地下工場・地下施設建設

  地下工場建設

 ここでは、アジア太平洋戦争末期、静岡県における朝鮮人の動員について、地下工場・飛行場建設を中心に記していきたい。

 侵略戦争が日本帝国主義の敗北にむかう局面で、政府・軍は軍需生産を維持するために全国各地に地下工場・地下施設の建設を計画する。一九四四年七月、東条内閣は地下工場建設を決定、それにともない建設部隊が組織され、地下工場建設のための指導要領も作成されていった。日本への空襲が激しくなるなかで地下工場の研究と建設がすすめられていくわけであるが、地下工場の建設指導要領案作成のために研究施設として利用されたものに静岡県大仁鉱山・福島県福島市郊外の廃坑があったという。地下工場建設の概略については、戦争の記録を残す高槻市民の会編『地下軍需工場の記録』所収の諸資料と『地下工場と朝鮮人強制連行』の記述による。

 一九四四年一一月の中島飛行機武蔵工場への空襲によって、工場施設が破壊はされ、工場の地上生産は不可能になった。このようななかで政府は重要軍需工場の地下工場建設・生産設備の移転を更にすすめ、陸海軍、民間重要工場は各地に地下施設・地下工場を建設することになった。

 これらの地下工場建設にあたり、設計監督を陸軍地下施設隊・海軍設営隊がおこない、施工を建設資本が請け負い、労働力として兵士・学生・地元民や朝鮮人が動員された。トンネル工事の最前線では多くの朝鮮人が連行され、労働を強要された。工事内容は秘密であり、地元民衆と現場労働者との接触は禁止されていたという。工事にあたり朝鮮人は全国各地から集められた。大阪・高槻の地下工場建設を例にみれば、四国・岐阜・大分・静岡・東北・長野ほかにおよび、朝鮮半島からの強制連行者もいたようである。

一九四四年九月の朝鮮半島での徴用令の適用により連行はさらに強化された。地下工場建設がさかんになる時期と重なるため、地下工場建設労働には、すでに渡日していた朝鮮人労働者とともにたくさんの人々が朝鮮半島から動員されていったとみられる。 

二〇〇一年の「特殊地下壕調査個別データ表」(『平成一三年度特殊地下壕実態調査』静岡県分)には二〇三箇所の地下壕が確認されている。このうち半数上が旧軍によるものであることが判明し、軍需工場の壕も多い。二〇〇五年の『特殊地下壕緊急実態調査』によって残存地下壕の数は倍増し、県内では四七七箇所が確認された(国土交通省『特殊地下壕実態調査表』)。地域別に多いところをみれば、下田一〇四、浜松七五、御前崎四一、沼津四六、静岡三九、掛川二四などである。

全国的には地下壕数は一万箇所を超えた。戦争末期に出撃拠点とされた鹿児島が三一四九箇所と最も多い。ついで九州の宮崎七四四、長崎七三八、熊本六五五、大分五八六箇所などが多く、海軍の拠点であった広島は六一四、神奈川は五一七箇所と多い。静岡の四四七箇所はそれに次ぐ数である。地下壕としては陸軍浜松基地の本土決戦関連、掛川の中島飛行機地下工場、伊豆の特攻基地などの壕で残存しているものが多い。

 では、静岡県下の地下工場建設についてみていこう。

 

 三菱発動機工場

戦後、米軍によってまとめられた『米国戦略爆撃調査団報告書』によれば、県下の地下工場としては、用宗・藤川・谷田・大岡・原谷・長岡などがある(『地下工場と朝鮮人強制連行』)。三島市谷田・沼津市大岡(黄瀬川工場)には、中島飛行機の機銃架台などを生産する工場があった。谷田工場の下に地下工場が建設された。中島飛行機の発動機工場としては浜松工場があったが、前章でみたように掛川市原谷地区に移転して地下工場を建設した。また中島航空金属は周智郡森町に疎開工場を建設していった。

 日本飛行機は伊豆長岡町に地下工場建設し、シートメタルの生産をおこなおうとしたが、建設はすすまず倉庫として転用した。沼津海軍工廠も伊豆長岡に地下工場を建設しようとした。

 静岡市の三菱発動機工場は地下工場として用宗・焼津間の国鉄トンネルを利用した。トンネル内には工作機械が四九六機おかれ、一九四五年六月から操業された。ここでは二五組ほどのシリンダー・発動機部品が製作されたようである。

 三菱は大井川上流の藤川地域の発電用トンネルも利用しようとしたが、この計画は交渉中に敗戦となり、実施されなかった。

 また三菱は静岡市丸子の山あいに分散工場を建設した。静岡市赤目ケ谷に木造カマボコ型の工場がつくられた。三菱の工場建設の動員された朝鮮人が動員されたとみられるが詳細についてはわからない。静岡市の三菱・住友の工場は戦時下に建設されたが、建設には朝鮮人が動員され、高松地区に朝鮮人集落が形成されている。三菱の分散工場については静中静高百年史編集委員会『静中静高百年史』下に記述がある(七二〜七三頁)。

静岡の三菱工場建設に朝鮮人の徴用があったと、朴洋采さん(一九二五年生)はいう。

朴さんは全羅南道の和順郡の出身、父はかつて義兵闘争に参加し朝鮮北部へと追われた末、日本に渡った。福岡の炭鉱で働き、一時朝鮮に帰り、母と結婚した。そして、山口県の徳山方面のダム工事現場で働いたが、そこで朴さんは生まれた。

朴さん父は徳山での工事の後、奈良県のダム工事を経て、大井川鉄道工事の現場で青部トンネルや千頭の橋梁工事に従事し、一九二八年に静岡に来た。静岡では下水道工事をおこない、勝呂組の配下となり、柳町に長屋を借りた。

小学校に入ったのは一九三二年の頃、小学校を卒業する少し前まで、「松山茂」と名のっていた。父は五〜六人の飯場を経営し、平井組の孫請けになって大河内村の砂防工事の飯場に入った。朴さんは一九三八年頃、一時期、本名を名乗ったが、創氏改名の中で新井へと姓を変えられた。

特高警察の下に、協和会の組織が作られ、皇民化政策が強められた。当時若かったが、凖協和会員として駆り出された。月に一回は集合させられ、皇国臣民の誓詞を唱和させられた。

高松には戦争が始まると、三菱の工場が建設された。竹中飯場などが作られ、そこにたくさんの朝鮮人が来た。なかには徴用されてきた人もいた。高松の朝鮮人の集落は戦時中に形成された。徴用された人たちは、いつかこの恨みを返したい、お前が行かないと親戚を引っ張るといわれてここに来た、泣き泣き徴用された、などといっていた。城内の高等小が特別訓練所とされ、そこで教練がおこなわれ、高松からも来ていた。朴さんも凖会員として動員され、そこで話す機会があった。戦後一旦、高松から朝鮮に帰っても、軍政下のため戻ってきた人もいた。田町の朝鮮人集落は戦前からのもの。高松と田町では朝鮮人集落の成立が異なっている。

当時、朝鮮人は人間以下の生活状況に置かれ、蔑視されていた。母は朝早くから紙くずを集め仕分けして、紙の原料用に出すことで生活費を得ようとしていた。第三四連隊から残飯を買ったりもした。朝鮮人がなぜこんな生活をしなければならないのかと、父母を恨んだこともある。一九三八年に、予科練を受験しようと思ったが、「おまえは植民地民族だから軍に入れない」といわれた。その後、葵文庫で大韓帝国関連の本を読み、かつては朝鮮に国があったことを知った。それをきっかけに、何かがおかしいと考えはじめ、親を恨むのではなく、社会と植民地支配について考えるようになった。

静岡大空襲の頃には神明町の望月鉄工所で働いていた。鉄工所は海軍工廠に旋盤を納入していた。大空襲では、B二九がはじめに重油をまき、その後焼夷弾を投下した。八・一五のとき、鉄工所の仕事の徹夜明けだった。日本の敗戦を知り、率直に言って、これで灯火管制がなくなると思った。

父は韓国併合の「勅諭」と明治天皇の「ご真影」を足で踏みつけ、燃やした。「倭奴(ウェノム)らはオレを忠実な皇国臣民と思っていただろうが、オレは亡国の恨みを忘れてはいない」などと言った。田町の一〇人ほどが、日帝から解放されたと集まり、「解放万歳(ヘバン・マンセー)」と語りあっていた。父はすぐに帰国しようとしても、下関で止められると様子を見ていた。結局、日本に残ることになった。

朴さんはいう。かつては「暴虐シナを膺懲する」と宣伝して、日本は戦争を始めた。その戦争で暴虐を働いたのは、日本軍だった。日本の動きは、かつてのこのような戦争準備の宣伝と似ている。すでに有事立法をつくり、さらに憲法改正を語る状況は不気味な感じがする。在日朝鮮人のみならず、日本人も戦争の苦しみを味わうことになる。ともに平和な時代をつくりたいと (静岡にて、二〇〇五年談)

 

  中島飛行機三島地下工場

 中島飛行機は沼津市大岡(黄瀬川工場、現・富士ロビン)と三島市谷田(現・遺伝学研究所)に工場を建設した。ここでは機銃架台・機関銃・弾丸などが製造された。三島工場の建設は一九四二年ころから始まり、一九四三年には生産を始めたようである。三島工場では、徴用労働者・挺身隊員・学徒が動員され、昼夜の労働で兵器が生産された。地下工場も谷田押切の方面から掘削された。工場用敷地工事、地下工場トンネル掘削には朝鮮人が従事した。『三島にも戦争があった・中島飛行機三島工場〜地下工場建設と朝鮮人の強制労働』に調査記事がある。

 三島工場に「技能者養成工」として入った人々の名簿が「昭和一九年度中島飛行機三島製作所第二期生同窓会住所録」である。この名簿を編集した増田秀雄さんによれば、三島工場と地下工場の状況はつぎのようになる。

 「三島工場内には第一・二・三工場まであり、ここで製造されたのは、航空機用の機関銃・機関銃架・弾丸だった。第一工場ではアルミニウム製の円盤に鉄の枠をはめて銃架を製造し板金もおこなった。第二工場では弾丸・機銃の製造をおこなった。第三工場には仕上げ工として女性挺身隊も動員され、ターレット(旋盤)・ねじ切り・仕上げの工程があり、製品の仕上げがおこなれた。また熱処理をおこなう冶金工場と射撃試験場もおかれていた。

 地下工場の工事が始まったのは一九四三年末ころからと思う。工事に従事したのは朝鮮人であり、請負業者は池田組だった。岩質は軽石状土であり、トンネル内に松丸太を入れて補強した。七本のトンネルが昼夜の突貫工事で掘られ、それらを横に結ぶトンネルも三本ほどが掘られた。

 冶金工場の横から滑車で地下工場の上に旋盤などの機械を運び、竪坑を掘ってトンネル内に配置した。運ばれたのはターレットなどの小型機械だった。それらはトンネル内の横の通路に配置された。

地下工場では機関銃の弾丸が製造された。私は第二工場で働いていたが、地下工場で働くことになった。工場内は湿気が強く、奥にむかうにつれて水が多かった。長靴をはいての作業であり、漏電が多かった。フライスの上に機械を乗せて仕事をしたが、二〇〇ボルトの電流が漏電し、うかつに手を機械から離すと火花が出るほどだった。モーターも湿気た。地下工場は一九四五年春ころから操業をはじめた。」(三島にて、一九九一年談)。

 別の元養成工は「地下工場に移ったのは第二工場だった。私が働いていたのは第三工場であり、機関銃の組立と仕上げが仕事だった。中島飛行機工場周辺の防空壕は従業員が避難するためのものだった。朝鮮人は工場用敷地工事・地下トンネル工事に従事していた」という。

 地上の工場建設工事に従事した山田重利さんはいう。「工場は徴兵(一九四三〜四五)される前に完成した。格納庫として使うような地下施設もあり、内部で繋がっていた。自動車で出入りできるほどだった。現・錦川小学校の崖の下の並木町に朝鮮人の飯場がつくられていた。バラック建ての長屋風の棟に一〇〇人くらいが居住していた。その飯場の人々は、元は丹那トンネル工事に従事していた人々が多いのではないかと思う」(山田重利さん談)。

 戦後、トンネルは自然に陥没した。入口が二ケ所ほど残っていたが、宅地造成がすすむなかで土地の陥没などが問題とされ、県の砂防工事で一九八〇〜八一年にかけて封鎖された。三島市の調査によれば五本の縦穴(一〇三〜一一六メートル)、三本の横穴(二〇・四〜八六・一メートル)という。このトンネルの長さは地表からの調査でもあり、確実とはいえない。

 国立遺伝学研究所から南東部、山の中腹に大小の防空壕が残っていた。米軍艦載機による攻撃があり、貨物列車を狙っての射撃ののち、工場が攻撃されたこともあったという。「朝鮮人飯場」跡での聞き取りによれば「戦後、韓国へ帰ったよ」とのことだった。

地下工場建設に従事した朝鮮人の話をまとめてみよう。

魯春鶴さんは黄海北道鳳山郡出身、長男として生まれ、結婚し二人の子がいた。一九四一年一一月末、日本鋼管川崎工場へと七五〇人とともに連行された。そこで「一年契約」ということで川崎のコークス工場での労働を強いられた。かれは班長にされていたので、日本人の上役に「タバコが一週間遅配だがどうしてですか」と話に行った。しかし,このやろうなまいきだ」と事務所で皮のスリッパで顔をメチャクチャに殴られた。思わず手近にあったイスを振りまわした。連絡をうけた憲兵によって憲兵隊へ連行され、四〇日間放り込まれた。空襲のときに逃走し、川崎から小田原、根府川へといった。くたくたで空腹で倒れそうになっていたところ、一人の老婆に芋をもらって、むさぼるように食べた。熱海に着いたときに同胞に行き先を問われ、行くあてがないというと「私といこう」ということになり、三島に着いた。

 中島飛行機工場建設の土木は池田組が請け負い、小野が世話役だった。並木町の飯場だけで一五〇〜一六○人ほどいた。地下工場建設工事は一つの穴を一五〜六人くらいで担当し、ツルハシで堀り、トロッコで運んだ。手に豆ができ血の汗が出た。七〇メートルほどの本線を掘り、それからムカデの足のように掘った。敗戦一週間くらい前に、三島から山梨へと出張させられ、五日にわたり壕掘りをさせられた。

 故郷へと五四年ぶりに帰った。朝鮮戦争のため故郷がメチャクチャになり区画名称がすっかりかわっていた。そして妻・子ども二人・孫一二人が今もいることを告げられ、胸がつまり、泣けて、泣きつづけた(『朝鮮人強制連行調査の記録中部東海編』二七七頁〜、『三島にも戦争があった・中島飛行機三島工場〜地下工場建設と朝鮮人の強制労働』二二頁〜)。

 日本は朝鮮半島から、食糧・土地・鉱産物・人間など、あらゆるものを収奪した。そしてこの支配と収奪の末、米ソ対立のなかで、南北分断がもたらされた。それは、日本に住むコリアンの故郷への帰国・訪問をさまたげることになった。戦時下の徴兵・徴用(軍属や性的奴隷を含む)の実態は、政府・自治体・警察・学校・企業などが史料を公開しないため不明なままである。事実究明のための調査・記録がもとめられている。

 中島飛行機については『米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第一八巻「中島飛行機会社(会社報告第二号)」がある。本稿との関連でいえば第一六巻「三菱重工業会社(会社報告第一号)第二一巻「住友金属工業会社プロペラ製造所(会社報告第六号)」、第二四巻「日本楽器製造会社報告示第九号)」がある(国会図書館蔵)。

 

 共立水産工業大場工場

 ここで地下工場ではないが、三島にあった共立水産大場工場への連行についてみておきたい。

 三島から伊豆箱根鉄道に乗り四つめの駅が大場である。この大場には伊豆箱根鉄道の本

社があるが、その本社の敷地にかつて共立水産工業大場工場があった。

 この工場では鯨皮を用いて皮革材を生産していた。厚生省報告書(一九四六年)によれば一九四五年五月に全羅北道完州郡から二〇名が徴用され強制連行されている。

 この共立水産大場工場に連行された全北完州郡在住の李萬求さん(一九二二年生)は次のようにいう。

 私が生まれた高山里はそのころ六〇戸ほどの村だった。私は三男で父母と兄が二人いた。

学校の先生が姓をつくり、一九四〇年ころ、川原という姓にかえさせられた。

 一九四五年三月ころ面の職員から徴用令状をうけた。全北の道庁に二三人があつめられた。任實郡の雲岩川をせきとめる仕事をするということだったが、徴用されて日本へと連行されることになった。日本から伊藤という男がきていた。かれは朝鮮語ができた。

 朝鮮服のまま、金も与えられず、全州駅から汽車で釜山まで行き、船で下関に着いた。救命具をつけられたので無事に着くことを祈った。下関まで伊藤が連れていった。工場から迎えにきていた坂田が責任者になって汽車で三島へと連れていった。

 共立水産工業大場工場は鯨皮工場だった。塩水に鯨皮を入れたり、厚い皮をローラーで伸ばしたり、皮を乾燥させたりする仕事があった。私は鯨の皮をリヤカーで倉庫に運ぶ仕事をした。一人負傷して小さな船で故郷へ戻りまた帰ってきた。

 大場工場内に合宿所があり、そこに入れられた。坂田が監視役だった。家族への連絡はできなかった。工場の外へは出入りができた。逃亡した人はいなかった。食糧が少なく腹がへって畑や山に入って食べざるをえなかった。農作業の人は「半島人はしょーがない、しょーがない」といった。

 一九四五年八月一五日、会館にあつめられ「天皇陛下が直接放送する」といわれて放送を聞いた。日本人は泣いていたが、私たちは日本語がよくわからず、なんのことかわからなかった。日本人が泣くのだから負けたのかと思った。そのあとも一〇日間くらい仕事をつづけた。

 工場の側が私たちを下関に連れていった。下関に一五日ほど泊まって、一〇月ころに帰国した。帰るとき、少しだけの金と通帳と証明書をもらったが、船の中で盗まれてしまい、何も残らなかった。連れてこられたときには釜山から下関まで八時間ほどだったが、帰るときには二四時間かかった。大きな船に九〇〇人ほどが乗った。ともあれ故郷に帰ることができた。あれから長い時間が流れた(韓国全州市,一九九六年談)。

 一九四四年から軍需工場への連行者が増加した。共立水産への連行もそのひとつである。このような形での連行が県内の他の箇所でもあったとみられるが、その全貌はあきらかではない。

 

   二 軍地下施設建設

 つぎに海軍関係施設の地下施設への疎開・移転についてみていきたい。そこでも朝鮮人の動員があった。

 

第二海軍技術廠島田実験所牛尾山半地下施設 

 島田に第二海軍技術廠島田実験所が開所したのは一九四三年六月のことだった。ここでは「Z研究」(殺人光線)という電波兵器研究が理論物理学研究者を動員しておこなわれた。この研究所は一九四五年はじめに、大井川対岸の金谷町牛尾山と本川根町崎平へと移転・疎開をはじめる。崎平にある日本発送電の水力発電所の電力を利用する計画のもとでトンネルを選定し、工作機械が搬入された。牛尾山北東部へは半地下式施設の建設がすすめられた。この島田実験所については小屋正文・小林大治郎・土居和江『明日までつづく物語』、森薫樹「Z研究」(『静岡県の昭和史』下)一三〇頁以下に記述がある。

 牛尾山には牛尾山に事務棟・宿舎・研究室・電源室・発振室などがおかれた(『明日までつづく物語』一二八頁)。「『阪復』静岡県区内接収関係」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)には牛尾実験所の図面と地下施設の一覧がある。それによれば、トンネルは五つ掘られ、半地下施設も五つ建設された。地下室も二つあった。

 金谷町牛尾山の西南側に曹洞宗の養福寺がある。ここでの聞き取りによれば、一九四五年、寺に五○人ほどの徴用の労働者が宿泊して工事に従事した。労働者の多くは朝鮮人だった。軍の命令によって寺が宿舎とされた。本堂に長期間居住したため、寺にたくさんシラミが出た。寺で労働者たちは炊事をした。軍の責任者が近くの民家に宿泊して、工事を監視した。山の中腹(私有地)に半地下施設が建設されていった。五月ごろ事故が起きて倒壊してしまった。そのため設計担当の技師が自殺した。その後も復旧建設作業が昼夜兼行で続いた。空襲になると寺の防空壕へ逃げた。寺の井戸から塩水が出たという(一九九一年談)。

 村の男たちは徴兵され、女たちが農業に従事するなか、朝鮮人を主体とする徴用者が寺に集められたようだ。戦後、この施設は発破されて破壊された。牛尾山の東北側の斜面を、草木をかきわけて上っていくと、中腹にコンクリート製の建屋基礎跡があった。

 

沼津海軍工廠地下工場

 つぎに沼津海軍工廠の疎開についてみてみよう。

 沼津海軍工廠は無線兵器の製造のために、一九四二年から建設工事が始められ、一九四三年六月に操業した。このころ全国各地での海軍工廠建設に朝鮮人が従事している。沼津海軍工廠の建設工事にも就労していたと思われるが、詳細は不明である。

 一九四四年七月から沼津海軍工廠へと学徒動員された佐藤一正『学徒通年動員日記』によれば、一九四四年一二月二八日、学徒は伊豆長岡へと貨車からの木材積み降し作業に動員された。この作業は長岡に地下工場を建設する工事の手伝いだった。そこでかれは「朝鮮人の労働者も二〇人位いた」と記している。この記述から地下工場建設に朝鮮人が動員されていたことがわかる。

 「『阪復』静岡県区内接収関係」には沼津の地図があり、長岡駅の西側に沼廠天城出張所と記されている。これが長岡の地下工場を示しているといえるだろう。また函南の柏谷出張所が記されているから、ここにも地下工場が建設されていったとみられる。

 伊豆長岡町古奈でのききとりによれば「西琳寺に海軍工廠の労働者が宿泊した」「墹之上の狩野川放水路の南側にあった石切場のトンネルが利用された」「古奈の山に防空壕がつくられた」とのことだった。沼津海軍工廠については、佐藤一正『学徒通年動員日記』、『沼津史談』一八号、二五号などに記載がある。

長岡には日本飛行機もトンネルを建設した。途中で倉庫に転用したというが、この場所については不明である。

 

  海軍技術研究所音響研究部地下工場

 

 沼津市江ノ浦の多比には海軍技術研究所音響研究部の地下工場がつくられた。

 海軍技術研究所音響部は一九四一年十二月、沼津に設置された。ここでは空中聴音機、潜水艦探知機、音響魚雷、爆雷などの研究をしていた。

空襲が激しくなると海軍技研は多比や江間(伊豆長岡)の石切場跡を利用して地下工場にした。多比の地下工場への移転は四五年七月のことだった。この地下工場建設に、朝鮮人が動員されたことがわかっている(沼津市明治史料館『昭和の戦争と沼津』)。「『阪復』静岡県区内接収関係」のなかには多比地下工場の地図がある。

 多比公民館から神明宮と桂林寺にはさまれた小道を上っていくと右手に壕の入口がある。人口は低いが内部は広い。防衛庁史料には六カ所の工場が記されている。三カ所の工場跡については調査したが、ほかの工場の調査については今後の課題である。

 

 浜名海兵団建設

 

浜名海兵団は一九四四年二月に工事が始まり五月には開庁した。横須賀海軍施設部が工事を担当し、請負業者が建設した。建設用地用の山土や源太山を崩して採取された。この山土の採取と整地作業に約一〇〇人の朝鮮人が従事した。あるとき土砂崩れで二人の死者が出た(杉浦克己『艦砲射撃のもとで』一〇頁)。浜名海兵団建設でも朝鮮人が動員されていたわけである。

浜名海兵団は一九四五年四月には浜名警備隊となり、伊勢、伊良湖、御前崎、網代に分遣隊を派遣した。新居町内でも源太山、橋本、大倉戸、中之郷、三ツ谷、湖西の女河浦、三ケ日の大谷などに陣地を構築した(『新居町史』三六七頁)。女河浦の陣地は特攻基地だった。

「『阪復』静岡県区内接収関係」には新居海兵団海兵団と防備陣地の図面がある。そこには、海岸にはトーチカが一三個、山地には三一個の洞窟陣地と三個の弾薬庫が作られたとある。三ツ谷陣地では、機銃陣地と弾薬庫が作られ、陣地の深さは二〜三〇メートルあった。平治ヶ谷の山頂には見張り用の壕が掘られた。その山頂の壕は地下に垂直に入り、東西三〇メートルの壕に連絡していた。三ツ谷の山中の角江には中腹を北から南へと貫く、一〇〇メートルほどの大規模な壕が掘られた(『艦砲射撃のもとで』三二頁)。

これらの地下施設建設への朝鮮人動員については不明であるが、軍属や兵士の形で動員されていた可能性が高い。

 

清水の砲台

駿河湾を見下ろす有度山(日本平)には、本土決戦部隊(護古部隊)が掘ったという八〇〇メートル余りの巨大な地下壕がある。トンネルは一九四五年三月ころから掘られた。台座には高射砲が備え付けられる予定だった。二〇人ほどを収容できる兵舎と武器庫も建設された。谷田からは弾丸が、草薙からは食料が、トンネルを通って山頂付近の前線基地と武器庫へと運はれるようになっていた。兵士たちは静岡市の平沢寺とその周辺に居住し、三交代で建設にあたった。松丸太をトラックで運び、作業現場までは人力で運んだ。トンネルが完成するころには周辺に多数の軍用壕を掘った(「日本平の巨大軍用トンネル」毎日新聞静岡版一九九八年一一月一九日付記事)。

護古部隊とは東海軍隷下の第一四三師団のことであり、清水で陣地構築をおこなった部隊は歩兵第四一〇連隊だった。

「『阪復』静岡県区内接収関係」には清水砲台の配置図があり、壕をもった砲台が駿河湾防衛に向けて清水の有度山と袖師、さらに沼津の久料にも建設されたことがわかる。有度山砲台の配置図によれば、内部には居住区、弾薬庫が作られ、日本平と久能山方面に出入口がつくられていることがわかる。この工事と朝鮮人との関係についてはわかってはいないが、動員されていた可能性がある。

なお、浜松地域の軍地下壕については第一〇章で、伊豆半島各地に建設された特攻基地については第一一章でみていく。

 

 三 鉄道トンネルエ事

 

焼津・日本坂トンネルエ事

 一九三九年、東京と下関を結び、最高速度二〇〇キロメートル、東京・下関間の所用時間九時間、東京・大阪間を四時間半とするあらたな鉄道を設置する構想がたてられた。この計画は第七五帝国議会で議決され、一九四〇年から着工された。いわゆる「弾丸列車」計画である。しかし、この計画は資材・労働力不足などの理由で中挫した。

 この計画によって、静岡と焼津を結ぶためのあらたなトンネル工事がおこなわれることになった。工事を請け負ったのは大倉土木であった。トンネルの全長は一六五八メートル、工事は一九四一年八月から始まり、四四年八月に完成した(大成建設社史』三六七頁)。

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、一九四二年六月末には朝鮮半島から二一三人が連行されている。労働力の主体は朝鮮人であり、労働者不足は強制連行によって補充された。厚生省名簿によれば、四二七人の朝鮮半島からの連行者が含まれていた(一九四二〜四四年)。連行された四二七人のうち、逃亡は三一八人、帰国者は八一人、死者は六人とされている。連行された人々のほとんどが逃亡するか帰国し、残留者は二二人という状態であった。

 日本坂トンネルが完成すると、残った朝鮮人の一部は東京、浅川の中島飛行機地下工場の建設現場へと運行された。

 一九四三年三月慶尚南道晋陽郡琴山面から日本坂へと運行された姜壽煕さん(一九二二年生)の証言をみてみよう。

姜さんは釜山から家に帰ってきたときに「日本に行けば金がもらえる」「皇国臣民として日本のために働け」といわれ、着の身着のままの姿でトラックに乗せられた。晋州府から一〇〇人晋陽郡から一〇〇人の計二〇〇人が連行された。二〇人に一人の班長、一〇〇人に一人の隊長という形で編成され、日本坂トンネル工事現場に連行された。大倉土木の下の池田組の配下とされた。一年前に山清郡から連行された一〇〇人がいた。そのほかの多くの労働者がいた。一棟に五〇人ほどが入れられ、丸坊主頭の国民服姿でトンネル掘リやズリ出しを昼夜交替でおこなった。日本に憧れのようなものを持っていたが、強制的に連れてこられてはじめて、日本がどんなところかわかった。

姜さんはトンネルから出る土を捨てる仕事をさせられた。今日どういう風に生きられるかという生活だった。夜は飯場に鍵をかけられ、鉄筋を持った男たちが監視し、逃亡すると半殺しの目にあった。便所は飯場内にあり異臭がただよっていた。親が恋しくて泣いた。不満をもらせば、命がなかった。人間扱いされていなかった。食事は一般の労働者が食べた後だった。半年も経たないうちに隣村の人が二階から落ちて死んだ。遺体は会社が処分した。

一九四三年末、晋州からきた隊長がリーダーになって、約束がちがう、人間扱いしろと賃金や監獄部屋の改善をもとめて争議を起こした。しかし日本刀を持った警官隊がトラックで来て、村の消防団も動員された。隊長は連行され、戻ってこなかった。待遇は変わらなかった。あとはどう逃げられるのかだけを考えた。休みのときに草刈やみかん取りなどをして農家を手伝うこともあった。

夜の逃亡が多く、夜仕事に出たまま山へ逃げる人が多かった。しかし、逃げた現場で徴用され、南方に軍属として送られて死んだ人も多い。

一九四四年一月か二月頃、晋陽郡出身者と逃走し、九州の親戚を頼って汽車で移動した。しかし、小野田セメントのあたりで移動刑事に捕らえられ、下関の警察に留置された。会社の人間が受け取りに来た。姜さんは飯場頭のビンタで済んだが、逃亡者に対してひどい飯場頭は労務係と一緒に殴って半殺しにした。

姜さんは、池田組配下の「谷川」という朝鮮人の飯場頭のもとにいた。工事は一九四四年暮れまでには完成し、四五年には後片付けをした。これまで仕事をしていた日本坂トンネル作業場から、もう一人の「山本」という飯場頭の配下の労働者とともに一九四五年の四月頃、浅川に移った。連行されてきた二〇〇人の九割方は逃げ、五〜六人ほどしか残っていなかった。二人の親方は四〇〜五〇人ほどの労働者を連れて焼津から浅川(現八王子市、高尾)へと移動した。浅川には三〇〇〇人ほどが集められていた。そこでは倉庫番をした。

以上の姜さんの証言は『これが運命姜壽煕さんの聞き取り』、『百萬人の身世打鈴』、斎藤勉『地下秘密工場』からまとめた。

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』には焼津トンネル工事に従事したという二人の朝鮮人の証言が収められている。

それによれば、「焼津トンネル工事をやったが、多くの同胞が連行されてきた。」(盧敬接さん)、「朴氏は大倉組の下で長く土木工事に従い、静岡県焼津トンネルの仕事をしているとき発破のため耳をやられ、その後この高尾で働いた」(朴さん)という(二五頁・一五二頁)。ここに出てくる高尾(浅川)の工事とは中島飛行機浅川地下工場の建設工事のことである。

現在、日本坂には、北から東名高速道路用、国道一五〇号バイパス用、新幹線用、JR東海道線用のトンネルがある。現・新幹線用日本坂トンネルが戦時下掘削されたものである。トンネルは貫通し、東海道線がこのトンネルを使用した。東海道線が使用していたトンネルは三菱の地下工場として転用された。戦後の新幹線工事にともない、旧弾丸列車用トンネルが補修され、日本坂トンネルとして利用されることになった。

 ここで東益津地域での聞き取りをまとめておこう。

原川皓平さん(一九三〇年生)はいう。

「当時、高等二年生だった。トンネル工事はドリルをまわし、発破をかけておこなわれていた。三間くらいの大きさだったか、いちおう貫通して、貫通式がおこなわれ、朝鮮人劇団がきてお祝いをしていた。貫通後、内部の工事をおこない拡張した。松丸太をかすがいで止めての工事だった。学校の一つの組に七〜八人の朝鮮人の子がきた。全校で三〇〜四〇人ほどになった。同級生に李という子が来たが、日本語は片言だった。戦争下、農家は徴兵のため人手をとられ最低の生活だった。人手が足りず、朝鮮人の年輩女性に茶摘み・みかん狩りなどを手伝ってもらった農家もあった。朝鮮の女性たちが太田川の川辺で洗濯物を棒でたたいていたこと、洗った物を頭に乗せて歩いていたことが、印象に残っている。夏には朝鮮人は裸で働いていた。仕事は昼夜の交替制だった。村人も夜、雇われて働きにいった。飯場は数ケ所つくられていた。大倉組の事務所がトンネル工事の人口近く、小事務所が野秋の神社の近くにあった」(焼津にて、一九九〇年談)。

 大石さんはいう。「今の新幹線トンネルは朝鮮人がつくった。大倉組の下請けの池田組の下に朝鮮人がいた。日本人も夜、手伝いにいった。完成前にひとり汽車にはねられて死んだと聞く。労働者は一〇〇〇人以上いたと思う。朝鮮人の子どもは東益津の小学校に行った。全部で五〇〜六〇人いたのではないか。「金田」「金子」「新井」という姓だった。レールを引いて先頭にディーゼルをおいてトロッコを一〇台ぐらい連結して引いていった。登校するときに乗って遊んだ」(焼津にて、一九九〇年談)。

 地域での聞き取りでは、ほかに「むやみに人を使えばいいというやり方だった。朝鮮人が野菜物を買いにきた。高崎に飯場があった。今の東名高速道路上り線の日本坂パーキングエリアから北東のところの畑地、そこに四〇〇〜五〇〇人くらいいたと思う。」「飯場の跡地にコンクリートが残っている、飯場の便所のあとだ。こわす手間がかかるからそのままになっている」との話もあった。

 弾丸列車用日本坂トンネルは、大倉土木・池田組などの下で働く朝鮮人によって掘削された。そのなかには強制連行された人々もいた。約二キロメートルのトンネルが昼夜の労働によって完成した。連行された人々のおおくが自由を求めて逃走した。完成後、労働者は各地へと動員・転送された。一部は浅川へと送られた。

 労働者の就労実態・事故の状態など不明であり、聞き取りや工事記録・学籍簿・過去帳・理火葬認可証の調査などが求められる。

 

 鉄道工事・連行前史

鉄道建設では一九一〇年代以降、多くの朝鮮人が従事している。県内にも御殿場線・身延線・二俣線・東海道線・大井川鉄道などの鉄道工事において朝鮮人の就労があった。これらの就労は、戦時下の強制連行での動員と性格が異なるが、ともに植民地支配にともなう日本への労働者としての移動である。

 ここでは強制連行前史として、一九二〇年代における朝鮮人の労働現場から熱海線での丹那トンネル工事と三信鉄道工事についてみておきたい。         

 丹那トンネル工事は一九一八年から一九三四年にかけておこなわれている。朝鮮人の就労者が増えたのは一九二〇年代に入ってからである。熱海綿工事では丹那トンネル、観音松トンネル、谷田トンネルなどが掘削され、これらのトンネル工事へと一〇〇〇人をこえる朝鮮人が就労している。

 丹那トンネル工事は富士山系の無数の断層、火山岩石、湧水などの中を掘り進む工事であった。丹那トンネルの長さは約七・八キロメートルであるが、芦ノ湖三杯分といわれる湧水を抜くために水抜き坑が約十四・五キロメートルも掘られている。

 丹那トンネルエ事の東口側を鉄道工業、西側を鹿島祖が請け負った。工区が細かく区分され下請け業者が出来高払いで請け負ったが、その現場に投入された労働者のなかには多くの朝鮮人がいた。その数は年々増えていった。丹那トンネル完成まで十年以上働いた人々の記録があるが、記録にある九〇人中、七人が朝鮮人名である(『丹那トンネルの話』二一九頁)。当時朝鮮人は安価でよく働く労働力として差別賃金のもとで搾取されていた。

 丹那トンネルの東口と西口には工事で生命を失った人々の名を刻んだ碑があるが、東口の碑には七人の朝鮮人名がある(西口は六人)。これはトンネル工事の直轄現場での死者であり、下請け現場での死者は含まれていない。東口の碑に「福本伯太郎」と刻まれている男は朝鮮人金白竜である。熱海線での朝鮮人の就労については、泉越トンネル工事を請け負った有馬組の労働者約四五〇人のうち約二〇〇人が朝鮮人という記事(『静岡新報』一九二三年八月一日)があり、二〇年代、労働者の半数近くが朝鮮人であるような現場が多かったとみられる。丹那トンネル西口の「大竹飯場」には三〇〇人近い朝鮮人が集住するようになった。

 工事ではダイナマイト、トロッコ、落盤、出水、感電などによる事故が絶えなかった。一九三〇年十一月におきた地震にともなう落盤事故のようすをみてみると(『丹那隧道工事誌』二七六頁)、朴順介(二九歳)は自力ではい出し、日本人運転手は救出されたが、連結手李賢梓(二二歳)、労働者金芳彦(四一歳)、孫壽日(三一歳)は死体で発見された。

 丹那トンネルが完成に近づくと朝鮮人の解雇が多くなる。これに対し朝鮮人は日本人とともに争議に入って抵抗した。

 一九三一年四月、鹿島祖による解雇に対し六五人(内朝鮮人一二人)が争議に入った。一九三二年末には東口、熱海の朝鮮人失業者三〇〇入余りが職を求め、熱海海岸道路建設現場(飛島組請け負い)に就労していった。熱海には失業者同盟が組織され、この失同はのちに東豆労働組合となり、一九三〇年代の地域労働運動の共闘の核となっていった。

丹那トンネル工事については、盧在浩証言(『静岡県の昭和史』上・一八八頁)がある。『静岡県労働運動史』の年表にも記事がある。

一九四一年五月には新丹那トンネル工事の杭打ちが始まり、用地買収がすすめられていった。この新丹那トンネル工事には強制連行された朝鮮人が使われていったとみられる。厚生省名簿には運輸省熱海地方施設部への斡旋による六人分の名簿がある。このほかにも動員されていた朝鮮人がいたとみられるが、実態は不明である。

 三信鉄道工事は一九二八年八月から一九三七年七月までおこなわれた。工事は南信州の飯田と三河川合を結ぶ約六七キロメートルの山峡を縫ってのものだった。一九三八年八月に三信鉄道と熊谷組が建てた「三信鉄道建設工事殉職碑」によれば、橋梁一七・隧道一七一がつくられ、暴風雨による崩壊やトンネル・築堤工事での事故で、五〇数人が命を失った。碑には五四人の名前が刻まれている。そのなかには、揚炯周・金道石・朴相煕・朴東浩・洪性柱・安克珠・鄭泰仁・張在命・李允文・金基道・閔泳學・余應祚・安漢柱・金榮泰・鄭辛道といった朝鮮人名がある。他の日本人名のなかにも朝鮮人が入っているかもしれない。中国侵略がすすむなかで建設された愛知・静岡・長野を結ぶこの鉄道には、朝鮮人の労働も結晶化している。

一九三○年におきた三信鉄道争議については、金賛汀『雨の慟哭』、平林久枝「三信鉄道争議について」(『在日朝鮮人史研究』一)、朴広海「労働運動について語る(二)」(『同』二〇)、斎藤勇「一九三〇年夏・三信鉄道争議」(『東海近代史研究』八)、『朝鮮時報』一九八五年一月一七日付記事などに記述がある。