アウシュビッツ・ベルリン  2017.5

今回、「ポーランド・ドイツ8日間の旅」に参加した。ワルシャワ、クラクフ、ベルリン、ポツダムの4ヵ所を訪ねた。

アウシュビッツ強制収容所

 まずアウシュビッツである。中谷剛氏が案内してくれた。氏はアウシュビッツでただ一人の日本人ガイドである。

アウシュビッツには、今でも多くの建物が残っている。二重の鉄柵で囲まれ、柵には400Vの電流が流されていた。初めはドイツの政治犯、神父、学校教員、大学教授が収容されていたが、次第にロシア人、ロマ、そしてユダヤ人が収容されるようになった。第三収容所まであったが、今は第一、第二収容所が博物館として一般公開されている。第一収容所には28棟があり、一棟には700~1000人が収容され、合計1万数千人が収容されていた。収容人数が多くなり、第二、第三の収容所ができていった。

第二収容所は通称ビルケナウと呼ばれ、アウシュビッツTの7倍の収容者がいた。ビルケナウは大変広い敷地に作られていた。現存する建物はあまり多くない。1945127日に旧ソ連によって解放されたが、真冬で寒く、木造で立てられていた建物を壊して暖を採ったようである。また、ガス室等重要な施設は、証拠隠滅のためナチスが爆破するなどして壊した。

収容者の70~80%がガス室へ送られた。ガス室へは多くの子どもも送られた。ガス室へ送られる子ども達は親のことを考え泣く子はいなかった。カバン、靴、メガネ、食器、歯ブラシが山のように展示され、焼かれる前に刈り取られた髪の毛、その髪の毛で織られた織物も展示されていた。焼かれた後の骨は近くの川に捨てられた。

 収容所の中はナチ親衛隊(SS)によって運営されていたが、収容者に直接関わったのはカポと呼ばれる収容者から選ばれた者たちだった。SSは食べ物の量で差を付ける等、収容所内でうまくユダヤ人を分断した。テロリストは殺してもかまわないという雰囲気を作り、立ち牢、暗闇牢で拷問した後、死の壁の前で銃殺した。

シラー、ゲーテ、カント等、文学や哲学の分野で当時のドイツの文化水準は非常に高かった。そんなドイツで何故この様な悲劇が起こってしまったのか?中谷氏は説明の最中に、この言葉を何度か繰り返していた。

ベルリンの展示館・記念碑

ドイツはどのようにして過去を克服しようとしてきたのか、ヒントはベルリンの街中にあった。5月はスズラン、ライラック、コデマリ等が一番美しい季節で緑が眩しかった。歩道は車道よりも広く、街路樹は高く、広々とした公園があちこちに見受けられ、市民はそんな中で、散歩、ジョギング、サイクリングをして楽しんでいた。高層ビルは少なく、重厚な建物が多く残っていた。

ベルリンは第2次世界大戦で街の85%が壊滅した。しかし、復興するときに昔の街並みをできるかぎり復元しようと努力した。人間を第一に考えてきた伝統の重みのようなものを感じた。国の人口、都市の人口密度等の違いはある、日本の東京がこの街並みに近づくことが果たしてあるだろうか。

 ベルリンの街中には、『躓きの石』が350ヵ所余り設けられている。ナチスに殺された人達の墓標である。歩道の石畳の中に10cm四方の金属板に名前と生年月日、亡くなった日付等が記されている。ブランデンブルグ門のすぐ脇にはマルタ・リーバーマンというユダヤ人画家の石があった。

プレッツェンゼー記念館は元々、刑務所であり、1879年に完成し、1200人程が比較的ゆったりと収容されていた。1933年、ナチが政権を執ると雰囲気は急変した。まともな裁判を受けることもなく、3000人余りの共産党員、政治犯、ユダヤ人が処刑された。

 テロルのトポグラフイーという展示館は元国家保安本部の跡地に立てられている。1930,40年代の写真が多く展示されていて、入場者も多い。青空展覧会(写真展)なども催され、市民に関心を持ってもらう工夫もされている。展示されている写真の中に日の丸も見えた。日本の軍隊が、モデル強制収容所であったザクセンハウゼンを見学に来たときのものであった。

 ホロコーストの記念碑は屋外の施設で、サッカーコート2面分の大きさである。ベルリンの壁の緩衝地帯であり、ベルリンの一等地にあった。一女性ジャーナリストの提案で、2005年つまり戦後60周年を記念して造られた。2711本のコンクリート柱が立てられている。計画されたとき、お金が掛かりすぎる等の反対もあったようであるが、ドイツが政治的にも、倫理的にも責任を負う象徴として造られた。

 ドイツ歴史博物館は宮殿の武器庫跡に造られた大変大きな建物であり、ドイツの通史を展示している。1920年以降のナチスのプロパガンダ用のポスターが多く展示されていた。

 ドイツ国立中央追悼館は戦争と暴力支配で亡くなった人たちを追悼するものである。ケーテ・コルビッツの彫刻が展示されていた。

 グルーネヴァルト駅。アウシュビッツが終着駅であればこちらが始発駅である。ユダヤ人17万人中5万人がここから183回にわたり輸送された。その記録が駅のプラットホームのプレートに残されていた。

 国会議事堂の建物は昔風で威厳が感じられる。その上にドーム型の展望台があり、市民はそこに徒歩で登っていくことができる。ベルリンの街を眼下に見渡すことができる。ガイドの話によると、展望台が上にあり議場が下にあるということは議会が市民の下にあることを象徴しているということであった。

 政治をみても、極右政党を除き、すべての政党があの悲惨な出来事を繰り返さない事で一致している。「上官の命令でも、自分の良心に照らし合わせてすべての命令に従わなくても良い」と、首相は軍隊に話すということを伺った。

ベルリンは街並み自体がゆったりしており、緑が大変多い街で散歩することが楽しい。楽しく散歩をしていてふと気づくと、平和や人権について思い起こすような仕掛けが町中に施されている。上には記せなかったが、ベルリンの壁、ロマのための碑、LGBTに関するモニュメントも見た。立派な記念館にしても無料で入場できる所が多い。これこそ二度とあの悲惨な戦争を起こさないこというドイツ国民の静かで、強い誓いだと感じた。

現代の問題と関連させて考える

フランス革命でユダヤ人の地位が向上し、ユダヤの家庭は比較的裕福な家庭が多かった。一方、第一次世界大戦の賠償が厳しく、ドイツ国民は職や食べ物に窮していた。

ヒトラーは国民の不満、差別や偏見をうまく利用し、「アンネ・フランクは裕福で我々はなぜ貧乏なのだ、悪いのはユダヤだ」、「この困窮をこのままにしておいていいのか」「ジプシーを追い出せば治安は良くなる」「自分は悪くない、悪いのはユダヤ人だ」、「害虫は出ていけ」等と宣伝し、合法的に権力を握っていった。

EU圏からアウシュビッツを訪れる人は年々増えている。特に学校単位で来ることが多くなり、私たちが行ったときも若者が多くいた。昨年は200万人が入場し、75%15~25才の若者であった。ドイツ人がここを訪ねるには勇気がいるが、近年、アウシュビッツを訪れるドイツの若者が多くなった。ドイツがヨーロッパの中で信頼される理由の一つである。

 中谷氏の説明は、遺物の説明だけではなく、「ユダヤ人やアウシュビッツの歴史が現在の問題とどのように関連するのか」ということに焦点を当てたものであった。

したがって、私たちは帰国して自分たちの地へ帰り、何をしなければならないか、考えさせられた。貧富の格差、ヘイトスピーチ、フェイクニュース、反知性主義、難民問題、一強支配等、今の日本は当時のドイツと多くの共通点があるように思う。 

浜松で何ができるのだろうか?                  (池)