鞆の浦と朝鮮通信使
鞆の浦は広島県福山市の沼隈半島の南にあり、瀬戸内海の中間にあたる。東西からの潮流がぶつかり合う場所であり、潮待ち、風待ちの港として栄えた。今でも、江戸期の常夜灯、雁木、波止などが残り、船番所や焚場の跡もある。また、商業で栄えた白壁の商家が軒を連ねている。鞆とは弓を射るときに肘につけるあて皮をいう。
朝鮮通信使は船で瀬戸内海を通航したが、鞆の浦には11回、たちよった。通信使には正使、副使、従事官の三使があり、総勢は500人ほどである。福禅寺は平安期に建てられたが、そこに対潮楼があり、朝鮮通信使の接待の場とされた。
対潮楼には通信使が残した書が額とされ、置かれている。対潮楼の命名は1748年の第10回通信使の正使・洪啓禧による。木彫額「對潮楼」の文字は息子の書家、洪景海によるものである。ここからは弁天島や仙酔島などを眺望できる。内海の島々は風雅であり、1711年に第8回通信使の従事官・李在彦は「日東第一形勝」と書いた。この第8回の通信使の正使・趙泰億、副使・任守幹、従事官・李在彦の詩文も残されている。
円福寺には「南林山」、鞆の浦歴史民俗資料館には「感應」の扁額がある。これらも朝鮮通信使によるものである。
潮が流れ、海鵜が舞う。瀬戸の島々を船が行きかう。商家が連なり、雁木が並ぶ。鞆の浦は、友好のため、訪れ、詩文を交した歴史と文化を伝える港町である。
瀬戸内海を拠点とした村上水軍は秀吉の朝鮮侵略に動員され、朝鮮で海戦をおこなった。来島村上水軍の村上通総は全羅南道の南方、珍島近くの戦闘で、兄の得意通幸も朝鮮での戦闘で亡くなった。多くの民衆が戦争に動員され、命を失った。略奪された側はさらに悲惨である。
朝鮮での略奪を示すものが、瀬戸内海の大島の村上水軍博物館にある朝鮮貴族姉妹像と朝鮮貴族像の2つの絵である。博物館の解説によれば、村上景親は朝鮮貴族の姉妹を李朝から得て、姉を景親の側室に、妹は家臣の水沼の妻としたという。江戸時代には、水軍は朝鮮通信使の警護を担った。
観光案内は「海賊の声が聞こえる」であるが、そこから戦争と友好の歴史をみていくこともできる。
(2017.8 竹)