映画「嗚呼満蒙開拓団」2009年夏
歴史を学ぶ私にとって、羽田澄子監督の映画「嗚呼満蒙開拓団」は、いまも問いを発し続けている作品である。この映画は2008年に完成しているが、2009年夏に浜松の市民映画館で上映され、見ることができた。
映画は中国東北の方正の方正地区日本人公墓を中心に展開する。方正を日本人は当時「ほうまさ」と呼称した。この墓は満州移民の集団墓であり、1963年に建てられているが、1973年に移転されたものである。
アジア太平洋戦争末期の1945年、ソ連の参戦によって満洲開拓団は自力での帰国を強いられた。日本軍は彼らを放棄して撤退した。長野の泰阜や読書をはじめ、岡山、埼玉など各地の開拓団が方正をめざしてきた。方正は関東軍の兵站部がおかれるなど日本の拠点であったからであり、方正に9000人が集まった。しかし、すぐに中国東北の厳しい冬が到来し、4000人という人々がここで生命を失うことになる。
処理できない死体が薪の山のように積み重ねられていった。方正の町に満州移民の積み重ねられた死体が残されたことはずっと記憶されねばならないことだろう。
映画は中国人残留孤児による日本政府への裁判による追及の場面から始まる。政府は「征け満洲へ!拓け満州を!」と移民を送り出したが、その責任を取ろうとはしない。映像では移民の生存者が史実を語る。たとえば、移民を捨てて軍が移動したこと、6か月ほどの子どもを捨てたこと、自分の子を殺した叔母のこと、4〜5歳の子どもを川に投げ捨てたこと、方正でバタバタと人が死んで山に捨てたが、捨て切れない状況下で積み上げたこと、春になり氷が溶けて死体が露出して悪臭を放ったこと、鬼火が出たこと、中国側が死体を集めて焼いて埋めたことなどが示される。
このようななかで満州移民の遺骨が集められ方正の集団墓が建てられた。この方正の集団墓は日本と中国の友好の出発点になっている。
泰阜村には移民の死亡者の追悼碑があり、死者1人1人の名が刻まれている。満州移民の歴史をその移民の視点から描くという課題があることをこの碑は語る。
方正友好交流の会の会報『星火方正』第8号には、林郁さんが抗日連軍の第3軍の司令・趙尚志の頭部の発見について紹介している。発見は2005年のことであり、日本軍によって処刑された頭部は長春の般若寺に埋められていた。方正は趙尚志の第3軍の抵抗運動の拠点でもあった。同じく処刑された第1軍の司令楊靖宇の首は解放後にホルマリン漬けで長春中央銀行の地下室で発見されている。
満州侵略に対して抵抗闘争をすすめた人々を日本は「匪賊」と呼び、「匪民分離」をすすめて、新集落を設定した。満州移民による集落形成は、中国人の抵抗闘争を分断するための工作活動でもあった。
日本の侵略戦争によって殺され首を切られた人々も数多い。戦後60年を経てやっと発見された首もあることを忘れてはならないだろう。満州移民の歴史はこのような抵抗者の歴史としても記されなければならない。
以前、浜松の爆撃隊の写真集に方正への爆撃写真があった。方正は関東軍が占領する前は中国側の拠点でもあった。そのような侵略期の爆撃も含めて方正の歴史を記していきたい。(T)