浜松平和ツアーの報告 20096

 

自治体の労働組合、自治労連東海北信ブロック現業評議会の依頼をうけて、620日に1時間ほど浜松の戦争遺跡と軍拡の状況について話し、21日に浜松の戦争遺跡と基地の平和ツアーをおこないました。参加者は、静岡、伊東の県内をはじめ、名古屋、豊橋、佐久などから約40人。

 見学先は、浜松城公園の空襲追悼碑、日朝親善碑、三方原飛行場の排水池「長池」、第7教育隊門柱、三方原教導飛行団〔毒ガス〕跡、基地のAWACSPAC3、基地広報館、静岡大学の高射砲部隊跡の門柱と弾薬庫跡、空襲跡を残す円通寺の山門と兵士の墓碑〔航空部隊・歩兵連隊〕、冨吉の町内戦争死者の追悼碑と位牌、新町の被爆地蔵、浜松駅前に市民の木でした。

8時から昼1時までの約5時間、侵略戦争期の浜松と現在の軍拡状況について平和にむけての課題について考えました。                  〔竹内〕

1 浜松の陸軍航空基地と戦争

 浜松での航空基地の建設

 浜松に航空基地ができたのは1926年のことです。立川から飛行第7連隊が移駐してきました。現在のホンダの事務所のところに基地の司令部がおかれました。第7連隊は軽爆撃と重爆撃を任務とする部隊です。当時は浜松にしか爆撃部隊は置かれていませんでした。建設に多くの朝鮮人が従事したのも特徴です。

その後の基地拡張にも多くの朝鮮人労働者が動員されます。その史跡が長池です。この池は三方原の基地からの排水をためるもので1930年代の末に掘られたものです。

侵略戦争がすすむにつれ、爆撃部隊は各地に派兵され、そこで増殖していくことになります。浜松は爆撃と派兵の拠点となったわけです。1933年には第7連隊の練習部が浜松陸軍飛行学校として独立します。今の航空自衛隊の浜松基地司令部の所が拠点とされました。 

「満州」侵略戦争と飛行第十二大隊

 19319月に日本軍の謀略によって満州侵略戦争が始まります。11月には浜松から軽爆撃部隊が派兵されます。部隊名を飛行第7大隊第3中隊といいました。

この部隊は12月に浜松から派兵された重爆撃部隊とともに抗日軍の拠点だった錦州を攻撃します。最初の錦州空爆には浜松からの部隊は参加していないのですが、その後におこなわれたハルビン、遼東半島、ハイラルなど満州各地での抗日軍への空爆には、浜松から派兵された部隊が大きく関与しています。

19326月にはこの部隊は飛行第12大隊という名で再編されます。そして33年になると熱河作戦に動員され、万里の長城を越えて北京近くの密雲にまで空爆をしていきます。当時の行動を見るとすでに無差別爆撃の様相を呈しています。空爆は空からのテロルに他なりません。空から爆弾を落とすことによる大量殺戮行為です。

この飛行12大隊が作成したものに「満州事変記念写真帖」があります。そこには満州各地での空爆の状況が写真とともに記されています。日本軍は「匪賊討伐」を口実に戦線をひろげていきました。殺されたのは抗日義勇軍であり中国の民衆です。現在のイラクでの米軍による殺戮と同じような状態がここにあったのです。

この部隊は中国への全面侵略が始まると飛行第12戦隊、第16戦隊となってアジア各地に展開し空爆を繰り返すことになります。なお35年には浜松から飛行第10連隊(軽爆撃)が満州へと派遣されます。この部隊は後にほかの部隊とともにノモンハンでの戦争に参加します。

浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦

浜松陸軍飛行学校は設立当時から空からの毒ガス爆弾の投下訓練などの実験をおこなっています。毒ガス爆弾の製作のための効果試験もおこなっています。爆弾にはイペリットや青酸ガスなども使われていました。1938年にはハイラルで、40年には白城子で浜松陸軍飛行学校が主導的な立場をとって航空毒ガス戦の訓練をしていることが防衛庁の史料からもあきらかになっています。

中国戦線では航空機による毒ガス投下が実戦で使われたとみられます。中国側資料を見ると航空機からの投下の記事がたくさんあります。複数の資料から投下を立証できるものに宜昌での投下があります。窮地に追い込まれた日本軍を救うための投下でしたが、防衛庁の戦史には投下の日のその内容は記されていません。中国側資料には投下の日の状況が詳しく記されています。不発弾に毒ガス弾があることもわかっています。

中国全面侵略と浜松の部隊

19377月の全面侵略戦争の開始にともない、浜松から飛行第5大隊(軽爆撃)、飛行第6大隊(重爆撃)が派兵され、独立飛行第3中隊も派兵されます。38年にはそれぞれ、飛行第316098戦隊となり中国での空爆を繰り返すことになります。

さらにアジア太平洋での戦争が始められると東南アジアへの空爆に参加し、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、さらにはインドまで空爆しています。現地での空爆には浜松に出自を持つ部隊がかかわっていました。

先にあげた飛行第12戦隊と37年に派兵された飛行第60戦隊、飛行第98戦隊は海軍と共同して中国重慶での無差別爆撃をおこないました。重慶爆撃をおこなった陸軍の爆撃部隊は浜松から派兵された部隊だったのです。   

蘭州への空爆も行っています。中国側史料をみると蘭州で撃墜された飛行第98戦隊の飛行機などが現地で展示されたことがわかります。

飛行第60983190戦隊について戦隊史からすこしみていきます。

飛行第60戦隊史からは中国各地での空爆状況がよくわかります。蘭州を空爆した写真もあります。この爆撃雲の下には蘭州市民がいるのです。

飛行第98戦隊の戦隊史には空爆前後の蘭州市の写真があります。シンガポールでの空爆についても詳細がわかります。また韓国出身兵の手記もはいっています。かれはこの戦争で、若者たちの命が天皇や日本帝国のために無用なもののように投げ出され、戦争屋の道具とされたことを記し、不正な国家に対し断固として闘わねばならないとしています。 

飛行第31戦隊史には浜松での「出陣式」や中国肇啓、海南島での空爆の写真があります。この戦隊は軽爆撃部隊だったのですが、後に襲撃機隊に改編され最後にはフィリピン戦に投入されます。地上残存部隊が人肉食の状況に追い込まれたことを示す記事や現地人をスパイとして惨殺した記事もあります。

飛行第90戦隊史を見ると、浜松で教育を受けて中隊長になったことや、空から爆撃をしても残酷な状況が直接見えないこと、敵陣といっても民衆の集落であることが記されています。

 これらの空爆が空からの殺戮攻撃であり、アジアの多くの民衆の命を奪い、多くの負傷者をだしたものであることはあきらかです。手足を失い戦後を生き続けた人々も多かったでしょう。

この歴史的事実を踏まえて、浜松大空襲を見ていく必要があると思います。

未完の戦争責任と反戦平和を示す戦争遺跡

 1944年には航空毒ガス戦専門部隊として三方原教導飛行団が設立されます。また飛行学校からはフィリピン戦にむけて「特攻」部隊が編成されていきます。沖縄戦では陸軍空挺部隊による「特攻」作戦がおこなわれますが、部隊は浜松で編成され輸送を重爆撃機が担いました。

 敗戦にともない、三方原の毒ガスは浜名湖に捨てられるなどして処分されましたが、戦争犯罪を告発するかのように戦後も浮上し、工事中に土の中からも発見されています。幹部は、実験はしても実戦には使わなかったとして、その責任を取ろうとはしませんでした。米軍は自らが使用したいためにその責任の追及をやめました。毒ガス戦という戦争犯罪の歴史は埋もれたままであり、その責任は取られていません。

 浜松各地には陸軍航空部隊や空襲を示す多くの史跡があります。それらは反戦平和を示す貴重な史跡です。その意義を再度捉えなおし浜松の戦争史跡群として保存していくことが求められていると思います。 

              

 2 現代の軍拡 AWACSPAC3の配備  

 AWACS配備以後       

 1998年から99年にかけて航空自衛隊浜松基地へと空中警戒管制機(AWACS・エーワックス)が4機配備されました。AWACS1570億円もします。

AWACSは海外侵攻作戦で情報収集と戦闘指揮を担う力をもつため、日米共同作戦での要とされている軍用機であり、ミサイル防衛(MD)にも組み込まれています。AWACS配備にともない浜松基地の2500メートル滑走路は改修され、基地内に高さ30メートルの巨大な格納庫やAWACS関連施設がつぎつぎに建設されました。このAWACS配備により浜松基地は実戦中枢機能を強化しました。

それから10年を経た20085月には浜松基地へとパトリオットミサイルの改良型のPAC3(パックスリー)が配備されました。

AWACS配備後の10年の動きをみると、1999年にはAWACSの配備とともに航空自衛隊の広報館が建設され、1982年の墜落事故以後中断されていたブルーインパルスの曲技飛行も再開されました。

2000年入るとAWACSは日米共同訓練に投入され、さらにグアムやアラスカでの共同訓練に派兵されました。また、朝鮮半島への監視行動やワールドカップやサミットへの治安出動にも使われました。

2003年にイラク戦争が始まると、イラクへの自衛隊の派兵がおこなわれるようになりました。小牧基地のC130は浜松基地で空色に塗装され、浜松基地からは33派にわたって122人がイラクに派兵されました。

浜松から派兵されて帰国した自衛官が、隊内でのパワハラによって自殺し、遺族が損害賠償を求める裁判も2008年に始まりました。この10年の間に、浜松は新たな派兵の拠点とされ、実際に派兵がおこなわれたわけですが、新たな人権回復のたたかいもはじまったわけです。

現実の軍拡と派兵を問題にするだけでなく、過去の侵略戦争において浜松の陸軍爆撃隊がアジア各地でおこなった爆撃の歴史や浜松での毒ガス訓練や戦争史跡を調査し、米軍の空爆による死亡者名簿の作成などをすすめてきました。

日本軍のアジア各地での爆撃については新たな調査課題があります。浜松の陸軍飛行学校はチチハル方面でも毒ガスの投下研究をおこなっていましたが、チチハルで今も被害をもたらしている遺棄毒ガス弾には航空弾もあり、陸軍爆撃隊と遺棄毒ガスとの関係についても調べる必要があります。

グローバル戦争とPAC3

近年アメリカは宇宙支配をテコにグローバルな戦争をすすめています。その「予防先制攻撃」を支えるものが「ミサイル防衛」であり、そのための地上迎撃ミサイルがPAC3です。アメリカ軍内での「地球規模攻撃司令部(グローバルストライクコマンド)」の設立はこのグローバル戦争を象徴するものであると思います。

PAC320085月に浜松基地へと秘密裡に配備されました。市民への広報は配備後でした。浜松基地には高射教導隊と術科学校があり、配備されたPAC3は教育と整備用ということでした。配備された直後の9月、アメリカのニューメキシコ州ホワイトサンズ射場で浜松基地のPAC3を使っての発射実験がおこなわれました。また、20093月には朝鮮半島情勢を口実に、浜松のPAC3は東北にまで実戦配備されました。

「ミサイル防衛」が発動され、有事動員がなされたことは大きな問題です。

 PAC3は実戦ではアメリカの宇宙支配の下での米日の共同指揮によって使用されます。このようなミサイル防衛とそれによるPAC3の使用は集団的自衛権の行使であり、交戦権の行使となります。この使用は日本国憲法第9条を破壊することになります。まさに「PAC3の標的は第9条」といっていいでしょう。 

そのような動きに抗し、グローバルな戦争の時代をグローバルな平和の時代に変えていくために、過去の歴史を地域から学び、地域を再び派兵の拠点としない取り組みが求められていると思います。