2011,夏、沖縄への旅

今回の沖縄への旅は、前半「2011歩く・見る・考える沖縄の旅」に参加した。久米島を訪ねる日程に魅力を感じ参加した。久米島では「久米島の戦争を記録する会」の徳田球美子、島袋由美子両氏の案内で戦跡を訪ねた。徳田氏は1937年、島袋氏は1939年生まれ(両氏は姉妹)で、自身の実体験を交えての案内であった。

久米島では、21人の住民が日本軍に「スパイ容疑」で殺害された。沖縄戦当時、久米島の軍事施設はウフクビリ山に隊員34人の海軍通信隊(隊長、鹿山正兵曹長)が駐屯しているだけであった。久米島の住民は、軍隊は住民を守るものと信じて疑わなかった。島の人々は彼らを「山の兵隊」と呼んでいた。

6月26日、米軍、上陸。最初の悲劇は翌27日に起こった。安里正次郎は朝目覚めると武装した米兵に取り囲まれていた。そのまま米軍駐屯地に同行された。米軍は安里さんに日本軍(鹿山隊)に対して書面を届けさせた。多分降伏勧告状であったろうと思われる。安里さんは鹿山隊長に殺害され、家に返ることができなかった。妻のカネ子さんは日本軍に対する恐怖心と周囲の白い目に耐えかねて、近くの山田川に身投げして命を絶った。

鹿山隊の次の住民虐殺は6月29日で、北原部落の9人が亡くなっている。6月13日、14,5人の米軍の偵察隊が比嘉亀さん宅に侵入し、比嘉亀さん、宮城栄明(牧場経営)さんの奥さんの弟、使用人の3人を拉致していった。6月15日、鹿山は「13日に拉致された者はスパイである。帰ってきたら家族はもちろん一般部落の接触は厳禁、直ちに軍当局に報告、連行せよ」という命令を出していた。拉致された3人が返された後、宮城栄明家族3人、比嘉亀家族4人、命令を実行しなかったとして、区長、消防分団長、合計9人が虐殺された。「宮城さんの家に集められた9人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たされ『一人一人殺せよ』と命令され銃剣でつぎつぎ刺したのです。一突きで死ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺し殺し、八坪程の小屋は血の海となり、全員が息絶えたところ火を付けて引き上げていったのです」と、虐殺当時日本軍の一人として現場にいた沖縄出身のKさんは、身震いしながら語ったそうである。

次は敗戦の3日後、8月18日に起こった。米軍が上陸した時、久米島に艦砲射撃をさせないために、道案内をかってでた仲村渠明勇さんがスパイ容疑で鹿山の部下に殺された。明勇さんは左わき腹を深く刺され、妻のシゲさんは逃げるところを捕まり殴り殺され、1歳の子供と3人が虐殺された。殺されたあと小屋に火を付けられた。

谷川昇さん一家はスパイ容疑で家族7人皆殺しにされた。谷川さんは朝鮮人で本名を具仲会といった。妻ウタさんは久志村(現名護市)の出身。10歳から生まれて数ヶ月の赤ちゃんまで5人の子供がいた。当時、沖縄でも「チョーシナー」といって朝鮮人を蔑視する風潮があった。8月20日、旧暦の7月13日、旧盆のウンケーの日に虐殺は行われた。虐殺が行われそうな雰囲気があり、村で助けてくれる人もいたが、家族は3ヵ所でむごたらしく殺された。最初に字上江洲の自宅から逃げるウタさんと長男、乳飲み子、その後北上して山里の西側で長女と次女、さらに2キロ南へ下った鳥島で谷川昇さんと二男が虐殺された。

以上4件が今わかっている久米島で起きた鹿山隊における虐殺である。この鹿山隊長が1972年3月に琉球新報の記者のインタビューに答えて次のようなことを言っている。「戦時中にとった行動に対して当時の最高指揮官として、その時点で最前を払った。弁明は一切しないし、全部責任を持つ」「日本の軍人としてとった行動であって、それが謝罪して元にかえるものでもない。謝ったからどうなんだというような立場は取らない。…日本国民として対米戦争に参加して命をマトに、もちろん生きて帰る予定でなくて、こういうことが起こったことに謝るということは日本の極東防衛のために散った人達に対して、ひとつの冒涜になると思う」「那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地」。私は語る言葉がない。

写真は字鳥島にある「痛恨之碑」である。『天皇の軍隊に虐殺された久米島住民 久米島在朝鮮人』とある。1974年、8月20日、東京に住む沖縄出身の人達によって仲村渠明勇さんの土地に建立された。8月20日は明勇さんの命日である。この碑を久米島の文化財に指定するように働きかけているのだが、なかなか困難な状況だと、案内してくれた久米島高校の先生は語っていた。したがって、回りに案内板等は何もなく、知らなければ素通りしてしまうような、畑の真ん中に立っている。

久米島高校には、生徒会主催で「平和」を学ぶ学習があるそうだ。今回のツアーでも生徒会長が鹿山隊のいた壕を案内してくれた。この壕は3,4年前、生徒会の生徒が中心になり、住民から聞き取りをして、久米島高校の生徒が見つけ出したそうである。先輩たちのしたことを、現生徒会長は誇らしげに語っていた。

 

今回のツアーで、もう一つ非常に印象に残ったことがある。わずか20分程度であったが稲嶺名護市長と会えたことだ。名護市は「基地反対」を訴えて当選した稲嶺氏が市長になると同時に、交付金をうち切られた。また、雇用の問題等で、基地推進派から追求を受けているようである。そのような中で会った稲嶺市長は「民主党政権になって2年、基地に関しては自民党当時と変わってはいない。昨年12月24日、再編の交付金が0査定になったが、日本全国の人達がすぐに反応してくれた。日本政府は許さない、ふるさと納税、寄付等、小さな街ではあるけれど孤立していない、皆から応援してもらっていることを実感した。名護市だけでなく、日本で交付金をもらっていない自治体が5つあり、どこもがんばっているから、我々も交付金に頼らない市政をする。予断を許さない状況ではあるけれども『海にも陸にも基地は作らせない』という信念は揺らぐことはない。今後も沖縄に関心を持ってください。」と、静かな中にも力強く、誠実さがあふれ出てくる話であった。

 

私が沖縄にいる間、つねに新聞のトップを飾っていたのが八重山の教科書問題である。民主党の代表選よりも扱いは大きかった。公民の教科書として「育鵬社」の教科書が採択された。8月23日、教科用図書八重山地区協議会は委員8人の内「育鵬社」5人、「東京書籍」3人で「つくる会」系の教科書を採択した。状況を察し当日まで、沖教組、PTA、教育関係者の多くの人が会議場である石垣市に押し掛けたが残念な結果に終わった。この協議会の会長は玉津博克石垣市教育長で強い信念の下「育鵬社」を採択した。その後、この答申を受け石垣市、与那国町は26日「育鵬社」を採択したが、竹富町は27日「東京書籍」を採択した。竹富町教委の委員5人は協議会が答申した育鵬社版教科書「新しいみんなの公民」の不採択を全会一致で決めた。教科書の無料配布を定めた法律では、同一地区で同一教科書を採択するように定めている。石垣市、与那国町の教育長は3市町の協議等は拒否しており、今後、県の教育長が調整するもようである。この記事を見ながら、テント村のAさんは「やっぱり選挙に負けてはいかんよ」と、話していた。石垣市は前年の市長選で、革新市長が負け、自民、公明推薦の中山義隆氏が市長になっている。

 

ツアーを終え、吉田康子を聞き、辺野古に戻った。辺野古は相変わらず静かできれいな海だ。2686日、本当によく続いている。ここまで来るのには紆余曲折いろいろあったであろうし、これからもあるだろう。昔、太田昌秀氏が知事選で負けてしまって皆が気落ちしているときに、しんやさんが「沖縄の人はしたたかだからまたどこかで盛り返すよ」と、言っていたのを鮮明に思い出す。沖縄の人達は、本当によい意味で楽観的であり、したたかである。キャンプシュワブとの境の鉄条網が取り去られ、基礎のコンクリートのうえに金網が張られたことは前回お知らせした通りである。その金網の部分に全国から寄せられた横断幕を貼り平和ミュジーアムを作っている。送られてきたバナーは100を越えている。このバナーが14枚なくなった。テントのSさんが写真を調べ、なくなったものをつきとめた。米軍に都合の悪いものが多く含まれていたようだ。強風が吹くと金網と結んでいる紐が切れて何処かへ飛んでいってしまう。したがって、台風の時はバナーを片づけなくてはなくてはならない。これが一仕事である。台風11号が接近し、私も片づけを手伝ったが大変でした。スコールの降る中、テントに来た夫婦も雨に濡れながらの作業でした。おもしろいことが一つあった。何トンあるかわからないが、とてつもなく大きくて重い基礎のコンクリートが、強風か波の影響で10p程ずれていた。われわれの貴重な税金5000万円を使い、できあがった頑丈であるはずのものが、わずか2,3か月で支障をきたしていた。自然侮るべからず。

そもそも海兵隊は沖縄に必要か。海兵隊を必要としていたベトナム戦争の時と、戦争の方法が変わってきている。ボタン一つでミサイルを飛ばし、散々痛めつけてから上陸するような戦争の方法で、殴り込み部隊としての海兵隊そのものがいらなくなってきている。また、そのような形態の戦争では、沖縄は北朝鮮、中国から近すぎる。そのうえ、米国は財政難である。海外にいる軍隊への支出が大きくなりすぎている。米国の州でも財政難は同じで、軍隊の落とすお金や交付金目当てに、軍隊を呼んでいる州もあるようだ。

こんな状況の中で一体だれが何のために辺野古に新しい基地を作りたいのだろうか。最近よく言われていることであるが、原発も同じ、基地も同じ、そして静岡県でいえば空港も同じ構造だと思う。「アメとムチ」必ず利権と結びついている輩がいるのだろう。琉球処分から始まった沖縄の苦難の道、そして、1995年の少女暴行事件から始まった、時には激しく、時にはしなやかに、また、したたかに闘ってきた沖縄の闘いに学び、息長く闘っていくことが必要だ。「勝つ方法、それはあきらめないこと」辺野古テント村、故、当山氏のことばである。                              (池)