巌さんふるさとの街を歩く 

最近、巌さんの就寝時刻が遅くなっているようです。理由は「丑三つ時まで街が起きているから、栄養を与えなければ」というものだそうです。

解放された年末は巌さんの時計の歯車が遅れ、暦の上での正月と合いませんでした。それまではの巌さんは将棋三昧の日々でした。負けない将棋です。昨年5月の連休あたりから「名人になったからここではしない」と、ぱったり将棋はしなくなってしまいました。             

そして、5月の連休の浜松祭りのころから、お金を使い始めるようになりました。以前から「1万円払って、釣りはいらない」ということをしなければとの思いからのようでした。

そこから、思いもかけない巌さんの単独行のスタートです。5月3日、浜松の凧揚げ会場から家に戻り、お疲れで横になっていたひで子さんが気づいたときには巌さんは街に出かけた後でした。たまたま取材で訪れていた金監督たちとフリーライターの青柳さんたちが総出で探しました。

巌さんの不意の外出に、ひで子さんは「そのうち帰ってくるよ」と、周囲のあわてようはどこ吹く風のようだったそうです。しかし、実は3階の窓から下を見ては巌さんの帰りを待っていたようではあります。

この日、買い物を終えた巌さんと街中で出会って一緒に歩いて帰ってきた青柳さんに、家の階段を登るところで「子供じゃないんだからついてこなくてもいい」というような、お断りをいただいたようです。

その日以来、駅構内のパン屋さんでベーグルを20個、さらには50個とまとめ買いをして、「釣りはいらない」と言っては、ひで子さんがおつりをもらってくると、「釣りは?」といいながら、おつりは受け取っていたようです。最近でも街中へは出かけますが、以前のように午前、午後と出かけ、多い日には5時間、6時間と出かけることは少なくなっています。こうした巌さんの街中へのお出かけは、

傍目には散歩のように思いますが、巌さんにとっては大事な意味があるようです。様々説明がありますが「社会探訪」であったり「死んだ人の霊が建物にいて、自分が行くことで栄養を与えている」とか、浜松の街が気になっているようです。         

 巌さんが出かけた後で買い物に出かけたひで子さんとばったり出会った際に、ひで子さんが「家に帰るの」と声をかけたところ、巌さんから「今仕事中だから」と、そっけない返事が返ってきたそうです。

解放から2年が過ぎようとしてますが、巌さんの身の回りの安心感は確実に広がっています。しかし、巌さんの命を守るための防御壁は、獄中当時とほとんど変わることなく存在しています。来月3月10日で巌さんは80才になります。解放から2年を迎え、6月30日で事件発生から50年が経過します。     
                       (浜松 袴田巌さんを救う市民の会T)


獄中からの手紙(最初の支援者への手紙)

前略 W様

      公に 前進こそが 勝ちの道

面会有難うございました。差入れ受け取りました。何時も有難う。

警察のデッチアゲ偽造工作完遂をもって逮捕起訴されて十一年有余 私はこの暗黒のデッチ上げ虚構に対する満腔の怒りを一瞬たりとも忘れることはできない。先ず捜査陣の違法は裁判に於いて認められている。無罪は当然だ。我々は本件完全無罪判決戦取への重大な決意をこめ積極的に働きかつ主張し、私の青天白日無実を示す全証拠を鮮明に打ち出すことによって、本件起訴事実を全面的大破産に追いこみ、支援諸氏による本件裁判闘争勝利に向けた熱い団結により新たな大運動に堰を切ったように開始されることを切望しています。宜しくお願い致します。

本件の滑稽さは次の件に尽きる。捜査主任松本が端切のデッチ上げという愚かしくも鈍に過ぎる手段に依拠せざるを得なかった事態には、最早いかなる意味に於いても国民に反逆するものである。第一穿けもしないズボンを所持する人間はいない。この点に争いは有さない。従って決め手とされている端切が本件ズボンの端布と仮定しても、それが被告人の実家に存在するわけはないのである。これこそ捜査陣のドズ黒い偽証工作を露にしているのである。本件端切の発見者松本捜査主任の保身の為の偽証工作は見え見えである。正しく彼が狂乱の極みに達していたことの顛末である。

本件に於いて松本捜査主任等は己の面子の為には無実であろうとそんなことは問題にせず、何がなんでも人民の中から犯人をデッチ上げるという暴挙を露骨に働いている。人民諸氏、このような権力犯罪を許すのか、全人民は横暴に満たされた司法殺人を見てみぬ振りをするのか、そのようなことは断じて許さない筈だ。今こそ善良な庶民に断固たる態度決定を迫りたい。不正義を徹底的に憎み、横暴を憤る人民の広範な総決起を実現していかなければ、決して権力犯罪はあとを断たないのである。心ある人民各位に訴える。権力犯罪を絶対にゆるさぬため火玉となって共に闘って下さいますよう。全支援者、人民諸君、満を持して明らかにされた起訴事実の完全破綻という紛れもない事実に、あらためて心底からデッチ上げに対する怒りを爆発させてほしい。無実の人間を陥れた、裁判官等司法権の極めて卑劣なデッチ上げ、死刑弾圧を粉砕すべく、今こそ人民は団結してほしい。

誰が見ても私の無実証拠は明確である。それを証明する全証拠は検察官も同意せざるを得なかった確固不動のものである。総ての国民諸君、友人諸君、袴田巌を知るすべての知人各位、無実の袴田が獄中十一年半余という合法的謂なき、この権力の暴挙をどうして許せようか。この暗黒のデッチ上げ裁判死刑弾圧をつつけさせることがどうして出来ようか。本件の司法殺人大暴挙に、心ある人民の怒りは心底から煮えたぎっている筈だ。獄中の私の血の叫びはどこまで届いているだろうか。不条理の下で操作された本件有罪判決に対する、私の怒りは胸はりさけんばかりである。支援諸氏は、今こそ社会正義を各人が堅持し、不当に対する人民の当然の怒りを大爆発させていってほしい。本件のどす黒い体現、暗黒デッチ上げ裁判粉砕のために、必要な全てを直ちに遣退けなくてはならない。一日も早く、一刻も早く晴天白日無実の私は正義に守られて共に勝利せねばならない。つまるところ横川判決は外部にも内部にも弁解の余地は全くない内容の決定的産物だ。

W様   一九七八・三・一三     袴田巌

                                               草々

獄中からの手紙 その2

 

私は袴田巌と申します。デッチ上げ裁判によって死刑に葬られようとしております。私はこの十八日で十年間を無実で拘留されるのであります。本件は、松本捜査主人(ママ)の妄想の産物が錯乱状態の中で結合され、その血迷った頭目が明らかに、白を黒と見間違えたのであります。私は、本件物的証拠が物語るように完全絶無の潔白であります。

本事件は、静岡県清水市横砂の重役一家四人殺し放火事件であります。私は本件が発生した当時、被害者の経営する、こがね味噌会社工場の独身寮で生活して居りました。本事件後四日目を経て、こがね味噌会社の全域を警察が捜索しました。その際、私のパジャマを押収していきました。私はパジャマを本件火災後、洗濯機に掛けて綺麗に洗っているのであります。ところが警察は、被害者と同型の人血がパジャマに付着していると偽り、鑑定書までも警察の暗い連帯の中で偽証したのであります。

私は逮捕歴もない人間でした。しかし、警察はそれだけでは止まらず、右パジャマに本件放火に使用されたという油まで付着しているという鑑定書を偽証せしめ、終には、捜査主人(ママ)松本久治郎の考え得る、本件殺人現場から見た推測によって、私がパジャマを着て本件殺人放火を敢行したのだというデッチ上げ虚構、虚偽の調書を捻出しました。

しかし、これらのデッチ上げ調書は本件の真相を知らない者同士が集まって生み出した空論でしかありません。それは後に隠しようもない矛盾として、右松本刑事等のデッチ上げ偽証等の当局の暗い連帯の成した、悪が次々と暴露されることになるのであります。右松本はパジャマを要してデッチ上げ虚構、虚偽の調書を奪い、旨いぐわ(ママ)いに起訴に持ち込みましたが、第一回公判に於て当然、私は全面否認です。その後、原裁判闘争中、本事件発生後一年余を経て、新証拠血染めの衣類が、こがね味噌工場一号タンクから出現したのであります。

その所為で、右松本は、私のパジャマは本件殺人に使用されたものではないとして、右パジャマを引込めざるを得なくなりました。右松本は新証拠の血染めの衣類をもって、実は被告人が本件殺人を犯したのは、これだとして、血染めの衣類五点を提出して、本件の筋書きを変えることになりました。

従って、調書に記載されている内容は虚偽であって、パジャマで殺人など行なったのではないと捜査陣が云いだした。この意味はパジャマで本件犯罪を犯したという本件総ての調書は、デッチ上げ虚構、虚偽であったということを捜査当局が自ら認めたこととなったのであります。従ってパジャマに被害者の血が付着する理由がないことになった。私のパジャマに血等の付着有りとした警察鑑定は偽証であったことが状況からも動かし難くなったのであります。私の無実は明らかとなった。

ところが、右松本刑(ママ)は、新証拠の血染のズボンの端切が、私の荷物の在った、浜北市の実家に在ったと云いだした。これが松本の偽証であって、実に矛盾を要した大変不自然な発見のされかたである。何故なら、浜北市の実家に対する最初の捜索の際には、右端切は、私の荷物の中には存在しなかったことが明らかであります。ところが、十二日も後の二度目の捜索に右端切が発見されたとされている。そこに問題があります。

御承知の通り警察の捜索は甘いものではない。右端切が実際に、私の荷物の中に存在していたものなら、当然、最初の捜索で発見された筈である。二度目の捜索で発見したという理由は、一つしかない。それは二度目の捜索に対し、右松本刑事が右端切を持ち込んだということだ。これ以外に解決の理由はない。彼の悪辣さも極まった。私は血染めのズボンと無関係であります。

しかし、原審静岡地裁は、ろくに検討もしないで、新証拠を被告人の所有物と認め、昭和四十三年九月十一日、被告人に対し死刑の判決をした。私は怒り身頭(ママ)に達した。この言渡しの中で無法者の同士の争いだと、本件松本等の違法を決めつけ、本件警察著書の総てを排除したのである。

原審の決手は、血染のズボンの端切が被告人の荷物の中に在ったというものです。控訴審に於ては、右ズボンと右端切が切断前同一のものであったが(ママ)否かの鑑定をした。近藤彰氏と尋問しました。彼は、切断前同一のものであったとまではいえないと証言しました。むしろ、切断の起伏を見ると別個のものであるということを認めたのであります。一方血染めのズボンが、私には到底穿け得ない小さな物だということが、明白となりました。

そこで、検事は、私が拘留中の運動不足で太ったからズボンが穿けなくなったとした。そして、本件当時、私から押収した、ズボンを提出しました。早速、右ズボンが穿けるが(ママ)否かを試しました。結果、検事提出の、私のズボンは、何の問題もなく穿けることが明白となりました。これを持って、私の犯人説は消えた。

しかし、検事は血染のズボンが味噌汁に漬っていたから、その所為で、縮んだのだと云いだした。そこで鑑定を行った、結果はズボンの正糸は縮まないが、ウエストの裏地が四センチ程、収縮すると出たのであります。右鑑定結果も、又、血染のズボンは、私に穿けないことを証明することになった。何故なら、装着実験の写真を見れば一目瞭然ですが、中でも三回目の実験の際には無理やり、引張り上げた為、血染のズボンはビリッと破れてしまいました。この理由は、私の股につかえて上え(ママ)は進めないことを示しております。尚、本件においては血染のズボンの下に血染の大型ステテコを、はくことになります。して見ると、血染のステテコを、はいて、その上に血染のズボンを穿くことになる。ということは、装着実験時より、尚、私の股は、三,四センチ程度太くなるのは事実であります。

従って、血染のズボンは到底私には穿ける範囲の物ではないのであります。これを要して、私に対する疑惑は完全に晴れたのであります。尚、血染のズボンの太股部分は裏地はありません。従って、右鑑定の正糸は縮まないという結果は、血染のズボンの太股部分は縮んでいないという証明であります。この意味は、血染のズボンは、私に本件事件当時も穿けなかったという証であります。

被告人の無罪は証拠上動かなくなったのである。しかし、高裁横川敏男裁判長は、判決に於て事実誤認どころか、インチキな一例の可能性のあいまいな説明に終始し、穿けないことの明らかな血染のズボンを、本件当時は穿けたなどと滅茶苦茶な焼糞で、誤魔化した。不正義の許すべからざる判決であった。

一番ひどいのは鑑定に対する態度である。判決に都合の悪い部分は見て見ぬ振をし、一部の都合のよいところは恥も外聞もなくとりあげるという滅茶苦茶振です。それだけでは有罪の証拠となり得ない、事実を並べたて、そのうち有罪に都合のよいインチキ解釈だけを引張り出し、集めて廻るというのだから、これはもう裁判ではありません。このような横川裁判のデッチ上げは許されない。

                          昭和五十一年八月六日

民権人権確立委員会    

       袴田巌

 

 

* * * 尋ね人 * * *

 

巌さんの獄中からの手紙は、1977年ころ東京の文京区駒込6−1−15 塩尻ビル3Fに事務所(ラジカル懇談会気付)を持つ、「民権人権確立委員会」と称するグループの皆さんとの交流の記録です。

1977年7月24日には豊島公会堂で「冤罪告発!民権人権確立大集会」が開催されています。

巌さんはこの集会にアピールを書き、記憶が不確かのようですがひで子さんも出席しているようです。

このグループの方々の、面会、差し入れが行なわれ、巌さんの家族からの支援の呼びかけについてアドバイスがあり、それをきっかけに親戚などへの支援の広がっていったようです。

巖さんの闘いの原動力の一つだった、このグループの関係者の皆さんの行方を捜しています。冤罪を晴らす闘いに敢然と立ち向かっていた巖さんの様子を聞いてみたいと思っています。

何らかの情報をご存知の方はお知らせください。