キューバの旅09・01
1 命と希望が最優先される社会
いかなる社会体制かを問わず『権力は腐敗する』という現実を私たちは沢山みてきました。そんな中でキューバは常に異彩を放ち、高潔にみえました。私たちの未来社会を考える上での多くのヒントを含んでいるように思え、いつかキューバに行きたいと思っていましたので、即、参加を決めました。
社会的に最も弱い立場の人々の処遇は、その社会がいかなる社会であるのかを判断する上での最も明確なめやすのひとつであると思います。そこで私は他の方との重複を避け、いわゆる障害をもった人々の教育やケアーについてCTC国際担当のマルティンさんから聞いた範囲で紹介したいと思います。キューバがめざす方向性としてとても興味深いものでした。
@ 障害がわかった時点で、まず親を教育する。
A ファミリードクターの診察、治療と平行して、その地域担当のソーシャルワーカーと共に、コミュニティーへの受け入れを図る。家から学校に通い、それぞれの障害に合った教育を受ける。担当する専門教員のレベルは非常に高い。
B 学校へ通うことのできない子供のために教員を家庭に派遣する場合もある。
C 自立できるよう教育、訓練を通し、大学への進学も可能である。
[例] パラリンピックのチャンピオン
手足のない大学生が現在、ドイツ語を専攻している。クラスの人は階段の昇降など皆でサポートし、共に勉強している。
D 子供のケアーのため仕事に就けない場合は親に給料が支払われる。
E 仕事も一般の職場で、できるだけ受け入れ、訓練し、できることをやり、自立できれば給料も支払われる
F障害の重い場合は、そのような人たちが集まって、民芸品などを作る工房もある。無理強いではなく、できることをやり給料も支払われる。そのような職場も労働組合が組織されている。働けない人には生活保障をする。
ざっとこのような説明でした。家から学校へ通うということは地域の普通の学校で一緒に、専門教員のサポートを受けながら教育を受けると思われますが、具体的な方法や教員の養成についてなどなど、詳しい文献をぜひ探そうと思っています。
何度かバスの車窓からみた校庭での授業風景は、どう見ても一クラス十数人でした。(後で確認すると、小学校は二十人、中学校は十五人クラスとのこと)
私たちがキューバを訪れた時、南米識字キャンペーン『私もできる』の研究集会が開かれているということでホテルは南米各地からの大勢の人々で活気に満ちていました。
ホセ・マルティ記念館でみた『これからは鉛筆こそが武器である』と、子供たちが鉛筆を掲げてパレードするポスターと重なり、この国が教育にかける意気込みを目の当たりにする思いでした。
子供たちこそが希望であり、彼らに託す期待の大きさこそが確実に未来への自信につながるという、この国の確信は、着実に歩を進めていくことと思います。
ただ、今のキューバは、どこに行っても確かに貧しく、着ている服も質素であり、住居も問題のありそうなものが多くみられました。しかし、医療と教育が無料であり、老後も少なくとも路頭に迷うことのない社会は非常に豊かな社会であるといえると思います。近隣諸国との関係においてさえ、余ったものを分け与えるのではなく、今あるものを分かち合うのだという説明を何度も耳にしました。何よりも今、命と希望を最優先してお金を使っているという印象を受けました。
わずか数日の滞在では、見えるものもそれなりでしょうが、人々の生活の格差を広げず、ゆっくりでも皆で豊かになるという方向で着実な努力がなされてきていることも実感しました。
日本は、まさにこのキューバと対極の方向へひた走っています。人々が団結しにくいという点で『蟹工船』の時代よりもさらに困難な時代ですが、自分の足元からやれることを着実にやっていこうと、意を新たにしました。
(陽)
2 明星と三日月と
明星と三日月と
男はベッドに腰をかけている
破れた壁と屋根の隙間から
明星と三日月が覗いている
サン・ルイス渓谷を見下ろす
かつての奴隷監視塔のほとり
男の朽ちかけた住処を
修理できる順番はまだ先になる
夕餉の豆のスープの匂いが残っている
男は大きくあくびをする
男のまぶたが重くなってくる
今日は一月二十八日
ホセ・マルティの誕生日
男の休日は明日の次の次の次
明日のために眠りにつく時だ
男は妻に語りかける
男はあてもなく街を歩いている
溢れる街の灯とビルの間に
明星と三日月が潜んでいる
ハママツ駅近くの裏道を進み
石造りの公園に突き当る
男の疲れはてた魂を
横たえるベンチすらそこにはない
肉と油の焦げた匂いが漂ってくる
男は小さく息をはく
男の胃袋が勝手に泣きだす
今日は何曜日だろう
あれから何日経ったのか
男には住処も食べ物も明日も
話しかける相手さえいなくなった
男が職を失った日から
(2009.1.28 キューバ トリニダーにて)
ものがありあまって使えるものさえゴミにされてしまう社会から見れば、キューバは確かに「貧しい」かもしれない。道路を行きかうトラックの数が少ないことやサンタクララはともかくハバナでも馬車が走っているのだから、この国では燃料も工業用原材料も不足しているのだろう。
だからキューバは「貧しい」のか。私はキューバにいる間、ずっとニッポンの今を見ていた。
私たちの小さな組合も昨年の夏ごろから「派遣」切りで訪れる労働者たちとともにニッポンの今と格闘していた。
いつのまにか生産現場で働く仲間のほとんどが「派遣」になってしまっていた工場では、資本のむき出しの暴力が貫徹していた。USAの経済破綻がたちどころに「派遣」の首切りに直結した。それも契約期間満了ですらなく「中途解約」として強行された。「もの」と同じように。
職も住居も奪われた仲間たちは最少でも五十万円程度の蓄えがなければ、再起はありえない。路上生活しか道は残されていない。
少なくても医療が無料で教育が無償で食べるものさえあれば、私たちは明日に希望が持てるだろう。この国の人々は、厳しい状況の中で賢い選択をした。しかも「国際主義」の旗を掲げて。
キューバから帰ったニッポンは何も変わっていなかった。捨てられた「派遣」の仲間たちの多くが職を探していた。
(浩)
「行ってみなければ分からない。行けばもっと分からなくなる。でも、行かないよりはいい。」外国を旅することについて、ずっとこんなふうに考えてきた。その地で暮らすのはともかく、一週間や十日程度駆け足で観光地を回ったところで分かることなんてほとんどないのだ。
ただ、実際に自分で感じることができる、その地の土や木の色、山野の風、街の匂い、人々の歩き方などは行かなくては分からないものだ。
では、あのキューバはどうだったのだろう。今年の一月末、「全労協キューバ交流訪問団」の一員として八日間の日程でいくつかの都市と観光地を観ることができた。この「訪問団」は全労協結成二十周年記念事業の一環なのだそうだが、その正味五日ほどの滞在で見たことや感じたこと、考えたことを何回かに分けて報告したいと思う。
まず一回目。
ずっとキューバで不思議だったのは、警官や兵士に遭遇しなかったことだ。ハバナやサンタ・クララなどの街でも田舎でも彼らを見たという印象がない。
はっきりと記憶があるのは、ハバナの革命博物館の外にいた若い女性兵士だけだ。彼女がスラッとしてステキだったのでカメラを向けようとして同行していた陽子さんにたしなめられて撮れなかったのだ。今でも残念に思っている。それと、何回かパトカーを見たかもしれない。そんな程度だ。
社会主義というと何かと暗いイメージが流布されているのだが、キューバはおおらかなのだろうか。そうでなければ、完璧な管理社会であるのか、私がかなりボケてきたかどちらかということになるのだけど・・・。
もし、誰かこれからキューバに行くことがあったら、この点を注意して観察したらどうだろう。
(遠州労働者連帯ユニオン・M)