アイルランドの旅2012・8
2012年8月、アイルランドに行き、街を歩いた。アイルランドの緯度は高いが、メキシコ湾流と偏西風によって暖かい。夏は20度弱で涼しく、放牧の緑地と泥炭の荒地がまじりあうという島である。イギリスはこの島を植民地とし、それにともなう離散と抵抗の歴史から望郷と愛、抵抗の歌がうまれた。アイルランドの音楽はフォークやカントリーのルーツである。
アイルランドに行く前に、クリスティ・ムーアというアイルランドのフォークシンガーの歌を好んで聞いていた。クリスティ・ムーアはトラッドをはじめ、歴史に関する歌や抵抗歌を数多く集めて歌い、自らも作詞・作曲している。たとえば、トラッドでは「黒はあなたの色」、抵抗歌では「ジェームズ・コノリー」、ボノたちとの共作には「北と南」、自作には「国際旅団万歳」などがある。ハンストで亡くなったボビー・サンズの詩「デリーに帰りたい」なども歌にしている。
このような歌が歌われるようになった土地には関心があった。アイルランドの抵抗歌「川だけが自由に流れる」の訳詞を試み、ケン・ローチの映画「麦の穂を揺らす風」で映された現場を歩きたいとも思っていた。「ワンス・ダブリンの街角」に描かれた現代アイルランドの文化や移民についても関心があった。特に、植民地主義への抵抗とその清算をテーマに現場を歩くことは、念願だった。
今回はツアーに同行しながら、できるだけ自由時間をとって関心のある場所を歩いた。以下、イギリスによる植民地支配と抵抗、ダブリン・イースター蜂起、ジェームズ・コノリーたちの足跡、ダブリンの墓地・刑務所、デリーの市民権運動と血の日曜日事件、ベルファストの壁などのテーマでまとめていきたい。
●イギリスの植民地支配と抵抗
はじめにイギリスによるアイルランド支配とそれへの抵抗の歴史をみておこう。
アイルランドには先住の民族があり、そこにケルト人、さらにノルマン人と幾派もの渡来があった。キリスト教は5世紀に聖パトリックによってひろまった。そのアイルランドを植民地としたのがイギリスである。
イギリスからの侵攻の歴史は12世紀のウェールズのノルマン人によるダブリンの占領やヘンリ2世の上陸などがあった。このイギリスによる植民地支配は、16世紀にイギリスのヘンリ8世がイングランド王とアイルランド王を兼ねたことから強化され、その後、北部のアルスターへとスコットランドからの移民がおこなわれた。アルスターにはケルト系のカトリック住民が居住していたが、移民してきたのはカルバン派のプロテスタントだった。この移民がカトリックとプロテスタントの対立につながるが、この対立の背景にはイギリスによる植民地主義がある。16世紀後半にはヒュー・オニールの戦争が起きたが、それを押さえつけることで、イギリスによるアイルランド占領がすすんでいくことになる。
ピューリタン革命と名誉革命はアイルランドが植民地として占領される契機となった。クロムウェルはアイルランドで殺戮を繰り返し、土地を収奪した。名誉革命によって追放されたジェームズ2世はフランスからアイルランドに上陸し、フランスとアイルランドの連合軍がウイリアム3世のイギリス軍との戦争をおこなうことになる。この戦争でのジェームズ2世側の敗北により、アイルランドではカトリックへの差別をつよめる法律がだされた。それはアイルランド人を公職から追放し、財産を制限し、武器の保有を認めないといったものであった。
このアイルランドでの戦争のなかで「シューラールー」が歌われるようになった。日本では「虹に消えた恋」の名で知られている。「シューラールー」は、兵士として取られていく恋人に、私のところにそっと来て、一緒に逃げましょうと呼びかける反戦歌である。
18世紀末、イギリスのアイルランド支配にウルフ・トーンらの統一アイルランド人協会(ユナイテッドアイリッシュメン)が対抗した。彼らはアメリカ独立やフランス革命の思想に影響を受けた共和主義者だった。ウルフ・トーンはプロテスタントであり、イギリス支配を終わらせ、宗派を問わないアイルランド国家の建設をめざした。アイルランド人協会は各地で蜂起した。イギリスはこの蜂起を弾圧し、指導者を処刑した。そして、イギリスは1801年にアイルランドを併合する。それによってできたのがユニオンジャックである。
この19世紀初めのアイルランドの領土化は新たな収奪と差別の始まりだった。このイギリスの支配に対して19世紀前半には、ダニエル・オコンネルたちがダブリンでカトリック連盟を結成し、1829年にはカトリック教徒解放令を実現させた。しかし、イギリス人による土地支配は1845年から49年によるジャガイモ病による大飢饉をもたらし、それによる数10万人の餓死者と150万人余の移民を生むことになる。
この飢饉のなかの1848年に青年アイルランド党が蜂起した。この際にカトリックの緑とプロテスタントのオレンジとの平和を示すアイルランド旗が使われた。1848年はウイーン体制が崩壊したときであり、ヨーロッパ全土で共和主義や民族主義がたかまったときである。青年アイルランド党はオコンネルらの動きから分岐したグループであり、この動きを受け継ぐ形で、1858年にアイルランド共和主義同盟(IRB)が結成された(フィニアン団)。彼らは蜂起を繰り返した。さらに19世紀後半には1879年にアイルランド土地同盟が結成されるなどイギリス人地主への土地闘争が展開され、1879年から82年には土地戦争と呼ばれた激しい闘争がなされた。ボイコットはこの土地戦争の際の人名から生まれたものである。
1867年のフィニアン宣言では農奴制や君主制を批判し、独立共和国建設を宣言している。その宣言には、完全農奴制の生活を続けるよりも自由を求める戦いにおいて死ぬ方がいい、その戦いは領土の緑を食べた貴族というイナゴに対するものと記されている。イギリスの植民地支配は餓死と流民化をともなうものであり、そのような支配はフィニアンのような共和国をもとめての武装蜂起を繰り返して生むことになったのである。
チャールズ・スチュワート・パーネルがアイルランドの自治を求めて活動したのはこのような時代だった。
●イースター蜂起と独立戦争
20世紀に入ると、アイルランドでは独立にむけての新たな動きがはじまる。一つは1905年のシンフェイン党の結成である。シンフェインとはアイルランド語で「われら自身」という意味である。また、1913年にはダブリンで運輸労働者のストライキがおこされた。この年には労働者によるアイルランド市民軍が結成された。
この年、ダブリンではアイルランド義勇軍も結成されたが、のち義勇軍は対独戦争にともなうイギリスへの協力に組み込まれ、国民義勇軍になる。しかし、戦争協力に反対する少数派は分裂し、義勇軍として残った。アイルランド共和主義同盟はこの義勇軍を傘下に置く。分裂した少数派の義勇軍と市民軍の組織が1916年のダブリンでのイースター蜂起を担うことになる。
イースター蜂起はアイルランド共和主義同盟が計画したものであり、その蜂起の軍事評議会のメンバーはトマス・クラーク、パトリック・ピアース、エーモン・キャット、ジョゼフ・ブランケット、ショーン・マクディアマダ、ジェームズ・コノリー、トマス・マクドナーたちだった。
蜂起は1916年の4月24日にアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍がダブリンの主要部を占拠することからはじまった。蜂起部隊の司令部は中央郵便局におかれ、ネッド・デリーの第1大隊がフォーコーツなど、トマス・マクドナーの第2大隊は市庁舎周辺から中央郵便局へ、エーモン・デ・ヴァレラの第3大隊は製パン所周辺などを占拠した。郵便局前ではパトリック・ピアースが共和国独立宣言を読みあげた。ジェームズ・コノリーは社会主義者であり、アイルランド市民軍のリーダーだったが、蜂起への参加は直前のことだった。コノリーは軍務での経験があったから、中央郵便局の司令部で指揮を執ることになる。
7日間の戦闘で蜂起は鎮圧され、ピアースやコノリーなどの指導者は処刑された。共和国独立宣言に署名した7人は皆、殺された。この蜂起をきっかけに1918年の選挙でシンフェイン党は73議席を得た。かれらは翌年にはアイルランド国民議会を開催し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。これに対してイギリスはその樹立を拒否し、アイルランド独立戦争となった。戦争は1919年から1921年にかけておこなわれ、21年末のイギリスとアイルランドとの条約でアイルランド自由国が生まれた。しかし、この自由国はイギリス国王を元首とする自治領であり、さらに北アイルランドが分離することになった。そのため、完全独立を求める条約反対派が形成され、1922年にはアイルランド内戦となった。ダブリンではフォーコーツやオコンネル通りでの占拠事件が起きた。
内戦で反条約派は敗北するが、その後、アイルランド自由国はエールと改称してイギリス連邦内の独立国となった。第2次世界戦争後の1949年にはアイルランド共和国となって、イギリス連邦を離脱した。しかし、北アイルランドはイギリスの連邦内にとどまることになり、南北の分断が続くことになる。
蜂起はアイルランドの独立の起点となるものであり、軍事的には敗北したが、その蜂起は歴史として継承され、共和国の成立につながった。現在では、ダブリンの街の各所に、コノリー、ピアースやヒューストンなど蜂起で処刑された人々の名前が駅名や街路名で残されている。
●ジェームズ・コノリー
ジェームズ・コノリーは1868年にスコットランドのエディンバラで生まれた。父母はアルスターのモナハン州からの移民であり、アイルランド人街のカウゲイトで成長した。10歳で新聞社の雑用の仕事につき、14歳でイギリス軍に入り7年間働いた。任務中にはアイルランドに滞在し、アイルランド人への虐待を目にした。コノリーは1889年にリリーレイノルズと結婚し、エディンバラで暮らすようになった。コノリーは父や兄の肥料荷馬車業などさまざまな仕事につくが、社会党や労働組合の活動に参加するようになり、独立労働党の活動もおこなう。
1896年にはダブリンでアイルランド社会主義共和党を結成し、アイルランドで最初の社会主義者の新聞「労働者の共和国」を創刊した。当時彼はダブリンのピムリコに居住していた。その後、コノリーはスコットランドやアメリカで活動し、1903年には社会主義労働者党の結成などに関わった。1907年にはニューヨークでアイルランド社会主義者同盟を設立した。アメリカでのIWW(世界産業労働組合)などの運動との出会いはコノリーに大きな影響を与えた。
コノリーは1910年にアイルランドに戻り、ジェームズ・ラーキンらと労働運動を担った。1913年には労働党を設立し、ストライキのなかで労働者防衛のためにアイルランド市民軍を結成した。コノリーは1914年にダブリンで、「労働者の共和国」を復刊した。
1916年のイースター蜂起にコノリーはこの労働者の市民軍を率いて参加し、独立宣言にも署名した。コノリーは負傷して捕えられ、5月9日、死刑を宣告された。5月12日、キルネイラム刑務所に運ばれ、庭の隅の椅子に縛られて銃殺された。かれはアーバーヒルの軍刑務所近くにあるイギリス軍墓地に運ばれ、埋められた。
●ダブリン・ジェームズ・コノリーたちの足跡
リフィー河口にあるダブリンの町の歴史は古く、ケルト人やノルマン人の拠点となってきた。ダブリン城に残る塔は13世紀はじめににノルマン人が建設したものである。イギリスによる植民地支配にともないダブリンは支配の拠点となり、ダブリン城にはイギリスの総督府が置かれるようになる。
イギリスによるアイルランド支配は700年に及ぶ。第1次世界戦争下の1916年のイースター蜂起はこのイギリス支配に対する武装蜂起だった。ダブリンの町をイースター蜂起の際に処刑されたジェームズ・コノリーたちの足跡を追って歩いた。
セントステファンスグリーン
セントステファンスグリーン(公園)には統一アイルランド党のウルフ・トーンやロバート・エメット、フィニアンのオドノバン・ロッサ、独立運動のコンスタンツ・マルキエビッチなど歴史に関わる人物の像が置かれ、飢饉の歴史を示すモニュメントや独立運動死者への追悼碑などもある。ウルフ・トーンの像は大きなものであり、彼の死を悼み、復活を願うかのように市民が青銅の像の股間を触れる。その触れられた部分が金色に輝いている。
この公園はイースター蜂起の際に蜂起軍が占拠した場所である。ここはダブリン中心部へと南からイギリス軍が向かうのを阻止する拠点とされた。公園横の道路には車を使ったバリケードが作られた。イースター蜂起に参加した女性にコンスタンツ・マルキエビッチがいるが、かの女はこのセントステファンスグリーンの部隊にいた。蜂起の失敗により死刑を宣告されるが、後に解放された。かの女はイギリス議会で最初の女性議員となるが、出席を拒否してアイルランド議会に参加した。イギリス・アイルランド条約にも反対するという共和主義者だったが、病で亡くなった。マルキエビッチ像の顔だちも印象に残るものだった。
コノリーの像
コノリーの像が税関近くの鉄橋の下にある。像の後ろにはアイルランド社会主義の旗印がある。ここは蜂起軍が集結した場所であり、近くには運輸一般労働組合の本部が置かれていた。近くの駅の名はコノリー駅である。この像は1995年に建てられた。像の横には設立の趣旨や設立に協力した団体名が記されている。記載名から、アイルランドの運輸一般労働組合をはじめ通信や印刷、教員などさまざまな労働組合、国際旅団、シンフェイン、アメリカの労働組合やアイリッシュ労働協会など、各地から賛同金が集まったことがわかる。
オコンネル街にある郵便局が蜂起部隊の司令部になった。この街路にはカトリック解放法を成立させ、ダブリン市長にもなったオコンネルをはじめ、青年アイルランド党蜂起のウイリアム・スミス・オブライエン、「自由人誌」を発行したジョン・グレイ、運輸一般労働組合などを設立し、ダブリンでストライキをおこなったジェームズ・ラーキンなどの像が並んでいる。ラーキンの像は1913年にバルコニーから両手をあげて労働者にむかって叫ぶ姿を再現したものである。ジェームズ・ラーキンはコネリーと共に組合運動や労働党の設立をすすめた人物である。
コノリーたちが司令部を置いた郵便局内には蜂起の記念像(1935年)があり、像の台座には独立宣言が記されている。郵便局には博物館も併設され、独立宣言のポスターやハガキが記念品として販売されていた。蜂起の際には、郵便局の屋上にはアイルランド旗とともにアイルランド共和国と記された旗が掲げられた。イギリス軍はこの旗を奪い取り、パーネルの像の前で旗の文字をさかさまにして勝利の記念写真を撮った。この旗がアイルランドに返還されたのは蜂起から50年後の1966年だった。このように返還させることも過去の清算の一つである。
郵便局の近くにあるシンフェインのブックショップでは関連書籍、Tシャツ、コノリーたちを描いた「ダブリン1916」という青色の旗などを販売している。シンフェイン党ではイースター蜂起の歴史を歩くツアーを企画している。
蜂起の指導部は最後にムーア街に拠点を置くが、そこには、アイルランド共和国暫定政府が降伏を決定したことを記したプレートがはめられているという。
ダブリン城には赤十字病院が置かれていた。足に重傷を負ったコノリーはこの病院に収容された。現在ではコノリーの部屋と名づけられている。
コノリーやピアースら16人の蜂起リーダーの墓は国立装飾美術歴史博物館北方のアルバーヒル刑務所の横にある。
キルメイナム刑務所
コノリーが処刑された場所はキルメイナム刑務所だった。キルメイナム刑務所は現在では博物館になっていて、ガイドツアーの案内で刑務所内部の見学ができるようになっている。刑務所で発行している『キルメイナム刑務所の歴史1976−1924』という本が写真入りでわかりやすい。
博物館の2階の展示室の一角には1916年の蜂起で処刑された人々の遺品が追悼する形で展示されている。この刑務所ができたのは1796年のことであり、統一アイルランド人協会結成から5年後のことである。この刑務所は政治犯を収容する役割も担うことになる。
最初の政治犯は統一アイルランド人協会のヘンリー・ジョイ・マクラッケンであり、1803年にはロバート・エメットとかれと生活していたアン・デブリンが収容された。エメットは公開処刑されたが、デブリンは1805年まで収容された。
19世紀にはこの収容所から4000人を超える受刑者がオーストラリアへ送られた。ジム・ローチの「太陽とオレンジ」はイギリスの民衆下層の子どもたちが政府と教会によって氏名を変えさせられてオーストラリアに送られていく実態を描いたものだったが、そのような強制移民の歴史はアイルランドからの受刑者の移送も含めて記されなければならないのだろう。
1845年から50年の飢餓と貧困の時代には食糧を盗んだという罪で多くの女性や子どもが収容された。この飢饉の末期に起こされた1848年の青年アイルランド党の蜂起により、指導者のウイリアム・スミス・オブライエン、トーマス・フランシス・ミーガーが収容された。二人はタスマニアに送られるが、ミーガーはアメリカに脱走した。
1862年には刑務所の東部分に92の独房が新たに完成した。1867年のフィニアンの蜂起により、多くがキルメイナムに収容された。パーネルも1881年から82年にかけて収容された。1883年にはフィニアンメンバーが処刑された。
1910年にこの刑務所は閉鎖されたが、1916年から24年にかけて政治犯の収容施設として利用された。1916年のイースター蜂起の際には数百人の男女が収容され、ここでパトリック・ピアースやジェームズ・コノリーら14人が処刑された。刑務所の処刑場には、2つの十字架が建てられている。一つはピアースたちが処刑された場であり、反対側にある十字架はコノリーが椅子に座らされたまま処刑された場所である。そこにはプレートが貼られ、14人の名前と処刑の日が記されている。
1917年6月には1916年蜂起の収容者が釈放された。この蜂起はアイルラン人の社会意識を変革した。シンフェイン党は多くの議席を得、独立議会を設立した。事態は独立戦争に発展し、イギリスとアイルランドとの条約が結ばれ、アイルランド自由国が生まれる。しかし、条約派と反条約派の内戦となる。このなかでキルメイナムには反条約派の活動者が収容され、1922年11月には指導者が処刑された。
最後の収容者はイースター蜂起に参加し、反条約派であり、後に大統領となるエーモン・デ・ヴァレラであった。この収容所は修復され、今では歴史を語り伝える場所になっている。共和国となった現在、ここでは過去の蜂起やイースター蜂起、条約反対派も賛成派も、一つの歴史として評価され継承されている。
独房の上には、収容された人々の名前を示すプレートが貼られている。ガイドが内戦で処刑がおこなわれた場に立ち、反省を込め、とても厳しい時代だったと語る。その場にはピーター・キャシディをはじめ4人の名前が記されている。
共和国が実現することで、蜂起で処刑された人々も、内戦で処刑された人々も復権され、歴史を真剣に生きた者として紹介されていく。刑務所は多くの血と涙を吸い込んだ場所である。独房の木の床のにおいとでこぼこの石壁にふれながら、その歴史を聞いた。ギネスの工場を訪問し、一杯飲んできたような旅行者も真剣なまなざしだ。多くの旅行客を前に、ガイドの語りは雄弁だった。その説明が終わると、旅行者たちが拍手を送る。そのような形で歴史が語り伝えられていることに共感した。
●ダブリン・グラスネヴィン墓地
郊外のグラスネヴィン墓地にはアイルランドの独立や労働運動、女性運動、民主化運動での獄死や処刑、ハンストなどで死亡した人々の墓がある。1960年代後半からの北アイルランドの解放を求めて亡くなった人々の集合墓地などもある。墓碑はアイルランド史を物語る。
ガイドによる墓地ツアーもおこなわれている。ツアーではオコンネル、ジェームズ・ラーキン、コンスタンツ・マルキエヴッチ、マイケル・コリンズなどの墓を回りながら、アイルランドの歴史が語られる。
入口近くには小さな博物館があり、博物館の入り口にはガイドブックなどが販売されている。グラスネヴィン墓地では旅行者用に墓地の案内地図や労働運動関係などの分野別の案内地図を発行し、『グラスネヴィン アイルランドの共同墓地』などの書籍を発行している。
この書籍には、さまざま人物の歴史が簡潔にまとめられている。独立運動関係では19世紀の政治家のオコンネルやパーネルをはじめ、フェニアンのジェレミア・オドノバン・ロッサ、ジョン・オマホニーの記事がある。また、20世紀のイースター蜂起や独立戦争の時代を生きたケビン・バリ、トーマス・パトリックアシュ、ハリー・ボーランド、カサル・ブルハ、ロジャー・ケースメント、ロバート・チルダース、マイケル・コリンズ、エーモン・デ・ヴァレラ、ジョン・デボイ、アーサー・グリフィス、ジェームズ・ラーキン、モード・ゴン・マクブライド、テレンス・ベロー・マクマヌス、コンスタンツ・マルキエビッチ、エリザベス・オファーネル、ザ・オラヒリーなどの記事もあり、かれらの活動の歴史を知ることができる。
この本には、フランク・ライアンやオーエン・オダフィーの記事もある。
フランク・ライアンは1902年にリムリック州のエルトンで生まれ、ダブリン大学で学んだ。しかし、大学時にアイルランド内戦となり、ライアンはIRAの反条約派の側で活動した。戦闘で負傷して捕えられたが、釈放され、大学に戻った。卒業後、教員になるが、IRAの幹部となり、新聞を発行した。そのため投獄されることもあった。ライアンはIRA内で社会主義者として左派の立場をとり、1934年には労働者の共和国を展望して共和主義会議を結成した。ライアンは、アイルランド内での反ファシズムの戦線づくりをすすめ、1936年には第15国際旅団を組織してスペインへと渡った。一度は負傷して帰国するが、再びスペインに渡った。1938年、ライアンはイタリア軍の捕虜となり、死刑を宣告されるが、デ・ヴァレラの働きかけや国内での救援の動きにより減刑された。ドイツの工作によってライアンは釈放され、ドイツに連行された。そこで、ドイツの諜報活動を担うように働きかけられたが、1944年にドレスデンで亡くなった。かれの遺体がダブリンに帰ったのは1979年だった。
オーエン・オダフィーは1892年にモナハン州のラフイギシュで生まれた。1918年にIRAに参加し、モナハン旅団の指揮官になった。軍を退役後、警察の長になった。オダフィは1930年代にはファシズム運動をすすめ、青シャツ隊を作り、750人ほどをスペインに送った。第2次大戦中にもファシズム運動をすすめるが、1944年に体調を崩して死亡した。
この二人の歴史は、共和主義のなかから反ファシズムとファシズムの分岐が生まれたことを示している。
グラスネヴィン墓地で地図を頼りにフランク・ライアンの墓碑を探した。墓碑はジェームズ・ランキンやヘレナ・マロニーなどの労働運動関係者の墓が多い地点にあった。このような形で人間の歴史が継承されることの意義は大きい。フランク・ライアンの文字を見つけ、その前に立ち、歴史を考えた。クリスティ・ムーアは「国際旅団万歳」を歌っているが、ライブの映像を見ると、多くの観衆がともに歌っている。そのように共感する社会的な意識が存在するわけである。この歌で示された人々の歴史についても考えていきたいと思う。
『グラスネヴィン アイルランドの共同墓地』には、モード・ゴン・マクブライドとショーン・マクブライドの記事もある。
ショーン・マクブライドは1904年にジョン・マクブライドとモード・ゴンの間にパリで生まれたが、ジョン・マクブライドは軍人であり、モード・ゴンは女性の革命組織を組織して活動していた。ジョン・マクブライドはイースター蜂起が終わると処刑された。ショーン・マクブライドは若い時にはIRAに参加し、法律を学び、議員になった。かれは1848年にアイルランドの外相となり、アイルランド共和国を成立させた。その後、かれは弁護士として活動し、IRA容疑者への裁判なしの拘禁などにも抗議した。ショーンは国際的な法律家による活動をすすめ、アムネスティインターナショナルの創立に参加して代表としても活動した。1974年にはノーベル平和賞をえ、1988年に亡くなった。
このように、墓地の冊子をもとに人々の歴史を調べていくと、植民地からの独立を求めたアイルランドの人々の思いがアイルランドの独立のみならず、国際的な人権活動にも継承されていることがわかる。墓地の発行したポスターには「人々の多くの歩みは、わたしたちの最大の宝のひとつだ」とある。このグラスネヴィン墓地はアイルランドのさまざまな歴史を語り伝え、人生を考えることができる場所である。
ここでみてきたダブリンの史跡はアイルランドで、植民地主義という暴力に抵抗した動きを示すものであり、主に共和主義とナショナリズムの史跡である。継承されている歴史には、男性優位やカトリック社会の保守性を示す面も含まれている。ほんらい蜂起という暴力性は否定されるべきものであり、非暴力や女性の立場からの歴史も語られるべきである。アイルランドの先住民族の渦巻きに示されるような生命につながる表現がいっそう尊重されるべきだろう。
ダブリンの空港にはイースター蜂起やマイケル・コリンズなどのアイルランドの独立に関する書籍も多数並んでいた。そこで、クリスティ・ムーアの歌集やジェームズ・コノリーの伝記、ダブリン1916年蜂起の史跡、劇画の1916年イースター蜂起の本などを購入した。
●デリーの市民権運動
デリーは北アイルランドではベルファストに次ぐ規模である。デリーの町は港を持つ植民都市であり、植民者が作った城壁をもつ。デリーとは樫の木のことであり、植民者はロンドン・デリーと呼んだ。この町からニューヨーク、タスマニア、ケベックなどへの移民も多かった。
名誉革命後の内戦ではジェームズ2世の軍に対してウイリアム3世側が城内に籠城して抵抗した。ここはプロテスタントが抵抗して降伏しなかった場して記念され、城内にはカトリックに対抗してユニオンジャックが掲げられている箇所もある。しかし、城壁の外にはカトリック住民が集住し、アイルランドの旗が翻る。この町からはアイルランドの解放を求める青年が数多く現れ、1960年代には市民権運動もさかんになった。1972年には血の日曜日事件が起きるなど、紛争の焦点となった。
北アイルランドの分離は、アイルランド独立戦争の際にイギルスがアイルランドを南北に分断し、それぞれに議会を置くとする分離統治法を示したことからはじまる。1921年のイギリス・アイルランド条約では南北にアイルランドが分離されることになった。北アイルランドでは警察に加えてプロテスタントによる特別警察が作られ、治安管理の名によるカトリック住民への暴行が繰り返された。カトリックを議会から排除するなど、プロテスタントによる支配が続けられた。この宗教差別の本質には人種差別と植民地主義がある。
アメリカでの市民権運動の影響を受け、1960年代後半には、この差別の撤廃を求める運動が北アイルランドでもさかんになった。1967年には北アイルランド市民権協会が結成され、選挙、公営住宅、就職での差別、裁判なしの予防拘禁制度の撤廃などを求める動きが強められていった。当時、就職ではカトリックを受け入れない企業もあり、公務員採用でのカトリック採用は1割ほどであった。1600戸の公営住宅の内カトリックへの割り当ては3割ほどだった。選挙では恣意的な区割りがなされ、プロテスタントが多く選出されるようになっていた。プロテスタントのアルスター警察隊による暴力もおこなわれていた。この中でIRA(暫定派)が北アイルランドのカトリックコミュニティを実力防衛するとし、1969年にIRA主流から分岐した。
市民権運動の高まりのなかで、1972年1月にはデリーでイギリス軍の発砲で14人の市民が死亡するという血の日曜日事件が起きた。イギリス軍や北アイルランドの武装組織に対抗して、IRA(暫定派)は武装闘争をおこなったから、暴力の連鎖となった。
IRAなどの武装闘争の検挙者は政治犯ではなく組織犯罪者として扱われたため、1977年には500人以上の受刑者が抗議行動に参加し、1981年にはハンガーストライキで10人が死亡した。そのうち7人はIRA、3人は共和社会主義のINLA(アイルランド国民自由軍)のメンバーだった。
1998年にベルファスト合意が成立し、2000年までに休戦することになり、2005年にはIRA(暫定派)軍事評議会が武装闘争の放棄を宣言した。この北アイルランド紛争で2000人以上が死亡し、負傷者数は2万人を超える。
●「フリーデリー」
停戦から武装闘争の放棄を経た今では、デリーの街は平穏である。カトリック住民が市民権運動のデモの起点としたボグサイト周辺は運動の歴史を伝える場として整備され、案内板が建てられている。フィル・コールターの「私の愛した街」はこのデリーの市民権運動がイギリス軍によって制圧された状況を歌ったものである。そのデリーの街を歩いた。
デリー城壁内の聖コロンブス教会にはプロテスタントの籠城の歴史などを記す展示がある。エリザベスの写真なども飾られ、プロテスタントと王室主義が植民地主義を柱につながっているように感じられた。
デリーの城壁には監視塔があり、そこからはカトリック居住区が一望できる。ここに銃器が置かれ、狙撃がなされたこともある。城門からからボグサイトへの坂を下りていくと、城壁に対峙するようにシーン・キーナンのケルト十字の記念碑がある。ショーン・キーナンは共和主義者でデリー市民防衛協会の議長として活動し、シンフェイン党の名誉副総裁にもなった。キーナンは3次にわたり、計15年間の獄中生活を送った。IRAの活動に加わっていた息子のコルムが1972年3月にイギリス軍に射殺された際には、その葬儀のために仮釈放された。碑の向こうには城壁が見え、その壁にはペンキで、われわれの戦争捕虜を解放せよ、マガべリーでの拷問を止めろと記されていた。捕虜が解放されて戦争が終結することになる。
この十字架の近くに、「フリーデリー」の文字が記された白い壁がある。もともとは民家の壁に描かれていたものが、残されている。この文字はジョン・ケーシーが描いたものと裏側の石碑に刻まれている。
「フリーデリー」の壁の周辺には、市民権運動のデモ、けが人を運ぶ市民、射殺された少女、血の日曜日事件での死者の顔、防毒面の兵士、壁を壊す兵士、ハンガーストライキなどを描いた壁画がある。これらの市民権運動の壁画は、ボグサイド芸術家集団の3人の作家が民衆ギャラリーとして構成したものである。
ボグサイトのフリーデリー博物館はデリーでの市民権運動を血の日曜日事件を中心に展示する小さな博物館であるが、その内容が示すものは深い。この博物館は事件での遺族が中心になって設立した血の日曜日トラストが運営している。館には弟が血の日曜日事件で亡くなったジョンケリーさんがいて、訪問者に銃弾などを見せて、青年たちが殺害された状況やその真相究明と責任追及の活動について話した。
博物館には30枚ほどの解説板があり、デリーの歴史から独立運動、1960年代の居住や雇用を求める運動団体の活動から市民権運動の形成、弾圧と抵抗運動などが示されている。展示には、市民権運動の横断幕やチラシ、パンフレット、ポスター、当時の報道記事、デモ隊が使ったブリキ缶の楯、弾丸、犠牲者の遺品などがある。
記録を見ると、銃弾が尻から胸に貫通、肛門近くから肩に貫通、後頭部に銃弾などと死因が記されている。血に染まった跡を残すデリー市民権協会の横断幕、銃弾が貫通した血に染まった服、死者を追悼する十字架などは、このデリーの市民権運動の歴史の証言するものである。博物館では写真集『血の日曜日』などを発行している。
博物館の近くには血の日曜日事件での14人の死者の追悼碑がある。この碑は1974年に建てられたものである。刻まれた名前の横の年齢をみると6人が17歳の青年である。碑の前には、だれがどこで撃たれ、傷ついたのかを示す地図がある。
2010年6月、この事件の調査報告書が発表され、イギリスのキャメロン首相はそれをもとに「深く謝罪」すると発言した。事件から38年ぶりのイギリス政府による謝罪だった。この調査委員会は1998年にブレア政権が設立したものだった。
「フリーデリー」の壁の正面にはハンガーストライキによる10人を追悼するH型の追悼碑がある。この碑に関わるハンガーストライキは共和主義者が戦争捕虜としての取り扱いを求めて、1981年に北アイルランドのロングケッシュ刑務所でおこなわれた。ハンストは40日から70日という長期にわたるものとなり、10人が死亡した。このハンストはイギリスが1976年に逮捕者を政治犯ではなく犯罪者とするとしたことへの抵抗であった。この時のハンスト参加者は20人を超えた。拘束された共和主義者たちは刑務所の服を着ることや刑務労働を拒否し、ハンストという生命がけの行動でその政治的な信念を示したのだった。
H碑にはボビー・サンズをはじめ、12人の所属組織、生年月日、死亡年月日、年齢、ハンスト日数が刻まれている。6人が1956年、57年生まれであり、24,25歳での死である。碑の横には別の時期のハンスト死者の名前を刻む碑がある。
H碑の後方にはIRAの活動で1971年から94年にかけて亡くなった18人の名前を記した小さな碑が建てられている。そこには戦士リチャード・キグリー、1984年4月21日、フォリー街という形で、名前、死亡年月日、死亡地が刻まれている。
街を歩いていると、アイルランドの社会主義の旗とアイルランド共和主義の旗をクロスさせた絵が入った碑が門柱に掲げられていた。そこには革命的な共和社会主義者ミッキー・ドハティ(1944〜2003)を追悼すると記され、かれがアイルランド共和社会主義党とアイルランド国民自由軍(INLA)の創立に参加し、血の日曜日事件で負傷したことが記されている。この碑は家族と友人、同志が建てたものである。
また、INLAの兵士や同志を追悼するプレートなどもある。他には、1972年5月19日に15歳の少年マヌス・デリーがイギリス軍によってここで殺されたというプレートなどもある。これらは、令状なしの逮捕や戦闘があり、戦争状態となり、軍による少年の殺害なども日常的になっていた時代を物語る。
追悼碑や壁絵がある地域から南西に行くと、ガス工場跡がある。いまでは歴史遺産とされ、カフェなどが入っている。この工場の前には、共和主義運動に参加したデリー旅団第1大隊の16人の戦士の名前を記したドルメンが置かれている。
●デリーの共同墓地
ガス工場の西方に競技場があり、その向こうにデリー市の共同墓地がある。この墓地を歩いた。墓地の下方部にはデリーの歴史を物語る古い墓碑があり、イギリス軍に動員されて亡くなった兵士の墓碑群などもある。上に行くにしたがって墓碑は新しくなり、デリーの共和主義運動関係者の墓や追悼碑などもある。
墓地の中央部には記念碑があり、デリー旅団第2大隊に所属していたことなどを示すケルト十字架の個人墓が数基ある。近くには1975年にデリー旅団によって建てられた碑がある。その碑の上部には死を迎えようとする戦士の像が置かれ、1970年代前半からの活動で亡くなった人々の名が記されている。
墓地の上方部には覆面姿の兵士像の碑がある。この碑は1981年の共和主義者のハンストの死者をはじめ、1980年代以降に活動で亡くなった人々を追悼する碑である。名前とともに、活動中に殺された、イギリス軍によって殺された、暗殺された、ハンストで死んだなどと死亡の理由が記されている。碑文には、イギリス政府にはアイルランドでの権利は全くないことを語ったコノリーの文が引用されている。その横には共和社会主義者やその仲間で亡くなった人々の名を刻んだ碑がある。この碑は2000年に共和社会主義者の同志や友人によって建てられたものである。
このように記してくると、IRAなどの武装闘争などの追悼碑が前面に出てくるが、非暴力での平和形成への思いの方が強いことは当然である。アイルランドの大統領に女性であり法律学者のメアリー・ロビンソンが選出され、社会民主主義が力を持つなかで対話が試みられ、停戦が生まれたとみるべきだろう。非暴力による平和的統一にむけての表現も必要である。もともと、共和主義や社会主義の根源には自由・平等・友愛があるのであり、思想そのものが暴力に依拠しているわけではない。無統制な武装対立自体が仕組まれ、そのような対立が生まれることで利権を形成していった者の存在こそが問われるべきだろう。
デリーの街を流れるフォイル川の脇には二人の青年が握手をかわそうとしている像がある。これはカトリックとプロテスタントの和解を願う像であり、1992年に建てられたものである。その和解にあたっては、イギリスが植民地主義を反省し、その過去の清算をすすめるという姿勢が必要だろう。それがカトリックとプロテスタントの対立の根源にあるからである。
「私が愛した街」の歌詞には、「音楽は聞こえなくても続いている、精神は傷ついても壊されはしない、忘れはしないが、心は明日に向かい平和な日々を求める」、「亡くなったものは戻らないけれど、私にできることはただ輝く明日を祈ることだけ」とある。この歌の核心は、「街は破壊され占拠されても、精神は壊されない、平和にむけて、私にできることは祈ることだけ」とする抵抗と平和への思いである。
激しい闘いがあり、その上に今があるからこそ、平和への祈りに価値をおきたいと思う。この歌を歌ったダブリナーズのルーク・ケリーの墓はグラスネヴィン墓地にある。ルーク・ケリーは43歳で亡くなったが、コノリー協会などの社会思想の影響を受けた。その彼の歌には、戦争や労働運動、解放などをテーマにしたものが多く、社会的なメッセージが込められていた。その思いを込めた歌声とバンジョーの音は心に力を与える。
デリー市街を流れるフォリー川は上流で一部が国境線となっている。南北の境となる16号線のキルコネルは平穏だった。国境での審査もなく、分断線があってもないような状態である。
●ベルファストの壁画
ベルファストは北アイルランドの首都であり、20世紀初めの都市地図を見ると、ベルファストが造船の町として発展したことがわかる。地図にはいくつもの船渠が描かれている。今ではその造船工場は歴史遺産とされ、観光地になっている。
この都市はプロテスタントとカトリックの対立が続いてきた街である。その対立の激しい西ベルファスト居住区の境界には今もゲートが残り、主要ゲートは夜には閉められる。周辺には多数の壁画がある。朝、この街を歩いて、描かれた壁画を見た。ベルリンの壁は亡くなったが、通行はできるとはいえ、ベルファストの壁は今もある。
カトリック居住区には、さまざまな絵画が描かれている。見ていくと、アイルランドやキューバの政治犯の釈放、ハンスト死者の追悼、アメリカやアイルランドの市民権運動、人種差別撤廃と平和な社会、独立運動死者の肖像、共和主義と社会主義、平和への国際行動などを示すものなどがあり、アイルランドの政治ツアーの広告なども描かれていた。途中、アイルランドのベルファストのIRAの運動での死者を追悼する公園があった。そこには1920年代から90年代にかけて亡くなった20人の名前と死亡日が記されていた。その向こうにはボビー・サンズの顔を描いた建物が見えた。その建物はシンフェイン党の事務所だった。近くには図書館があった。
居住区は鉄の門で閉鎖されるようになっている。門の近くには平和のオブジェが置かれていた。近くにはエリザベスの顔とどくろをコラージュしたポスターなども貼られていた。開いている門を超えて、プロテスタントの居住区に行くと、多数の英国旗が翻っていた。ここには、シャンキルのプロテスタント少年団、IRAのテロによる破壊、エリザベスなどの王室をコラージュした壁画があった。また、第1次大戦下の1916年における第36アルスター師団のソンムでの活躍が宣揚されている。それは1916年のイースター蜂起への対抗のようである。イギリスへの忠誠の宣伝として使われるのであるから、植民地から帝国主義戦争に動員されたことへの批判的な視点はない。
街角には1975年8月13日の共和主義者の虐殺による5人のプロテスタント死者の追悼場があり、亡くなった人々の名前が記されている。カトリックの共和主義者には武器をとることが防衛であり、正義の行動であっても、攻撃をうけたプロテスタントにとっては殺人行為だ。プロテスタントによる攻撃も同様である。一人ひとりに人間を大切にするのなら、停戦と対話の道を探ることが求められる。今ではその方向にあり、街を自由に歩くことができる。居住区を分離する道路の一部には、「平和の壁」の一角があり、人々が訪れては平和へのメッセージを綴っていく。平和とは、壁に自由に絵を描くことができること、街頭で自由に歌えることでもある。
アイルランドの統一やイギリスへの従属からの解放をもとめる動きが強まれば強まるほど、プロテスタントのなかでは王室主義やイギリスへの忠誠を示すグループが力を持っていった。彼らはロイヤリスト、ユニオニストとよばれ、ユニオンジャックを掲げ、イギリス国王を賛美する右翼の方向にすすむわけである。そして共和主義自体を否定し、攻撃する。その暴力が暴力を生んでいった。
しかし、歴史の流れは、宗教の平等、市民の権利、民族の独立を掲げる共和主義と反植民地主義が主流である。アイルランド国旗のような、宗教の平等と独立を求める動きを止めることはできない。アイルランドの未来は、北アイルランドのイギリスからの分離と南との統一にある。それはイギリスの問題であり、植民地主義を反省してユニオンジャックを解体することが課題になっていく。エリザベスを掲げて生きていくことがいつまでできるのだろうかと、ベルファストを歩きながら思った。
●アイルランドの荒地とケルトの文様
アイルランドの旅行では、バレン高原のドルメン、イニシュモア島のドン・エンガス、ドラムクリフの円塔、ジャイアンツコーズウェイの岩石群、モハーの断崖などの歴史や自然の遺産を見ることができた。
ジャイアンツコーズウェイの石柱は海に沿って続いていた。石柱は、白や黄の苔をつけていたり、海水とともに藻を浮かべていたり、波に削られて黒く光っていたり、小さな貝をつけていたりとさまざまだった。波や風が年月をかけて岩を削ぎ落としていく。小道にはヒースやマーガレット、アザミの花が咲く。海上では、海水を吸い取るように雲が上昇し、かなたにはスコットランドがかすんで見えた。潮の風は冷たく、その香りは温かい。その潮風が人間の魂を清めるものであってほしい。
モハーには人間の意志を拒絶するような断崖があった。そこでは波が岩を削り、地層が姿を表していた。大地に海風が吹きつけ、海鳥が飛び交う。崩れた岩を土と草が覆い、そこに風と波しぶきがあたる。潮の流れが小さな孤島をつくる。幾千万年もの岩と波の交差が断崖を作りあげてきた。ドン・エンガスの砦からみえる断崖も同様だった。波と岩を見つめ、その音に耳をすませる。断崖を見れば、領土を争い、殺し合ってきた人間の歴史がむなしく思われる。人はいつまで争うあうのだろうか。
イニシュモア島の岬にむかうと荒地に石垣が積まれ、牛やロバが放牧されていた。ところどころに漁師の墓が海に対面するように立っている。命を育てながら、人々は着衣を織り、大地と共に暮らしてきた。この荒地のなかからケルトの歌や文様が形成された。ケルト十字に刻まれた螺旋の文様は、創造への踊りを織り綴るものであり、私たちと宇宙、自然、そしてお互いを結合させるものであるという。そのような宇宙、自然、人間との共存と創造を基礎にして、新たな社会が形成されるべきときと、文様を見ながら思う。
荒地から海を見つめ、波や風の音を聞く。美しい文様を見て、歌を聞き、人々の柔らかな心を探る。土地を奪いあう歴史は終わりにしたい。そのためにも、奪ったものは返すことだ。そして「川だけが自由に流れる」状態から、大地と人間も自由な時代に向かいたい。
(竹内)