2008夏 沖縄への旅
1年半ぶりに沖縄を訪れた。今回は天気に恵まれ、暑い中、毎日汗びっしょりになって辺野古・高江・
≪辺野古≫
辺野古では今、環境アセスメントを阻止するための闘いがおこなわれている。そこで闘っている人たちの顔は懐かしく、もう4年、「長い闘いになったな」と感じた。ヤマトの人で、ここでの闘いのために自分の人生を変えた人が、何人かいる。その中の一人、Tさんに今回の宿のお世話になった。
Tさんは埼玉から辺野古に来て半年、貯金もそろそろ底が見えてきたので、働き口を探さなければいけないようであった。Tさんの宿には、大工のHさん、韓国からの留学生Dさんが1か月、関西からの牧師さんと信者が2泊等していた。辺野古の応援のために駆けつける人たちが格安で泊まることができるようになっている。私も2泊お世話になり大変助かった。
辺野古には若い人が目立った。若いといっても30歳前後かと思われる。人数的には一時に比べ少し減っている。また、地元の人が簡単に座り込みに参加できない状況も出てきているようである。「小学生が基地はいらないと座り込みに参加していると、学校で先生に止められた」という話を聞いた。辺野古にお客さんを連れてきたバスガイドも「地元の人は意思表示がしにくくなっているようだ」と話した。地元の人たちも多くが、そこに新しい基地を作ることには反対なのだが。しかし「命を守る会」があり、地元のおじい、おばあががんばっていてくれるのが大変心強く感じられた。
辺野古を訪れる人は相変わらず多い。8月22日は教会関係の人々を中心に200名、23日は東京都教職員組合の人が40名、また静岡県からも40名ほどが来ていた。ヤマトでの報道が少なくなってきている今、貴重な訪問者だと思う。
≪高江≫
高江は遠く、いくつかの反対拠点も離れている。そのため行くことはあきらめていたが、市民連絡会のご厚意でOさんが半日、車で案内してくれた。高江では持久戦が続き、国の職員が作業に来ることを監視している。場所によっては、道路の照り返しがきついなか、場所を離れることもできない。過酷な状況であると感じた。拠点の各テントには一人が配置され、人数は大変少ない。ヤマトから若い人が駆けつけ、各拠点を監視していた。ここでも大阪から長い間辺野古の闘いに参加しているSさんに会った。もう70歳になろうという年齢である。
やんばるの緑は大変きれいだった。「ヘリパッドいらない住民の会」は通称を“ブロッコリーの森を守る会”という。木々がまさにブロッコリーのように見える。住民の会の会長さんが営んでいる喫茶店「山瓶」は森の仙人が住むような店であった。やんばるには単位面積あたりヤマトの51倍もの動物が暮らしているそうだ。やんばるは世界的にみても生物多様性に富んだ重要な自然環境といえる。
このやんばるに、既に7800haの米軍北部訓練場と15箇所のヘリパッドがあり、高江区民は爆音や墜落の危険にさらされている。そこへ新たに6箇所のヘリパッドを作ろうとしているのだ。
しかも、そこへ配備しようとしているオスプレイという飛行物体は、墜落など故障の多い飛行物体として、大変有名なのである。平和のための「軍拡反対」とか「米軍再編反対」、「自衛隊海外派兵反対」も大切である。けれども、「こんなものを私のところへ持ってくるな。そんなに作りたいのなら、おまえのところへ作れ」というのが住民感情だろう。
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胡屋は寂れている。シャッター街という言葉があるが、開いている店は5割を切る。
8月23日(土)は全島エイサーの中日。会場になっている球場では多くの市民が集い、熱のこもったエイサーを見物していた。一団体100人に迫ろうとする人たちのエイサーはさすがに迫力満点。客席では酔った若い娘三人が曲にあわせて踊っていた。なかなか様になっていて見ていて楽しかった。こんなことが会場のあちこちで起こっているのだろう。これもLiveだからこその楽しみ方だ。チョンダラも観客とのコミュニケーションをうまくとりながら会場を盛り上げていた。
8時50分、演者と観客入り乱れてのカチャーシー。9時、打ち上げ花火を見ながら帰途についた。中心部まで徒歩で20分、9時30分頃、胡屋十字路付近まで来た。帰り道でもそうであったが、多い人通りの半分は米兵である。彼らは兵隊であり体がでかく、若い。集団で行動し、よく叫ぶ。街にはけばけばしい照明の店がたくさんあり、そこに彼らは入っていく。一人の私が恐怖を感じたのは、ごく普通の感覚だろう。12時になったら、この街はどんな風になるのだろう。
沖縄県議会は7月18日、日米両政府が合意したV字形滑走路案に「ノー」を突きつけた。「傍聴席は総立ちで、大歓声が湧き起こった」と新聞は伝えている。
これから問われるのは、ヤマトの人々である。私であり、あなたなのだ、と思う。 (池)