どもたちは奉公に出されたり、叔父の家に預けられたりした。遺骨は同胞が届けたが補償金はなかった(死者への手紙七四頁)。

 解放後、帰国できずに死亡した金東植(務安郡)は結婚直後に連行された。労務係が膝を蹴り、その傷が悪化して歩けなくなり、四五年一〇月端島で死亡した。同年十一月には宮田海應(清州郡)が死亡している。(死者への手紙七九頁)。

 連行された人々やその遺族の証言から次のことがわかる。

 端島には下請飯場として朝鮮人の吉田飯場があり、危険な切羽での仕事を請負っていた。リンチを含めた暴力によって入坑が強制された。一四歳の少年も連行された。一七歳で坑内労働を強いられた。故郷への送金はおこなわれず、強制貯金は返却されなかった。帰国できず死亡した人々もいた。自費で帰国した人々がいる。夫の死によって残された家族は離散・貧困・夭逝などの苦しみを体験した。死亡連絡を受けていない、遺骨が返っていないケースもある。

証言からこれらのことがらを知ることができる。連行された人々は暴力的処罰の脅威の下、粗末な食事で長期間にわたる労働を強いられ、労働による負傷や死亡に対しても十分な措置をとられなかった。かれらは戦時労働奴隷として酷使されたといえよう。

 一九四四年の情報局ポスター「戦力の源泉石炭」には「飛行機を造り船を造るもと石炭!量には量を以て!石炭を増産せよ!敵を撃滅せよ!」とある。石炭は戦争国家を支えるものであり、高島の石炭もまた日本の戦争を支えるものとして使用された。その採掘の現場には連行された人々の強制労働があった。

 

五 労務管理の強化と死亡者数の増加

 

 朝鮮人の集団的連行に対応して労務管理も強められていった。

 一九四〇年四月上旬には「半島人共済会」が組織された。この会の目的は三菱から一万円、朝鮮人から一口一〇円をあつめて基金をつくり、負債のために移住できない朝鮮人に貸付(日賦返還)、高島炭鉱への移動をすすめるというものだった(炭坑誌三六一頁)。協和事業年鑑によれば、協和会梅香崎支会の下で共済組合は鉱業所から九千円、協和会員側から三千円をあつめ、郷里に借財のある八九人に貸与して、毎月労賃の十分の一を会計から差引いた(三一八頁)。共済組織は朝鮮人動員に加担していたといえる。

 四〇年一二月には端島で炭鉱の翼賛組織として「臣道実践自治委員会」がつくられ、「融和」の名による統制が強められた。四一年四月〜九月の福岡管理局内での出炭競争では高島炭鉱が一位となり、出勤率は九二%の高率を示した。四二年一二月には戦争開始一周年にあたり「一日戦死の日」が設定され、全収入約一万四千円を、梅香崎警察署を通して「建艦献金」した。四四年一二月には決戦必勝石炭増産運動総突撃、四五年三月には皇国護持全山特攻運動、同年五月には肉弾特攻必勝増産運動、同年七月には決戦必勝非常採炭運動などがとりくまれていった(炭坑誌三六六、三七九、三八九頁、高島炭礦史三一一頁)。

 「皇民」「自治」「融和」の名による統制と「戦死」のかけ声による強制労働。そこでは「突撃」「特攻」「肉弾」「決戦」が叫ばれた。このような末期的状況のなかで、連行された人々は解放の日が近いことを感じたにちがいない。

 連行期の朝鮮人の「宿主」についてみると、三九年から四〇年の間は厳龍甲・李斗雨であったが、四一年から四五年は岩本幹、四三年から四五年は金原信一であったことがわかる(火葬認許証申請関係書類)。

 端島へと連行された人々は端島の北端にある収容施設に入れられた。大量の労働者動員・連行に対応して端島では四四年から報国寮(第六五号棟)の建設がはじまった。高島では百万・仲山・二子ほか各所に朝鮮人が収容されたとみられるが、詳細は不明である。

 労務管理が強められるなかで朝鮮人の抵抗がおきている。たとえば、一九四四年三月一日高島炭鉱(朝鮮人連行者一二七八人就労)で一三人が「空腹」を理由にストライキをおこなった(『特高月報』一九四四年四月)。これ以外にもさまざまな抵抗があったとみられる。

 端島へと連行された中国人も入坑を拒否して抵抗している。四四年八月、坑内ガスにより二人の中国人が死亡、それを契機に百人が交替時に入坑を拒否、最後まで抵抗した李慶雲ら五人は留置され拷問された(朝日新聞一九九九年一〇月一六日付)。連行され端島で日本人を殴打により死亡させた中国人は検挙され長崎で被爆死した(朝日新聞一九九九年一〇月九日付)。

 強められる統制と増産のなかで朝鮮人の死者数も増加した(表一)。

死因は胸部外傷、埋没窒息、頭蓋骨骨折、圧死、溺死、病死、戦災火傷死などである。事故の多発については石炭統制会史料「主要炭鉱朝鮮人労務者就業状況調」(一九四四年一月分)の高島炭鉱の項の数字からもわかる。在籍一五〇三人の朝鮮人のうち、業務上死傷病者は五五人、業務外死傷病者は一八六人とあり、計二四一人とされている。死傷病率は一六%の高率である。逃亡者の欄は0人とされている。この数字は高島炭鉱の圧制と監視を物語るものである(戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集1・七四頁)。

 四三年十月には高島二子坑で四九人が死亡する事故がおきている(炭坑誌三九八頁)。ここには朝鮮人も含まれているとみられるが、死亡者名は不明である。

端島の対岸の野母崎町の南古里に「南越名海難者無縁仏之碑」がある(現在の碑は一九七七年に建立)。ここに端島から逃亡して溺死したとみられる遺体が埋められた。一九八六年に遺体確認のための発掘が市民団体の要請でおこなわれ、四体が確認された。遺体は連行された朝鮮人であった可能性が高い(原爆と朝鮮人4・一三九頁)。

 四五年七月三一日、米軍機による攻撃で高島の発電所が被害をうけ、発電は中止された。海底坑道での作業は止まった。連行された人々の解放の日は近づいていた。

 解放数日前の一九四五年八月九日、坂本鳳日(晋陽郡)は被爆死した。長崎市「長崎朝鮮人被爆者一覧表」に坂本の名があり、刑務所で死亡したと記されている。かれは端島の坑夫だった。徐己得(晋陽郡)も戦災火傷死により八月二四日に死亡している。かれらがなぜ被爆したのかは不明である。

 端島に墓地はない。死体は端島と高島の間にある中ノ島で火葬された。端島閉山の際、無縁の遺骨は高島へと移された。高島閉山により、遺骨がおかれた千人塚の半地下式納骨堂は三菱によって破壊された(原爆と朝鮮人』6・二二七頁)。端島の吉田飯場の単身者の遺体のなかには海に捨てられ処分されたものもあるという(姜時点証言死者への手紙二七八頁)。

 日本人を含めて一千人をこえる高島炭鉱での労災や病気での死亡者全員の名前は不明である。一九四〇年十二月から四二年十一月までの殉職者六〇人分(このうち朝鮮人は七人分・朝鮮を連絡先とする者)の名前は大日本産業報国会の殉職産業人名簿からわかる。また戦後の四五年八月から七六年十二月までの九三人分の名前は高島炭鉱労働組合の『三〇年史』から知ることができる。『炭坑誌』にも新聞記事などから死者名が収録されている。しかしすべてを明らかにすることはできない。

 

六 未払金額

 

 厚生省名簿には未払金が記されている(表四)。未払金額は「置去金」七万九六五一円、家族手当六万二二九五円のほか、補給や諸手当をあわせて計二二万四八六二円となっている。そしてこれらの未払金を石炭統制会へと移管することを「決裁中」と記している。

 個々人の未払金の欄をみると百円台が多い。黄海道信川郡などの集団をみると五百円台の未払金があるものもある。戦後の混乱のなかで帰国用に一定の額が支払われたものもあるが、全く支払われていない人々も多かったのではないかと思われる。

 この名簿には逃亡者や死亡者について一切記載がない。そこに企業側が責任をのがれようとする意図があるように思われる。ここに示された未払金の額についていえば、この名簿から意図的に削除されている人々の未払額が示されなければ正確とはいえない。

 尹椿基証言(百萬人の身世打鈴三九九頁、原爆と朝鮮人6・二二九頁)によれば、強制貯金や家族への送金は支払われていない。会社側は家族へと送金すると言っていたが全く送られていないという。

 政府と三菱はこの一覧表に示された未払金二二万円余りに死亡者や逃亡者などの未払金を加えて額を算定し直し、それを基礎に基金を設立し、追悼、個人賠償、記憶にむけての事業をはじめることもできるだろう。史料を明示し、死者の名前や遺骨の行方をあきらかにすることも課題となる。

 三菱財閥関連企業への朝鮮人連行者の総数についてここでみておけば、三菱重工二万人以上、三菱鉱業六万人以上、地下工場建設関連数万人とみられ、連行者の総数は約十万人となると考えられる。日本国内への朝鮮人連行者を百万人とすればその一割は三菱財閥関連への連行であったとみられる。三菱鉱業を例に朝鮮人連行の状況をみておけば、三〜四千人の朝鮮人を連行した三菱系炭鉱(植民地を除く)は美唄・大夕張・雄別・新入・飯塚・鯰田・方城・上山田・勝田・高島・崎戸などがあり、これらの炭鉱だけで連行者数は四万人ほどになったとみられる。

厚生省報告書の長崎県分から三菱系事業所への連行者についてみれば、三菱崎戸炭鉱分の名簿(氏名と本籍地)約二九〇〇人分と通帳名簿、三菱長崎造船分の五九七五人の連行者数の記述(名簿はない)がある。

三菱高島の史料にある約一三〇〇人分の未払金二二万円余は、現在の価格に換算すれば一億円をこえるであろう。高島での未払金の状態をふまえて、三菱財閥関連の連行者を十万人と仮定し、その未払金を推定すれば現在の価格で百億円近くになるのではないか。連行者への個人補償にむけて基金の設立をすすめるべきだろう。三菱は過去の克服にむけて率先して基金の設立をすすめる立場にある。

 

七、三菱の歴史認識と被害者の活動

 

 以上、三菱高島炭鉱への朝鮮人連行について史料と証言からみてきた。高島炭鉱へは四千人近い朝鮮人が連行されて苛酷な労働を強いられた。また未払金も高額に及ぶといえよう。

 高島炭鉱が一九四六年に作成した名簿と一覧表には死亡者・逃亡者・帰国者・転送者についての記述がなく、一九四二年八月以前の連行者名についても記されていない。残された名簿は八・一五まで残留し帰国した人々のものであり、全連行者の半数以上の名前や未払金が不明のままである。死亡者や逃亡者の未払金を除いて計算された未払金一覧表は不正確といわざるをえない。それは史実の偽造を示すものでもある。

 映画「世界の人へ」製作(一九八一年)のために、徐正雨氏らが三菱に対し長崎造船所構内の被爆地点での撮影を許可するように求めたところ、三菱側は入構を拒否した(原爆と朝鮮人4・五〇頁)。このような対応は史実の継承・記憶を拒否するかのような姿勢である。

 一九八八年に三菱石炭鉱業は高島現地に慰霊碑を建てた。その碑文には「この間、中国並びに朝鮮半島から来られた人々を含む多数の働く者及びその家族が、民族・国籍を超えて心を一つにして炭鉱の灯を守り、苦楽を共にした日々を偲ぶとともに志半ばにして職務に殉じられ、或いはこの地において物故された諸霊を慰めるためにここに碑を建立し、永遠の御冥福を祈念する」とあった(原爆と朝鮮人5・四〇九頁)。

 ここでは強制連行・強制労働を認め、それを加害・犯罪行為とする歴史認識は示されず、戦時下の連行と労働が美化されている。このような植民地支配の正当化とそれへの無責任は、死者を再び虐待することでもある。この碑文は三菱の歴史認識のありようを示すものであったが、市民団体が碑の全面的改善を申し入れると碑文をはずし、碑と共に再建された安藤兼造記念碑・岩崎平記念碑を撤去した(原爆と朝鮮人6・二二三頁)。

 碑文は書き換え、記念碑については歴史的説明を加えて当時の認識の誤りを示すことで後世の教訓とすることができる。しかし撤去し何も記さないとするのならば、加害の歴史認識を拒み続けていることになる。高島町の高島神社右方にある「慰霊碑」には今も碑文がない。

 高島炭鉱閉山後、三菱鉱業セメントが一九八九年に出版した『高島炭礦史』には、朝鮮人の連行について、四一年現在の日朝労働者の比率を例に「抑えぎみであった」とし、「円満に帰国」として十月までに朝鮮人の送還は終了したと記されている(高島炭礦史三一一頁)。

 ここでみてきたように、三菱高島は一九一七年から朝鮮人を使い、一九三九年以降は四千人近い朝鮮人を連行してきた。「抑えぎみ」ではなかった。人々の帰国は決して「円満」ではなかった。帰国しえず、家族と離散したり、死亡した人々もあった。被爆した人々もいる。また、高島に戦後も居住することになった朝鮮人もいた。

 一九八六年に三菱高島炭鉱は閉山した。八七年七月に三菱は端島から高島へと移された遺骨も収納していたとみられる千人塚の地下納骨堂を破壊した(原爆と朝鮮人6・二二五頁)。

一九九一年、全羅北道で端島韓国人犠牲者遺族会が結成され、三菱に対し遺骨の返還を求めた。それに対し三菱側は九二年四月に「死亡者名簿・遺骨の所在は不明」「事実関係が明らかにされておらず当社の責任については言及することはできません」と回答した(死者への手紙二九六頁)。九二〜九三年と交渉がおこなわれたが、三菱側は高島での遺骨の発掘を拒否した(原爆と朝鮮人6・二二八頁)。高島での聞き取りによれば、閉山時に勤労課関係書類は蛎瀬坑内に廃棄されたという。

 このような経過から、戦後三菱は死亡者や逃亡者が欠落した名簿を県・厚生省に提出したこと、連行についての史実の記録を拒んだこと、労務関係史料が不明となり現地では史実が隠蔽されたままになっていることなどを指摘することができる。

 三菱重工に対しては連行された人々が一九九二年長崎、九五年広島、九九年名古屋で裁判にたちあがり、謝罪や賠償を求めた。しかし三菱重工側は事実の認否を拒み、連行は国の責任とし、時効や除斥を理由に未払金の支払いや賠償に応じてはいない。

 二〇〇一年八月、米カリフォルニア州のサンディエゴ三菱の前で戦時中に三菱の工場で労働を強要された元米兵が謝罪と賠償を求めて抗議行動をおこなった。

二〇〇一年九月には三菱高島・端島・崎戸へと連行された中国人の被害者らが長崎三島中国労工受害者聯諠会を結成した。中国人はこの三ヶ所の炭鉱へと八四五人が連行され九四人が生命を失っている。二〇〇二年一月、同会は三菱マテリアルに要求書を提出し、謝罪と賠償を求めた。

 事実の認否の拒否、史実の隠蔽の継続、記録作業の拒否、未払金支払の拒否、責任の回避など過去の克服をこばむこれらの壁はいまも崩されてはいない。戦時下、労働奴隷とされた人々の尊厳回復にむけての活動は続いている。

 これまでの三菱の対応は被害者の尊厳回復や平和を求める想いを受けとめるものではなかった。その対応は誠実と寛容を欠くものであり、企業の品位を自らおとしめるものであった。

 三菱長崎や広島の裁判で存在があきらかになった貯金名簿、供託名簿などの調査や存在が指摘されている労働者年金保険被保険者台帳の調査によって連行された人々の名前をあきらかにすることができる。これらは政府機関の中にあり、政府と企業(三菱)自身の調査によって公表されるべきものである。三菱高島分の年金被保険者台帳は六冊分が存在する(『長崎新聞』二〇〇〇年八月二八日付)。

 海底に沈められ、大地に埋められたままの労働者を追想し、隠された人間の歴史を蘇生し復権していくことは人間性の回復と共同性を高めていく作業でもある。

 

おわりに

 

高島の権現山公園の頂上付近に大蛇伝承をもつ「蛇谷」がある。その入口に「地蔵」が置かれている。その地蔵に由来は何も記されていない。山下直樹氏の聞き取り調査によれば、三菱高島で朝鮮人を迫害した労務が離島後も悪夢にうなされたため来島し、鎮魂のために置いたものという。蛎瀬坑近くの建屋の前には閉山後、ここで事業をおこなった人が一九八八年に建てた小さな「慰霊碑」がある。この蛎瀬の小さな碑には「高島鉱に眠る人々よ 安らかに」とある。

尹椿基氏は証言で、二度と繰り返さないという約束、強制貯金の返還、世界平和を求めている(百萬人の身世打鈴四〇〇頁)。しかしこのような個々人の鎮魂や被害者の尊厳回復への想いは実現しているとはいえない。消されたままの人々の歴史はその復権を待っているといえよう。

 高島は閉山して十七年となる。現在では高島の石炭関連の産業遺跡はわずかである。戦時下採掘された高島新坑の坑口は封鎖されてはいるが、役場近くにその坑口跡を残している。高島二子坑跡は再開発のために平地とされている。その地面の各所に石炭の塊が黒く光る。

 端島は閉山して三〇年を迎えようとしている。コンクリート製のビル群は崩壊箇所も多い。連行者が収容された棟のひとつが残っている。端島の入口の門は連行された人たちが通過した史跡でもある。その門の奥には監視口がいまも残っている。崩れた建物の赤いレンガや材木・コンクリート、壊れた鉱山機械や生活用具、黒いボタが各所に散在している。貯炭場近くにある支柱は赤茶色に変色していた。それは墓標のように立っていた。

 三菱高島の石炭とその採掘に費やされた労働は姿をかえていまもある。島に立つと風と海鳴りが交差する。その音は労働者の歴史の復権と人間の方向について語りかけているようにも思われた。

 

   引用・参考文献

 

「三菱高島炭鉱名簿」厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」長崎県分一九四六年

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林えいだい『死者への手紙』明石書店一九九二年、『妻たちの強制連行』風媒社 一九九四年、『地図のないアリラン峠』明石書店 一九九四年

林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集U朝鮮人1下』 明石書店 一九九一年

大日本産業報国会『殉職産業人名簿』一九四二年

中央協和会『協和事業年鑑』一九四二年(社会評論社復刻版一九九〇年)

前川雅夫編『炭坑誌』(長崎県石炭史年表)葺書房 一九九〇年

筑豊石炭礦業史年表編纂委員会『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会・一九七三年

朴慶植編『朝鮮問題資料叢書二』アジア問題研究所 一九八一年 

盛善吉編『もう戦争はいらんとよ』連合出版 一九八二年

百萬人の身世打鈴編集委員会『百萬人の身世打鈴』東方出版 一九九九年

大分県朝鮮人強制連行共同調査団『朝鮮人「強制連行」大分県の記録』一九九三年

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』1・2 緑蔭書房一九九二年

田中直樹『近代日本炭礦労働史研究』草風館 一九九四年

朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』 明石書店 一九九〇年

三菱鉱業セメント総務部社史編集室『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント 一九七六年、

三菱鉱業セメント高島炭礦史編纂委『高島炭礦史』三菱鉱業セメント一九八九年

阿久井喜孝・滋賀寿實『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局 一九七四年

松坂英明・つね子『娘松坂慶子への「遺言」』光文社一九九三年

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『追悼徐正雨さんその誇り高き人生』岡まさはる長崎平和資料館ほか二〇〇二年

『高島町文化史』(改訂版)高島町一九九五年

『高島半世紀の記憶』高島町 一九九九年

『三〇年史』高島炭鉱労働組合 一九七七年

『高島町遺跡地図』長崎県一九八七年