韓国・強制動員展示の現在

 

201710月、韓国を訪問し、強制動員に関する歴史館などを見学した。以下、国立日帝強制動員歴史館、戦争と女性の人権博物館での展示の状況と龍山と富平の強制徴用労働者像についてみ、来年度開館予定の植民地歴史博物館について紹介したい。

 

○国立日帝強制動員歴史館

 

国立日帝強制動員歴史館は釜山駅から西方の南区にあり、近くには釜山博物館、釜山文化会館、国連記念公園などがある。

韓国では2004年に政府機関として日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設置され、強制動員被害の実態調査と被害者救済がすすめられた。その過程で、20089月に強制動員の歴史館の建設が決定され、201512月、国立日帝強制動員歴史館の名で開館した。釜山は国外への強制動員者が集められたところであり、慶尚道からの動員者も多かった。

 

歴史館の展示構成

歴史館は7階建ての大きな建物であるが、主要な展示は4階の動員者・遺族からの寄贈品で構成された場と5階の労働現場などの復元物である。

4階の展示構成は、記憶のトンネル、日帝強制動員の概念、日帝強制動員の実状、終わらない日帝強制動員、解放と帰還、被害者・寄贈者の記念空間の順である。5階の展示は、強制動員され集合させられた人びとの絵、タコ部屋・炭鉱・太平洋動員現場、慰安所、帰還船の復元物などで構成されている。最後に「時代の鏡」が置かれ、強制動員の記憶の継承を呼びかけている。

韓国側の調査では強制動員数を、朝鮮半島では重複を含め8000か所の作業場に650万人、日本へは3900か所に100万人、サハリン・千島に4万人、中西部太平洋に55000人、東南アジアや中国などにも多数が動員されたとしている。

 

展示された動員関係資料

館に展示された強制動員資料には、写真を除くと、つぎのものがある。日本への動員関係の資料からみてみよう。

九州の炭鉱では、国民労務手帳(三井三池炭鉱)、大東亜戦争特別据置貯金證書・保険料領収帳・勤倹預金通帳(三菱鉱業高島礦業所)、採炭夫勤務証印簿(明治鉱業豊国炭礦)、徴用解除證明書(三菱飯塚礦業所)などがある。

北海道の炭鉱では、決戦増産手当給与通知書・身分證・徴用告知書・給与明細書(北炭空知鉱業所神威坑)、死亡通知書(北炭空知鉱業所)、北海道苦楽歌(三菱大夕張炭礦)、給与封筒(明治鉱業昭和鉱業所)、親保記(三井砂川炭鉱)などがある。

鉱山では、出勤證(住友鴻之舞鉱山)、手紙(日立鉱山)、協和会員章(紀州鉱山)などがある。

工場では、應徴士胸章、兵庫県川崎造船所行應徴士名簿(漆谷郡)、川崎造船所艦船工場身分證(仮證)、東京石川島造船所身分證、不二越身分證、訓練生修了證(日本製鉄輪西製鉄所)、徴用者名簿(川南工業香焼島造船所)、徴用告知書(大隈鉄工所萩野工場)、半島応徴士身上調査票(東洋工業)、「記念写真帖」(熊本電熱工業所)、罹災証明書(原爆・広島製砥所)などがある。

土木では、労務者認識票(間組)、遺骨保管連絡(釧路・菅原組)などがある。

サハリンへの動員については、協和会員章(樺太・樺太鉱業白鳥沢鉱業所)、衣料通帳(樺太庁・樺太鉱業白鳥沢鉱業所)、印鑑票(塔路炭砿)、協和会員章(樺太・木原組)、樺太抑留同胞帰還希望者名簿などがある。

朝鮮内での動員については、徴用令書(関東機械製作所京城工場)、国民勤労報国票(慶尚南道)、戦時農業要員命令書(忠清北道)などがあり、朝鮮農業報国隊の写真帖もある。

軍人軍属の動員については、軍人では、徴兵検査通達書(歌志内)、現役兵證書(鎮海海兵団)、第1補充兵證書(光州陸軍兵事部)、陸軍兵志願者訓練所記念写真帖、死亡内報・別紙注意(清州陸軍兵事部)、罹患証明書(マラリア)、陸軍戦時名簿(満洲・独立戦車第1旅団)、海軍軍属戦死報告(ニューギニア方面・横須賀海軍人事部)、高麗独立青年党結党経緯、復帰證明書(第7方面軍)などがある。

軍属では、傭人徴発旅費支払、身分證明書(鎮海・第51海軍航空廠)、知人名単(茨城・農耕勤務隊)、戦没者通報(雇員・マニラ東方、呉地方海員局)、朝鮮人死亡者遺骨奉還通知(ニューギニア・芝浦施設補15設、全北高敞古水面長)、弔辞(海軍軍属面民葬、海軍大臣)、検閲済軍事郵便(泰俘虜収容所)、印尼巨港朝鮮人会員名簿(パレンバン)などがある。

戦後の資料としては、捕虜監視員・刑死者名簿、仮出所証書(巣鴨刑務所)、外国人登録證、朝鮮人登録證、倭政時被徴用者名簿、対日民間請求権申告接受證なども展示されている。

これらの資料は戦時の強制動員の実態を示す貴重なものである。一つひとつの資料にさまざまな歴史がある。歴史館のウエブサイトでは、これらの資料が写真で紹介されている。20168月、歴史館はこれらの資料を収録した図録『国立日帝強制動員歴史館』を発行している。

強制動員被害者による尊厳回復の運動が、強制動員被害真相糾明員会を発足させ、20万人ほどの被害認定をおこなわせ、そのなかで国立の歴史館を建設させていったわけである。  

この歴史館は、李明博、朴槿恵という保守政権が過去の清算をめざす諸委員会を解散していくなかで建設されたものである。被害認定などに使われた諸資料は歴史館ではなく、ソウルの別の場所に保管された。この歴史館で近代史を専門とする学芸員の配置はないという。大きな建物のなかに博物としてのモノはあるが、館の建設に向かった過去の清算に向けての展示はみられない。

釜山は強制動員に輸送の拠点だった。釜山陸軍運輸統制部などに軍属として動員された朝鮮人もいた。軍部隊の配置や動員者輸送のための施設など、釜山の強制動員に関するフィールドワーク地図があるといい。

 

〇戦争と女性の人権博物館

 

ソウル市の麻浦区に、戦争と女性の人権博物館が開館したのは20125月のことである。この博物館には韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の事務所もある。挺対協はソウルで慰安婦問題解決に向けて水曜デモを主催し、生存者支援の活動をすすめてきた。また、戦争と女性の人権センターの活動を通じて、証言記録、資料集、イベントなどによる調査・教育事業をすすめてきた。戦争と女性の人権博物館も運営している。2015年の日韓の「慰安婦合意」に対してはその撤回を求めている。

戦争と女性の人権博物館は小さな展示館であるが、日本軍「慰安婦」問題の歴史の説明とその解決に向けての思いが込められた館である。

地下の展示館には、砕石の道を歩いて入る。壁には「慰安婦」被害者の顔型と手型がはめられている。地下の展示室には、被害者の映像が流されている。ここから2階に上がっていく。

2階の歴史の展示では、日本軍「慰安婦」制度の歴史、戦後の歴史が記されている。運動史の展示では、解決に向けての運動が示されている。水曜デモの写真の前には平和の碑(少女像)が置かれている。被害者の記録の展示があり、遺品が示されるとともに韓国現代史の中での尊厳回復への思いが記されている。そして、水曜デモへの参加が呼びかけられている。追悼のために花を捧げる場所もある。

1階の常設展・企画展では戦争と女性の人権全般について示し、ベトナム戦争での韓国兵による女性への人権侵害についても展示している。韓国内にはベトナム参戦記念碑、ベトナムには韓国軍憎悪碑があるが、性被害者の視点から戦争をとらえなおそうとする展示である。

「光復70年というが、私たちは本当に光を取り戻したというのか、真の解放が私たちに訪れているのか」。このような問いが発せられている。官制の展示館にはない発問である。

被害者にとって戦争はまだ終わってはいない。2015年の「慰安婦」日韓政府合意は、水曜デモが求めてきた戦争犯罪認定、真相糾明、公式謝罪、法的賠償、責任者処罰、歴史教科書への記述、追悼碑・史料館建設の要求を認めたものではなかった。未解決の問題が残っているのであり、その問題の解決が求められる。

庭には、人権を訴える活動者となった元「慰安婦」2人の像がある。像の表情は穏やかであるが、被害者や支援者が納得できないままの日韓政府の合意は見直されてはいない。よりよき合意の形成が、いまを生きる人びとに穏やかな表情を与えることになるだろう。

 

○龍山と富平の強制徴用労働者像

 

20178月にソウルの龍山と仁川の富平に強制徴用労働者像が建てられた。この像の建設をすすめているのは全国民主労働組合総連盟や韓国労働組合総連盟などで構成される強制徴用労働者像建設推進委員会である。

 

龍山の強制徴用労働者像

ソウル駅の南方にある龍山(ヨンサン)は鉄道の起点となった場所だ。ソウルと釜山を結ぶ京釜線は1905年に開通したが、龍山はその起点となった。1914年に開通した元山にむかう京元線も龍山を起点とした。日本軍は龍山に基地を置き、その軍事物資も龍山を経て輸送された。

ソウル駅ができると龍山駅の機能は減ったが、戦時には物資・人員輸送の拠点であった。強制動員者が集められた場所でもある。解放後はソウル駅が拡張されたが、21世紀に入り、湖南線や全羅線の始点駅となり、駅周辺の再開発がすすんでいる。

この龍山駅に入り口に強制徴用労働者像が置かれた。強制労働のなかで解放の日を見つめる男の像の肩には平和と自由を象徴する鳥が止まっている。周囲には強制徴用の歴史を解説する板が4つ建てられている。
 

富平の強制徴用労働者像

侵略戦争が拡大するなか、京仁線の途中にある仁川の富平地区は輸送の便がよく、軍需生産の拠点となった。

1937年に弘中商工の工場ができ、1939年には大規模な機械工場や労働者社宅が完成した。造兵廠の横にあった弘中商工の工場は1942年、三菱製鋼仁川製作所とされた。

この富平での軍需生産の中心は仁川陸軍造兵廠である。1939年に仁川陸軍造兵廠の建設がはじまり、翌年、完成した。仁川陸軍造兵廠では小銃・銃剣・銃弾・砲弾・車両・軍刀などが製造された。仁川陸軍造兵廠には、陸軍の留守名簿から、8500人もの朝鮮人が動員されたことがわかる。

陸軍造兵廠の跡地は解放後、米軍基地となった。解放直後には米軍の第24軍団が占拠し、拠点基地とされたが、米軍の再編により縮小した。

三菱製鋼仁川製作所は仁川造兵廠の関連工場であり、ここにも多くの朝鮮人が動員された。三菱の労働者住宅は、当時は1000戸ほどあったが、現在は4棟分90戸ほどが残っている。この三菱の労働者社宅は史跡として保存の方向がうちだされている。富平歴史博物館の2階には三菱の労働者住宅の復元住居が展示され、仁川造兵廠で製造された銃剣類も展示されている。現在、三菱製鋼の跡地は富平公園となっている。

この富平公園には「慰安婦」の歴史を示す少女像が建てられている。その横に強制徴用労働者像が20178月に建てられた。像は「解放の予感」と題された男女像である。仁川陸軍造兵廠への労働動員の状況を示している。造兵廠には少女も動員された。作者によれば、少女は15歳であり、労働現場での人権蹂躙への不安と緊張感を示し、男は強制徴用だけでなく植民地からの解放と新社会の建設への意思を示すものであるいう。記憶し、反省し、未来を展望するものというわけである。

「慰安婦」を象徴する少女像の設置に加えて、強制動員を示す労働者像が設置する動きがある。日本は強制労働を認知しようとしない。それが、歴史を記憶し、過去の清算を目指そうとする民衆の運動による、このような像の設置を生んでいるのである。

 

○植民地歴史博物館

 

植民地歴史博物館は韓国の歴史研究所である民族問題研究所が中心になって開館がすすめられている。日韓市民の共同により、植民地主義の精算と東アジアの平和を目指す博物館である。開館予定地はソウルの龍山区、南営駅近くであり、ソウル駅からも近い。

植民地歴史博物館では、植民地支配期の資料取集、強制動員被害の真相究明、戦後補償運動資料収集、調査研究などをすすめ、日韓市民の共同の運動をふまえ、その歴史を保存し、次世代に継承するとしている。その展示は、展示として固定されたものになるのではなく、新たな運動への風を呼ぶものになるだろう。それは官制の展示ではできないものである。

植民地歴史博物館は4階建てであり、常設展・企画展の空間に加え、資料室、研究所、教育空間や国際交流空間なども置かれる予定である。2017年の12月には民族問題研究所の植民地歴史博物館の建物への移転が始まり、20183月には植民地歴史博物館が開館する予定である。

民族問題研究所は太平洋戦争被害者補償推進協議会の活動を支援してきたが、20176月、強制動員された朝鮮人の遺族の活動をまとめた『奪われた親を慕って』(韓国語)を発刊した。ここには20人を超える遺族の活動が紹介され、日本での父の消息を求めての活動についても記されている。どのように動員され、どこで亡くなったのかもわからない状態のままであり、資料収集による真相究明という段階の遺族もいる。動員され、行方不明のままであるということは、いまも戦争状態が継続しているということである。植民地主義の清算とは連行された一人ひとりの実態を明らかにすることから始まる。

 

201710月は朴槿恵打倒のキャンドルデモが始まって1周年であり、光化門の前にはステージが作られ、人びとが集まっていた。サードミサイル反対から非正規労働撤廃までさまざまなプラカードが掲げられている。自由と民主主義を求める人びとの声が響いていた。国政私物化・憲政紊乱の抗議の声の中、朴槿恵は倒された。

歴史を民衆の手に取り返す歩みは続く。あらたな民衆の時代に向けての活動が問われている。