2016年12月 高江・辺野古はいま

 2016年12月、人権平和・浜松のメンバーら7人が、それぞれ、沖縄での現地行動に参加した。以下はその報告である。

@12月13日〜15日高江現地・オスプレイ墜落現場

 不時着では断じてない! 墜落だ!!

         ――沖縄オスプレイ事故

12月13日から3日間、高江のオスプレイパット建設反対の行動に参加した。13日早朝から強い雨の中でのN1ゲート前の行動に加わった。この日は100人近くで座込んだもののごぼう抜きされダンプ120台の砕石搬入を許してしまった。ダンプを止められなかった悔しさを感じながらホテルに戻って休養していたところ、とんでもないニュースが飛び込んできた。「名護沖にオスプレイが不時着した」というのだ。

翌日の14日も5時起きで高江に向い行動に参加したのだが機動隊の姿はなく、ダンプの動きもまったくない。機動隊はオスプレイ事故現場の警備に出払ったようだ。その日の行動は午前中に切り上げ、オスプレイ墜落の抗議に行こうということになった。事故現場は辺野古の北、大浦湾を隔てた反対側の安部(あぶ)という集落の海岸で集落から800メートルほどしか離れていない岬から続く岩礁だった。現場はすでに米軍によって阻止線が張られ、それを機動隊が警備していたが海から引き揚げられた部品もあり、200メートルほど離れた岩礁の陰にオスプレイの残骸が見えた。阻止線の前でオスプレイ飛行停止、基地撤去の声を上げた。

NHKなどでは「不時着」「不時着」と報道を繰り返していたが、機体はバラバラに周囲に散乱している状態でとうてい不時着ではありえないというのが実感だった。乗員5人のうち2人がケガをしているという米軍の発表だが、あの状態ではウソだろうと感じる。普天間基地に半旗が上がっていたという話もあり事故の実態は闇の中だ。

その後の「琉球新報」「沖縄タイムス」などが大きな現場写真を見れば、ニコルソン四軍調整官(沖縄の米軍トップ)の「事故機は空中給油中にプロペラが破損し、普天間基地に帰還しようとしたが陸地上空で不具合が生じる事態を避けるため浅瀬を選んで不時着した」という事故説明は全くのウソであることがわかる。


 事故機は固定翼モードで墜落しており、着陸のためにヘリモードに切り替える高度や時間がなかったか、もはや操縦不能の状態であったと推定できる。また「浅瀬を選んで不時着した」というのも、安部の事故現場より近くにキャンプシュワッブがあり広い砂浜に不時着すればあれほどの損傷にはならなかったはずだ。つまり米軍の発表は大ウソであり、それを丸呑みにする日本政府も沖縄県民をばかにしているのだ。事故は墜落であり、機体はバラバラ、乗員の安否は不明というのがこの事故の実態だ。

さらに同じ日、安部の墜落機と行動を共にしていたオスプレイ機が普天間基地で胴体着陸をする事故が発生した。おそらく墜落機と共に訓練していた機でこの機も損傷したとみるのが妥当だろう。

日本政府は事故の矮小化に奔走するのみで沖縄県知事の要請にもかかわらず、オスプレイの飛行停止・撤去に向けて動こうとしない。多くのマスコミも政府に追随して「不時着」報道を繰り返し、事故の調査・検証に日本の政府機関が関われないことに問題提起すらできない。

米軍は、事故原因を明らかにしないまま沖縄県民の強い反対を押し切って22日には再びオスプレイの飛行を再開した。日本政府も何ら抗議することなく米軍に追随した。

この国の政権も国民も戦後70年を経てもなおアメリカの属国に等しいことに疑問すら持てないのだろうか。

                          (門奈)

 

A 2016.12.17〜21高江・名護・那覇

今回の訪問は、「政府のヘリパッド工事終了宣言」、「13日のオスプレイ墜落後の飛行再開」、「辺野古違法確認訴訟の不当判決」等の中であった。

 

高江ヘリパッド阻止行動

政府の発表では、12月16日に工事は終了したということになっていた。しかし、現地へ行ってみると、様子は大きく異なっていた。工事終了の発表は12月22日に行われる「米軍北部訓練場返還式」に強引に間に合わせるためのものである。工事はまだまだ続き、ゲート前や森の中に入っての闘いも続く。12月19日の月曜日の重点行動日には時々激しい雨が降る中、250人が集まった。このときの静岡県からの参加は9名。

 

12・19名護市 シンポジウム、「辺野古・高江・伊江島のトライアングル」

12月19日、午後6時から、名護市市民会館で行われたシンポジウムに参加した。主催は島ぐるみ会議やんばる地域連絡協議会。発言者は建築科の真喜志好一氏、フリージャーナリストの屋良朝博氏、伊江村議の名嘉実氏の3氏。
 真喜志氏はまず、普天間基地のできた経緯、危険性を説明した。高江については豊富な資料をもとに、建設予定の着陸帯はヘリの運用ではなくオスプレイの運用に特化した「オスプレイパッド」であること、すべての着陸帯について「米軍の運用上」という選定理由を記してオスプレイの使用をひた隠しにしてきた日本政府のごまかしなどを示した。
 屋良氏は50年代に海兵隊が本土から沖縄に移ってきた経緯、海兵隊の構成人数を示しながら、海兵隊が沖縄に駐留しても現代の戦争にはほとんど意味がないことを述べた。
 名嘉氏は、伊江島は米軍基地の整備が行われているが、環境レビューにないことが行われ、このままでは大変なことになってしまうこと、F35の飛行訓練は米国本土では反対運動でできないが、沖縄ではやられてしまうこと、沖縄の選挙で勝っても全国的に負けてしまえば数の力でやられてしまうことなどを訴えた。
 オスプレイ墜落の後、あまりにも早く飛行再開がなされたため、会場は怒りでいっぱいになった。

 

12・21那覇市 埋め立て承認取り消し裁判不当判決に抗議する集会

12月21日、沖縄県名護市辺野古の米軍基地に伴う埋め立て承認取り消しをめぐる裁判で、最高裁がだした不当判決に抗議する集会が那覇市の裁判所前の公園で開かれたため、そこに参加した。主催は、辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議。
 参加者は次のようなことを述べた。
 県弁護団の加藤裕弁護士は、@全くの政治的な判決、わずか12頁の判決文で我々の疑問に何も答えていない。一旦、前知事が認めてしまえばそれで終わりか?司法の放棄である。Aしかし、司法でさえ「辺野古が唯一」とは言えなかった。B最高裁で負けたから私たちが間違っていたということにはならない。C新基地建設はさまざまな行政処分や政治的過程によって実現するかしないかが決まり、埋め立て承認はその一局面でしかない。私たちはこの判決を軽々と越えていかなければならない、と4つの論点を示した。
 稲嶺名護市長は、不当判決に屈することなく、今日から新しい闘いに入ろう。大学生の玉城愛さんは、日本の三権分立は崩壊した。本当にこんな国でいいのかと友達と話している。玉城デニー議員は、不当判決には負けない。オスプレイ事故現場で事故処理をする米兵にジョン・レノンの曲を流したところ、米軍は耳栓を配っていた。良心を呼び覚ますようなことを嫌った。照屋議員は、12月20日をもって日本の司法の独立は死んだ。三権が安倍に屈服している。仲里議員は、今こそ団結してがんばらなければならない。基地は百害あって一利なし。糸数議員、伊波議員、県議、市議が次々に熱く語った。東京の最高裁裁判に参加した高里鈴代オール沖縄共同代表は、裁判はアッという間に終わった。1952年4月28日、主権と引き替えに沖縄を捨てた頃を思い返した。アメリカに手渡していくことに沖縄は毅然と立ち向かっていくと、語った。
 最後に高里さんの音頭で「ガンバロー」を三唱して集会を終えた。

高江のオスプレイパッドは未完成な部分が多く残っているとはいえ造られてしまった。オスプレイは飛行している。小さな子どものいる家族は転居も考えなければならない。いずれ機動隊もいなくなり、アルソックの警備員も消え、全国から集まっている支援者の数も減っていく。道路封鎖もなくなり、怒号も消えるのかもしれない。
 しかし、パイロットの顔が見えてしまうほどの超低空飛行をするオスプレイが早朝から深夜まで飛び交う。オスプレイの事故では、1991年の試作機の事故以来、20件の事故で40名が亡くなっている。「何時落ちてくるかわからない」という恐怖を感じながらの日々を強いられる人々がいる。そのような状態にある人たちとどう連帯していけるのかを考えた。                                                (池)

B12・21〜23 墜落現場・返還式典抗議・辺野古

12・22名護・欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会

   「チャーシンマキテ−ナイビラン」

翁長雄志沖縄県知事は標記集会での挨拶をウチナーグチでこう締めくくった、「心を一つにして子や孫のために どうしても負けてはいけない。 新辺野古基地を造らせないことで、オスプレイが沖縄からいなくなる。必ず造らせないように頑張りましょう。」

 米海兵隊のMV22オスプレイが12月13日夜9時半頃、名護市安部(あぶ)集落の海岸に墜落大破した。安部で会った女性は「ここは夜でも安部の人たちが海藻などを採りに入る生活の場。(オスプレイが落ちて)とても怖い」と語っていた。更に同日夜、別のオスプレイが普天間飛行場に胴体着陸する事故も発生している。そんな住民・県民の不安、怒りの声に対して、在沖縄四軍調整官ニコルソンは「県民や住宅に被害を与えなかったことは感謝されるべきだ」と発言。この植民地意識丸出しの態度に日本政府は何ら抗議しないどころか、事故からわずか6日後の19日にはオスプレイ全面飛行再開を容認。沖縄県内25市町村議会や県議会はオスプレイ墜落抗議・配備撤回を求める抗議決議を採択している。

 12月22日、万国津梁館で開かれた北部訓練場の一部返還を祝う式典をボイコットした翁長知事は、同夜開かれた 「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」に沖縄県選出の国会議員や稲嶺進名護市長と共に参加。オスプレイ事故をめぐる米軍と日本政府を強く批判するとともに、オスプレイの配備撤回と辺野古新基地建設を造らせないためにあらゆる手法を用いる、という不退転の決意を改めて表明した。会場を埋め尽くした 4,200 名の参加者はこの翁長知事を先頭に一体となって戦い抜くことを誓った。

 この集会は、深い悲しみ・怒りを抱く多くの沖縄の人たちが熱い思いを持って集まり、登壇者たちも皆ウチナーグチで訴え、熱い思いを参加者全員で共有した。日本「本土」ではなかなか経験できない感動的な集会だった。全国から多くの仲間が駆け付け、まやかしの訓練場返還式典への雨の中の抗議行動やオスプレイ抗議集会に参加し、熱い思いを分かち合った。


12・21名護市安部海岸。墜落したオスプレイの残骸を探索してきた米軍兵
12・.22名護市21世紀の森屋内運動場。「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」に集まった4,200人の参加者たち。

沖縄に行くと、アメリカの顔色ばかりうかがう日本政府とそれを支えている日本国民の無関心さがよく見える。周りの人に「沖縄に行ってくるよ」と言うと、たいていの人は「いいねえ、あったかくて」という反応だ。「基地建設に反対しに行くんだよ」と言うと途端に目を逸らす。関わりたくないのだ。昨年6月に起きた米軍属女性暴行殺人事件に抗議する沖縄県民大会でスピーチした21歳の玉城愛さん(オール沖縄会議共同代表)は訴えた、「安倍晋三さん。日本本土にお住いのみなさん。今回の事件の『第二の加害者』は、あなたたちです。(中略)人間の命こそ宝なのだという沖縄の精神、私はウチナンチューであることに誇りを持っています。」

沖縄への加害者であることを自覚しつつ、今自分に何ができるか、何をすべきか、重い課題だが目をそらさずに、沖縄(それはつまり日本の問題)に関わり続けていこうと思う。(井)

12/23米軍キャンプ・シュワーブゲート前。米軍車両に抗議する市民グループ 
12/23米軍普天間飛行場(嘉数高台より)のオスプレイ。頭上をオスプレイや他のヘリが飛んでゆく。

C 「奪われた野にも春は来る」ことを信じて

 

12月21日から3日間の沖縄滞在の後浜松に戻ってから心のモヤモヤが消えない。これは当事者意識をとことん持ちきれないヤマトンチュの後ろめたさからくるものからか、安倍政権の暴走をここまで容認する多くの日本人の無関心さへの苛立ちからか、おそらくそれらを中心とした複合的な心境から来るものであろう。

滞在中の3日間はフルに活動した。特に22日は早朝の高江北部訓練場メーンゲート前の小規模の抗議集会に参加することから始まり、午後は米軍北部訓練場部分返還記念式典会場となった名護万国津梁館前抗議行動、6時半からは「オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」への参加と目まぐるしい一日だった。

どの行動に参加してもウチナンチュの人たちと自然に話が始まる。津梁館前では私より少し年上だと思われる女性と話がはずんだ。「この子らは本当はわかってるサー。やっぱり沖縄の子だからね。他の県から来た機動隊と違って目がやさしいよ」と私たちの前に向き合ってガードしている機動隊の青年たちを指して話し始めた。「ずっとずっとひどい目にあってきたからね。もう基地全部を持って行ってほしい!」この心から吐き出すような言葉は胸に刺さった。その瞬間確かにこの痛みを共有できた気がした。

21世紀の森屋内運動場での集会では4200人もの参加者の熱気に圧倒された。翁長知事、稲嶺名護市長はじめ住民代表、県選出の国会議員などがそれぞれ抗議の訴えをした。ウチナングチで語られる訴えは大半の意味がわからなかったものの「チャーシンマキテーナイビラン(絶対に負けてはいけない)」という言葉は心にすんなり入り沖縄の人たちと思いを共にできる喜びを感じた。

たった3日間の行動を終え浜松に戻った。朝日新聞も中日新聞も12月22日の沖縄で起きたことはほんの少ししか記事にならなかった。彼我の違いをいやというほど知る。なぜもっと伝えない。モヤモヤが募る中、救いを求めるかのごとく昨夏出会った詩「奪われた野にも春は来るか」を繰り返し読んでいる。日本帝国主義に故郷の土地を奪われた喪失感を歌った朝鮮の抵抗詩人李相和(イサンファ)の詩である。紙面の関係でここには載せられないが、徐京植(ソ・キョンシク)さんの美しい日本語訳は何度読んでも心に響く。

人間の歴史上どれだけの無辜の民が不条理に土地を奪われ追われたことだろう。残念ながら今でも世界各地で起きている。日本ではまさしくフクシマ、沖縄である。この詩は単に失ったものを嘆いているだけではない、それを取り戻そうとする意志が感じられ読むものに希望を与えてくれる。

その希望をつなぎ「奪われた野」を取り戻すために「マキテーナイビラン」と自らを奮い立たせられるか。「勝つ方法はあきらめないこと」と肝に命じ彼らの痛み、怒り、苦しみを共有し連帯していけるか。 大きな課題だが少しでもできることを続けていきたいと思う。ヤマトンチュには責任がある。モヤモヤを抱えながらももう一度「マキテ―ナイラビン」とつぶやいてみる。                                               (A)

 「グスーヨ、ムルサーニ、チムティーチナチ、クゥウマガヌタミニ、チャーシン、マギテーナイビラン(全員で心を一つにして、子や孫のためにどうしても負けてはならない)」(集会での知事の結語)