ソウル1002回水曜デモ

    
                 

                             日本大使館をみつめる少女のまなざし、
               「抜き去るものはあなた方の歴史的無責任であり、
                              わたしではない」

      

2011年12月28日、韓国挺身隊問題対策協議会の主催による1002回目の日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモ(集会)がソウルの日本大使館前の「平和路」でもたれ、100人ほどが参加した。12月末の水曜デモは亡くなったハルモニの追悼会の形でもたれている。 

開会の言葉に続いて、ローソクが点火され、日本軍「慰安婦」犠牲者を追悼しての黙祷がおこなわれた。日本から参加した梁澄子さんが追悼の言葉を述べ、参加者が追悼と問題解決に向けてアピールした。韓国挺身隊問題協議会の尹美香さんの活動報告ののち、参加者は「岩のように」を歌って、絶望に負けることなく、解放された世界の基礎となるように岩のように生きるという思いを分かちあった。

集会では最後に、亡くなった16人の日本軍「慰安婦」被害者ハルモニに思いを寄せ、次の言葉が日本大使館前に響いた。

 「日本政府は被害者が生きているうちに、公式謝罪と法的賠償をおこなえ!日本政府は日本軍「慰安婦」と同様の反人道的戦争犯罪が二度と再発しないよう未来世代に正しい歴史を教育し、平和を約束しろ!韓国政府は日本軍「慰安婦」問題が正しく解決されるまで国家責任を尽くせ!日本軍「慰安婦」被害者に名誉と正義を!」。

水曜デモが始まったのは1992年1月8日のことであり、2011年12月14日には1000回となった。それに際し戦場に連行された娘の姿をイメージした少女像(平和の碑)が平和路に建てられ、この平和路は問題解決を求める民衆で埋めつくされた。日本各地でも連帯行動が取り組まれ、外務省の包囲行動もおこなわれた。しかし、日本政府は「日韓協定で解決済み」という姿勢を変えようとはしない。

参加者が少女像に防寒具を着せ、贈り物を置いていく。氷点下を超える冷たいソウルの街角で少女像は日本大使館を見続けている。この像は、今を生きる私たちにこの問題の解決にむけての表現をさらに重ねていくことを求めるものである。

16人への追悼文をまとめるとつぎのようになる。

2011年には一六名のハルモニが私達のもとを去られました。

故 イ・ギソン ハルモニ。

1923年に慶南統営で生まれた。17歳のときに就業詐欺で連行され、中国徐州で六年余、日本軍性奴隷として苛烈な苦痛を味わった。解放とともに釜山に帰国し、故郷統営で困難な生活を送り、闘病の果てに2011年1月3日に亡くなられた。

故 キム・ソンイ ハルモニ

1928年生まれのハルモニは2003年に韓国政府に慰安婦の申告を行った。2011年1月13日、恨多き人生を終え、眠りにつかれた。

故 イム・ジョンジャ ハルモニ

1922年に慶南晋州で生まれた。17歳で釜山付近から満洲に連行された。8年間、台湾、香港、海林、大連、上海、ハルビン等で日本軍性奴隷として悪夢のような時間を過ごした。解放後、平壌避難所を経て釜山に着いて、統営で暮らした。様々な後遺症と生活苦に耐えながら生きてきたが、2011年1月13日にこの世を去った。

故 パク・ブンイ ハルモニ

1920年に慶北で生まれた。家庭環境が貧しく、釜山で家政婦をしていたときに連れていかれ、日本軍の性奴隷として苦痛を受けた。解放後に帰国したが子どももなく、一生を困難な状況の中で送ってきたが、2011年2月3日に永眠された。

故 ジャン・ジョムドル ハルモニ

1925年に忠北永同で生まれた。シンガポール等で日本軍の性奴隷として苦痛を強いられた。解放後、生計のために様々な仕事を転々としながら過ごした。国内を始め、日本、豪州、ドイツ等、海外で証言し、名誉回復を叫びながら勇気ある人生を送った。突然の病気で2011年3月6日に永眠された。

故 シン・サンシム ハルモニ

1927年に全南で生まれた。18歳で木浦市場から連行され、佐世保の海軍慰安所で日本軍性奴隷として苦痛を強いられた。解放後、帰国して故郷に戻り、2011年3月21日に老病で亡くなられた。

故 パク・オクリョン ハルモニ

1920年に全北茂朱生まれた。20歳のときに日本軍性奴隷として連行され南洋群島、ラバウル等で苦痛を強要された。運動初期から名誉回復を叫び、勇気ある人生を送った。数年間の闘病生活を送り、2011年5月15日に亡くなられた。

故 ジョン・マリア ハルモニ

1919年に日本の広島で生まれ、3〜4歳の頃、韓国の木浦に来て居住していたが、軍人病院で看護補助をすると騙されて日本に連行され、日本軍性奴隷として苦痛を強いられた。解放後、長く流浪生活をしていたが、釜山で暮らした。2011年5月17日に老病で亡くなられた。

故 イ・ボクスン ハルモニ

1923年に昌寧で生まれた。1940年に日本軍性奴隷として連行され、中国ハルビン等で苦痛を強いられた。最近まで養老院で生活していた。2011年6月20日に老病で永眠された。

故 キム・ジュソク ハルモニ

1926年に生まれ、一八歳のときに就職詐欺で連行され、日本軍性奴隷として中国で苦痛を強いられた。慶北で居住して来たが、老病と疾病のために気力が回復できず、2011年8月16日に恨多き生を終え、永眠された。

故 コン・マンレ ハルモニ

1924年に生まれた。16歳のときに日本軍に連れて行かれないように結婚式を挙げている最中に結婚衣装のまま連行された。日本軍性奴隷として苦痛を強いられ、解放後、帰国したが、故郷に戻れないまま苦難な生活を耐えてきた。2011年10月13日に恨多き生を終えて永眠された。

故 ノ・スボク ハルモニ

1921年に慶北安東で生まれた。1942年に釜山から連行され、シンガポールとタイ等で日本軍性奴隷として苦痛を強いられた。解放後にも故郷に帰れず、タイに居住した。何回か故郷を訪問し、家族たちと再会もしたが、2011年11月4日に永眠された。

故 パク・ソウン ハルモニ

1917年に釜山で生まれた。1937年頃に中国琿春市の春花慰安所で日本軍性奴隷として苦痛を強いられた。解放後にも故郷に帰れずに中国に居住したが、2011年12月4日に恨多き生を終え、永眠された。

故 キム・ヨジ ハルモニ

1924年に全州で生まれた。18歳の秋に平壌から連行され、中国漢口、海南島等で日本軍性奴隷として苦痛を強いられた。解放後、1余年ぶりに釜山に帰郷し、苦難な生活に耐えて来たが、2011年12月13日に永眠された。

2011年に旅立たれたハルモニ16名の方々のお顔と名前を、心に刻んで冥福を祈ります。ハルモニたちは、日本軍「慰安婦」という一生のくびきを抱いたまま人生を送らなければならなかったのですが、日本政府から真摯な謝罪を受けられないまま目を閉じなければなかったのです。ハルモニたちは深い悲しみを晴らすことができずに旅立たれました。お見送りする私たちの心は限りなく悲しく、残念です。

 

このように多くの人々が亡くなっている。一刻も早く問題を解決することが求められているのである。(T)