新宮の旅 2010 大逆事件の跡を歩く
2010年3月、新宮の大逆事件の跡を歩いた。新宮は紀伊半島の南端、熊野川の河口に開けた街である。大逆事件は1910年に明治天皇暗殺事件容疑で多くの社会主義者が検挙され、そのうち24名に死刑判決を受け、そのうち12人が無期に減刑され、12人が翌年1月に処刑されたという事件である。無期とされたもののうち5人が獄死している。
この大逆事件においては全国各地で社会主義者が弾圧され、新宮のグループでも大石誠之助や成石平四郎が死刑となり、高木顕明が獄死した。
21世紀に入り、新宮でのこの大逆事件の犠牲者を顕彰する会などの国家暴力による被害者の名誉回復の市民運動がたかまり、2001年に新宮市議会は名誉回復の決議を挙げ、新宮駅近くには大逆事件の犠牲者の顕彰碑が建てられている。
2009年には毎日新聞で連載されていた新宮の大石誠之助らをモデルにした『許されざる者』が出版された。新宮出身の作家に佐藤春夫がいるが、その佐藤春夫記念館は「許されざる者の町森宮 文学散歩」というパンフレットを作成している。そこには新宮駅から歩いて2時間ほどのコースが記されている。また、新宮市図書館では大逆事件関係の資料が数多く所蔵され、大逆事件関係の墓地の地図も作製されている。新宮市図書館は熊野地方史研究会の連絡先となって『熊野誌』を発行しているが、46号、54号などは大逆事件を特集している。読んでみると、書き手に共通しているものに、国家暴力によって砕かれた自由の復権への想いがあるように思われた。
文学散歩や墓の地図を頼りに、新宮の街を歩いた。新宮駅近くには、徐福公園がある。徐福は中国からの渡来人という。この地には中国のみならず、朝鮮半島からの渡来が多かったようにも思う。熊野川沿いには阿須賀神社があり、横には歴史民俗資料館がある。アスカやクマノは朝鮮語を語源とするものだろう。
洋風の建物である西村記念館が保存されている。この館は西村伊作のものであったが、かれの叔父が大石誠之助である。紀州までの鉄道工事には多くの朝鮮人が従事した。その歴史についても調べてみたいと思う。仲之町の集文社近くには大石誠之助や沖野岩三郎たちが設置した新聞雑誌縦覧所があった。そこには20世紀にはいる中で、新たな社会的文化運動を始めていった青年たちの想いがある。鉄橋の近くには当時川原町が形成され、にぎわっていた。その近くに医師大石誠之助の自宅があった。その地には「大石誠之助宅跡」の石柱が建てられている。そこには、事件が冤罪であり、新宮市議会で非戦・廃娼を訴えた人権の先駆者として名誉が回復された旨が記されている。つぎは、政府がかれらの名誉を回復する番だ。碑の前方には大石と西村伊作が開いた太平洋食堂があった。この近くには現在、佐藤春夫記念館がある。
遠松山浄泉寺は大逆事件で捕らえられた高木顕明がいた寺である。遠松山とは遠州浜松から来たことを意味し、江戸期に水野家が浜松から新宮に来たことによる。大石や高木はこの地域の知識人であり、被差別部落や川原町の労働者の側に立って社会正義の実現を目指した。幸徳秋水らの社会主義者とも交流すし、それが弾圧につながる。しかし、彼らの行動は新たな時代を担うものであり、人権と平和へと結実するものだった。大石らが交流活動に利用した料理屋養老館の建物も残っている。
郊外の南谷墓地には大石誠之助、高木顕明、峯尾節堂らの墓もある。高木顕明の墓の横には真宗大谷派が1997年に建てた顕彰碑がある。そこには、高木を部落解放と非戦平和を訴えた先駆者とし、真宗大谷派が高木を処罰したことを反省する文が記されている。また高木が記した「余が社会主義」からの一文を刻む碑もあり、仏教の絶対的平等の精神と平民救済についての表現とともに「戦勝を弄び萬歳を叫ぶ事を止めよ」という一節もある。高木は仏教の平等と救済の精神の地平から反戦表現を紡ぎだしたのだった。大石の墓の横には医師としての活動と非戦、社会主義の運動、冤罪であることなどが記した説明文がある。
中上健次誕生の地には人権教育センターがあり、その近くに大逆事件犠牲者の顕彰碑がある。建立は2003年5月、新宮市と顕彰する会によるものである。大石誠之助、高木顕明、成石勘三郎、成石平四郎、峰尾節堂、崎久保誓一らの名が記され、かれらが平和・博愛・自由・人権の先覚者であり、それらは受け継いでいくべきものとしている。横には「志を継ぐ」という碑もある。
国家権力によって破壊され、埋められようとした精神はこのような形で復権して継承されている。それは、現在の戦争国家のありようを草の根から拒み続けている力になる。「戦勝を弄び萬歳を叫ぶ事を止めよ」。 (竹内)