6.18康宗憲講演会「朝鮮半島の平和と日本」

2018616日、浜松市内で康宗憲さんの講演会「朝鮮半島の平和と日本」をもった。以下は講演の要約である(文責・人権平和浜松)。

 

朝鮮半島の平和と日本

 浜松のみなさん、こんにちは。今日は、「朝鮮半島の平和と日本」というテーマで、私の民主主義・平和統一への思いと2018年の南北・米朝の首脳会談の意義、そして今後の課題についてお話したいと思います。

●民族意識の芽生えと民主化・統一への思い

わたしは奈良で生まれ、大阪で育ちました。祖父は植民地時代に済州島から渡日し、土方で働きましたが、事故で亡くなりました。そのため父は15歳で孤児同様の境遇になり、昼は働き、夜に学びながら、大学まで通いました。どんなに困難な状況でも学ぶことあきらめなかったのだと思います。

わたしが14歳、中2の時ですが、大阪の生野区役所で、外国人登録をする際に指紋押捺をしました。写真を持参し、暗い部屋で指紋を押すことを強いられ、犯罪者のように扱われたのです。そのような屈辱的な扱いはショックでした。それは、「日本人ではない」ことを刻印される契機でした。朝鮮人として在日する意味を自覚し、生きる意味を考えるようになりました。その後、17歳だった高2のときに民族名で生きることを決心しました。担任の恩師は朝鮮からの引揚者で世界史の担当でした。歴史を学ぶなかで本名の大切さを知り、名前を取り戻したのです。

19歳、予備校生の時ですが、母国留学への思いが強まりました。当時、労働者の権利を求めて全泰一青年が焼身自殺する、学生が朴独裁政権に抗議するなどの活動が起きていました。いかに生きるのか、民族的な生、人間的な生について考えるようになり、同世代の若者たちとの一体感を求めるようになったのです。同じ時代と空間を共有したいと思いました。

714月に母国留学し、最初の1年間は語学研究所での学習でしたが、翌年、ソウル大学の医学部に入りました。当時、韓国の独裁政権は国家保安法と反共法による政治弾圧をつづけていました。それは分断独裁と開発独裁が結合したものでしたが、それに抗して民衆の闘いが続けられていました。

朴正煕政権はそれを抑えるために、7210月に 戒厳令を出し、738月には金大中拉致事件を起こしました。そうしたファッショ暴挙に抗議して、7310月にはソウル大学で反政府デモが起きています。754月には8名の人民革命党事件関係者を処刑、7511月には学園浸透「スパイ団」事件をねつ造して、弾圧を強めていました。

わたしは、大学4年の24歳の時、国家保安法違反容疑で拘束されました。裁判は1年余りで終了し、翌年には死刑が確定しました。獄中での日々は、暗黒の時代であり、民族分断状況での死刑囚として、いかに死ぬのかを思う日々が続きました。けれども共に暮らした「良心の囚人」の姿から学ぶことは多く、民主・統一の「その日が来る(クナリオンダ)」と思いながら、生きてきました。獄中生活を支えたのは、救援運動の力と未来への希望でした。

31歳の時に無期懲役に減刑され、韓国の民主化がすすむなか、198812月、37歳で仮釈放という「自由」をえました。

894月、日本に帰るにあたり少し複雑な手続きを経ることになりました。長期の拘束により、日本での私の在留資格が消滅したので、新規入国者として渡日することになったからです。それでビザを取得するために私を家族が招待し、友人が雇用することを前提にビザがおりました。入国の際に1年期限の特別在留許可を得、その後、在留許可は3年に延長され、永住者の配偶者となったことで、今は一般永住資格です。しかし、特別永住資格は未回復です。一方、89年から2003年までの14年間、韓国政府は反国家的な人士という理由で私への旅券発行を拒否しました。03年の10月に臨時旅券が出て、やっと韓国への往来が可能になりました。国際人権の重要な権利である「自国(my own country)に戻る権利」が侵されてきたのです。

韓国では、民主化による「真実和解のための過去事件整理委員会」設立など、過去の清算がすすめられました。独裁政権による弾圧事件の見直しが行われ、私の再審請求も1110月に受理されました。123月から審理が開始され、131月に高裁で無罪、158月に最高裁での無罪が確定しました。1975年の逮捕から15年の無罪まで、40年の歳月でした。

4.27南北首脳会談と『板門店宣言』の意義

ではつぎに20184月の南北首脳会談・板門店宣言について述べます。南北の首脳がともに国境線を超える姿が印象的でしたが、その内容をみてみましょう。

宣言文では、朝鮮半島に戦争なき新たな平和時代の開幕を宣言しています。平和と繁栄に向かう南北関係の画期的な改善を約束しました。民族自主の原則に立ち、既存の南北合意・諸宣言を履行し、鉄道・道路の連結事業などを積極的に推進するとしています。南北共同連絡事務所を開城に設置し、多方面での民間交流・協力事業をすすめ、往来を活性化することになります。

また、南北は軍事緊張と衝突の根源となる一切の敵対行為を全面中断するとしています。恒久的で強固な平和体制を構築するために協力するとし、相互の武力不使用(不可侵宣言)を確認し、厳格に遵守し、段階的な軍縮を実現するとしています。恒久的な平和体制構築にむけ、今年中の終戦宣言と平和協定の締結のための、3者または4会談の開催も宣言されています。

さらに「朝鮮半島の完全な非核化」が共同目標とされ、国際社会の支持と協力に向けて積極的に努力するとしました。両首脳は率直な意見交換を通じて信頼関係を構築し、合意履行への強い意志を表明しており、南北の標準時間の調整、ホットラインの設置と首脳会談の定例化などをすすめるとしたのです。文在寅大統領は今秋に平壌を訪問する予定です。会談後の526日には、緊急の首脳会談も板門店で開かれました。

宣言では、これ以上、戦争は起こらないとし、分断と対立の時代に終止符を打つ道を拓きました。それを基礎に米朝首脳会談へとすすむことになったのです。

 

● 米朝首脳会談と共同声明

  では、米朝首脳会談とその共同声明はどのようなものだったのでしょうか。

共同声明では、順序に注目すべきでしょう。まず第1に、米朝関係の正常化、つまり敵対関係の解消が示され、次に平和体制を構築するとしています。それなしには朝鮮半島の完全非核化はないのです。これまでの米朝合意は、北朝鮮非核化を優先してきましたが、相互信頼の構築が朝鮮半島非核化を促進すると、両首脳が合意したのです。

合意内容の4点は、新たな米朝関係、平和体制の確立、完全非核化、朝鮮戦争で犠牲になった米軍兵士の遺骨返還です。朝鮮の核保有は米朝の敵対関係の産物でした。関係の正常化を通じた非核化が解決策になるわけです。非核化、平和協定、朝米修好の同時推進がめざされ、非核化の速度は関係正常化の水準に比例し、段階的な非核化をすすめることになります。

このような戦争危機から首脳会談への情勢の激変を主導した力は、朝鮮の戦略転換にあります。それは、核・ミサイル開発により対米抑止力をもつという「生存戦略」から、経済建設によって民生を向上させるという「発展戦略」への政策転換です。朝鮮は、1711月に核武力の完成を宣言しましたが、183月に条件付で非核化の意思を表明し、同年4月には、核と経済の並進路線から経済重視路線へと転換しています。

では、トランプ政権はなぜ首脳会談を受け入れたのでしょうか。それは、制裁一辺倒、最大限の圧力という対朝鮮政策では限界があったからです。朝鮮が開発したICBMへの対処が焦眉の課題であり、交渉の前提条件を核廃棄から核凍結とし、段階的な非核化をすすめることにしたとみていいでしょう。4月のポンペオ国務長官の上院聴聞会発言やマティス国防長官の下院軍事委発言からは、それがうかがわれます。

では、朝鮮は非核化を決断したのでしょうか。トランプ政権は迅速な非核化への取り組みを要求しています。朝鮮は先行措置として核実験場の廃棄、ミサイル実験場の閉鎖をすすめるとしています。これに対し、米国は米韓合同軍事演習の中止を考慮するとしました。朝鮮半島非核化への相互意思は確認可能と言えるでしょう。

共同声明に文書化されていない両首脳の合意事項には、CVIDCVIGへ向けた段階的で同時的な措置があります。それは、検証可能で不可逆的な形態の、完全非核化(D)と安全保障(G)を相互に提供することです。

●今後の課題と展望 

 おわりに今後の課題をみておきます。

4.27南北首脳会談は平和への新たな始まり、歴史の出発点です。南北合意、米朝合意の履行に向けて、それを阻害する要因である慣性化した分断・冷戦の対決意識を克服することが課題です。米韓軍事同盟と国家保安法によって形成された敵対意識を克服すべきでしょう。

日朝首脳会談の開催も課題になるでしょう。日本政府は拉致問題の解決が前提としていますが、何ともって解決とするのか、その定義が明確ではありません。400名とも800名ともいわれる行方不明者を、すべて「北朝鮮による拉致被害者」と規定し全員の帰還を要求する限り、交渉の余地はありません。制裁外交に成果はありませんでした。日朝関係を正常化するには、植民地支配の過去清算についての理解が必要です。

朝鮮半島の平和体制構築は、日本にとって日米正常化と日朝正常化の二つの正常化につながります。日米安保条約を日米平和友好条約に変えることもできるでしょう。

軍事力による対立を終わらせる歴史の転換がはじまったのです。70年に及ぶ米朝・日朝の敵対関係の改善には、相互が努力し、信頼を構築するという過程が必要であり、市民の交流も大切です。  (文責・人権平和浜松)