2016.3.56
 第
9回強制動員真相究明全国研究集会(名古屋)開催

 

201635日から6日にかけて、名古屋市内で第9回強制動員真相究明全国研究集会が開催された。35日の「朝鮮人強制労働と世界遺産問題」をテーマにもたれた集会には100人、翌6日の名古屋三菱女子勤労挺身隊関係跡地のフィールドワークには50人ほどが参加した。

集会では最初に、名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会の小出裕さんが「朝鮮女子勤労挺身隊調査を通じて解決済み論の誤りを糺す」の題で、30年にわたる名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊の調査と裁判闘争の経過を話した。

小出さんは、三菱の「殉職者名簿」から1944127日の東南海地震での朝鮮挺身隊少女6人の死者の存在を知ったこと、1988年に追悼碑「悲しみを繰り返さぬようにここに真実を刻む」を建てたこと、1999年からの名古屋三菱女子勤労挺身隊訴訟で強制連行・強制労働の事実を認定させ、国家無答責や別会社論を否定させたこと、2007年からは三菱本社前での金曜行動をはじめたこと、三菱での労働を認めさせるために厚生年金脱退手当金を2009年に受給させたことなどを話した。

そして、三菱が追悼碑に参列しなかったこと、空襲での朝鮮人徴用工の死者を公表していないこと、いまも女子勤労挺身隊員への謝罪と賠償がされていないことなどをあげ、この問題は解決済みではないとし、問題解決を訴えた。

続いて、韓国の民族問題研究所の金敏浮ウんが「儒生日記から見た日帝末期における強制動員の実態」の題で、儒生の日記を分析することで当時の強制的な動員状況を明らかにし、明治産業革命遺産の際に日本政府が強制労働を否認した発言を論駁した。

利用した日記は、全羅南道の儒生・金冑現「定岡日記」、忠清北道の金麟洙「致斎日記」、京畿道の鄭瀾海「観瀾斎日記」などである。日記からは、1943年になると募集の強制性が露骨になり、面吏員たちが村を捜索し、工場で働けそうな18歳から30歳以下の住民を罪人のように捕まえていったこと、郡面の官吏たちが夜中に村を襲撃して労働者を捕まえ、逃亡があると代わりに家族のなかから一人を連れていったこと、志願兵は名目にすぎず、実際には強制徴収であったこと、婚約した日に徴兵された者もいたこと、19442月には村で徴用対象者全員が逃亡する事態が起きたこと、駐在所は逃亡者を出頭させるために家族を牢獄に入れ、それでも出頭しない時には年齢に関係なく人を引っ張り、割当を埋め合わせたこと、徴用を避けるために破産して流浪する者もいたことなど、強制動員による村落内の具体的な状態を知ることができる。金さんは、このような強制的な動員状況であっても、総督府の行政力による総動員管理には限界があったことも示した。

この2つの話の後、三菱長崎造船、三菱高島、三井三池、日鉄八幡、日鉄釜石での強制労働の実態について報告があった。

竹内は「三菱重工業・三菱鉱業と強制労働ー長崎を中心に」で、ユネスコの世界遺産は人種差別を克服し、国際的な人権と平和の認識に資するものであり、資本・労働・国際の視点が必要であること、明治産業革命遺産の枠組みは安倍談話にあるような歴史修正主義の影響を受けたものであること、登録に際しての日本政府の強制労働認識が偽りであること、日本への労務80万人、軍人軍属37万人の朝鮮人強制動員の史料があること、三菱重工長崎造船所は6000人、三菱高島炭鉱は4000人の朝鮮人を強制動員したこと、三菱内での過去の清算にむかう企業文化が必要であることなどを示した。

韓国の原爆被害者を救援する会の河合章子さんは、三菱長崎造船所に強制動員された3人の朝鮮人の被爆者手帳認定をめぐる取り組みの現状を話した。この3人は、黄海郡遂安郡から木鉢寮に連行された李寛模さん、大牟田から長崎造船へと徴用された金成洙さん、八幡から長崎造船へと徴用された「漢燮さんである。3人の被爆者認定のために、厚生年金加入記録の調査、郵便貯金の照会、供託文書の開示請求、三菱への在職証明書の発行要請などをおこなってきたが、在職の証拠がないとされ、認定をさせることができない。

河合さんは、供託については名簿がないとされ、本人には通知のないまま供託の払い戻しがなされていることを示し、これで「解決済み」なのか問いかけた。

三井三池炭鉱については広瀬貞三さんが、三井三池の労務部門の担当者の動向を示しながら、戦時下の三井三池炭鉱での朝鮮人、中国人、俘虜の連行の全体像を明らかにした。

三井鉱山は日本の戦力増強政策に積極的に対応した。川島三郎会長は1942年から日本鉱業会会長を務め、三井鉱山への朝鮮人の強制動員も増加した。三井鉱山は日本各地で中国人置連行し、その使用数は全国1位になった。大牟田の連合軍俘虜第17分所には1737名が連行されたが、全国84カ所の動員先のうち最大の数だった。三井炭鉱は増産と動員のなか、19455月時点で、外国人労働者の割合は33.7%に増加した。三井文庫には関連史料が保管されているとみられる。その公開が望まれる。

八幡製鉄元徴用工問題を追及する会の兼崎暉さんは、北九州市が八幡製鉄所を観光スポットとして売り出しているが、八幡製鉄所ができたいきさつや戦争と共に発展してきたこと、戦争中の強制連行・強制労働には一言もふれていないとした。

八幡製鉄には製鉄所と港運に6000人の朝鮮人が動員され、中国人200人、俘虜1200人も動員された。日本政府は65年協定で解決済みを語っているが、韓国の裁判では日鉄の強制動員被害者への賠償を認める判決をかちとっている。国際企業として被害者への賠償が求められる。

八幡に関連して「東録さんが発言した。「さんの父は八幡製鉄の下請けの組に連行され、母も八幡の港運で働いた。「さんは母の労働証明書を示しながら、出産してすぐ、鉄鉱石を手で貨車に積み込んだことなどを話し、産業革命が石炭と鉄の生産によるものであり、そこに強制労働があったことを忘れてはならないと訴えた。

日本製鉄元徴用工裁判を支援する会の山本直好さんは日本製鉄釜石での強制労働について報告した。

釜石では橋野鉱山と橋野高炉跡などが明治産業革命遺産に組み込まれているが、戦時には日本製鉄釜石製鉄所に少なくても690人、日鉄鉱業釜石鉱山約1000人の朝鮮人が連行された。1995年には新日本製鉄を相手取り朝鮮人遺族が遺骨や未払い金の返還等を求めて東京地裁に提訴、1997年、一人あたり200万円の慰霊金で和解した。日本製鉄の生存者の裁判は日本では敗訴し、韓国では高裁で勝訴した。

集会後、交流会がもたれ、全国から発言があった。

翌日には、三菱名古屋朝鮮人女子勤労挺身隊関係跡地のフィールドワークがなされた。勤労挺身隊宿舎跡、道徳工場跡、追悼記念碑、三菱重工殉職碑などを見学し、調査と裁判、尊厳回復へのたたかいの歴史を学んだ。