岩国・呉の旅2008・3 

―新基地建設と軍事文化宣伝への問い―

 

2008年3月末、広島県呉で米軍再編・海外派兵を問う全国交流合宿がもたれた。合宿での討論テーマは、米軍再編・恒久派兵法・軍産疑獄・女性自衛官裁判・G8洞爺湖サミット・反戦運動などであり、活発な討論がもたれた。

恒久派兵法の制定は実質的な改憲となり、交戦権の行使につながるものである。すでにグローバル戦争に参戦しイラク・アフガンへの恒常的な派兵がおこなわれている。この派兵によって実際に何がおこなわれているのか、その実態をおさえることが求められる。浜松についてみれば、すでに空自15期のイラク派兵がおこなわれ、浜松から100人余が派兵された。その実態をあきらかにし、撤兵を求めるとともに、このグローバル戦争用の兵器としてのPAC3の配備にも反対すべきと思う。

基地問題を考えるとき、現地に立つことが大切だ。歴史的な現在を見て、歴史的文脈をふまえて、現実とは違う別のあり方を考えること。政治的な議論よりも、現地の人の話を聞き、自ら現地のさまざまな風景や資料を見ることのほうが、学ぶことが多い。平和運動はひとりひとりが軍事基地の前に立つことから始まると思う。

 

○米軍新岩国基地の建設と民衆の抵抗

現地調査で岩国基地の拡張状況と新基地建設の実態についての話を聞いた。

1938年岩国に海軍飛行場の建設が始まり、1940年に海軍航空隊が開隊した。米軍は8月14日に岩国を空襲したが、占領を想定して飛行場は爆撃しなかった。9月、米軍はこの岩国の飛行場を接収し、朝鮮戦争では出撃基地にするなど、基地の拡張がすすんだ。1957年からは海上自衛隊も一角に置かれた。1968年には板付基地のファントムが九州大学構内に墜落、岩国でも墜落の危険や騒音の軽減を求める声が高まり、1971年には岩国市議会が沖合への移設を決議した。1980年代末にはホーネットやハリヤーへと機種が変更された。

1997年から騒音を口実とした新滑走路の沖合での埋め立て工事が始まり、10年余が経過した。埋め立ては愛宕山を崩し、その土を利用して新滑走路をつくり、崩した愛宕山には市民の住宅を作るという計画であった。しかし、米軍再編でこの新滑走路に厚木・普天間基地から艦載機や給油機が移駐することになり、岸壁をもつ軍港も建設される。また、愛宕山跡地は米軍住宅になろうとしている。移設工事での市の借金を国が肩代わりし、米軍住宅をつくるというわけだ。この移設工事で利益を得たのが宇部興産や三菱だった。

住民要求を利用しての沖合移設は、米軍基地の強化・再配置・米軍住宅建設をねらうものであり、グローバル戦争に対応しての米軍のグローバルな再配置計画の一環であったのだ。滑走路を沖合に移設後、NLP(夜間離発着訓練)容認という密約の存在もあきらかにされている。米軍再編に反対する市長を、政府が市庁舎建設補助金を途中で打ち切るという札束攻撃で落選させたのはこの2月のことだった。

愛宕山の百合ヶ丘団地の入口には米軍再編に反対する自治会の看板があり、土砂採掘で破壊された愛宕山の神社が再建用に仮配置されていた。地域開発で道路の拡張もおこなわれていたが、それは米軍用の輸送路のようだった。軍事基地建設のために山を崩し、地域の歴史的景観を破壊したこと、「騒音軽減の沖合移設」要求を逆用し米軍再配置を謀ったという詐欺、抵抗するものを権力・金力で脅したこと、このようなかたちで民衆を愚弄した国家の罪は重い。これが、2007年の12月に岩国で「国の仕打ちに怒りの1万人集会in錦帯橋」がもたれた背景である。集会参加者は国家への「怒」の文字を提示した。このような歴史的体験は地下水脈となり、いたるところで抵抗線をつくることになるだろう。

岩国の基地は日米政府によって複合基地として再構築されようとしている。岩国基地前のさびれた商店街に「ロシア人・中国人・ルーマニア人豪華ショー」の看板があった。これは軍事主義がもたらす文化であるが、軍事基地の存在が繁栄ではなく堕落をもたらすことを象徴するもののようにみえた。9・11事件以後、基地周辺には強制収容所にあるような物見ヤグラが建てられている。対テロ戦防衛用に入口の通路はジグザグになり、フェンスにワイヤーも張られた。毒グモ対策用に内側にプラスチックフェンスも張られている。基地内では対テロ戦争用の訓練もおこなわれ、米軍が岩国基地を飛行機で脱出することも想定されている。軍は軍を守り、住民は防衛しないことがわかる。

埋め立て工事現場を見ると、砂を注入して滑走路の地盤改良をおこなっていた。多くの利益がゼネコンに落ち、地元には落ちるのは20パーセント弱という。彼方に姫小島の弾薬庫が見えた。この一帯の海も米軍の支配下にある。漁協には年間数億円の補償金がおりるというが、それは海の命に付けられた値であり、本来、金に替えてはならないものだ。

岩国市役所の入口には自衛官募集の大きな文字があり、旧市庁舎には民間空港実現や核廃絶の文字が掲げられている。その横に国からの補助金をあてにして作られたガラス張りの新庁舎がある。このような陽光に輝く建築が、逆に岩国市民の平和への輝きを奪うものであってはならない。岩国の団地で、田村市会議員が発行する「おはよう愛宕山」新聞を読んだ。手書きの想いのこもった一枚のビラ新聞に、大金で作った庁舎にはない精神の輝きを感じた。

軍人募集や戦争や軍事基地などのあらゆる軍事主義に反対する力が、核の廃絶につながると思う。岩国では新たに騒音訴訟が準備されている。厚木や嘉手納につづく住民訴訟によって反基地・反軍事の声はさらに高まるだろう。このような運動の先に本当の繁栄があるように思った。

 

○ 呉・繰り返される海外派兵と新たな軍事文化の宣伝

 4年ぶりに呉を訪れた。呉の駅には大きな軍艦のスクリューが置かれていた。土産屋には戦艦大和の映画で使われた機関砲台が置かれ、海軍カレーなどの土産があり、『呉戦災』の本もそこで入手したヶ、翻る小旗に「大和のふるさと、呉にきんさい」とあるように、呉の街はこの数年、「軍事による街おこし」がすすんでいる。それを象徴するものが駅南にある2005年開館の呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」と2007年の海上自衛隊呉資料館「てつのくじら館」である。建物の建設状況から見て、この2つ建物はショッピングモールの建設と共に計画されたものとみられる。そこから発信される文化は、利益が上がるのならば戦艦大和も潜水艦も何でも利用しようというものである。それは、過去の歴史への反省や責任がなく、過去を賛美し軍事を利用する商業主義である。それが、現在の海外派兵をささえる力の操作の下で、色鮮やかにちりばめられている。軍産官民一体の軍事宣伝の場が演出され、それに浮かれる見学者の姿があり、軍事への無批判な受容が刷り込まれているようである。

 呉に海軍「鎮守府」が置かれたのは1889年のことである。海軍施設は拡大し、1903年には呉海軍工廠が設置され、1923年には広海軍工廠、1941年には第11海軍航空工廠が増殖する。呉は海軍の軍事・軍需の拠点となった。海軍工廠では鉄鉱石から鋼材を作り、造船から兵器・火薬までを製造することができた。人口は50万人に増加したという。ここで作られた軍艦や飛行機などの兵器はアジアでの侵略戦争に使われた。1945年になると、3月以降、呉は激しい空爆を受け、軍艦・工廠・市街地などが爆撃された。海軍工廠の現場や地下工場建設には朝鮮人も連行された。

 戦後は軍転法によって平和港湾に転換することになったが、朝鮮戦争によって海上自衛隊呉基地がおかれ、潜水艦・掃海艇・護衛艦・補給艦・音響測定艦・輸送艦など各種の軍艦が配された。燃料・弾薬は海自の50パーセントの補給能力という。また米軍の弾薬庫が呉周辺にある。呉にはこの弾薬部門を管理する米軍基地もある。

1990年代以降、呉は、湾岸戦争でのペルシャ湾への掃海艇派兵、カンボジアPKOでの燃料艦派兵、アフガン戦争でのインド洋への給油艦などの派兵、イラク戦争への輸送艦の派兵、さらには2007年の沖縄での新基地建設に反対する民衆への威嚇派兵など、海外派兵の拠点になった。広島がふたたび海外派兵の拠点となっている現状についてはもっと理解されるべきだろう。10年前、浜松へのAWACSの配備と同時期に、強襲揚陸艦「おおすみ」が呉に配備されたが、すでに3隻の強襲揚陸艦が配備されている。呉・広島・岩国を結ぶ市民グループのピースリンクは1989年に結成されているが、ちょうどベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わるときのことである。ピースリンクの結成直後に掃海艇が派兵され、呉は海外派兵の拠点として整備されてきた。ピースリンクの20年はグローバル戦争下での派兵とのたたかいであった。

基地の見える丘から、掃海艇・護衛艦・輸送艦・給油艦などが見える。みな海外に派兵されてきた艦種である。これらの軍艦を見ながら、呉の歴史を、@軍需生産と侵略戦争の歴史、A冷戦下と自衛隊の軍拡の歴史、Bグローバル戦争と海外派兵の歴史という形で区分し、近年20年の海外派兵の時代について再整理する必要を感じた。反グローバル戦争20年の歴史をピースリンクの歴史的体験として捉えることができるだろう。

戦艦大和が無批判的に賛美されて顕彰されること、自衛隊が過去の戦争を「防衛」と形容して肯定すること、これらは歴史修正主義なのだが、戦争や海外派兵を正当化するものとして登場している。

大和ミュージアムの展示について問題点を見てみよう。

展示には、呉が戦争加害をもたらす出撃拠点であったことへの反省や呉での社会運動や反戦水兵についての展示はない。「東洋一の軍港」「大和の建造」と過去の賛美に終始し、軍事技術を賛美している。大和をシンボル化し、その軍事技術を戦後復興につなげる。動員や空襲についての展示もあるが、その被害を加害の歴史的文脈で捉えなおして批判する論理がない。特攻兵器回天や海龍を展示し、特攻隊の遺書が肯定的に展示される。案内には「平和の大切さ」と記されているが、当時も「東洋平和」が宣伝されていたのであり、その内実が問われなければならない。海自資料館の潜水艦を遠望するスペースまであり、この館と海自の館の建設の談合的一体性を露呈している。

ミュージアムショップの看板には自衛官募集のポスターも貼られている。店内には大和ステッカーや大和お好み焼き、大和せんべいなど、売れれば何でも作るという風景が広がる。特攻や戦争を肯定するような本が積まれている。博物館ならば、歴史的批判・史実批評が不可欠だが、「大和賛美館」であり、そのようなものはない。言い換えれば、「歴史科学」の欠落である。ちなみに大和ミュージアムの正式名称は「呉市海事歴史科学館」である。この館は軍事に従属した呉市の知的崩壊を象徴している。制空権争奪の時代に巨大戦艦を建造したことを反省できず、特攻という戦術への批判精神もないのだから、軍事論から見ても知的向上がないというべきだろう。

繰り返しになるが、ここでは戦争加害や戦争責任が問われることなく、軍事や軍需品が展示され賛美されている。それを街おこしに利用している。軍事主義の技術と文化が煽動され、軍事を受容する意識が刷り込まれている。それは「歴史科学」とは無縁であり、批判精神による創造力を欠落させたものである。この館は博物館の名に値しない危険な遊び場である。「いい加減にしろ!そんな形で宣揚するな!子どもをふたたび戦場に送るな!」と大和の戦争死者は叫ぶのではないか。

海自の「てつのくじら館」では掃海艇と潜水艦を展示のメインにしている。イラク・アフガン戦争への参戦のなかで開館したこの館の展示には問題点が多い。

第1に過去の戦争を「防衛」の名で正当化している。呉が、海軍の1大後方基地として海洋防衛を担ったという展示記述があるが、呉は戦争と派兵の拠点であり、それを「防衛」の名で正当化してはならない。「海にかける使命、海を守る熱き思い」などという美化した宣伝も記されているが、軍隊は国家権力を守るものであり、海を守るものではない。

第2に掃海艇を戦後復興の一翼と位置づけ、朝鮮戦争での参戦を肯定している。戦後における機雷の掃海は米軍自身がおこなうべきものであり、その指示の下での活動を復興の一翼とするのは自己賛美である。また朝鮮戦争での掃海行動を「秘密裏の国連協力」などと記すことは違憲行為の居直りであり、許されるべきでない。ペルシャ湾での掃海活動も「国内外の期待の応えた」と賛美しているが、機雷は戦争当事者が掃海すべきものであり、憲法に反する自衛隊の海外派兵の先がけとなったことを反省すべきだろう。

第3に潜水艦を「国防の中核」「平和な海を守る」「戦略上欠かせない」「沈黙を守り深く静かに日本の海を守り続ける」などと賛美している。「てつのくじら」などと形容し、平和やエコロジーを印象付けているが、それは偽りである。

第4に子どもの意識の取り込みが問題である。「ぼくらの潜水艦グッズ」などの宣伝や潜水艦煎餅など多くの潜水艦グッズが販売されている。出口ではアンケートをとっている。係りの人が「入隊勧誘ではありませんが」というと、ある母親が「入隊勧誘でもかまいません」といっていた。そのような軍事肯定の意識を作ることは、長期的に見れば好ましくない。

グローバル戦争の展開の中で、海外派兵を繰り返してきたとはいえ、もう少し自重した展示をすべきだろう。戦争は破壊と死と悲しみを伴うものだ。この館にはそのような痛みや悲しみが見られないし、そのような戦争を予防し、自衛隊員の死を無くそうとする姿勢もない。ただ軍事主義の肯定が「海を守る熱き思い」といった美辞麗句で宣伝されているにすぎない。

呉ではこのように軍事主義の宣伝がすすめられている。しかし、このような宣伝と繰り返される派兵に抗して、ピースリンクのゴムボートの平和船団は海にでて、「第9条を殺すな!」「自衛隊の海外派兵反対!」と自衛隊員に呼びかける。海洋は平和と自由を基調とする。平和船団のボートの航行はその道義に守られている。軍事を街おこしの材料とするのではなく、過去の歴史を反省し、平和船団の海洋の平和を求めるような行動を、社会の起点とすべきだろう。広島を再び戦争の拠点とするのではなく、ミサイルや核兵器の禁止、戦争の廃絶の拠点とすべきである。                  

 (竹内 2008年4月記)